農民が考える「都市の論理」

都市の論理

天保飢饉の絵です。農村の貧民は餓死しますが、江戸の武士・町人は餓死しません。天明の飢饉に懲りて幕府は備蓄米を用意しており、ここで配給しました。結果、大坂から米がなくなり、大塩平八郎の乱がおきました。

第1段 都市は飢えない

 飢餓にあえぐ国は一次産業で成り立っているのに、食料を作る農民に食べ物がなく、新興国の首都には超高層ビルが輝いている。飢える人々は都市に寄って来てスラム街を形成し、生きている。マニラ、サンパウロの姿だ。
 農産物に豊凶はつきものである。江戸時代、東北で餓死者が多く出、江戸の町でも米が高騰し、打ちこわしが起きても、武士が飢餓になることはなかった。

 農業の時代だけでない、1840年代にアイルランドでは、ジャガイモ飢饉に見舞われた。75万人が餓死し、ケネディ一族のように100万人以上が新大陸に移住した。注目すべきは、この時も、毎年途切れることなく年50万トン以上の小麦がイギリスの都市に送られていたことである。

 人類は、農産物の余剰によって都市が生れたと学校で習うが、4大文明の発生した周囲の農村に食料品の余剰が恒常的にあったかは大変疑わしい。
 農業革命が100万人の古代都市を作った。帝国都市である。中世の2~3万人都市も農業を基盤産業としていた。しかし、産業革命の拡大は、世界に100万都市を一気に作っていった。都市は汚く、疫病に満ち、火事によって一瞬に消えるが、人を集め、食料を集め、そのたびに復活した。

 今は第3世界での都市化が著しい。メキシコシティ、サンパウロ、カイロ、ブエノスアイリス、ソウル、マニラ、ジャカルタ、バンコク、カルカッタ、デリー、カラチ、テヘラン、中国は重慶、上海をはじめとして1000万人以上の都市が16もある。
 都市が飢えるのは戦争に負け、食料を集める権力がなくなった時だけである。方丈記に書かれた京は鎌倉幕府によって公家の律令政治が崩れ、多くの餓死者が河原に打ち捨てられた。太平洋戦争敗戦後の闇市で物乞いをする孤児たちの姿を私は知っている。
 都市化によって日本の第一次産業が衰退する程、日本は食料に満ち、飢餓から遠ざかった。日本で飢餓を忘れられるようになったのは、たかだか、この70年の事である。

第2段 商品作物は簡単には農民を富まさない

 プランテーションで商品作物を作っていた農民とは奴隷だった。民主主義国家の農民は自らの労働の価値を高くしたく、より高い価値を持つ作物の技術開発に努め、売り先の都市のニーズに答えてきた。

 長く米に価値があったので耐寒品種を開発し続け北海道が米どころとなり、自主流通米が許可されると、食味のよいとされるコシヒカリが全国で作られた。人が食べられる食料は一定であり、稼げる商品作物は「量」から「質」に転換せざるをえない。気候による「不作」と「豊作貧乏」の罠が常にあるのが商品作物である。

 果実が「負のスパイラル」に陥った典型である。私の子供のころは、季節によって甘い果物を八百屋で買った。イチゴ、サトウキビ、スイカ、イチジク、柿、紅玉、栗、温州ミカンなどである。しかし、今の時代は、より甘い菓子であふれている。安くても甘くない果物は売れないので糖度をあげて高級品とし、結果さらに果物の購買量を下げてしまっている。

第3段 穀物はどこに消えたのか

 世界の穀物生産量は年22億トンである。1人が1年で消費するのは150kgであるから、146億人を養える。世界人口が77億人だから、69億人分の穀物が余る事になるのだが、7億人が飢餓に苦しんでいる。過食による肥満で健康に問題がある人いるのにである。快適な食生活を求める中で肉食が広がっており、莫大な穀物が家畜の飼料として消費されている。農民はより多くの貨幣を求めて食料を生産しているのであって、飢えた人々の胃を満たすために生産しているわけではない。 
                    
 農産物の生産が自国の消費量を大きく上まわるアメリカ、カナダ、オーストラリア、フランスなどでは、過剰生産は国の根幹を揺るがす問題になっており、作付け制限と備蓄は政府の負担となっている。日本も米の関税化には国家をかけて抵抗してきた。減反は先進国の共通の問題となっている。

 東西冷戦が終わり、穀物メジャーが穀物を先物取引で扱うようになった。

 日本の農家の老齢化が農業の衰退をもたらしたと感じるのは間違っていないが、若者が貨幣を得るに、第一次産業はつらいから産業人口が減っていくのである。いまや、日本の都市化は進み、カロリーベースの食料自給率は37%と下がっている。

 第一次産業従業者の数は、昭和50年では従業者の40%あったのだが、今は10%となった。その差の30%は、第三次産業に移り60%となっている。第二次産業従業者は30%と変わらない。

 現代都市は名古屋をはじめ、工業都市として計画しなおされたが、昭和50年の公害問題以来、都市の中から工場は消えた。都市は、住まいとそのサービスである第三次産業で構成されるようになった。工業地域のままで、ナゴヤドーム、イオンモール、名城大学が建つのが、名古屋市東区なのである。

 日本が世界から貨幣を集めるに、第三次産業の金融業はいまも主力とはならず、第二次産業のものづくりに頼っており、農家が狙うターゲットの都市の貨幣量はじり貧とならざるを得ない。一握りの金持ちと多くの貧しい人々が都市に集まることになろう。

第4段 都市は権力である

藤田弘夫 著「都市の論理」の挿絵に「娯楽権力」を私が加えた挿絵です。

 都市は巨大な権力が目的を遂行して行く上で、拠点となる大規模な施設が必要だと判断した時に建設されるのである。
 人間は狩猟、採集の生活から農業革命をへて、家族・部族などの生活の単位ごとに永続的な定住の為に住居を建設するようになる。その集落はそれほど大きくなることはなかった。食料を確保し伝染病や火災などの災害を避けるためにも相互に離れて生活をした方がよかったからである。

 大規模な集住である都市を形成するには、これらの危険を冒しても、追及しようとする目的がなければならなかった。他者からの生活の安全を保障する政治組織、豊かな生活をもたらす財やサービスの生産や流通を保証する経済組織、幸福な生活を保障する宗教組織などである。
 都市の形成は家族や部族ではできない大量の人的、物的資源を動員しようとする政治、経済、宗教などの権力によって担われているのである。権力はその活動を安定させるために、その機構を「機関化」する。その為にはフィジカルな施設が必要とされる。機関は大規模なほど、活動の拠点となる大きな施設を必要とするのである。
 そして、その施設群を直接的間接的に担う人々の住宅がその施設の周囲にひしめき合う事になる。都市はM・マンフォードの言うように「最大の便益を最小の空間に納めるよう<文明の産物>を凝縮し、貯蔵して伝達しようとするもの」として作られた。

「権力」は嫌われる。その定義が「権力とは自己の意思に反して他者の意思が押し付けられる。」のだから権力を握っていない民衆には当然だ。権力は戦争、革命の時に、その恐ろしさを嫌と言うほど見せつける。
 なにもそうした政治権力に限らず、普段生活している会社や学校にさえ、家族にさえ、潜んでいる権力の恐ろしさを垣間見ることが出来る。権力によって生活が抑圧されていることはいくら強調してもし過ぎることはない。
 
 しかし、それは「権力」の片面を指摘しているに過ぎない。人々の抵抗を押してまで貫徹される「権力」には、みあう「保証」があるから存在できているのだ。
 当面の欲求が「権力」によって中断されても、未来にはより大きな欲求充足の「保証」があると理解されているので、理解はなくても感じられるので「権力」は存在する。天皇陛下万歳と死んだ兵士、ヒットラー・スターリンを押し上げた民衆、天国に行けると自爆テロをする者、何れも「権力」にあがなうことなく「保証」を信じたのである。

 民衆は豊かで快適な生活を求め続ける。そこに新たな「権力」が生れる。「権力」は、民衆の自己の存在をたしかなものとするために新たな「欲求」を増やし、その「欲求」に応じた「権力」を増殖させている。「権力」は命の安全、快適な衣食住、幸福、健康、安心の代償として、民衆に貨幣や労働力の支払いを命じ、民衆の生活に一層の加重をかけてきた。

愛知県清須市 朝日遺跡:集落の防御方法
愛知県清須市 朝日遺跡:集落の防御方法

具体例を順にあげていこう。
 農業革命により財を貯めた人の「安全・平和」を脅かすのは、獣でなく人であった。清州ジャンクションの建設のために掘り出された弥生時代の朝日遺跡の環濠には日本中が驚いた。1.2km×0.8kmに1000人ほどが住んでいた大集落である。「邑」である。これが「國」となると都市は城壁によって明瞭に周囲の農村と区別される。

 Cityの翻訳を日本はミヤコと市から「都市」としたが、中国は土を叩いた作る壁で囲まれた市から「城市」とした。

 都市民を飢えさせると、国は簡単にひっくり返る。兵糧攻めは古来より用いられた戦術である。ローマ皇帝は「パンとサーカスを!」を求める市民に応じざるを得なかった。敗戦後の日本は不作と植民地の喪失さらに植民地からの帰還者で都市部を中心に800万人が餓死すると言われた。占領軍にとって都市の飢餓はあまりにも危険であり、マッカーサーは350万トンの食糧を日本に送るように求めた。

 毛沢東は1949年に開放戦争を終え、「大躍進」を掲げ、農地解放を行い農業の集団化をはかり、工業化を急速に進めた。そして、1959年~62年にかけて2000万人が餓死するという史上空前の大惨事を生んだ。鄧小平は「現在もっとも重要なのは食糧問題だ。増産できれば個人経営でも構わない。白猫であれ、黒猫であれ、ネズミを捉える猫は言い猫だ。」と言い、現在の「改革開放」の中国の繁栄がある。中国のGDPは2010年に日本を抜いて瞬く間に1500兆円となり、日本の3倍となりアメリカの2200兆円に迫る。1980年に鄧小平が号令をかけた深圳市は、20年後に1000万人都市となった。権力が都市を作るのである。

 食料品はあっても、民衆に「衣食住」の一部が欠けると、政権は大きな痛手を受ける。「トイレットペーパーがない」」「マスクがない」「インスタントラーメンがない」で、集団自衛権を閣議決定ですましてしまう力を持つ安倍内閣も消えた。民衆は生活感で動く。安保も共謀罪も消費税も見えないが、棚からモノが消えると大騒ぎになる。

アベノマスクと揶揄され、安倍政権は消えた。

 多神教の日本では宗教戦争は少なく、16世紀に法華教徒と本願寺門徒が京都と山科を舞台に争い、1637年の島原の乱でキリスト教徒3万人が幕府に惨殺されたぐらいしかないが、今も世界ではキリスト教・ユダヤ教とイスラム教との争いがあり、テロが頻発している。 日本の宗教都市と言えば、東大寺建設後の平城京であろう。聖武天皇は政治都市であるべき都を宗教に頼り変えてしまい、平城京は桓武天皇に捨てられた。奈良は興福寺の門前町となったが、門前町の形態は全国にある。
  教育も医療も、国家の「保証」に目を向けるが、その「保証」には、強大な「権力」が伴っていることを忘れてはならない。都市に定期的に必ず表れるのが感染症である。新型コロナウイルスへの民衆の恐怖により、国の「保証」なき「権力」があぶりだされた。熱が出ても診療してくれない。検査してくれない。ベッドが足りない。突然の一斉休校。などなどである。

「娯楽権力」を、私は「都市の論理」の挿絵に加えた。娯楽に権力があるのか?と思われるであろうが、ローマ市民が求める「サーカス」に、皇帝は「闘技場」「劇場」「大浴場」を与えている。後代の私たちは、これらを都市の繁栄、都市文化の遺構と誉めそやす。飢えなくなった都市民は、パチンコに競馬に快楽を求める。俗にいう「女、酒、バクチ」である。

名古屋市長・河村たかし 2016年3月の記者会見
名古屋市長・河村たかし 2016年3月の記者会見

 徳川宗春は城下のはずれ大須に歓楽街を作り、居酒屋をこよなく愛する名古屋市長・河村たかしは、久屋大通り公園を潰して「栄に賑わいだ」と商業施設を集めた。さらに、金シャチ横丁を作り、「天守は木造だ。ホンモノを作ればぎょうさん人が来る」と、史跡のテーマパーク化を図り、名古屋市民の圧倒的な支持を得ている。

 カジノ誘致、インバウンド狙いとなると「観光」であり、政治権力でなく、経済権力とも言えようか。名古屋の経済権力は「ものづくり」で生きており「観光」での経済力訴求は乏しいので、河村市長で示されるように、経済権力とは違う「娯楽権力」は明らかに存在する。と、ここに書き留めておく。

第5段 都市は一気に作られた

 都市は統治の象徴となる場所であることが要求される。自然・地形、社会的安全性、経済的利便性も考慮されるが、権力の力と秩序がなにより表現されなければならない。

 持統天皇によって日本で初めて藤原京(694年~710年)が造られたが、中国の「周礼」に描かれた都市の理想像そのままであり、直ぐに捨てられた。その後、平城京、恭仁京、難波京、平城京、長岡京と続くが、飛鳥の宮(板葺き)以来の大王の死「穢れ」によって、都=天皇の住まいを変えており、朱塗り瓦葺きの九重の塔(639年百済寺→大安寺)があっても都市とは呼べない。日本の都市誕生は、遣唐使が唐の長安文化を伝え、律令政治を軌道に乗せる多くの民が集まり、400年の間日本唯一の「平安楽土」の都市であり続けた京都(794年~)まで待たないといけない。中国の権力を模した都市づくりは、朝鮮・ベトナム・日本へと周辺部にまで広がった。

 ローマ帝国の拡大は、ローマと結ぶ軍用道路とローマ様式の都市を作っていった。拠点に、神殿、劇場、浴場、凱旋門、闘技場を作る事によって、ローマ帝国の威容を地方に見せた。パリ、ケルン、ロンドンなどの辺境地には、軍団の駐屯する植民地都市をつくり、退役した軍人がその周囲で農作を行った。
 キリスト教世界では教会を中心とする都市づくりが行われ、イスラム世界ではモスク、スーク(市場)、マドロッサ(学院)キャラバン・サライ(旅館)がセットとなる都市づくりが行われた。

 徳川家康は関ケ原の戦いに勝ち1603年に征夷大将軍なる。新たに全国の国割りを行い、1615年には一国一城令を出し、日本全土に封建領主の城下町が一気に出来た。都市計画は、秀吉の京都にならい、領主の館を中心とした城郭は、国の行政・司法・軍政を担い、城郭の周囲は武家地で囲い、街道筋に町人地を誘致し、町の周囲を寺で固めた。

 一気に150の都市が誕生したのである。城下町のほとんどの都市が、膨張、変容して現代都市となっている。横浜・神戸は、漁村を外国人の遺留地として定めてから、港を中心とする都市に成長した。
 古代の七道、鎌倉街道、江戸の五街道は、首都を中心とした通信網であり、軍用道(参勤交代)であり、商業の交通網であったが、巨大化する商品は廻船に頼っていった。

第6段 都市の形

 フランスのカルカソンヌ、ドイツのローテンブルグなど、ヨーロッパの小都市には、今も美しい城壁を持つものが多い。

フランス カルカソンヌ
フランス カルカソンヌ

 城壁で囲まれていることが「都市」の定義とされるぐらい、西洋、オリエント、インド、中国と、ほとんどの都市が城壁に囲まれていた。ポリスとはギリシャの都市を指すが、もとはアテネのアクアポリスをさしていた。神殿であるまえに、アテネの市民が籠る要塞であった。ドイツのハンブルグ、アウスブルグのブルグは要塞の意であり、フランスのストラスブールのブール、イギリスのエジンバラのバラ、ウインチェスターのチェスター、ロシア語のゴロド、クレムリン、インドのブラも同じ意である。

 日本では、弥生時代にあった環濠土塁は発達することなく、平安京にも城壁は当初から作られなかった。中国の坊を真似て宅地を築地塀で囲って夜間は門を閉じることも、御所・公家の屋敷地はともかく、京中にそれを作る前にやめてしまったようだ。中世には道路沿いに奥行きの2間の町屋が並ぶ姿が洛中洛外図屏風に見られる。 
 都市を囲む壁が日本史上全くなかったわけでなく、戦国時代には寺を中心にした商工業者の寺内町が生まれた。幾つも寺を抱えた堺の自治組織は特に有名である。本願寺門徒の一揆に備えた町は、富山の井波から、金沢御坊、三河の野寺本坊、山科本願寺、大阪の石山本願寺と続くが、本願寺が秀吉の命に従い京都に入り、富田、貝塚、富田林、今井と江戸時代には在郷町となっていった。
 特質すべきは、「京都の城下町化」を秀吉がおこなったことである。聚楽第を中心に大名屋敷を集め、平安京の120mグリッドの町の中央に通りを通し、町の細分化による活性化を試み、寺を東の鴨川沿いに並べ寺町とし、他の3方をお土居で囲み7つ口だけを開けた。全国の城下町は京にならったが、土塁を設けることはなかった。
 城下町では、町全体を囲う事を「惣構」と呼び、北条氏の小田原が有名であるが内包される町の姿はわからない。名古屋では未完であり、江戸となると堀は水運に使われ町に溶け込んでしまった。

有岡城:前面は河岸段丘の崖、後面は山、左右に小さな入り口と、地形を利用した。
有岡城:前面は河岸段丘の崖、後面は山、左右に小さな入り口と、地形を利用した。

 西洋に匹敵する防御の町の姿は、信長に反旗を翻した荒木村重の有岡城(江戸時代の伊丹郷町絵図)にみてとれる。
 木造、板葺きの日本の都市内の戦いでは「火をはなち、城下を燃やす」ことが、攻める方(岐阜を攻めた織田信長)守る方(小谷城を守る浅井長政)共にあった。

 堀と石垣で郭を築き、漆喰壁と瓦の防火対策をした建屋を延焼しないように離して置く城内(本丸、二の丸、三の丸、西の丸)でしか、火災に「安全」に対処できなかった。この事が、町の防御壁を作らなかった理由だと考えられる。「日本の都市は安全だから防御しなくてよい。」のではなく、「日本は木造家屋だから、火事に安全にはできないとあきらめた。」のである。都市の不燃化は瓦が普及する江戸中期まで待つ事になる。

  都市の中心には、都市の核をなす機関の施設とその権力の担い手が住んでいた。天を突きさすように高く聳え立つ教会の尖塔、モスクのミナレット、パゴダなどの仏塔は都市のシンボルとなっている。チベットの首都ラサの山上にポタラ宮殿は圧倒的迫力を持って鎮座し、ダライラマの権威の大きさを示している。信長が砦としての山城をやめ、安土山を平山城とし天主を建てたのも同様に「権力」の誇示だった。 同じ平山に建つ姫路城の天守を南から見上げると追体験できる。

  大坂の秀頼に対する名古屋城は平城であるが、関ケ原の戦い・西軍の大垣から寄って北西から見ると10mの高台の上に立つ。守護所の清洲は五条川の氾濫が多く、あえて井戸水の深い高台の荒れ地に町をつくり、清洲の町人を移した。
 名古屋は忽然と現れた植民地都市である。家康の強大な権力によって、木曽川の尾張側に高い堤を作らせ、堀川を真っ先に掘らせる事によって可能になった。横4km×縦4kmの三角形の城下町建設を見ずして、城だけを語るのは間違っている。

 江戸時代、幕府直轄の江戸、京、大阪は「三都」と呼ばれた。「都」は天皇の住まう所の意でなく、人口のとてつもなく大きな都市という意味である。いずれも40万人の人口を抱えた世界にない大都市であり、やがて江戸は100万人を越える。一方、名古屋は当時5万人ほどであり、明治を10万人で迎える事となったのは、産業がない武士の町だったからである。首都の江戸は大名屋敷を抱える大消費地であり、狭い長屋に50万人が住んだ。京、大阪は、町人の町(赤色)であり、商工業によって栄えた。

 17世紀のロンドンの都市面積は9.16㎢(20万人)であり名古屋8.7㎢(5万人)に近い、江戸は43.95㎢であった。産業革命以前にこれだけの大きさがあったのだ。治安に優れ、しかも衛生的であったと宣教師は記録に残す。このような都市の歴史が、今の都市民の性格をも規定している。
 西欧では絶対王政が確立されていくにつれ、宮殿前に広場を設け道路を拡幅していった。権力崇拝のバロック洋式による都市計画である。都市改造だけでなく、ベルサイユ、カールスルーエ、ポツダムなど全く新しい都市を生みだした。

そのバロックの姿を、大胆にパリに作ったのがナポレオン3世とG・オースマンである。

 細い曲りくねった街路を利用した市民の暴動に手を焼いたので、軍が動きやすいように広幅を繋ぐ道路を放射状に作り、街並みは7階建て石張りに統一した。下水が作られ、顕微鏡が細菌を捉え、帝国に相応しい都市となった。パリ大改造(1853年~1870年)は、ウィーン、バルセロナ、ベルリン、ローマに伝播し、文化を越えてイスタンブール、カイロ、テヘラン、東京にわたり、バロック風の都市計画はニューデリー、シカゴ、ワシントンは言うに及ばず、日本人技師により満州、台北にも為政者の権威を高めるようバロック様式で作られた。

 第二次世界大戦後に植民地が一斉に独立すると、新たな首都が、ニューバロック様式で作られた。
 オスカー・ニ―マイヤーのブラジリアのように、未来感を示すようにデザインが変わっても、新たな首都が新たな「権力」のシンボルであるには変わらない。都市の中央部に、記念碑、記念碑的建造物が建てられるのは日本の天守と同じである。

丹下健三は1976年、ナイジェリアの首都アブジャをニューバロック様式でデザインした。
丹下健三は1976年、ナイジェリアの首都アブジャをニューバロック様式でデザインした。

 エジプトの神殿を飾ったオリベスクは、パリ、ローマ、イスタンブール、ロンドン、ニューヨークを飾り、ワシントン、ブエノアイリスでは、鉄とコンクリートで強大なオベリスクを作っている。 名古屋テレビ塔は戦後復興のシンボル、鉄のオベリスクであるので、電波塔の役目を終えても残されたのである。

  西欧では2万人の中世都市から広場がその中心にあり、共同体としての都市Cityには市民Citizenと言う担い手がいた。と、マックス・ウエーバーが「都市の類型学」で述べ、Cityを翻訳するに「都市」の「市」となったのであった。「市」は「市場」を示すものではなく「市民」なのである。 平安京では「東市」「西市」と「市場」は都市には欠かせない施設だが、西欧では今も仮設のテントが道路・広場に立つ事で「市」はすまされ、重い「都市施設」とはなっていない。

 ソビエトでもレーニン広場にレーニン像を置いたが、日本には広場は根付かないままである。 新宿駅前広場、渋谷駅前広場、京都の御池通り、名古屋の100m道路など、都市の空き地は「火除け地」として作られたものである。

 ルーマニアのチャウチェスク大統領は、動員した民衆に向かってバルコニーから演説をしようとしたまさにその時に、ティショミラ(で、ハンガリー系が虐殺)の声があがり、突然反政府デモとなり、ヘリコプターで脱出するも銃殺されたが、このような都市劇場を日本は持たない。

  集団自衛権に反対するデモ隊は国会前広場に行きつけず、NHKはそのデモ隊を撮影しないのが日本の広場像であり、愛知県庁舎、名古屋市庁舎前には国会前の憲政広場のようなものすらない。言い換えれば、名古屋市にはマックス・ウエーバーの言う市民がいなく、名古屋市は都市でないとなる。
  藤田弘夫氏の「都市の論理」は、日本の民主主義の欠如を認めても、自治意識をもつ市民による都市を多く語らない。なぜなら近代国家は中世都市の持っていた自治を制限することで発達してきたからである。この本の副題は「権力はなぜ都市を必要とするのか」である。

第7段 農村の誕生

 都市が農村を作ったのである。農業は人類にとって革命であった。自然環境を大胆に変えながら、イモ、麦、コメ、ヒエ、アワ、キャッサバ、トウモロコシなどを栽培していった。農業が可能なところに次々と農業集落が形成されていった。衣食住をはじめ様々な生活資料を農地から得てきた。他の集落との交易があっても、集落は長い間「自給自足」が原則であったのである。

  都市の出現がこうした集落の状況を一変させた。都市は食料をはじめとする生活資料を生産しない以上集落に依存せざるを得ない。自給自足的分をはるかに超えた食糧の生産を行わなくてはならなくなったのである。
 都市の出現と共にその権力下に入った農業集落の「農村化」が始まる。

 文化人類学者R・レッドフィールドの主張するように都市が出現するまで農民(peasants)はいなかった。つまり地方の農耕民は都市の人的、物的資源の場と支配を受け入れるにつて「農民」となったのである。<都市化>と<農村化>とは表裏一体のものなのである。

 地方を意味する言葉は軍事的支配と深く関わっている。中国では、地方は首都と繋がっているという意味で「県」「縣」と呼ばれ、軍隊が常駐していた。その県を数十まとめて監督する司令官が「群守」であり、軍事管区が「郡」であったのである。首都は治安を維持する単位毎に支配した。軍事的な範囲を表す「県」「郡」が、地方を意味する言葉となっていった。(始皇帝の郡県制)

  英語での地方regionは、ラテン語のregere支配する、統治するから生じた「軍団管区」を意味するregioレギオに由来する。英語の「州」「地方」を意味するprovinceプロヴァンスは征服された領土を意味するラテン語のprovinciaプロビンキアに由来している。農業革命から、やがて政治権力が都市と農村を生む過程は世界共通である。日本は律令制度を中国から輸入するに際し、地方を束ねていた豪族を「郡司」として任命し、地方の単位として「本巣郡」のように名前をつけた。県>郡と面積が逆転したのは明治の命名による。

 律令国家は地方に賦役と物資の供給を課したが、「農民」なるものが強く意識されたのは「刀狩り」である。武士の誕生は、貴種が国司として地方に行き、土着し、運送業と荘園の管理を請け負ったことから始まり、鎌倉幕府が守護・地頭を全国において武士の世になった。上層の武士は武人としてだけで生活していたが、大部分の武士は農民や商人・職人としての性格も合わせて持っていた。農民、商人は武器を所有し、いつでも武士になる可能性を有していた。有力農民が武装するときには、地侍、国人となった。「刀狩り」は農民の武士化の道を閉ざしてしまった。

 兼業が禁じられると共に移動の禁止もされ、「地理的分離」が「社会的分離」と合わせて行われた。城下町には商工業者が集められ、農民は耕作権の保証を代償に農村にしばられ、米などの年貢を通して都市への食糧・生活資料の供給地と位置付けられたのである。城下町は城壁を持たない都市であるが、大木戸を境に都市と農村は明確に区別されていたのである。

農村景観日本一  岐阜県恵那市岩村町
農村景観日本一  岐阜県恵那市岩村町

 農民は米が不作になっても年貢として米を出し、自らはヒエ・アワを食し、これでは飢餓で死ぬと一揆をおこした。しかし、徳川時代に一揆は1600もあったが、農民の暴動で都市が崩壊することはなかった。政治権力は江戸の打ちこわしを恐れた。農民の大きな反乱として、唐の黄巣の乱、清の太平天国の乱があるが、地方の乱そのもので国が倒されることはなかった。
 
 近年のイラン・イスラム革命(パーレビ国王)やフィリッピン革命(マルコス政権)は、一種のクーデターであるが、実にあっさり成就した。一連の東欧革命では、東ベルリン、ライプチヒのデモによりホーネッカー政権が倒れ、プラハのデモでヤケシュ政権が、ブカレストの暴動でチャウシェスク政権が倒された。なにより、強大なソビエトの崩壊の引き金はたった数人の死者しか出さなかった1991年8月のクーデター騒ぎだった。国民として同じ困難でも都市民と農民とでは政治的意味が全く違うのである。

 農村は都市とのかかわりの中で、発展を模索せざるを得ない。

 イギリスにおける毛織物業の発展は農村での牧羊業を有利にし、地主は耕地を牧羊のために「囲い込み」始めた。農牧を生業としていた貧農は追われた。
 江戸時代、東海地区では綿花が広く栽培されていたが政府は低価格で購入できるインド、アメリカに綿花を求めたので、紡績業の発展と入れ替わりに綿花畑は消えていった。欧米の都市で生糸や絹織物の需要があると日本全国に桑畑が広がったが、化学繊維が桑畑を消した。国の農業政策は直に農村の姿を変えるのである。
 戦後、麦、大豆の輸入自由化をすると、農村の伝統的な景観をなしてきた麦畑、大豆畑が消えた。農家保護のために米価を吊り上げは、コメの過剰生産を招いてしまい、農民は稲作の「減反」という有史以来例のない事態に直面した。米どころの美濃の国・本巣郡は田んぼを「富有柿畑」に変えた。

 「過剰生産」は農村に理由があるのではない。過剰生産であったので都市は生きてこられたのだが、都市民が米を食べなくなったのだ。都市が「農村」を「農村の景観」を作り上げてきたのである。ここでは書かなかったが「漁村」「山村」も都市によって作られ、資本主義の発展は地球規模にまで拡大させた。

第8段 都市の膨張による近郊農村の消滅

 都市は膨張する。地球の人口が5億人を超えたのは17世紀の中頃であり、10億人になったのは19世紀に入ってからである。21世紀の今は77億人と急速に増えている。農村での飢餓人口は7億人いるのだが、中国(14億人)インド(13億人)の人口増が著しい。都市が、都市の権力が人口増させている。

 膨張させるがままでは人口増をまかなえないので、拡大の方策をとる。新たな都市建設には多くの障害があり、手っ取り早くは、旧来の都市に新たな都市施設を付加して都市の変容を図るのである。都市の城壁は邪魔者と壊され、国の安全はフランスの要塞マジノ線のような国境に頼ることにした。しかし、それも核弾頭搭載ミサイルにより意味がなくなり、今の国境は移民・流民への防御壁となっている。

 城壁をもたない日本の城下町は、鉄道を町の外周部に通すことによって、鉄道駅と従来の街道筋の町人地を結ぶ新たな都市軸を作り、都市内を道路整備して近代都市になっていった。
 名古屋は、東海道線・中央線・関西線を名古屋駅に集め、さらにリニア新幹線も入れる。東京資本は名古屋駅周りに支店・営業所を集めて、東海地区の強みである工場に対応するので、かつての都心・栄は高層マンションが立ち並ぶことになってしまった。

大名古屋

 名古屋拡大の都市計画は大正10年に建てられ、工業都市化が急速に進められ、港湾の整備も大きく戦前に人口140万人の大都市になった。工場労働者は近在の農村から集まってきた。勤勉で実直な農民は工場労働者になることを喜んだ。季節に労働のリズム合わせ、繰り返しの多いきつい農業より楽であり、いつもメシが食えると。
  北と西が庄内川、東が天白川と丘陵地で区切られた「大名古屋」は、今も地形的に名古屋としてあり、川の外側の都市化がされる前に、名古屋市内から工場が立退き、東海地区へのサービスを担う人々の住宅地となっている。丘陵地である東に宅地が伸びている。

 大正10年の都市計画によって名古屋近郊の農村は消え、工場と住宅が混在する町になったが、これは東海道、山陽道を連なる城下町一般にもあてはまる。東海道新幹線、名神・東名高速道路が出来たころ、「太平洋メガロポリス」がうたわれ、沿岸都市がつらなり一つの都市となると言われたが、実際に、市街化調整区域は海岸から山側に追われている。
 新鮮な野菜や牛乳は都市の近場よく、近郊農村は消滅してもパッチワークのように残った農地で農民はしっかり生きている。日本は人口減少し、重厚長大の工業は縮んでいっているので、名古屋市内の人口密度は上がっても、都市域が広がる事はもはや考えられない。都市と農村の混ざった姿を是認して、新しい都市、新しい農村の姿を作り上げていかないといけない。

第9段 都市問題を農民が受け入れ、都市民となって国を変える

 都市問題は多くあるが、集住し、生産活動をすることによる汚染、廃棄の問題は永遠のテーマである。貝塚は考古学では宝物だが、古代人もゴミ捨て、死者の埋葬には苦慮していたようだ。現代の消費社会はゴミの量を飛躍的に増大させた。しかも、高度産業社会は都市の周辺には投棄できない危険な廃棄物を生みだしている。処理のための多額の出費を必要とするさまざまな有毒物質が続々と排出されている。中にはこっそり投棄されているものも多い。わけても核廃棄物は、今なお完全な処理技術が確立していない。さらに、オゾン層の破壊、酸性雨、地球の温暖化などは、現在の都市活動が地球環境全体に深刻な影響を与えている。
 これらに農民が、過疎の農村がゴミを引き受けることが「都市問題を農民が受け入れる」ことではない。

「農民が受け入れる」を解説する「都市の論理」の挿絵を示す。

飢餓が起きた時の農村と都市の反応のシステム図である。都市民は原則として食糧の生産に関わっていない事がポイントである。農民は飢餓に陥ると、収穫物のない農地を前にして、自分たちが長い間エネルギーを費やしてきた農産物が身を結ばなかったことに対して、あきらめの気持ちを抱きがちである。

 飢餓を「自然条件」や「不運」のせいだと考えやすい。農民に飢餓をもたらす「不作」を一番知っているのは、農作物を育ててきた農民自身である。豊かな農民は備蓄食料を取り崩せるが、貧しい農民は飢餓を座して待つか、食料を求めて流民となるかのいずれかである。
 対して、都市民の飢餓に対する態度は、農民と著しく違う。農村が飢餓に陥れば食料価格の沸騰となり、都市民は苦しむ。しかし、都市には備蓄があるばかりでなく、不作でないところから買い込むことが出来る。上級都市民は絶対に飢餓にはならない。
 苦しむ都市民に、「どこそこに備蓄がある」と噂が流れるのは、市民に倉庫番も運搬業者もいるからだ。食糧不足は誰かの陰謀か買い占めでないかと、「不作」を見ていない都市の貧民は「分配の問題だ」と考える。都市民は原則として食糧の生産に関わっていないので都市の権力機構や流通機構の不備を指摘するとともに、「正義」の名の元に転覆させようとする。

 政治権力には都市民は「喉元の剣」だった。従って国家は都市の住民だけは食べさせていかなければならないのだった。「民の竈は賑わいにけり」仁徳天皇の時代から、貧民の救済が政治権力・宗教権力に求められた。権力者はわずかながらでも慈善事業を行い、それを大きく宣伝した。今もそれは変わらない。
  食料が高騰する「都市問題」は農民が犠牲になる事で、餓死することで「農民が受け入れる」のである。

 前段で示した、都市の工場労働者が農村からやって来るのも「都市問題を農民が受け入れる」のだ。

 リンカーンは南北戦争1865年の勝利によって、黒人奴隷制度をなくした。しかしながら、身分としては解放されたとはいえ、その後も悲惨な生活を強いられた。南部プランテーションでの黒人の生活がいかに不当でみじめなものであっても、その境遇は北部の商工業者には知られなかったし、知られても同情以上のものにはならなかった。
 一方、北部アメリカの産業革命は順調に発展し、黒人は工場労働者として北部の工業都市に移住した。黒人の人種差別撤廃・公民権運動は、1960年代後半には黒人の一連の都市暴動となり、ロバート・ケネディは「南北戦争以来の危機」と恐れた。黒人は都市に住むことによって、はじめてアメリカ社会をいつ転覆させるかもしれない存在となったのである。
 毎年繰り返される「長く暑い夏」の黒人暴動は白人社会にいやがうえでも、その力を見せつけた。「農民が都市民となって国を支える」のである。アメリカの首都ワシントンは黒人比率が高い。今も黒人の「公民権回復運動」は行われており、全国各地のデモの最終地はワシントンのリンカーン記念堂の前の広場である。

 都市、とりわけ首都は国にとって重要であり、国家権力の意向が反映しやすい特殊な統治制度を取っている。東京市は太平戦争の突入と共に廃止され東京府に吸収され東京都となった。メキシコシティは大統領の任命による連邦直轄知事であり、バンコクは内部大臣の管轄下にある。ジャカルタは一段上層の州と同格であり首長は大統領が任命する。デリーは連邦に逆らうと権能を奪取される。北京、上海、天津は市でありながら一段上層の省の権限を有している。都市が大きな自治権を有している西欧でも、首都の動きが国家にとってまずいとなれば制度改革を行った。ミッテラン社会党政権はパリにシラク保守市政が登場すると、パリを20区に分割する「パリ解体法」で対抗し、サッチャー保守政権は1986年大ロンドン議会に根を張る労働党に対抗するために、議会を廃止し33の自治体に分割し、議会庁舎を売却した。97年ブレア労働党政権が、大ロンドンを復活させた。

  昭和14年に、農家の三男坊であった親父は14歳で名古屋の町工場に入った。30代半ばで町工場は潰れたが、別の工場に再就職した。名古屋の工業都市時代を猛烈に駆け抜け、コンクリートの現天守への寄付をしたことが名古屋人となった証のように自慢をしていた。
 体だけが資本の労働者であるが、階級闘争をすることなく、中流を自覚して民主党の支援をし、会社からのボーナスに喜んでいた。「諦め」の農民だからこそ、実直に定年まで働きとおした。転職したので年功序列の恩恵は受けていないが、「サラリーマンは良いぞ」と私に勧めた。

 20世紀日本での「農民が都市民となって国を支える」を親父の話として書いたが、これは19世紀のイギリスであり、21世紀のベトナムでもある。15年前、ハノイ近郊に日本企業の工場を作るのだと出かけた私は、牛が田んぼを耕す姿に昭和30年代の日本を見た。名古屋では栄・長者町に糸編が沸騰し、一宮の紡績工場の周りには喫茶店ができ、革ジャンの男たちがバイクで女子寮の周りをたむろするのをカッコイイと見ていた小学生の私だった。眼前のベトナムにそれらがあった。若さがまぶしかった。

第10段 SNSが農民を変える

 食料・生活品を農村から収奪してきた都市だが、日本は飢餓が無くなり、消費者の食料の選択の幅広がった。農民も二次産業のようにマーケットインをしないと生き残れない。補助金だよりの農村では後継者は育たない。
 都市は華やかで、人は人の間をせわしなく動き稼ぐ。匿名性を帯び、開放的で革新的だとイメージされ、農村はキツク、季節のリズムに身を任せ、人とは永続的、包括的、個別的であり保守的で閉鎖的だとイメージされる。
 これは、イメージだけでなく都市で作られたルール、法制度が農村を縛り、都市の価値観や生活様式、果ては服装、音楽、言葉の流行まで様々な側面で農村の人々の生活を秩序つけているからである。都市すなわち国家権力が生み出したルールは、農民を対象にするものであっても、巧妙に都市の利害が滑りこまされている。

 しかし、今は交通、通信に発達によって、農民は都市文化の楽しい事だけでなく、感染病、大気汚染、薬物犯罪、交通混雑、貧困を容易に知ることができる。「人が幸せに、豊かに過ごす」に、あえて都市を離れる人が出てきている。農村が都市民のあこがれになってきたのだ。
  そこで、農村文化を都市に売るのである。農民自らが都市民をマーケットインすることによって、従来の中央卸市場の制度、集荷、仲買人の一角を打破できる。

 冷凍品、コンビニ・スーパーの物流を生かした頒布品と、近郊の新鮮な農産物との戦いが起きている。食べる事にこだわり、手間をかける人には面白い野菜、これはレストラン向けだ。圧倒的に人気なのはBIO(安心食材)である。少々高くても少量販売できれば売れる。

 ヒットラー、スターリンは教育・マスメデイアの報道から「現実」を構成し、都市を「権力の儀式化」をみせる劇場とした。天安門は「民族」を演出する広大な広場となった。トランプ大統領は今も集会を好み、NHKは政府広報機関であり続け、テレビは「第3のビール」のCMを大量に流すが、SNSは口コミのように個人から発せられ個人に届く。
  物流は少量でも宅配便が担い、宣伝・注文はSNSでこなせる。政治家がどんな政治哲学を持っているかよりどんな姿をしているかに興味を持つように、商品の姿は重要である。

 集荷・選別・ラベルと梱包の手間を農民が行わなくてはならないが、農協でも農民がやっていたことである。キチンと儲けるには、会社組織とか組合にして規模を大きくしないといけないので、近郊農業ではなかなか規模の拡大は難しいが、北海道では普通にグループで行われるようになった。

●おわりに

 1995年、20年ぶりに名古屋に戻ってきて、恩師・内藤昌にご挨拶をした時「名古屋で仕事をするのか。キミー、「都市の論理:1993年10月中公新書刊」を読みなさい。藤田さん(注)は凄いよ。都市・名古屋を改めて知る事になるよ。」と言われ、私は早速購入したのでした。

 世界の古今東西の都市にまつわる話が満載でしたので、その後、何度も読み返しては建築設計のコンセプトに「都市の文脈」として、一部文章を使わせていただきました。4年前に「名古屋昔話」を書くに際しても、この本の副題「権力はなぜ都市を必要とするのか」により、都市・名古屋の建設、膨張、変容を描くには時の「権力」の目的を明確にするようにしました。しかし、この本の全体像を示すことは今までしていませんでした。 

 今回、私はこの本を農民になったつもりで読みなおし、「都市」を見直そうと思いました。3つの原因があります。

・ 一つは、名古屋城天守木造化に反対する運動を5年やってきて、「名古屋に市民がいない。戦後与えられた民主主義だからか。」と疑問を持ったのですが、日々の生活を精一杯生きる民衆には、文化とか都市計画とか頭を混乱させる「議論」より、秩序をもたらす「命令」「独裁者」を欲するもの。なら「権力」をこの本から真正面から取り上げてみよう。

・ 二つは、私の生まれた美濃の国・本巣郡に高速道路が通り、幹線道路からは田んぼが見えなくなり、近郊農業に代わってしまいました。あの美しい農村風景は毒々しい看板とロードサイド店に替わってしまいました。そこで、本家の従弟の娘が政治家に立つというのです。これからの政治は、農村問題と都市問題をセットで見て行かないといけないだろう。

・ 三つは、名古屋市守山区志段味の野田農場です。市街化区域・第一種住居専用地域でコシヒカリを作っているのですが、土地区画整理事業によって道路の反対側にはコスコト(巨大商業施設)がやって来るのです。それでいて、組合の赤字は25年積み上がり1000億円にもなっていると。
 名古屋市は、戦後復興のシンボルである久屋大通り公園を潰して商業施設を置いたのですが、名古屋市の緑地・公園面積は、このような生産緑地・公園墓地によって都市公園は十分市内に満たされていると誤魔化しての所業なのです。「権力」は、志段味土地区画整理事業に何を求めてこんな失敗をしたのであろうか。久屋大通り公園の商業施設に「権力」は何を求めたのであろうか。

 書く原因になった事への直接的な答えはあえて避け、「都市」問題への蓋然性をもたせましたが、答えはおのずとわかっていただけたかと思います。「保証」なき「権力」でした。「都市」に関しての様々な問題に、この短い論考が生かされることを願って終わります。

注:藤田弘夫氏の主著には、「日本都市の社会学的特筆」(時潮者、1982年)「都市と国家―都市社会学を越えて」(ミネルヴァ書房、1990年)「都市と権力―飢餓と奉職の歴史社会学」(創文社、1991年)があります。この中公新書は「都市と権力」を一般向けに書き下ろしたものです。

2020年10月23日 高橋和生 Design Office TAK

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