安土城の石垣  天守台東西面だけに「反り」がある。なぜか。

安土城の復元
東北から見た外観パースが、内藤先生はお好きでした。立面図4面みると、正面は城下を向いた南面に決まっていますが、東北立面には、大工が穴太衆によって作られた敷地に合わせた工夫がダイナミックなデザインとして現れています。平山城の敷地は石垣を積み終わらないことには確定しません。

安土山の「造成」をしない事には建築の敷地は確定せず、基本設計は固まりません。

蒲生氏郷が1588年に作った松坂城は、建物は残っていませんが、小山を切り崩して石垣を積む「平山城」の造成の姿をしめしてくれています。ポンタックのブログ「松坂城 城郭」に安土城の城郭全体も入れて解説しました。切り崩して地山にそって石垣を積んでみないと、建物が建てられる敷地形状は確定しません。石垣初心者には「お城の石垣」を書いていますので、まずはそちらから。

次に、天主台です。

石垣に乗る天主の断面図と各階図をつなげた絵です。断面図だけでみると、東西面の母屋の柱は、南端・北端の1本づつだけが石垣の外にあるだけで、基本的に地山の上に乗っています。石垣の積み方をみると、南面は64度、北面は69度の勾配で登っているのですが、東西面の石垣はわずかな「反り」をもって、上端を垂直にあげています。そうしないと、「天守指図」の一階平面が石垣の上に乗らないので、内藤先生は石垣の「反り」を推定したのでした。

さらに、私的に言い添えますと、
「地震対策として、母屋は地山の上に載せたい。石垣を地山に沿わせて積んできたがうまくいかなかった。

地山形状から、根石は、南北面の敷地幅を先に余裕を持って決め、東西を割り、八角にして地山にそれなりに合わせるとしたのですが、東西面の勾配が緩くなり、穴倉全体を北に持っていくことができず、南面に皺寄せが行き、石垣の北側は余裕が生まれ、大きな附属屋を建てる事になる一方、必要とした敷地は確保できず、南側石垣の上の母屋を載せざるを得なくなりました。 

東面61度、西面63度の東西面は、「反り」をもって、石垣内部を広げ東西8間の柱を地山の上になんとか置いたのですが、北面石垣の69度違い、64度で積み上がった南面石垣は、穴倉底面を4.4尺、計画より短いものとなりました。よって、東西8間×南北10間の母屋を地山(穴倉底面)の上に置けなくなってしまったのです。

(13.5尺、地山より盛り上げた石垣上面幅は7,5m必要であるという前提である。宮上案は安定的である石垣幅に気をかけることなく、建て屋で石垣上面に蓋をしてしまっているが、これでは石垣上面は簡単に崩れる。)

城下への威容を示す主たる面は南であり、後の層塔式に近い姿で南面は順に積み上げている。当然、石垣の高さも計画より下げたくない。よって母屋が石垣の上の載る事になる。
ならばと、北面もバランスを考えて石垣の上に乗せ、北側の大きな附属屋が盛り土の上で傾かないように2階床組全体を先に組み、石垣の上に乗る架構と地山の上の架構の一体化をはかった。
そのために、母屋の南北10間であったのを、南北11間と設計変更をする。結果、5階・6階の望楼が、大屋根の中心に乗らず、東西面からみると南に寄って見えるが、天主の姿は、南の城下町・街道からと、北の湖上からがメインなので良しとした。」です。

安土復元図 近江八幡市
荻生徂徠著 「鈐録」1727年  野面積はまっすぐのぼり、上段だけを鉛直にしている。と、ここに書かれているが、安土城の伝・二の丸、松坂城には「反り」が入った石垣がある。石の加工が進むと積み上げ角度があげられるというのは理屈としてあっても、実証的なデータはない。

「望楼が大屋根に中心にないのは設計者としてありえないこと。何故、このことを内藤先生は書かなかったのか。」と私は半世紀のあいだ疑問でしたが、石垣の勉強をしてわかりました。穴太衆に頼まざるを得ない「野面積のづらつみ=自然石を地山に沿わせて組む」ですので、大工の設計図「石垣を69度で積み上げる。」のようにはいかず、設計変更をした結果が、この建物の芯をずらして置いた望楼だったのでした。

この私の論理の証明には、「高石垣と穴倉内側の高さ13、5尺の石垣が挟む盛り土の最低幅が、築石の裏に埋めるぐり石で決まり、その幅は7.5mだ。」と穴太衆に言ってもらうしかありません。変形八角形の中に長方形の母屋を入れるとは、内側の変形7角形のほぼ垂直に立つ石垣が崩れずにあることにかかっており、私は、石垣全体を見て、7、5mの幅が必要だと穴太衆が判断したのだと推定しました。現状の石垣の崩れを見ると、3分の1から2分の1の高さが崩れたと言うより、13、5尺に積まれた石垣が崩れたと言えます。盛り土ですので、地山と違い崩れやすいのでした。

一般の天守台の石垣の頂部は、穴倉周囲に高さ・幅13尺ぐらいの石垣を積み、天守の附属屋を載せています。重い母屋は、穴倉底の地山にのせて、付属屋を吊り上げているようなイメージでもあります。その石垣の独立壁ですが、穴太の後藤家文書の管見の限り、記述がありません。
石垣で郭を作れば、隅櫓に、出入り口には多門櫓と、盛り上げた石垣の上に建物を作ることもありますが、天守のような重いものは載せないのが、秘伝書に書かなくても当然なのでしょう。どのように積めばよいかを探して真田純子著「誰でもできる石積み入門」に行きつきました。フリーススタンディング(独立壁)ダブルファサード(表裏壁)と、外国の事例が出ていますが、いずれも建築とはなりません。ローマ時代の建物は、レンガの型枠にコンクリートを流し込んだ厚さ2m以上の壁の表面に大理石を貼ったものであり、石造ではありません。

天守指図

タイトルとURLをコピーしました