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松山城 天守は見えない 日本の古建築

高知城、松山城、岡山城、姫路城、清州城

多くの城、城跡を私は訪ねていつのですが、どうも、記録が残っていなくて。一度、10年前に車で四国から中国を回ったのが残してありましたのでFACEBOOKから転載しておきます。

高知城 2013年9月記

Castle Tower and Mansion (1) Kochi Castle 高知城
A missionary, Luís Fróis had written the report ” Azuchi Castle which Nobunaga ODA made on the top of the Azuchi mountain was the Renaissance in Japanese history. ” In Japanese history, 40 years from 1576 to 1615 are specially named with the “Azuchi-Momoyama era.” Although many castles still remain in Japan, these are all produced in these 40 years that were producing a form of new Japanese government based on the samurai-class. 40 years ago, I helped Dr. Naito who studied the famous restoration of Azuchi Castle Tower that had disappeared in the fire 433 years ago. He did not mention about Azuchi Mansion and Institutions around it. Although he continued research on the other castles like Nagoya Castle, Himeji Castle, and Kumamoto Castle, his study was about not only castle towers but also fortresses and mansions which still remain today. About the figure of the Azuchi Mansion and Institutions, as it is in Dr. Senda’s “Nobunaga’s castle”, reasoning came to be carried out by excavation investigation in recent years. A Castle Tower became a symbol of a feudal lord’s authority by Azuchi Castle Tower, and was completed by Edo Castle Tower. The early castles were built on mountains or hills. These had functions of a fort and a mansion, and governed the town of the foot of a hill. The Castle was also a place of a feudal lord’s politics, and a place of the life. The purpose of this my trip was to see cooperation not only a Castle Tower but also institutions around it for the Kochi castle, the Matsuyama castle, the Okayama castle, and Himeji Castle. The castle in Nagoya where I live is restoring the palace now. Nagoya Castle is built on the flat ground as well as Osaka, Kyoto, and Edo, therefore it is not suitable for reasoning the figure of Azuchi Castle and institutions.
城郭 宣教師のルイス・フロイスが、本国に書き送った報告書にあるように、信長と彼が安土山の上に作った安土城は、日本史におけるルネッサンスであった。日本史では、この1576年から1615年までの40年を「安土桃山時代」と、特別に名前をつけている。 日本には今も多くの城が残っているが、これらは全て武士による新しい日本統治の形づくりを行った40年の間で生まれたものである。 私は、40年前、内藤博士による安土城天主の復元の手伝いをした。内藤先生は、その後、名古屋城、姫路城、熊本城と天主だけでなく、城郭が今も残る城の研究を続けたが、安土の城郭については語らなかった。 安土城郭の姿について、近年の発掘調査により、千田博士の「信長の城」にあるように、推論がされるようになった。 城郭は、安土城によって、それまでの砦と館から領主の権威の象徴となり、江戸城によって完成した。 初期の城は、丘の上に築かれ、砦と館の機能を持ち、丘の麓の町を支配した。 城は、領主の政治の場、生活の場でもあった。 今回の旅の目的は、高知城、松山城、岡山城、姫路城を、天主だけでなくその周りの施設との連携を見ることであった。 私の住んでいる名古屋の城は、今、御殿を復元中である。名古屋城は大阪、京都、江戸と同じく平地に作られており、初期の安土城の姿を推論するには適さない。

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大手筋から、大手門と天主を見る。城下町とはよく名づけたもので、領主は市民を睥睨し、市民は領主をあおぎみる。日本中にコンクリート製の天主が出現しているが、町のシンボルとして城が市民の心の中にあるからであろう。

松山城 2013年9月記

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大手筋には、県庁が建っています。この先を左に折れ2の丸から、80mの高さを登らないとたどり着けません。そんなのするのか?

岡山城 2013年9月記

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前の写真と比べて?私のスケッチです。
壁の曲がり、庇の切りあがりを強調していますね。今回の岡山城はこの立面を40年ぶりに確認するがテーマでした。東大の宮上、広島の三浦は、池上家古文書による内藤先生の7角形の城壁を守った復元案に反対し、きれいな低層部のデザインを提唱しました。それは綺麗な方が私も好きですが、このように土木(普請)の精度が悪く、その上に大工は建築(作事)せざるを得なかったのです。

名古屋城

岡山城は安土城を真似たと言われているが、なら、大屋根の上は八角であろう。

安土城が燃えてわずか3年で、中井政吉が作った大坂城こそが、その後の天守の規範となったと思う。
岡山城が似ているのは大坂城だ。大屋根の妻が大きな千鳥破風となり、その上に唐破風をかぶせる。
大屋根の平側は2連の千鳥破風を置く。これが名古屋城の層塔式の飾りとなった。

岡山城

姫路城 2013年9月記

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三の丸から本丸を見る。
天主が50年に一度の外壁・屋根の修理に入っており、今ならエレベーターで天主をまじかに見える。楽ちんとやってきた。標高44mの平山の一番高いところに天主があるが、このスケッチで大きく3つのレベルがあることを把握するべし。手前の塀が載った石垣は三の丸と三国曲輪との境界であり、この曲輪から東に登って二の丸に。西に登って西の丸に。二の丸からさらに一段高く塀がのっていない石垣が本丸(備前丸)である。

清州城 2017年5月記

竹中の設計者は楽しかったでしょうね。私たちは精緻な図面などなくても、城の復元なんてできちゃうのです。1989年竣工の模擬天守です。コンクリート造です。

織田信長の8年間に天主はあるわけないですが、信長に扮する学芸員は信長の紙芝居をしていました。彼も天守は安土城1578年に生まれたので、織田信雄の城だと言っていましたが、秀吉に歯向かう5年の間に天守を作ったのか、いや、福島の6年の間に、関ケ原の戦いに備えて作ったのか、松平忠吉が大坂秀頼方を意識して作ったのか、記録はありません。

妄想の天守は、犬山城が明らかにベースですね。4層の最上階に望楼の形で載せるのは古い天守の様式であり、犬山城が古いとされていましたが、1590年~1600年頃です。その後の福島正則でもそうしたでしょうし、松江城の望楼をみると、尾張藩主となった松平忠吉が作っても不思議はないです。

「文化財は忘れないために必要」としても、妄想でレプリカを作る模擬天守は「文化」ではなさそうですが、これを「文化」と信じて、外国からのお客様は来ており「観光」に役立っています。
これを、文化庁はどう判断するのか?インバウンドの目的の為なら、国の要望にそって、ナンチャッテ文化財を作るお手伝いをするのか?です。本丸御殿レプリカでは文化庁は名古屋市を厳しく指導しました。タテマエは「史跡の景観」を守るで「文化」ですが、実態は「観光」であり、今度の木造天守は「観光で儲ける」と、資金計画も作っています。文化庁は答えを用意しないといけません。
犬山城は望楼が大きすぎて、入母屋との間に唐派風を入れたのですが、バランスが悪いです。そのまま竹中はプロポーションを踏襲し、唐破風を松江の千鳥破風にして、入母屋を古風に板張りとしました。

望楼に回廊がつき、望楼の真柱・長押に軒裏の木は、古式のつもりでしょうね。安土、大阪と戦闘の城でないころの意匠です。織田信雄を城主と想定しています。
赤い高欄は、内藤先生の安土城の復元から持ってきたのでしょうか、これだけで、いかにもの信長の城のイメージにしたのでしょうか。なら、金の瓦がないのは、手落ちです。岐阜城では金の瓦が出土しています。

竹中がなぜ名古屋城にこだわるのか、この城でもわかります。展示してあるプレートには、「400年前に、尾張藩士・竹中某が、普請奉行であったのだが、工匠に身を落とし、いとう呉服店(現松阪屋)とお付き合いし、神戸に移って店を大きくした。」とありました。2代藩主光友は、寺をいっぱい作ったのですが、大工・竹中の名前はありません。まぁ、河村市長も先祖は尾張藩士だと言っているので、そういう事に詮索は無用で、大工・竹中家が生れた尾張で、城をつくりたいのでしょう。副社長のそのような言葉も新聞にも載っていましたね。

株式を公開していない建設会社ですので、株主への説明責任はありません。市長とおなじで主張するのは自由です。こちらも反論の証拠なぞありませんので、言ったもん勝ちです。

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尾張藩は古城を測量して、残していました。五条川の西に、大きな堀と土塁が江戸の時代も残っており、廻りは田んぼになっていました。

明治になって、尾張藩から有志が譲り受け公園としたのですが、無常にも武豊線に新幹線も史跡のど真ん中をとおりました。すっかり破壊され、跡形もないです。

模擬天守の復元の用地は、武家館があった川の東しかなかったのでした。

清洲城 模擬天守に観光、文化をみる   2017年5月4日
「天守は木造だろうが、決まっとる。だいたいが、清洲城も木造で作ればよいものをコンクリで作りおって。」 と、名古屋城天守の木造化に反対する私に、喰ってかかる方がいます。 掛川城で初めて木造天守が復元された7年前でしたので、竹中工務店も模擬天守だからと、コンクリ-トとしたのでしょうか。

私は「木造で400年前のソックリを作ると、木の香りも楽しく、新品だ! しかし、そこには名古屋400年の歴史は無くなっていますよ。今のコンクリ-ト天守は空襲で燃えた後、市民の声で実測図に基づいて忠実に復元されました。 ものづくり名古屋の戦後復興のシンボルなのです。いまや立派な文化財です。耐震改修をして、悲惨な戦争も含めて、名古屋400年の都市史を広く市民に知ってもらえるような歴史博物館にすべきです。

コンクリ-ト天守を史跡に作ってしまったのは、いけないことだと今はされていますが、ある以上、作ったものを大切に、長く使うようにすれば良いと思います。せっかくあるものを壊して、木造天守を作り直し、天守で遊ぶことは歴史文化に対する罪です。」 などと、答えるのですが、相手は全くコタエません。((+_+))

木造天守の「安全」について、名古屋市は市民を騙しています。これから「安全」を明らかにしていけば、すなわち、木造天守は危険な違法建築であり、その対策をいろいろしないといけなく、その結果の木造天守はとても河村市長のいう「国宝名古屋城の復元」とは言えないものになります。 その木造天守案と、私のいう耐震改修案とをライフサイクルコストで市民に問うのが、日本の民主主義ですので、そうなると信じています。

そして、天守木造案は消えると思っていますが、毛利和雄さんとの議論のおかげで、文化財・文化庁・観光を深く知ることができました。それで、今日は模擬天守 清洲城です。

文化庁相手に、これから竹中工務店が挑むには「安全」の技術でなく、やはり「文化」と「観光」でまずはあたるのですし、だいたいが、文化庁には「安全」がわかる技術者はいませんので、「文化」と「観光」で、日本のコンクリート天守の全てに通じるように論をはり、文化庁に名古屋城の木造天守化を認めさせないようにできないかと考えつつ、ブラブラです。

実に良い天気。(^^♪ 実に、私は誰よりも伝統木造建築を愛していると自負をしており、コンクリートの清洲城ができて28年もたつのですが、訪ねたのは初めてでした。 文化庁は「文化財を観光インバウンドに生かす」との国の方針に従い「観光の為に名古屋城天守を木造化する。国指定の史跡の中、史跡の上に木造天守を新築する。」のを、認めるか?が竹中工務店のテーマですが、裏から見ると、私は、「木造天守に建て替えるのでなく、清洲城のような形に、名古屋城を耐震補強でおこなう事こそ「文化」であり「観光」にも役立つ。」と言っています。

さぁ、私の意見を文化庁は認めましょうか。 清洲城は耐震改修が要らない新しい模擬天守ですし、内部は歴史博物館(ちょっと怪しい?)ですので、文化庁は関係ないというのでなく、私に喰ってかかってきた人の「木造天守だ。」を、こういうコンクリ-ト天守で確かめてみて「観光」への貢献を文化庁としてどうするかを見て、考えないといけないと思います。これは、毛利さんのテーマ「木造化論争の行方ーお城と日本人」でもありますね。

「歴史まちづくり」法では、国交省が予算をつけて、文化財のまわりを広域で新たに観光地として整備するのですが、文化庁は自らのホームページで、主体として推進するぞ!と高らかに宣言しています。宣言だけは誰でもできますので、具体的に現地をみて「文化」と「観光」の間で、文化庁の役割の線引きがいりましょう。 実は、大阪城天守が平成9年に、すでに耐震改修および博物館のリニューアルを行っており、毛利さんには、そちらが近くて見るには良いかと思います。私は清洲城は初めてで、ドキドキでした。

●清洲城の歴史

1467年 守護所下津が二つに分裂し、尾張下4郡の守護所として、清洲が生れた。
1555年~1563年織田信長22歳から30歳まで清州にいたあと、小牧、岐阜、安土と居を移すが、
安土1578年の時、家臣の家族は安土におらず、未だ岐阜どころか清洲に置かれていたと家臣を懲罰。
1582年本能寺の変のあと、清洲会議で秀吉が天下を制し、
1585年織田信雄が滝川の後に入った長島城が天正地震で壊れ、清洲城に入る。この時に、大改修がおこなわれた。
1590年に秀吉に刃向かい流罪とされるまで信雄は5年いた。
次の名目上城主の豊臣秀次は 1595年に誅殺され
福島正則が安芸に移る 1601年まで、福島が6年間城主であった。
徳川家康の四男・松平忠吉が城主となるが、江戸で、関ケ原の傷に27歳と早死に。
1607年家康の九男義直8歳が、甲府から清洲に移封され、家康は 1609年に名古屋城建設を命じ、 1612年に完成、
1614年大阪冬の陣に名古屋城から出陣。
1616年に義直は名古屋に移り住み
1620年に、二の丸御殿へ移る。この頃に清洲越しは終わった。

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