亀山 城下町 6万石 with 関宿

城下町

東海道53次で名はあるのですが、亀山インターで降りることはなく、初めて訪ねました。国道一号線、名阪道路、JR関西線と、四日市から鈴鹿川をさかのぼっていく道は、古代の壬申の乱からありました。亀山盆地から鈴鹿の関を北に近江に出るのが江戸時代の京への道ですが、古代は伊賀盆地に抜け木津川を使い平城京に行く道、伊賀から名張と南下して藤原京・飛鳥に道がありました。関東と畿内を結ぶ鈴鹿川沿いの河岸段丘には、古代から集落がありました。
家康や家光が泊まるのは亀山城ですが、江戸時代の旅人は、西に4kmの関宿に泊まりました。鈴鹿に行くもの伊賀に行くものここから上り坂になるからです。関宿は昭和50年制定の重要伝統的建造物群保存地区に昭和59年に指定され、40年経た今も東の追分から西の追分までの約1.8キロメートルにわたり、伝統的な町家が200棟以上現存し、町並みがよく保存されています。
平成17年に関町は亀山市に吸収されますが、その時に亀山城の裏手の山を造成し、公園と4棟の公共施設を作り、1994年平成6年に作られていた博物館をこちらに移転します。人口5万人の亀山市が、16万人の松坂市、27万人の津市がもっていない歴史博物館を作りました。

築11年 汚れていますが、さぞかし建築家は頑張ったのだと思う建物です。展示室の二階にはロビーのスロープとエレベータで上がります。ロビーは市政情報室でもあります。

私は、伊勢国の地勢、古代史、中世史については、津城下町松阪城下町桑名城下町継体天皇、に書いていますので、そちらを見てください。ここでは、博物館ならではの展示物を掲げ解説します。

弥生時代 古墳時代

弥生式土器も多く出ています。
赤色が亀山市の古墳です。青は伊勢国の古墳ですが、伊賀、名張が大きく、次に松坂です。これは、ヤマト王朝への接触度を示すのでしょう。鈴鹿川沿いに古来から集落はあったのですけど、河岸段丘ですので大きな平地はありません。この地の王権の小さかったのでした。

ヤマト王朝 古代

鈴鹿が鈴鹿山脈の麓にあり、交通の要所であるのは古代からです。伊勢国の国府は鈴鹿の関のある鈴鹿郡に置かれました。亀山という地名は中世14世紀まで出てきません。新しい名ですが、「亀山」地名の由来は諸説あり、わかりません。

伊勢本街道 古代は桜井市長谷寺から、美杉町、松酒へ出る大和-伊勢の道が伊勢神宮へのメインルートであったが、亀山市h無視して書いていない。地方らしい所。
伊勢国の国府は、鈴鹿川の支流の安楽川にあったが、早々に消えたようだ。不破の関の為に美濃国の国府が西によって垂井にあったように、鈴鹿の関の為に亀山盆地に行政の中心は寄ったのだが、亀山の地名はない。14世紀まで出てこない。

鈴鹿の関は、発掘されています。不破の関も発掘されていますが、博物館は比較していません。こちらの関の発掘物は、築地塀と瓦だけです。関宿とかさなっているので建物跡が残っていません。規模もわからないようです。掘立柱だったのでしょうか。改めて関宿の古さを知る遺跡です。

中世

関氏が出てきます。鎌倉時代からだと系譜にありますが、例によって応仁の乱からを追います。応仁の乱の前の諸氏の動向は中央の諸氏しか残されていません。

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応仁の乱1467年の時の伊勢国の守護は一色義直でした。彼は西軍(山名持豊)に属していたので、守護に対立する関氏は東軍(細川勝元)に組し、一色方の城(前掲 中世の館城マップ参照)を攻め、その後三条御所の警備に入っています。
1470年になると、南伊勢の北畠氏と中伊勢の長野氏と争いの中に関氏は入ります。北畠氏と組み、長野氏を南北から挟み、安楽御厨(亀山市案坂山町)の代官職を長野氏から奪います。この後も、豊田荘(亀山市阿野田町付近か)などをめぐり、本拠地を現在の安芸郡美里村に置く長野氏との戦いは信長が現れまで続きました。戦国時代の伊勢国は、伊賀上野と安濃津を結ぶ中央のラインに長野氏があり、北の鈴鹿から四日市が関氏で、南の松阪から多気が北畠氏と、3氏の国人が争うのでした。

信長、秀吉、家康それぞれの時代の亀山城

信長が伊勢に進出、その中で亀山城はどうあったのか。

1568年(永禄11年)9月、織田信長35歳は、足利義昭を担ぎ、大軍を率いて入洛し、中世から近世に歴史のページが変わります。岐阜から京へは常に近江国を通らないといけないので、守護の六角義賢(1521~98年)が籠る観音城を囲み、近江国を取りますが、六角氏は甲賀に逃げゲリラ戦で抵抗します。伊賀国は1581年に信長が視察に出向き、ここにようやく織田のものとなります。

北伊勢の動向は、この信長の近江国、伊賀国の制覇と、1570~74年の長島一揆の制圧により変わります。1579年に信長は安土城の天主に移りますが、天下(畿内)を押さえられたのは、この頃でしょう。

信長の伊勢侵攻は、1567年の稲葉山城攻略とほぼ同時でした。出所不明の滝川一益(1525~86年)が活躍し、一益は安濃津城から転々として、信長に関東を任せられますが北伊勢長島城を本拠地としていました。

信長は1568年(永禄11年)2月の伊勢侵攻と共に、北伊勢の神戸氏に三男の織田信孝(1558~83年)10歳を、長野氏に弟の織田信包(1543~1614年)25歳を養子とさせ、北伊勢八郡の支配を固めました。 鈴鹿郡国人の峯氏、国府氏は信長に従います。
亀山は、1573年に関盛信・豊盛父子を追放し、信長の3男・神戸信孝15歳が支配します。1574年の長島一揆攻めで、信長に従って戦った関四郎、峯八郎四郎、鹿伏兎六郎の関一族が戦死し、峯城は岡本良勝に取られ、中世この地を制していた関氏の力が衰えます。
1582年、信孝24歳は信長に四国攻めを命じられます。関盛信・豊盛父子は信孝に呼ばれ、一族郎党を引き連れ大坂に出向きます。旧領の亀山を安堵され、本能寺の変の後は亀山に入ります。

東海道53次の絵にあるように、亀山城は鈴鹿川の河畔でなく、鈴鹿の山の山裾の高台にあります。中世から、この高台に城はあったのだと思いますが、関氏の城の様子は全く分かりません。

1583年秀吉の亀山攻め、1584年小牧長久手の戦い、1590年代の城づくり

一益は、本能寺の変を関東で聞き、関東を放棄して長島城に帰ってきたのですが、すでに清須会議(1582年6月21日)で織田家は信長の孫の三法師が継ぎ、織田家配下の武将の所領は分配されていました。三河の徳川家康は織田政権の承認のもと、武田遺領の甲斐・信濃を確保し五カ国を領有しました。三法師のお守をまかされた織田信孝は、柴田勝家、滝川一益と連携し、秀吉との対立姿勢を強めていきます。秀吉は、この三者と戦い排除しないといけません。1582年12月20日に、秀吉は岐阜城にあった織田信孝を一旦降伏させ、三法師は織田信雄のお守となります。

関氏は秀吉につきました。

1583年(天正11年)正月亀山城は、関氏の留守に乗じて関氏の与力の岩間氏に奪われ、滝川一益のものとなり、一益は佐知新介を守将として亀山城に入れ、峯城を岡本良勝から奪い瀧川義太夫を関城に滝川忠征を置きます。そこで、2月6日、秀吉は3万の兵を率いて安楽越え(亀山市安坂町池山)で北伊勢に侵攻します。
一益が押さえた亀山、峯、国府の各城が攻められ、亀山城は3月3日に落ちますが、峯城は4月17日まで持ちこたえます。そこで、4月20日の賤ヶ岳砦の戦い、秀吉の「美濃大返し」です。柴田勝家は4月23日に自害、織田信孝は4月29日に切腹、となるのですが、一益は長島城でさらに一ケ月籠城します。結局は剃髪をして丹羽長秀の元、越前大野に一旦蟄居します。
その後、1583年に蒲生氏郷は秀吉に亀山城を与えられますが、自身は入城せず、家臣の関盛信を置きました。

●1584年(天正12年)3月~11月小牧長久手の戦い。
今度は織田信雄が徳川家康と組み、秀吉に挑みます。戦いは、尾張北部の小牧山城・犬山城・楽田城を中心に、尾張南部・美濃西部・美濃東部・伊勢北・紀伊・和泉・摂津の各地で合戦が行なわれました。秀吉包囲網(紀州の雑賀衆・根来衆や四国の長宗我部元親、北陸の佐々成政、関東の北条氏政ら)が敷かれ、この合戦に連動した戦いが北陸・四国・関東でも起きており、全国規模の戦役でした。

伊勢の地の利を知る一益は秀吉により隠居から呼びだされ、蟹江城を信雄方の佐久間信辰を追放し奪うのですが、7月3日に明け渡します。
4月9日、羽柴秀長は、筒井順慶・蒲生氏郷らを従え、織田信雄が作った南伊勢の松ヶ島城を攻め、開城させます。城主の滝川雄利は浜田城(三重県四日市市)に移って籠城を続けます。その後、羽柴勢は5月4日から尾張の加賀野井城、奥城、竹ヶ鼻城を囲み、水攻めなどで順次攻略していきます。

秀吉は、11月12日に、秀吉側への伊賀と伊勢半国の割譲を条件に信雄に講和を申し入れ、信雄はこれを受諾します。信雄が戦線を離脱し、戦争の大義名分を失ってしまった家康は、戦闘では勝っていたのですが、11月17日に三河に帰国せざる得ませんでした。伊賀は脇坂安治、伊勢は蒲生氏郷ら秀吉方大名に分け与えられました。 

1590年、秀吉は、小田原の北条氏を倒し、東北も押さえて全国制覇をし、家康を東海道の5国から関東の8国に移し、全国の城割をします。 この時に、城と城下町が一斉に作られました。

亀山城も他の城にもれず、織田信雄の家老であったのですが秀吉についた岡本良勝(1542~1600年)が、1590年に2万2千石で入城後、天守、本丸、二の丸、三の丸など、その後の亀山城の母体となる城が形成されました。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは西軍に属し、居城の亀山城は嫡男の重義と甥・三休に託し、良勝自身は氏家行広の桑名城に入りました。本戦で西軍が敗れると、翌日に東軍の山岡景友の説得に応じ、降伏して城を明け渡したのですが、赦されず切腹を命じられて自刃しています。重義も亀山城を出て、近江水口で自刃しています。 

東海道は登ってきており、正保の絵図は平板測量とされていたのですが、絵図からの復元が怪しく、城下町のデータからは外しています。
国立公文書館 正保絵図  現代の地図と重ねられません。
城下町をそっくり模型で作るために、航空写真の上で復元をしていました。
城下町 西の枡形
手前から西の出丸、本丸、二の丸、三の丸
城下町 東の枡型 町が小さいのに大きい

石川が城主になり、6万石の亀山藩の城下町になるのですが、武家地が多すぎるので、模型では区画と門だけ作り、家老以外の建物を作っていません。私の卒論のデータでは、東海道以外の道路が判然としていないので、平均値算出の母数データから外しています。

鈴鹿川 の上に城下町、その上の段に城郭。
この東海道の崖に沿った曲がりは、現在もそのまま残っている。

関ヶ原の戦い以後の家康の采配、江戸時代の城主

東軍に与した関一政が、関ヶ原における功績で旧領復帰を許されて、美濃多良から3万石で入ります。一政は、亀山宿の整備や城郭の修築などに尽力したのですが、1610年(慶長15年)伯耆黒坂藩へ移封され、三河国作手藩より松平忠明27歳が5万石で入ります。1615年(慶長20年)5月、大坂夏の陣で豊臣家が滅ぼされると、直後の6月10日に忠明は摂津大坂藩10万石に移封され、亀山藩は廃藩となります。
松平忠明(1583~1644年)は、徳川家の重臣・奥平信昌の四男として誕生したのですが、母は家康の長女の亀姫であり、1588年に家康の養子となり松平姓となります。豊臣対策で、家康は1608年に藤堂高虎を伊賀上野、安濃津に置き、名古屋城を築くのですが、亀山にも譜代大名を置いたのでした。亀山城本丸は、家康や家光の宿として使われます。
大坂は幕府直轄となり、忠明は1619年(元和5年)に大和郡山藩12万石へ加増移封されます。家光の後見人に任じられ、1639年には播磨姫路藩18万石に加増移封されており、徳川幕府の宿老となった人物です。

亀山藩は、藩主の交代が多く、1619年三河挙母藩より三宅康信が1万石で入り、第2代藩主・三宅康盛時代の1636年、旧領拳母藩へ戻されました。(17年)三河西尾藩より本多俊次が5万石で入ります。俊次は、1637年に領内のほぼ全域で検地を行い、翌1638年には代官・大庄屋制度を確立し、亀山城の修築を行いましたが、1651年に近江膳所藩へ移封となります。(15年)彼が城下町を作ったのでしょう。
入れ替わりで石川憲之が5万石で入りますが、1669年に山城淀藩へ移封となります。(18年)代わって下総関宿より板倉重常が5万石で入りますが、第3代藩主・板倉重治時代の1710年に志摩鳥羽藩へ移封されます。(41年)入れ替わりで松平乗邑が6万石で入るのですが、1717年に山城淀藩へ移封となります。(7年)再び板倉重治が戻ってきて、第2代藩主・板倉勝澄時代に板倉家は石川総慶と交代する形で1744年備中松山藩へ移封となります。(27年)石川総慶(1704~64年)6万石になるまで、藩主の長期間における支配が定着しなかったのでした。明治まで11代続きました。

城郭

絵図から読み取るより、松坂城のように、残された石垣から城郭を論ずるのですが、石垣が残されているのは、本丸の多門櫓しかなく、しかも江戸時代の多門櫓は石垣にあっておらず、移築されたものと見え、どうにも落ち着きません。

丸い石の野面積。 角石からも1590年の秀吉時代の石垣だろう。
石垣と櫓があっていない
石垣の天端から見おろし

ブラリ亀山

亀山がこのあたりの高台に作られたのが感覚的にわかる絵
絵図を清書したものであり、地図とはなっていない。
東海道を東に向かいます。
東海道の寺の門です。寺はトスンと落ちてあります。
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亀山駅前通りまで来ました。
東海道が大きく湾曲する様は今もそのまま残っており、ここで城を遠望します。
東海道から、武家地を見ます。行き止まりです。道幅は広げていましょう。
枡屋 明治6年築 呉服商
東海道から奥は、これだけ。
街道だけの町屋でした。
もう堀はないのですが、復元です。
明治の地図があれば、堀の跡はわかりましょう。
家老の家の、門だけが残されています。
加藤家屋敷跡

関宿は昭和50年に重要伝統的建築物群保存地区が法に定められて、9年後の1984年に指定を受けているのは知っていましたが、すでに40年経て、犬山、高山、妻籠・馬籠 化しているのではないかが心配でした。

1,8kmの宿場町中央です。
屋根に上る仕掛けがありました。

インバウンド狙いで観光バスがガンガン来ている、の確認でしたが、まったくもって、英語のチラシはありません。1,8kmの街並みは犬山、鳴海と違い、ちゃんとしていました。

間違いなく、街並みには建築家が関与していますね。どうして、松阪が城への取り組みがないのかがわかりました。犬山には国宝の天守があります。その軸線上に城下町が残っています。亀山市は亀山にはなくても、関宿1、8km丸ごとの建築文化を抱えています。
松阪木綿、松阪肉、から、本居宣長、豪商で売る松阪には、犬山、亀山のような建築への視座がないのでした。

観光駐車場が山側にありました。
街並み保存の肝は電柱とドブですね。
宿場の中心は、地蔵堂です。
なんとも看板まで昭和30年代
関宿名物です。
一方通行で車は走りますが、東海道に面して駐車場はありません。
東海道から奥に入って、東海道を振りかえっています。
屋根の上から、西を見る。
東海道から直角に奥に行くと、東海道と並行した道は、こんな感じで道ではないのでした。
消火栓ボックスに箱をかぶせています。
山車がありました。
三重ですので、百五銀行ですが、こんな感じです。
端にくると、サッパリ目です。
東の追分 鳥居で南に下がります。

地蔵堂からの西半分は車で通りました。東がメインでした。

国の指定を受けて40年を経て、どうするのか関宿。英語のチラシがないのではつらいですね。
スイーツ、買い食いが目玉であり、それが高校生作成のチラシですので。

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