津 城下町 27万石(伊賀上野も含む)副題:藤堂高虎の功績

城下町

藤堂高虎(1556~1630)は、慶長13年(1608年)に、家康から津(伊勢国の安濃郡・一志郡)と伊賀国を与えられ、家康の指示に従い、大坂豊臣包囲網として津城、伊賀城を作りました。高虎は大阪の陣の後さらに伊勢国の鈴鹿郡・安芸郡・三重郡を加増され、北伊勢と伊賀の27万石となり、子孫は明治まで津城を動くことはなく、津の城下町は三重県の県庁所在地、津市(人口27万人)に引き継がれました。しかし、伊賀上野城を持つ伊賀市(人口9万人)と違って、津市のイメージは薄いです。

現在の伊賀上野の模擬天守は1935年に衆議院議員・川崎克によって木造で作られたものです。最初の城郭は、天正13年(1585年)に秀吉の指示を筒井定次(1562~1612)がうけ、3層の天守まで作りました。関ヶ原の戦いでは東軍につき領土は安堵されますが、1608年藤堂高虎が入り、堀を深く、西の豊臣に向かって高石垣を積む大改造を行います。5層の天守も建造したのですが、その完成まじかの慶長17年(1612年)9月2日、大嵐のため天守は倒壊してしまいました。1614年大坂の陣で勝利したので、以降、天守は作られることなく、高虎の弟の藤堂高清が城代屋敷に置かれ、明治まで世襲されました。

いつもと違い、現代の地図からです。私は美濃で生まれ尾張で育ち、大学を目指す頃になると、東京はアンポで燃え、大阪では70年万博が開かれたのでした。受験の結果は希望叶わず、金のかからない二期校の名古屋工業大学となり、親は喜んだのでした。私は、一人旅ができるようになったのだと思いなおし、♫なのにあなたは京都に行くの~♫京都の町はそれほどいいの~♫を口ずさみ、名神高速道路バスで、京都に下宿する従弟の所に転がり込んだのでした。
名古屋から西に向かうのは、1964年オリンピック開催に合わせた新幹線か、1965年完成の高速道路(名神、名阪)か、とすでになっていました。もう半世紀たちますが、この道筋は変わりません。

鈴鹿の関を超える東海道、国道一号線で京都に行ったことはありません。古代では三関と言って、不破関(美濃国、現在の岐阜県不破郡関ケ原町)、鈴鹿関(伊勢国、現在の三重県亀山市)、愛発関(越前国、現在の福井県敦賀市内)の三つを閉める事によって、権力者のいる畿内を、蛮族(東国だけで西 に関はない)から守るとしたのですが、現代の地図を見ても、狭矮な峠であり、今も交通の要所であるのは変わりません。
三重県は、伊賀、伊勢、志摩の三国からなっていますが、北から、養老山地、鈴鹿山脈、布引山地、紀伊山地と山々が連なり、大和、山城の国と隔てています。いつも「地勢の歴史」は、米の生産からみていきますが、今回は街道を中心に見ることにより、津城とその城下町の曖昧さを探ります。

川の流れを街道に重ねる

いつもの「地勢の歴史」のデータも並べておきます。土地の高低と川、縄文遺跡の分布、古墳の分布、そして稲の収穫高です。一級河川は、尾張・美濃との境界であり、かつ川船で国をつなぐ揖斐川は別置きとして、北から鈴鹿川、雲出川、櫛田川、宮川の4本しかありません。 
西の山地から細く、短い川が何本も伊勢湾に流れ、南北の長い伊勢平野を作っています。古代、伊勢国の米の収穫高は美濃より多く、尾張の倍でした。縄文遺跡、古墳は高台にあり、扇状地に弥生の田んぼが広がり、古代の道が川幅の広い海岸沿いを避け縄文遺跡と重なるのは、ここも同じです。違うのは、それが神話の道であることです。ヤマトタケルの話は「継体大王と尾張の目子媛」に書きましたが、ヤマトタケルの最後は白鳥に乗ってしまうので、鈴鹿山脈のどこの上を飛んだかはわかりません。

三重県の地勢図

ヤマト三輪山で天皇との同居していた天皇の祖先神アマテラスが垂仁天皇の指示によって新たな居地を求めて、志摩に落ち着いたと記紀は伝えますが、初めて伊勢にお参りをしたのは持統天皇であり、記紀を夫・天武天皇と、藤原氏の偉業でまとめ、律令制度を藤原京で展開したのも持統天皇でした。「桑名城下町」に書きましたが、山の中の吉野から中央構造線に沿って、櫛田川沿いに山道を東に来る現代の166号線(和歌山街道)が、伊勢におまりする古代の道だと思います。

卑弥呼が敵対した南の隣国の狗奴国 とは伊勢であり、東国への港は宮川の大湊となりましょうか。

中世の伊勢街道の一本は、吉野にあった南朝臣下の北畠氏が榛原(宇陀市)から、北畠神社のある国道369号線にそって多気に入り、松阪に流れる櫛田川の支流・仁柿川沿いの422号線を東進します。北畠氏が伊勢の守護を成しえた、南伊勢支配のかっての幹線ルート伊勢本街道です。
そして、伊勢街道の現在の本道は、この北回り、初瀬街道となります。藤原京から北東の長谷寺を目指し、その先榛原(宇陀市)までは②と同じであり、そこから宇陀川(十津川)沿いに、現代の165号線と同じく伊賀盆地南の名張に入り、今度は雲出川にそって伊勢平野に降ります。近鉄大阪線がこのルートで今も関西と東海をつないでいます。②より長くなりますが、名張経由なので高低差が少なくなります。
近鉄が三重県の名張を大坂のベッドタウンとして売り出したのを大阪支店の方が買い、毎日大阪まで通っていました。この時私は、「三重は関西なのだ。」と改めて思い知らされました。

古東海道

大海人皇子が、女子供を引き連れ20人ほどで吉野から東国に逃げます。東国(伊勢、美濃、尾張)で兵を集めるには、大友皇子がいる近江の国、大津を避けないといけなく、近鉄大阪線の名張から、近鉄伊賀線にそって伊賀に入り、関西線、鈴鹿川にそって亀山から桑名に行き、そこに持統天皇を待たせました。大和街道、現代の名阪道路・25号線です。途中、大津にいた高市皇子は草津からJR草津線のルート(甲賀、油日経由)で山を越え、伊賀柘植で父の大海人皇子と合流し、大津皇子は野洲川沿いの東海道ルートで山を越え、鈴鹿の関で合流しました。さらに、大海人皇子は揖斐川の西、養老山脈沿いの美濃街道を垂水まで行き、尾張連の館で高市皇子の戦闘をみていました。

延喜式10世紀の米の国別の取れ高

川の流れから、集落の場所が決まり、川の流れにそって山越えの街道ができます。いままでに一級河川の鈴鹿川、雲出川、櫛田川、宮川を拾いあげたのですが、近江からの宇治川と、伊賀から大和、山城と流れた木津川が、摂津、河内と流れる大河・淀川の支流であり、その木津川の支流6本:柘植川、服部川、名張川、宇陀川、布目川を知らないと、伊賀国の「川の流れを街道に重ねる。」ことはできません。十津川流域の伊賀国は、鈴鹿の関の内側であり、近江国と同様に5畿内ではないですが、古代より天下の内でした。
奈良時代740年、聖武天皇は平城宮を離れ、天武天皇の東国へのルートをなぞる行幸をします。伊勢街道から鈴鹿の関、美濃街道で不破の関に行き、近江の国を東山道で南下し、恭仁宮(京都府木津川市)に遷都します。その恭仁京の完成を待たず744年には難波宮(大阪市)、翌745年には紫香楽宮(滋賀県甲賀市)に都を移し、結果、平城京に戻ります。これこそ、西の難波と共に伊勢が天下の内であることを示すものです。

金田章裕は、その著「地形で読む日本」の中で、孝徳天皇が白雉元年(650年)に同じ難波であるが、難波長柄豊碕宮に移るときの「畿内」を、四至(四方を画する点。東は名墾横河、南は紀伊兄山、西は明石櫛渕、北は近江狭々波合坂山)の範囲内、だいたい50km以内だとし、天智天皇の大津京667年の四至は三関+高安城であり、それも50km以内だとしています。これによって、関所内の近江国と伊賀国が「畿内」にないのだと説明しています。

「地形で読む日本」 金田章裕 著 
「地形で読む日本」 金田章裕 著 

「畿内」は、中大兄皇子と中臣鎌足が乙巳の変(645年)で蘇我氏を滅ぼし、皇極天皇が孝徳天皇に譲位したあと、646年の「改新の詔」にて、全国支配を示すエリアとして、「七道」と共に上記四至の範囲内としたのですが、天武天皇、持統天皇による大宝律令701年の中で「畿内」は山城、大和、摂津、河内、それと、757年に河内から分離した和泉の五国とされました。そして、関所として天智天皇大津宮の四至が三関として残ったのでした。
京が平安京に固まってからの五畿七道では、京都の関所として近江狭々波合坂山がクローズアップされ、山城の北にある丹波こそ京の守りに重要だとされてます。

伊賀街道、163号線。藤堂高虎が1607年に伊賀国と伊勢国を家康から任されて、豊臣包囲網の城を築きます。信長、秀吉の伊勢攻略により、守護所は安濃川と岩田川のあいだの津と、伊勢の北に寄ってきていました。高虎は、伊賀上野と安濃津を結ぶ街道「伊賀街道」を作ります。長野川沿いにのぼり、分水嶺を超えて服部川沿いにおります。伊賀からは、旧来の大和街道(笠木街道)を木津川沿いに関西本線と共に木津川市に降りていきます。浄瑠璃寺から東大寺の裏に出れます。木津川市から、163号線はさらに西に進み、大坂城の北に出ます。すなわち、藤堂高虎は伊賀街道を大和街道と結んで作ることにより、大坂から津に至る東西の大路を作ったのでした。伊賀から東への大和街道は、④のように関宿(亀山市)に向かいます。
1584年小牧長久手の戦いでは、伊勢に羽柴秀長、丹羽長重、堀秀政ら6万2千の兵を集めて、織田信雄の南伊勢を奪取します。1600年関ヶ原の戦いでは、毛利秀元、長束正家、安国寺恵瓊、鍋島勝茂、長宗我部盛親らで構成された3万の西軍は、津城に籠城する冨田信高を攻めます。(安濃津城の戦い)いずれも、大軍を大和から伊勢に入れていますので、⑤でなく③伊勢街道の本道を使ったのでしょう。そこで、高虎は大坂に直行できる山道⑤伊賀街道を作ったのだと思います。
伊賀と津との物資の交流ではたかが知れていますし、この道でお伊勢参りもないでしょう。津城とその城下町の曖昧さは、街道の曖昧さにあります。スワッ大坂!と伊勢から軍を大阪にまっすぐに運ぶ道であり、物流の道でないのでは都市の魅力要因となりません。津の南には鳥羽藩3万石しかなく、参勤交代の為の本陣、脇陣も要りません。津はお伊勢参りの宿場でしかなくなっていました。

三重県教育委員会『美濃街道・濃州道・八風道・菰野道・巡見道・巡礼道・鈴鹿の峠道』昭和六十年
山越えの間道は日本全国にありますが、この東海道をショートカットする街道は商人だけでなく、文明五年の蓮如上人、弘治二年の公家山科言継、大永六年の連歌師宗長、天文二年の山科言継、弘治三年の六角義賢と、歴史に名を出しています。東海道、中山道の宿場、伝馬の整備によりすたれました。

江戸時代、近江八幡の商人は甲賀、鈴鹿の山を越えて四日市に抜ける山道、永源寺を通る千草街道をよく使いました。その北には八風峠を越えて員弁川にそって桑名に抜ける八風街道もありました。近江八幡、八日市(現・東近江市)から千草を経由して桑名に抜ける事も出来ました。

1559年2月織田信長は、美濃の斎藤義龍を避け、桑名から八風越えをして上洛し、将軍足利義輝に謁見し、尾張の戦国大名として名乗ります。実際、帰ってすぐ3月に岩倉城を落とし、尾張一国を支配します。あくる1560年5月には桶狭間で今川義元を討ち、全国デビューを果たします。 
1570年、信長は越前の朝倉を攻めますが、近江の浅井に裏切られ敗走します。浅井に鯰江・市原(現・東近江市)で信長の岐阜への帰路を塞がれ、千草街道を使い、そこで銃撃されます。
宿場、伝馬が整備される前はよく使われた山道でした。

織田信長、羽柴秀吉の伊勢支配

以上見てきたように、津城とその城下町の曖昧さは、伊勢国の主街道が通っていなかったのに、守護所になった事に由来します。信長の伊勢支配から安濃津が戦国の歴史舞台に出てきます。津市の説明は「信長の弟・信包が津城を作った。」から始まりますので、その前の事から書きます。

まずは、都と伊勢との関係を簡単に述べます。 
平家の栄華を誇った平清盛(1118~1181)は伊勢平家の出でした。平家は坂東の平将門だけでなく、伊勢にも根を張っており、清盛の祖父・正盛(~1121)は、伊賀国の所領を白河院に献上したことで北面武士に列せられ、清盛の父・忠盛(1096~1153)も白河院、鳥羽院に寵愛され、昇殿を許され、播磨と伊勢の国守となります。 
室町時代に有力な幕臣となる伊勢氏は平維衡の子孫を称しており、伊勢氏は代々政所執事を世襲します。伊勢貞親(1417~1473)は第8代将軍足利義政の養育係を務め、義政の成人後も幕政に大きな影響力を持ちました。また、伊勢氏の傍流・備中伊勢氏出身といわれる伊勢盛時は一代で伊豆・相模を平定し、戦国大名・後北条氏(小田原北条氏)の祖となっています。

三重県の歴史 2000年山川出版社 刊

信長が伊勢を侵略したときの守護は北畠家でした。北畠親房〈1293~1354〉は、後醍醐天皇の1333年の建武の新政を支え、後醍醐没後には南朝の軍事的指導者となり、南朝の正統性を示す『神皇正統記』を記しています。親房は、伊勢の国司となった子の北畠 顕能(1326~1383)と共に、伊勢の多気に下ります。多気を拠点に退勢著しい南朝軍事力の支柱となり、その後、戦国守護大名として南伊勢に君臨していました。

信長34歳は1567年8月に美濃・稲葉山城を攻めとり、井口を岐阜と改め首都とします。あくる1568年2月、信長は滝川一益に北伊勢を攻めさせ、弟の信包(1543~1614)25歳を北伊勢を支配する長野工藤氏に養子入りさせて、山城・伊勢国上野城(三重県津市河芸町上野)を居城とします。(後に信長の命令によってこの養子縁組を解消し、織田家に復す)。信長の三男、信孝(1558~1583)10歳も、神戸城(三重県鈴鹿市)城主・神戸具盛(友盛)の養子にしています。養子とは領土を奪う方便でした。
信長は1568年7月に足利義昭を岐阜に迎え、はや9月には軍を率いて上洛し、義昭を将軍にします。近江の守護大名・六角義賢は9月に信長の攻撃により東山道沿いの観音寺山城から排除されています。近江の国は国人が跋扈し、六角氏はゲリラ戦で信長に抗していたので、北伊勢での信包、信孝の養子縁組は近江での六角氏排除の一手だったのでしょう。1581年の伊賀平定、信包38歳まで戦いは続きます。

伊勢の守護大名・北畠具教〈1528~1576)は、1554年26歳で従三位権中納言に叙任されている公家でもありました。伊勢国安濃郡を支配していた長野工藤氏と戦い、1558年に次男・具藤を長野工藤氏の養嗣子とする有利な和睦を結ぶことで、北伊勢に勢力を拡大し、1560年には志摩の九鬼も討ちさらに勢力を高めていたのですが、信長により、1569年10月籠城する伊勢大河内城(松坂市大河町城山)を50日にわたり攻められ、北畠具教はついに降参し城を退去します。信長の次男・信雄(1558~1630)11歳が北畠家の養子となり、北畠家を継ぐことになり、北畠庶流の田丸直昌が守っていた平山城・田丸城(三重県度会郡玉城町田丸字)に入ります。1571~74の長島一向一揆では田丸が働きます。

伊勢一国が信長に支配され、北畠が押さえていた安濃津も当然信長支配となります。信包は信長より伊勢安濃津城主に任命されます。形の上では、伊勢は織田信長の下に、滝川一益(1525~1586)と、信包、信雄、信孝とに分国されたのですが、織田軍として伊勢の軍団を率いることができたのは、一益44歳と信包26歳しかいません。「信長公記:馬ぞろえ」による織田家の序列は、長男・信忠、次男・信雄、弟・信包、三男・信孝でした。信長の子は多くいるのですが、信長は三男までしか目をかけていません。他は庶子、連枝衆と言い、長男・信忠の配下となります。

信包が安濃津の城主となったのは、津市の言うとおり「安濃郡」の「津=湊」でしょうが、今の平城である津城の城主となったとは言えません。安濃川沿いに権力を持った国人・長野工藤氏が城を持つなら、北畠具教が「要害」として構えた大河内城(松坂市大河町城山)と同様の山城でないとおかしいです。信包は、長野工藤氏の安濃津城に伊勢国上野城から移って来たのであって、津市の言うように城を作ってはいません。
後に、津藩第2代藩主の藤堂高次は次男高通の為に支藩の久居藩を建て、津の南、雲出川そいの久居の高台、野辺野に陣屋と城下町を作ります。安濃郡の「津」ならば、短い安濃川の河口でなく、この一級河川の雲出川の河口でないとおかしいでしょう。伊勢を北と南に分ける雲出川です。③伊勢街道沿いの雲出川の周囲には、多くの縄文遺跡と城跡があります。国人・長野工藤氏の安濃津城は伊勢街道本道添いの山の上のどこかにあったのだと思います。

織田信雄は信忠、信孝と共に、1572年14歳で元服し、1575年に田丸城を改築します。織田氏の伊勢支配の要の平山城ですが、1580年に燃えると、海岸沿いに平城の松ケ島城を作り、移ります。

では、誰が今のところに城を作ったのか?ですが、私は秀吉側近の奉行の一人、富田一白(と、その子の信高)だと思います。織田信雄は1584年小牧長久手の戦いで、所領の南伊勢を羽柴秀長、丹羽長重、堀秀政ら6万2千の兵によって奪取されます。1594年織田信包は秀吉の命により丹波国柏原へ移され、翌1595年7月、富田一白が5万石を与えられ安濃津に入ります。富田一白は、文禄の役の後、1594年の第二期の伏見城普請を家康と共に行っています。
秀吉は1590年に家康を関東に移すと、福島正則(1561~1624)に清洲、田中吉政(1548~1604)に岡崎、池田輝政(1565~1613)に吉田、堀尾吉晴(1542~1611)に浜松、山内一豊(1545~1605)に掛川、中村一氏(~1600)に駿府と、与力大名を家康の旧領地に置いて城と城下町を作らせます。城は山城から平地におり、城下町と一体に作られました。富田親子も秀吉の指示で同様に動き、平地に津城を新たに作ったのでしょう。
また、いずれの武将も、関ヶ原の戦いでは家康についています。富田一白(~1599)の息子の信高(~1633)も、上杉討伐から急ぎ戻り、自ら作った津城に兵1700でこもり、毛利秀元、長束正家、安国寺恵瓊、鍋島勝茂、長宗我部盛親らで構成された3万の西軍から城を守りますが、結果は城を明け渡して、信高は一身田町の高田山専修寺で剃髪し、高野山に登ります。
関ヶ原の戦いに東軍が勝ち、戻った冨田は戦災で被災した津の城下町の再建に努めますが、住民も疲弊しており作業は捗らず、慶長13年(1608年)、冨田は伊予宇和島城に転封になり、家康の豊臣家撲滅構想に従い、伊予今治城から転封してきた藤堂高虎に、城と城下町建設は引き継がれました。 

伊勢の国の支配者がどこを領国支配の拠点にするのか、支配者の交代によって、拠点の場所だけでなく、山城(大河内城)⇒平山城(田丸城、伊賀上野城)⇒平城(松ケ島城、津城、桑名城、松阪城)と城の形態も違ってきます。この50年の城の発達は、現代の津市と松阪市に直接つながる都市の原点というだけでなく、全国的にあった事でした。さらに、次の城名人・藤堂高虎の出現によって、伊勢の国のお城は、最高潮に達します。「50年のお城史」をティピカルに示す三重県博物館の登場を期待します。

藤堂高虎と徳川家康

個人蔵  神格化され、同一の絵が配られた。

藤堂高虎(1556~1630)の画像は信長、秀吉に比べ顔がゴツイです。6尺2寸(約190センチメートル)を誇る大男であり、遺骸は「体中疵だらけで、玉疵・鑓疵もあり、右の薬指・小指はちぎりて爪もないし、左の中指も一寸ほど短くなっていて、右足の親指の爪もなかった。」と伝えられています。
家康(1543~1616)の遺言には大坂の陣そのままに「先鋒は藤堂、二番槍は井伊」とあるので、まさに戦闘で勝ち取った外様大名の地位なのですが、譜代大名以上に家康に気に入られたのは、戦闘だけではなく、
大工の中井正清(1569~1619)、その前は正清の父・政吉(1533~1609)、奉行の小堀遠州(1579~1647)、その前は遠州の父・正次(1540~1604)と共に家康の近くに常々いて、おそば衆的な役割を果たし「築城名人」と世に言われたからだと思います。
築城名人には、美しい石垣を作った加藤清正もいますが、高虎の縄張りの数とそのバライエティは圧倒的です。

藤堂高虎の一生を「城づくり」から、見ていきます。
1556年近江国犬上郡藤堂村(のち在士村)に、土豪・藤堂虎高の次男として生まれ、14歳で浅井氏について姉川の戦いで初陣し、17歳で浅井家を出奔し、磯野丹波守員昌に仕え80石を得るも、1576年20歳にして、秀吉の義弟・木下秀長(1540~1592)に仕え300石を得ます。ここから主人が亡くなるごとに主人を替え、5人に仕えます。
1577年には主人の秀長の下で播磨の秀吉旗下に入り、三木城攻めで敵将賀古六郎右衛門を討ち、名馬「賀古黒」を獲ます。1580年、秀長に従って領国の但馬に入り、一揆、土豪を治めます。戦功により加増され3,300石となります。26歳で1582年の本能寺の変に遭遇します。「中国大返し」をして山崎の戦いに勝利し、1583年には秀長に従い伊勢国で滝川一益と戦います。4月賤ヶ岳合戦に戦功し、秀吉の天下取りに大きく貢献し、秀吉より1,000石、秀長より300石の加増を受け4,600石となります。1584年小牧長久手の戦いでは、峯城(亀山市)・松ヶ島城(松阪市)を攻め、信雄軍を追いやります。1585年、秀吉・秀長の紀州攻め。四国攻めに働き、いよいよ1万石の大名となります。秀長の和歌山城築城では、藤堂高虎は29歳で築城奉行となっています。

和歌山 明暦
和歌山 梯郭式
大和郡山 正保
大和郡山 渦郭式
小倉 正保
小倉 連郭式+環郭式

秀長(1540~1592)は秀吉の指示で建設行政を担当していますので、大和郡山城(1585年)小倉城(1587年)の築城にも高虎はかかわっていたでしょう。1586年家康が秀吉に頭を下げるべく大坂に来るのですが、家康の宿は秀長の屋敷でした。秀吉は1586年に大坂に来た宗麟をもてなし「内々の儀は宗易(千利休)、公儀の事は宰相(秀長)存じ候、いよいよ申し談ずべし」と述べていますので、家康は秀長に近づき、京の秀吉の城・聚楽第の近くの家康の屋敷は藤堂高虎が造営することもあって、ここから高虎と家康の交信が始まっています。
伏見城二期(1594年)は天下普請により家康が江戸から出て来て行うのですが、江戸城の築城技術はこの時に秀長の配下から得たのでしょう。普請奉行は秀吉の金切裂指物使番・佐久間正実(1561~1616) でしたが、秀長の家老に小堀遠州の父・正次がおり、大工には中井政吉がいた事でしょう。

1609年の名古屋城の建設計画は、家康は秀長、秀吉から得た、藤堂高虎53歳、佐久間正美48歳、子の中井正清40歳、子の小堀遠州30歳にさせています。 

私、高橋和生の妄想です。

この間の家康の城、伏見城三期(1596年)膳所城(1601年)二条城(1603年)慶長の江戸城(1603年)伏見城4期(1606年)駿府城(1607年)の全ての縄張りに藤堂高虎は関わっています。

名古屋 絵図
名古屋 梯郭式
膳所 正保
膳所 連郭式
駿河 正保
駿河 環郭式
伏見城 3期1596 秀吉は1598年にこの城で死す。秀頼は大坂城に移る。
二条城 1603~1606天守完成 1624年後水尾天皇行幸の為に拡大した。
慶長の江戸城 1603~1607天守完成

1590年高虎34歳の時に、病の秀長の代わりに秀長軍を率いて、総構えの城・小田原城を攻めをしています。1591年に秀長が死ぬと、子の秀保(1579~1595)の後見役となり、1592年の文禄の朝鮮出兵では彼が行きます。1595年秀保が急死し、主家断絶となり高野山に入るも、秀吉に請われ、5万石を加増され宇和島7万石の秀吉直の大名となります。宇和島城を作り、1596年の慶長の朝鮮出兵では水軍を率います。2ヶ月の突貫工事で高石垣の城・順天倭城をつくり、水軍でも勝利し、伊予の大洲1万石を得て、大洲城を作ります。

宇和島 元禄
宇和島 元禄 梯郭式
1596年の慶長の出兵では水軍を率います。2ヶ月の突貫工事で高石垣の城・順天倭城をつくり、水軍でも勝利し、
順天倭城  朝鮮西端
大洲城 正保
大洲城 正保  梯郭式

1600年の関ヶ原の戦いでは大谷吉継を相手に正面で戦闘を行い、近江時代の人脈から脇坂安治、小川祐忠、朽木元綱、赤座直保らに対して、東軍への内応工作を行って12万石の加増を得、伊予の今治20万石の大名となり、今治城を作ります。1608年に伊賀・伊勢に移され伊賀上野城、津城を作りつつ、名古屋城の縄張りをし、1609年に丹波笹山城、1610年に丹波亀山城を修築し、1611年には熊本城に清正亡き後の加藤忠広の後見人として出向きます。

津 寛永絵図
津  寛永  連郭式+環郭式
丹波笹山 正保絵図
丹波笹山 正保 連郭式+環郭式
丹波亀山 正保絵図
丹波亀山 正保  連郭式+梯郭式

1614年の大坂冬の陣に向け、城下町・権力のシンボルである天守を頂きつつも、鉄砲、大筒による攻めに対し城の防衛能力を高めます。堀と石垣によって郭を構成し、漆喰、瓦により燃えない建物とし、信長の安土城より格段に防衛力を高めました。
しかし、徳川がイギリスから得た4門のカルバリン砲の弾8kgは、大坂城の堀を軽々と超えてしまい、淀君が怯えて大坂冬の陣は終わり、講和条件で堀を埋められ、1615年夏の陣で豊臣は滅びます。

一体、藤堂高虎はいくつの城を作ったのでしょうか。ここに書き出しただけで20カ所あります。普請奉行として、領主として、実際に工事まで差配したのは少なく、城の縄張り(土木設計)を請われるままに、現地に足を運んで行ったと私は思っています。
徳川秀忠の大坂城は1620年に着工して、1629年に竣工しています。高虎は晩年目が見えなく、どこまで行ったのか疑問ですが、「縄張りは築城の名手、藤堂高虎が行った。」とされています。1630年74歳で亡くなりました。

大坂 明暦の絵図
大坂 慶安~万治 環郭式   大坂は城下町ではありません。武家地はなく、町民の自治で行政が行われていました。城郭は二重の堀に囲まれただけでした。城の南の武家地は町人地に替わります。
城郭 名古屋と江戸の比較
江戸の城下町は大きくなり、人口100万人となりますが、城郭は明暦の大火いご変わりません。名古屋城と比べました。

藤堂高虎の城郭の縄張り図から、城郭の設計を考える。

城郭とは、本丸、二の丸、三の丸、帯曲輪で形成された「お城」です。天守だけでは「お城」にはなりません。天守がない「お城」の方が、江戸城をはじめ普通の「お城」でした。20もの高虎の「お城」をこのように俯瞰してみると、現地の地形に合わせた縄張りの展開の素晴らしさに驚きます。

内藤昌「城の日本史」
内藤昌「城の日本史」 
城郭の種類(梯郭式、連郭式、環郭式、渦郭式)

郭の構成するには、高石垣、堀の防衛ラインを何重かに作り、そこに虎口、門の開口部を設けるのですが、江戸中期の軍学の中で、梯郭式、連郭式、環郭式、渦郭式と名がつけられ、その組み合わせがどうのこうのと注釈がつけられました。

それに基づき内藤昌も「城の日本史」では城郭の説明としています。

ここの城郭図は「松江の極秘諸国城図」ですので、正保の絵図とは違い、信用できません。
江戸初期に幕府提出の為に書かれた正保絵図が何度か転写されて、さらに軍学の概念で描きなおされています。広島と大分にもこのような大量の絵図が軍学として伝わっています。城の設計図は最高機密のはずですのに「極秘」とは笑えます。

地域によって、築城の時期によって「城郭の縄張り」の特色があるかと一覧表を作りました。しかし、現実は、梯郭式、連郭式、渦郭式、環郭式の組み合わせになっており、特色は見出せませんでした。守りの固いお城を作る場所の選定は、同時に繁栄する町を展開していく場の選定と合わせてするものです。設計者は「城郭の縄張り」をしつつ、同時に城下町の設計もしていたのでしょう。

城郭の設計は二つの考えがあります。
第一は、中世の要害+館城が、逃げ城の山城+根小屋となり、領国経営を主眼にして平山城と低い丘に城が降りてきて城郭の周りに城下町を作ったことから、造成になじむ「梯郭式」としました。
梯とは、寄りかかる意であり、本丸に二の丸が寄りかかり、二の丸に三の丸に寄りかかる姿を指します。言い方を変えると、郭(曲輪)が、本丸を中心に段下がりに二の丸、三の丸と張り出してくる設計です。丸となれば大きく建物が建つ広さですが、郭の構成の為に、帯曲輪、馬出しが小さくつく場合もあります。一条谷の逃げ城には現在、本丸、二の丸の名がついていますが、山ですのでこのように等高線にそって平地を作らざるを得ないだけで、段差はあっても、郭(曲輪)とはなっていません。観音寺山の石垣も郭(曲輪)でなく、山地の造成にしかみえません。

観音寺山城 麓の城下町の最奥に館があり、山上に山城を作る。
観音寺山城 山頂の造成は3本の尾根道沿いに国人が行った。六角氏が戦国大名であるが、国人の集合体のようになっていた。

丘を造成するに、段々をずらしていけば、渦郭式になります。姫路城のように、入口をわからなくすることによって、迷路状の城郭になりますが、そのような本丸は使いにくいので、より低いところの二の丸が暮らしと政治の中心になりました。梯は、造成と高石垣だけでなく、堀による「寄りかかる郭」もあり、軍学では水城でも「梯郭式」と言っています。

第二の城郭の設計は、水城です。平地に降りてきたと言っても、当初は和歌山城、大和郡山城のように川より10~40m高い丘を選んで平山城としたのですが、山がないところでは、堀で郭(曲輪)を構成しないといけません、わかりやすいのは大坂城のように、堀を環状に回すことですが、何重にも回せないところでは、水の中の郭をつないでいくことなります。これが「連郭式」です。

梯郭式  石垣の上にそびえる白亜の天守は少なく、土塁の中に鉢巻石垣の隅櫓があり、それを天守としていたのが普通でした。
連郭式  環郭式のように堀を回すも、橋のかかる水路でしかなく、城郭は堀の中に繋げて本丸、二の丸、三の丸としました。「松江の極秘諸国城図」の連郭式の絵図は、この長岡城を改変したものでした。軍学であり、地図ではありません。

この二つの設計の方法は、どちらが優れているというものでなく、藤堂高虎は梯郭式を基本として、水際の平城の小倉城、膳所城、津城では堀を環状に回しています。お城の選地と同時に城郭の設計はされました。
城下町は、集住させる武家地を身分に応じて城郭の周りに配置し、大手門を町に向かって開きます。その外側に街道を引き入れ、街道沿いに町人地とし、そこに大手道を通し、一番の盛り場には高札場を設けました。さらにその外には足軽屋敷を置き、街道の城下への入り口には問屋場(伝馬)をもうけ、町を守る寺社を外縁に並べました。川、もしくは運河は城郭の外堀なのですが、同時に物流動線でもあります。湊は町人地です。本丸を玄武(山)とし「四神相応:青龍(街道)、白虎(川)、鳳凰(湖)」の要素を選地に合わせトポロジカルに都市計画をしたのでした。

「天守の縄張り」とは、天守を小天守、隅櫓と関連させて、本丸のどこのどのように置くかです。

籠城の為に、天守を台所丸・小天守とつなげて、本丸の中にさらに天守丸(詰め丸)を置いていたのですが、すぐになくなります。
高虎の言葉「本丸は籠城の為に、小さい方がよい。」が残っており、慶長の江戸城、名古屋城の本丸は小さかったのでしたが、江戸城は元和に天守の位置を端に寄せて本丸を広くし、名古屋城では、本丸御殿は早々に放棄して、二の丸に御殿を作りました。

天守が災害で燃えてしまうと、城下からよく見えるところに単立させるか、隅櫓を天守の代わりとしました。江戸幕府が安定し、平和になると「天守は一城の飾り。」となったのでした。

高虎の津城を石垣からみる

今回は、土日だけ駐車場の小屋に間借りしている「安濃津ガイド会」のお婆さん85歳に声掛けされ、現地に立つ案内板を超える内容のパンフ(津市観光ボランテイアガイド作成)をいただきましたが、津市は公園内には案内板だけで、彼女たちの場を作ってあげようという気はなく、お隣の松阪市とは違い、お城を観光に使おうという意志は持っていないようです。

城下町と感じられるのは、津城の石垣と復元された櫓だけです。明治の写真と、現代の地図に落とした古地図を並べます。
寛文2年1662年に大火によって本丸が燃えたあと、南にあった天守、櫓は再建されず、北の京口御門(大手門)に向いてお城を見せたのでした。城郭北側の丑寅(北東)櫓、戌亥(北西)櫓は明治の廃城まで残ったのですが、幅100mの北の大きな堀は東西の幹線道路42号線(現:フェニックス通り)の為に明治早々に埋められたようです。南の堀の上には、高山神社に、警察署ですので、これも明治早々の埋め立てなのでしょう。
本丸の東乃丸は、駐車場になっており、そこに模擬天守が昭和33年に建てられました。浮世絵にある天守をそのまま作っており、ちゃんと復元をしようという意志はありませんでした。今は復元模型が作られており、容易に現状と復元内容が比較出来ますが、その記載は現地案内看板にはなく、ガイド会のパンフにしかありません。

今は中を見せていません。
手前の矢印の所が、今の公園の入口です。本丸には天守を建てず、御殿だけありますが、二の丸御殿が住まいだったでしょう。内堀のすぐ外、現NTTのところに藩校「有造館」がありました。
今は、史実と違うと困っているのでしょうが、折角の天守ですので壊すのももったいないです。名古屋市は愚かにも昭和34年に復元なった天守を壊すと言っています。
上を北にしました。
本丸の地盤は、周囲の地盤、西の丸地盤から2,5mほどしか高くなく、河岸段丘だったのでしょう。これでは高石垣を組めないので、その代わりに鉄砲の弾が届かない100m幅の堀を回したのでしょう。
東の丸から本丸の虎口に入るところ、かっては多門櫓があった。

ガイド会が石垣の案内図を作っていました。石垣を追いながら、お城を想像します。

⑫戌亥隅櫓 と 名古屋城北西隅櫓との比較

水面からの高さは同じです。名古屋の櫓は妻側ですが、平側の津より大きいです。加藤清正の「扇の勾配」はどちらもありません。隅石は名古屋より進化して短辺に二個下まで入れています。名古屋は上の方だけです。どちらも慶長15年(1610年)と同時期であり、縄張りも同じ藤堂高虎ですから、勾配・打ち込みハギは変わりません。

①丑寅隅櫓 隅石はキッチリそろっているが、見上げると「野面積」に見えます。昭和19年の地震で石垣が崩れたとあり、積みなおしているのでしょう。

北西の櫓台
見上げると凸凹
隅櫓のエッジは奇麗

④東側石垣 犬走が石垣の下水面との間にあります。石垣下の犬走は初めて見ました。いい加減な落とし(谷)積みでコンクリートが流され、水抜きパイプがあります。戦後の積みなおしのいい加減さは、模擬天守だけではありません。高虎は秀吉恩顧の外様大名ですが、縄張りだけで名古屋城の天下普請には参加していません。家康の信任厚い外様であったというのでなく、伊賀城と津城に財力を使い、同時に名古屋までできなかったのでした。篠島の石切り場からは名古屋城だけでなく、船でこちらにも運んでいたのかもしれません。

これは、石落としであり、石積みでない。
南東の月見櫓台 南に回ると築石が小さい。
篠島に残る石割りの跡

⑤南の石垣に、小さな築石の野面積があます。1595年7月、富田一白が秀吉に5万石を与えられ安濃津に入って城を作った事、その城を高虎が西と北に伸ばしたという史実にあっています。
⑥埋め門 寛永16年(1639)に本丸から南に脱出する門が作られています。奇麗な切り込みハギで門を囲んでいますが、東側は野面積、西側は打ち込みハギです。
⑦天守台が手前で、奥が付け櫓台です。天守台の石垣は藤堂高虎でしょう。打ち込みハギ、算木積ですが、古いです。寛文2年1662年の大火によって焦げた石が見えます。⑫内側の天守台は寛文に積みなおした切り込みハギでした。16m×14mですので、 最も小さい大和郡山の5層の天守台16m×18mからみて、三層でしたでしょう。

⑤南側の野面積 あるものを再利用したのでしょう。
⑥埋め門 東側「野づら積」西側「打ち込みハギ」
⑦天守台 少し古い様子です。ここが一番の見せどころですが、草の生え放題です。高山神社の裏手にあり、ここまで見に来る人はいないのでしょう。

⑧西の丸を南から見ると、左に打ち込みハギ布積み、右に明治の落とし積の継ぎ目が見えます。この犬走りも明治でした。こんな犬走りを作っていては城の防御になりません。
⑨西の丸の西の 丸玉櫓台 土橋ですので、二の丸の地盤が低いことが分かります。
⑯堀の幅が広い所から、戌亥櫓台をみる。一番きれいな石積みです。寛文の積みなおしだと思います。

本丸の内側の石積 裏側ですので外に力を見せることはなく石は小さい。
枡形はどこの城でも壊されています。
やはり、明治44年の神j社でした。堀を埋めたのは明治でした。

最近、正保絵図の写しかと思われる城郭図が見つかりました。狩野派の絵師でないですが、堀の幅、深さが書かれています。「天守の縄張り」が天守と櫓で分かるのですが、まったく名古屋城と同じです。埋め門が津城にありますが、名古屋城も、当初は天守の西に抜けるように石垣が計画されていたことが普請の割り付け図からわかっています。津城の場合は船で岩田川に逃げるのでしょう。設計者が同じで、時期も同じですので当然ですね。

津 城郭図
津 城郭図
名古屋城 石垣普請割付図

城下町

津駅でなく、次の津新駅で降りたのですが、城下に降りる道163号に電信柱がなく、こじゃれたレストランがあるのでした。なぜ、この道が目抜き通りなのか?伊賀街道なのでした。南北の23号の伊勢参宮線ばかりを気にしていた私が、「藤堂高虎は伊賀の国と伊勢の国の両方を治めるために東西の伊賀街道を作った。」に気づいた一瞬でした。

城郭の北の外堀を南からみる。前の横切る道が伊賀街道
電柱のない163号線 伊賀街道

絵図を見る

南北の参宮線と東西の伊賀線が町人地を伴って伸びて来てます。

津市は、都市計画を失敗した。

津市には何度も行っていますが、「城下町」だったという知識はあっても、その実態を感じていませんでした。南の岩田川、北の安濃川の間に「城下町」はあったのですが、川幅は雲出川のように広くなく容易に橋がかけられました。

安濃川の北、城下町の外に、鉄道駅を設けて、県庁、三重大学を置いて三重県の中心とし新たに街区を切り、碁盤の目の城下町の真ん中に片側4車線の23号線を引いて、「城下町」を分断してしまいました。城郭の前の23号線沿いには百五銀行などが聳え立ち、通りからお城は見えません。
東丸の内、南丸の内、西丸の内、中央の町名がお城の周りにつけられていますが、東丸の内と中央は町人地であったし、南と西は城下町の外です。「丸の内」とは三の丸内に設けられるものなのですが、人口28万人の津市の歴史文化への目は細いです。

ブラリ、城下町探訪

岩田川 伊勢参宮街道の端があったところ。橋の向こうも津の城下町であった。
今は、津観音を焦点とする南北の道が岩田川を渡る人道橋となっている。
道を立派にする都市計画という意識だけであり、実際は松菱百貨店の立体駐車場の価値しかないこのあたり。
伊勢参宮通りは広げてあるが、その脇道は江戸のままの2m道路。町人地のど真ん中。
宿屋町というのはあったのか?
これがフェニックス通り セントレア空港への船が出る。
津観音 高虎の城下町計画の要の位置に今もあるが、なんとも「墓じまい」では、先がない宗教だ。
大門
寄棟の本堂
五重塔まである
かってのいかがわしき場所だとは思われるが、港としては四日市に負けていたので、何の産業があったのだろうか。伊勢木綿?
寺町はそのまま残っている
23号線が町を分断している、名古屋もそうだが、広い道は町を壊す。このホテルの宴会場のように見えるところに、津市の公共機関と貸しオフィスがある。
地下に櫓の模型、城下町の説明パネルがあった。まったく見せる気がない展示だ。
百五銀行の高層ビルの裏の駐車場のその向こうに、ちんけな天守が見える。
まったくスケール感を失わせる。
城のまわりは老人の散歩道だと、、
藤堂高虎さんは、今の津市をどうみているのでしょうか。

藤堂高虎の伊賀城、城下町も少し。

津城は藤堂高虎の石垣があると期待して行ったのですが、ありませんでした。伊賀上野城の石垣と津城の石垣を私は取り違えていたのでした。そこで、1週間後に伊賀上野に行きました。天守が見える駅前ですが「忍者線」「忍者市駅」とあり、忍者姿の親子が町中を歩いているのにびっくりしました。私は猿飛佐助、カムイ外伝、梟の城ですが、「NARUTO‐ナルト」は外人客を伊賀上野に呼んでいるようです。

駅前広場から天守が見える。

城郭 石垣を中心に

公園の駐車場にある案内板ですが、地盤高さの表示がなく、初めて来た人には城郭はわかりません。公園には忍者しかないという看板です。
伊州御城下破崖損所絵図 1854年嘉永7年6月に発生した安政伊賀上野地震の被害を描いたもの。絵図は上野城部分を描いたものと城下町部分を描いたものの2舗1組からなる。その重ね合せ図。
現代の白地図に重ねると、梯郭式の、本丸、二の丸、帯曲輪、三の丸が見えてきます。
右手が本丸(城代屋敷)の崖であり、左手が芭蕉館。この先に駐車場がある。駐車場から「空堀」の中を三の丸に行けるように造成をした。
北側の内堀が終わったところで、三の丸から二の丸(津市は天守台があるので本丸と呼ぶ)への階段。
三の丸から空堀を埋めて、空堀の上を斜路で本丸(城代屋敷)に一気に登る。
本丸の城代屋敷 の裏側の台所に出る。
現地には本丸の城代屋敷の復元図があり、現地は柱の跡を石で描いていた。奥に裏門と私的空間、手前に表門と公的空間がある
台所から本丸の天守を見る。まさか、台所から本丸に降りて、その本丸の上に天守台があるなど、行ってみないとわかない。市が本丸というのでそう書いたが、虎口が天守台のある地面に対してあるので、こちらの城代屋敷が本丸となり、天守台の丸は二の丸となるのが城の縄張り。当初から天守がなかったのでこのような縄張りにしたのだろう。5層の天守は完成前に倒壊。大阪の陣で勝ったので、もう城そのものの価値がなくなり、城代屋敷だけとなった。
二の丸から裏門・台所の西面を見る。天守台のある二の丸より城代屋敷は高い、よって城の縄張りの呼称は向こうの城代屋敷が本丸となる。
ここを発掘したら、石垣の中にさらに3段の石積みがあり、その上に版築があった。

という事は、ここに筒井の3層の天守があったと推定する。今もこの平山城で一番高い所となる。
大手門に向かって降りる虎口 
打ち込みハギ、算木積の藤堂高虎の石積だ。
野面積だ、筒井の石垣を利用している。
台所から降りると、今度は表門が見える。
右が表、左が裏に繋がる本丸(城代屋敷)の石垣
表の石は大きく打ち込みハギだが、裏になると、石種が小さく、野面石が混じってくる。
表門から虎口を経て外に、二の丸に出る。
角でみると、右手の表が打ち込みハギ、左手の裏が野面にみえる。大手からの正面を意識して築石の選別をしたのだ。
右の本丸の裏と表の虎口が見える。二の丸の天守台は高石垣の内側にある。

南に二の丸より低い帯曲輪があるが、この絵では、石垣を低くしただけで、帯曲輪の平面が見えない。

現地では絵にある帯曲輪の石垣はなく、土を盛り上げた段差がある中、二の丸から三の丸にスロープで降りる。石垣にした石の残存が転がっていた。
表門から南に面した石垣を左手に見る。帯曲輪の平地がわかる。その先端は崖だが石垣はない。
もともと、強固な高さ30mの山があり、それを削って城郭にし、斜面を石で覆った。大坂への西北、木津川方面への石垣と堀を見せて、あとは大阪の陣で豊臣が消えたので、工事をやめたのと、江戸末の地震で崩れたのを放置したのもあるかもしれない。
帯曲輪に降りる坂から見る。これだけ本丸より下がる。
城代屋敷の南の石垣を帯曲輪から見上げる。
消滅した帯曲輪の残骸の石が坂道にある。
表面が丸まった野面石もある。
登り口の石は大きい。
鳥観図と違い、帯曲輪の石垣がない。現地に巨石がころがっていて、二の丸(天守台の地盤)まで、スロープで登っている。
二の丸の木造天守
昭和10年、大阪が鉄筋コンクリートで天守を作ったので、木造にしたとある。
5層の天守の為の天守台だったので、3層にしたら石垣が余ってしまった。それで塀をまわした。
塀の向こうに天守があるなど、そんな城はここしかない。折角の天守台であるので、目いっぱい天守台を使うのがあたりまえ。
はらみ がひどい。
1階から2階への内部階段
西
東 南
日本一は大阪城32mに決まっているので、こういう表現を使う。29、5mだからね。でも、丸亀は60mだよ。
足が縮む、すくむ。落ちた人もいるが、柵はない。これがこの城の目玉。
天端の石を手前に西の石垣の南端を見る、30mの高さの石垣を撮影する。名古屋城天守は20mだけどそこにはいけない。
石垣を壊す樹木は切らないと。西の堀を北に見る
石が大きい。
石は名古屋城より大きいが、奥が短い。
北から南を見る
北の堀に回った
西の堀を北から南に見る
伊賀上野城の石垣は、名古屋城天守台より高い。
伊賀上野城の石種 御影石は名古屋城のと同じに見えるのもある。

伊賀上野城に来ました。先週訪れた津城に、「オイオイ藤堂高虎じゃないじゃないか! 」で、伊賀の30mの高石垣です。大阪や名古屋では、ここまで近づけません。

名古屋城木造天守を願う人々よ、縮みあがりますぞ。昭和10年に国会議員が作った3層の木造天守がありますが、天守は外観だけであり、城見物の主役は高石垣です。

名古屋城石垣は、修繕すると言って北東馬出を壊して20年、何も進んでいません。

本丸以外は城内は無料にして、石垣を大切に見せましょう。観光客でなく、まずは市民の城にしないといけません。

ブラリ、城下町

お昼時、観光バスが城公園に3台停まっており、2台が白人、1台が中国人でした。他に食べるところがないのでしょう。私たちと同じうどん屋です。B級アメリカ映画では忍者は悪者の定番です。
東西に走る163号線(現代の大和街道)越しに城下町を南にみる。
城下町の上野本町を子供忍者が歩いていましたので、追って町を見てみました。貸衣装代は1500円から。
大和街道(桑名ー四日市ー亀山ー伊賀ー木津川ー奈良)を本町として取り込んでいました。目抜き通りです。忍者が必ず寄るところです。レトロな建物は、城下町でもここにしかありません。
湖月堂は、でっち羊羹です。
2024年3月に、外人向けにホテルとしてオープンしました。
上野市は、東、中、西、名をつけなおしていますが、この本町筋と一本南の三ツ筋の2本が上野の中心、町人地でした。
万吉稲荷の横には、だんじりの倉庫がありました。
上野中町から南にまっすぐ行く道です。この道幅だったのを上野本町筋は拡幅しています。
忍び町、鉄砲町を過ぎると、また町人地(農人町と呼ぶ)があります。町の外に足軽(忍者、鉄砲)を置いた都市計画でした。
突き当りの愛宕神社は城下町郊外の印であり、芭蕉の門人 伊賀連衆の高弟 服部土芳の居宅「蓑虫庵」があるので、そうなのでしょう。
しかし、そこに町人がまた住んでもいたようです。地図では「農人」とあります。今も「農人町」があります。
城下町の郊外、東と南に町人が住み着いたので、他の城下町では「百姓」とあるところが「農人」なのでしょう。
ここで農業で身を建てられるわけなく、「百姓」すなわち「商業」「工業」なのでしょう
現代の地図を重ねると、堀が埋められ、武家地に鉄道と163号線が通っています。武家地は城下町の中で畑でしたから、簡単に開発できました。163号線は高虎が伊賀と津をつなぎ、旧来の大和街道を合わせて、大坂と津を一直線に東西に結ぶものにしたのでした。
コチラの方が、白地図に重ねて正しいです。外堀は埋められて宅地に。武家地は鉄道と163号線に。山はずいぶん崩されています。
天守が見える町です。この堀を埋め立てた南北の道は古地図にはありません。
鉄路の西に、西大手門の駅名がありました。堀の護岸を探しましたが見つかりませんでした。
左が上野高校、右が上野東小学校。この「伊賀上野城 白鳳門」は、昭和の忍者が作りました。文化度ゼロです。
武家の門には、四脚門、薬医門、多門、黒鉄門、と様式がありますが、この姿には笑うしかありません。本瓦を漆喰壁の上に載せて多門櫓の真似でしょう。それを背の高い大扉が支えるのは車の通行の為でしょうね。木造の姿ではありません。
明治の写真を見ると、城内の三の丸の土塁と白壁が見えます。

この鳥観図をすべて信じてはいけないですが、前の写真はこの松林の向こうの更地を土塁手前から見ています。この高校の所に城代一家は住んでいたのでしょう。仕事場は、天正13年(1585年)に秀吉の指示を筒井定次(1562~1612)がうけ、3層の天守まで作った本丸です。絵で見るように、その西の二の丸に天守台があるのは変ですが、天守が燃えてから、屋敷地の方を高くしたのかもしれません。現地にある発掘のデータからそう思いました。人口9万人都市の学芸員は忍者で手一杯のようです。

忍者屋敷は城郭の裏手にありました。公園指定をしたとき、駐車場、芭蕉庵と、大きく造成をして平山城の形を変えていますね。

見るからに、農家です。藁ぶきです。城下町に武家屋敷 入交家住宅が公開されていますが、それも藁ぶきでした。防火のために瓦葺きにすることなく、こけら葺きのお金もなく、藁だったのでしょう。
忍者屋敷のシチュエーションは、土豪の家です。伊賀、甲賀の山の中は、六角氏の支配ですが、国人、土豪の割拠するところであり、雇われて京にいったのでしょう。
これが、忍者の国です。結構時間を使います。忍者屋敷博物館800円、手裏剣6個試投げ300円、忍者ショー500円です。
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