安土城の復元

安土城の復元

お城といえば、天主の嚆矢、安土城からであろう。恩師・内藤昌に捧ぐ私の「復元」をご覧あれ。

2012年10月28日、内藤先生の葬儀の時に、先輩たちから「お前が書け」と言われ、名古屋市天守閣博物館への抗議文「今の安土城天守の復元案はすべて昭和51年の内藤先生「国華」案を基にしています。内藤案を示すことなく<私が復元した。>の広島大学三浦教授の天守閣企画展示は間違っています。」を書いてから、私の城の本格的な勉強が始まりました。

内藤先生は、自身の案が戦争好きの城マニアに使われるのを嫌って著作権によって縛っており、先生の案が学研などの好事家の雑誌に出される事なく、先生の復元案が忘れ去られていくのを私はいまいましく思っていたのですが、内藤先生は「いいさ、残るものが残る。」でした。

お亡くなりになってからは、内藤先生への遠慮がなくなったのかさらにひどくなりました。日本の伝統木造工法の基礎知識がないままに先生の論を誤って展開している奈良大学千田教授の「信長の城」に私は読書感想文を送り、「江戸城は白かった。」と本に発表されれば、内藤先生の江戸城の論文をコピーして「天守は黒かった。」と、白く描いたイラストレーターに送り、名古屋市が名古屋城天守の木造化を行うと決めたとなると、「反対!現天守は戦後復興のシンボルだ。」と声をあげ、現在のコンクリート天守の設計者の城戸久先生の逸話を集めたりと、内藤昌先生の本はもちろん、城の研究者の論文にまで首を突っ込んだこの10年でした。
昭和49年の内藤先生の「安土城復元」作業当時の弟子は、名古屋工業大学と日本女子大学にいましたので、論文探しは頼めばよくそこは簡単でした。歯に衣着せぬ「抗議」が私の役割でした。

そんなことをしているうちに、内藤案への批判が気になりました。内藤先生の復元的研究は、大工の残した「指図」を「信長公記」と「石垣実測図」と照らし合わせて組み立てられているのですが、「建築の真ん中に吹き抜けがあるなんて常軌を逸す。そもそもこの「指図」が怪しいのではないか。」というのが一番強い批判です。

先生は、当時の西洋の教会を吹き抜けの事例として引っ張ってきているのですが、私は賛同できません。吹き抜けの質が違います。私は実際にいくつもの吹き抜けの設計をしていますので、内藤先生の論文にはない施工からの「天守の作り方(工法)」「その工法から出来た吹き抜け」を思いつきました。

それ以外にも、オーナーの目の前に、形として現わしての「オーナーと設計者の合意形成」は、先生の観念的な「天道思想」では、信長は大工に「作りたいもの」を伝えることはできません。
また、大工も、信長への回答をする際、その形の提示において「天道思想」から形を説明することはないと思います。狩野永徳が描く内部の絵画のテーマ選定において、儒僧のいう「天道思想」が利用されただけで、多層の天守の造形には「天道思想」の姿は見えません。

私の設計手法は近くにある「似たものの引き写し、その発展形を目指す。」です。古今の建築はすべからく、そのお手本があったと思っています。

「信長公記」は、大石を安土山にあげる「施工」から記録が始まっていますが、施工の前に「設計」があります。設計の中でも、企画、基本、実施があります。その企画では「信長の作りたいもの」が第一にあり、次にそれに見合った「敷地の選定」と、いつまでに作るか「竣工日」が重要となります。
安土山の「造成」をしない事には建築の敷地は確定せず、基本設計は固まりません。
さらに、材木、石材、人材などを集め、荷揚げの道を作り、加工場で作業することを「施工準備」といいますが、これも時間がかかるものです。

このように考えて、持論を少しづつ書き溜めたのですが、これらは「信長公記」からの推測でしかありません。私は研究者でないので、ならば「小説」仕立てにしてみよう。その後に「ネタばらしの論文」をしたためると考え、行ったのが以下です。

「内藤先生の論文はすべて正しい。」というのが私の大前提です。現実に設計・施工を40年経験してきた私ならではの論考が、先生の論文への補足になれば幸甚の極みです。「国華」の著作権は、あと2年ありますが、一応弟子の端っこにいる私の以上の趣旨から、図版を引き写すことをお許しください。

小説 安土城物語 2022年3月3日改稿

A4版 縦書き 13枚 PDF

小説 安土城ものがたり

Facebook アルバム の「小説 安土城物語」 は、写真がメインとなり、文章は従となります。

論考 「小説 安土城物語」のネタばらし 2022年2月28日

A4版 縦書き 38枚 PDF

論考 小説 安土城物語のネタばらし

Faceboook アルバム の 「論考 「小説 安土城物語」のネタばらし」は、写真が多く、それだけを軽く眺めるのも楽しいと思います。その後で、PDFを読むのも手かと。

「安土城天守の真ん中に礎石ないのは、掘っ建ての心柱があったからだ。」1977年「国華」での故・宮上先生の主張をいまだに唱える方がいます。発掘で明らかになっています。2023年5月24日

平成14年の滋賀県の発掘報告書から。

浅く広がった穴、3番がメインであり、深さは1mもありません。2尺の柱を埋める穴ではないのはすぐにわかります。燃えたものが穴にあったが、心柱の炭化したものはないと、昭和14年の発掘調査にもありました。心柱があったなら、柱の太さの燃えカスがあってしかるべきです。

埋め物の跡がありました。ここ天天主の中心には宝塔があり、法華経に基づく上昇する吹き抜け空間の真下には仏舎利をおいたと記されている天守指図を裏付ける発掘でした。
いまだに滋賀県には、心柱があったと言いたい人がいます。しかし、心柱がどんなものかを復元できません。

池上家の古文書「天主指図」にもとづいた内藤復元案の断面図と模型です。

真ん中には柱はなく、宝塔があります。

中央吹き抜けを構成する16本の柱の架構が天守全体の重さを支えています。

法隆寺五重塔 断面図

法隆寺の五重塔は1950年に解体修理をして心柱が3m土中に埋まっていたことがわかりましたが、腐っているので切り取り現在は心柱を埋めていません。構造的に五重塔は側柱の積み上げでもっており、心柱は路盤より上の尖塔(相輪)の重さを受けているだけであり側柱とはつながっていません。地震に際しては組み上げた側柱の架構と路盤を中心にしてバランスを取ります。架構が右に倒れると、心柱は大地に垂直を保とうとして左にあろうとします。

心柱は、当初は仮設材として建てられていたのでした。地震に対して柱の根元を木材で固めるより埋めた方が簡単です。ただし、腐るので長くはもちません。法隆寺の心柱は3mと深く埋められて、側柱を組み上げる心にはなったのですが、100年も遅れない薬師寺東塔となると、もう埋めていません。法隆寺の時も、仮設ではいらないと中国ですでになっていたのでしょう。法隆寺と薬師寺の様式の違いが100年で生まれるわけがなく、長安の都には同時に実在していたと考えるのが建築史です。

このように、心柱という歴史建築物の知識を普通にもっておれば、16世紀の大工が心柱を埋めることなどありえないとするのが当然ですが、建築をしらない考古学者は「心柱がなかったという証拠はない」と言い張ります。こうなると、もう学者の議論ではありません。
このような穴の浅い断面では、仮設で役立つ心柱とはなりません。

安土城天守の心柱は、4スパン×6スパンの吹き抜けを中央に持つ、16本の柱の架構で成り立っていたのでした。

右は私が描いた安土天守の架構のイメージです。

初めの一歩「小説 安土城天主 夢をかなえた大工」のラフスケッチ(あらすじ?)です。2021年2月27日ワクワクして書きだしたのですが「ネタばらし」を2022年2月に書いてから、3月に全てを書き直し、PDFにしました。(前掲)長くなりましたので、ここでPDFでなく、短いラフスケッチを掲載します。

小説「安土城天主 夢を叶えた大工」

元亀4年(1573年)8月28日 信長と大工・岡部は、焼け落ちた小谷城の城郭を見た後、虎御前山の山頂の屋敷に戻ってきました。

信長「あそこに見える、観音寺山から湖に突き出した山を蓬莱山にしたい。金華山は急峻でできなかったが、山頂に私は浅井のように住み、天下布武のなったことを天下(畿内)に示したいのだ。平安楽土から平安京と名付けたと聞く、私のミヤコは安土と名付けよう。」

大工・岡部「なら、武家の棟梁たるに相応しい館にデザインしましょう。安土やまの上にさらに山を築きます。将軍様の金閣を熱田の大山(櫓の架構)の上に載せてみせましょう。」

「吹き抜け=架構」は信長の指示でなく大工・岡部の提案でした。どっちも田舎者であり、傾き(歌舞伎)ものです。二人は共に大きな夢を描いたのでした。

大山は祭りの仮設ですので、建築として固定するには山の周りを建屋で支えないといけないのですが、そんな事は、大工・岡部から信長へのプリゼには要りません。「高くオッ立てるゾ!」で良いのです。

大工・岡部「大仏さんの建物を真似して、丈夫な櫓にします。それを館の芯として、その周りに館を組み、櫓を支えます。」

8間×10間(11間ではない)の3階の大入母屋の上に、5階と6階を積む造形は企画・構想として早くから決まっていました。安土山の山頂を最も広く利用できるように、石垣内側に母屋の8間×10間が入るように石垣普請することを穴太衆に命じたのでした。

大工・岡部は地山の形状により変形8角形から組みあがる姿をみつつ、南の正面を気にして、さらに石垣を高く積ませました。

よって、内部は変形7角形となり、母屋の8間×10間が地山の上に建てられなくなったのでした。そして、南北に長く伸びた地形になりました。

(名古屋城天守は、母屋は穴倉の地山の上に立ち、周囲の石垣上部は付属屋のみです。安土城の各階を一枚の中で色を変えてスケッチしてみて、この母屋の異様さに私は気づきました。)

東西から見ると金閣は中央に来ないのですが、3階母屋を8間×11間と北側に延ばし、

さらに2階を10間×12間と広げ、2階建ての付属屋を3間北に延ばしました。

2階を新たな母屋として2階床梁を石垣の上に伸ばし1階を石垣の上にひっかけるとしたのでした。

1尺5寸角、長さ8間の柱による「吹き抜け4間×6間」を心柱とする架構を周囲から支える2階母屋の考えです。

これで、石垣の上と穴倉の底の地山が架構でつながり、安定して上に組み上げられます。

名古屋城天守のようにスッキリと母屋が石垣内部に建てられないので、4間×8間の大仏様の貫で固められた架構を芯に、左右対称にバランスをとって工事を進め、2階床組を架けていきました。

2階床高さから、石垣の外周に建てた1階柱に向かって一層目の屋根をかけます。西北の棟が一番長くなるので、ここで屋根勾配を決め、四周同一の勾配とします。

よって、石垣外周が2階母屋に近くなると庇の先端は登りますが、現場合わせが容易な合理的な1階の架構でした。

1階の石垣の上の建て方は、2階床組のあとで行いました。斜めの軒先瓦は唐一観が現場にあわせ奈良の瓦工に焼かせました。唐一観の新技術によって、瓦の脱型が容易となり寸法精度があがり、黒の発色が均一になりました。今に伝わるいぶし瓦です。

同時に、「吹き抜け」を「大材の荷揚げの場所」として活用し、3階、小屋裏4階を載せます。

4階の床組みは、吹き抜けの天井となるのですが、周囲に3階があるので穴倉からの足場は要りません。

岡部又右エ門は、奇想「吹き抜け」空間に垂直デザインを強調するオブジェが欲しく、法華経が説く宝塔を地階に置きました。

さらに「吹き抜け」空間を生かすために、2階には舞台を置き、3階には信長が使う廊下代わりの橋を架けました。舞台・橋は、宝塔をないがしろにするものでなく、「吹き抜け」を生かす装置です。

もっとも、日常は外壁廻りに並ぶ居室の裏の暗闇の中ですので、客に見せる為には襖を開けはなち、油灯を焚かないといけませんでした。

柱を建て始めてから、わずか2カ月半で屋根の葺合わせ(野地板で雨仕舞)が出来たというのは、変形な地形に、17間×17間の方眼紙を合わせて、4間×6間の吹き抜けの位置を決め、大工・岡部は一気に各階の平面と断面を描いたからでした。これを指図する図、指図と言います。

これが今に奇跡的に残ったのです。残すべき画期的な建築「天守」だとの記憶を、代々の大工が大切に伝えたからです。

石垣積みに1年かかったので、柱、梁の加工は「指図」によって十分に間に合わせることができたのでした。

天正5年(1577年)8月24日、立柱の日、大工・岡部は大山の上に立ち、湖上からの風を体全体で受け、信長に向かって「やりますぞ!」と拳をあげ、叫んだのでした。

なお、岡部は5階、6階の架構と造作は、法隆寺大工・中井正吉に任せていました。

つづく。

ラフスケッチの第二弾 写真を主にして、徐々に小説風にしていきます。

手前が、信長の虎御前山城。その手前には琵琶湖があります。
向こうに見えるのが、浅井の小谷城。山下に屋敷を持ちつつ、山上に屋敷を構えて秀吉との長期戦を戦っていました。

元亀4年(1573年)8月28日 信長と大工・岡部は、焼け落ちた小谷城の城郭を見た後、虎御前山の山頂の屋敷に戻ってきました。

滋賀県教育委員会の描く安土城

信長「あそこに見える、観音寺山から湖に突き出した山を蓬莱山にしたい。金華山は急峻でできなかったが、山頂に私は浅井のように住み、天下布武のなったことを天下(畿内)に示したいのだ。平安楽土から平安京と名付けたと聞く、私のミヤコは安土と名付けよう。」

「ワシは神だ。ワシの生まれた日に分身のボンサンを拝め。さすればあらゆるご利益があるぞ。」

オヤジ信秀が死んだ歳になり、息子に美濃、尾張を継がせ、近江の国人を配下にして、天下(畿内)を睨む信長。中国には秀吉、丹波は光秀、加賀は柴田勝家、信州・関東は滝川 一益、摂津石山寺は佐久間と方面別に大将を送り込み意気揚々の信長でした。

信長「あそこに見える、観音寺山から湖に突き出した山を蓬莱山にしたい。」

マジンガーゼットのように、信長は蓬莱山に天の主(あるじ)として立つ巨大な鎧を求めたのでした。
信長は天に住み、信長の館そのものがアラビトガミ信長を表すデザインを大工・岡部に求めたのでした。

大工・岡部「なら、武家の棟梁たるに相応しい館にデザインしましょう。安土やまの上にさらに山を築きます。」

戦国大名の館の上に、望楼を載せるのは信長も大工・岡部も承知の事でした。

図は、長篠の戦い屏風 の長篠城の望楼を載せた館

大工・岡部「将軍様の金閣を熱田の大山(櫓の架構)の上に載せてみせましょう。」

「吹き抜け=架構」は信長の指示でなく大工・岡部の提案でした。どっちも田舎者であり、傾き(歌舞伎)ものです。二人は共に大きな夢を描いたのでした。

大山は祭りの仮設ですので、建築として固定するには山の周りを建屋で支えないといけないのですが、そんな事は、大工・岡部から信長へのプリゼには要りません。「高くオッ立てるゾ!」で良いのです。

九州日田の大山。同じものは、信長の故郷の津島にも熱田にもありました。

大工・岡部「大仏さんの建物を真似して、丈夫な櫓にします。それを館の芯として、その周りに館を組み、櫓を支えます。」

8間×10間(11間ではない)の3階の大入母屋の上に、5階と6階を積む造形は企画・構想として早くから決まっていました。安土山の山頂を最も広く利用できるように、石垣内側に母屋の8間×10間が入るように石垣普請することを穴太衆に命じたのでした。

(名古屋城天守は、母屋は穴倉の地山の上に立ち、周囲の石垣上部は付属屋のみです。安土城の各階を一枚の中で色を変えてスケッチしてみて、この母屋の異様さに私は気づきました。)

大工・岡部は地山の形状により変形8角形から組みあがる姿をみつつ、南の正面を気にして、さらに石垣を高く積ませました。
よって、内部は変形7角形となり、母屋の8間×10間が地山の上に建てられなくなったのでした。そして、南北に長く伸びた地形になりました。

東西から見ると金閣は中央に来ないのですが、3階母屋を8間×11間と北側に延ばし、
さらに2階を10間×12間と広げ、2階建ての付属屋を3間北に延ばしました。
2階を新たな母屋として2階床梁を石垣の上に伸ばし1階を石垣の上にひっかけるとしたのでした。

1尺5寸角、長さ8間の柱による「吹き抜け4間×6間」を心柱とする架構を周囲から支える2階母屋の考えです。
これで、石垣の上と穴倉の底の地山が架構でつながり、安定して上に組み上げられます。
名古屋城天守のようにスッキリと母屋が石垣内部に建てられないので、4間×8間の大仏様の貫で固められた架構を芯に、左右対称にバランスをとって工事を進め、2階床組を架けていきました。
2階床高さから、石垣の外周に建てた1階柱に向かって一層目の屋根をかけます。西北の棟が一番長くなるので、ここで屋根勾配を決め、四周同一の勾配とします。
よって、石垣外周が2階母屋に近くなると庇の先端は登りますが、現場合わせが容易な合理的な1階の架構でした。
1階の石垣の上の建て方は、2階床組のあとで行いました。斜めの軒先瓦は唐一観が現場にあわせ奈良の瓦工に焼かせました。唐一観の新技術によって、瓦の脱型が容易となり寸法精度があがり、黒の発色が均一になりました。今に伝わるいぶし瓦です。
同時に、「吹き抜け」を「大材の荷揚げの場所」として活用し、3階、小屋裏4階を載せます。
4階の床組みは、吹き抜けの天井となるのですが、周囲に3階があるので穴倉からの足場は要りません。

岡部又右エ門は、奇想「吹き抜け」空間に垂直デザインを強調するオブジェが欲しく、法華経が説く宝塔を地階に置きました。

さらに「吹き抜け」空間を生かすために、2階には舞台を置き、3階には信長が使う廊下代わりの橋を架けました。舞台・橋は、宝塔をないがしろにするものでなく、「吹き抜け」を生かす装置です。

もっとも、日常は外壁廻りに並ぶ居室の裏の暗闇の中ですので、客に見せる為には襖を開けはなち、油灯を焚かないといけませんでした。

柱を建て始めてから、わずか2カ月半で屋根の葺合わせ(野地板で雨仕舞)が出来たというのは、変形な地形に、17間×17間の方眼紙を合わせて、4間×6間の吹き抜けの位置を決め、大工・岡部は一気に各階の平面と断面を描いたからでした。これを指図する図、指図と言います。
これが今に奇跡的に残ったのです。残すべき画期的な建築「天守」だとの記憶を、代々の大工が大切に伝えたからです。
石垣積みに1年かかったので、柱、梁の加工は「指図」によって十分に間に合わせることができたのでした。

天正5年(1577年)8月24日、立柱の日、大工・岡部は大山の上に立ち、湖上からの風を体全体で受け、信長に向かって「やりますぞ!」と拳をあげ、叫んだのでした。
なお、岡部は5階、6階の架構と造作は、法隆寺大工・中井正吉に任せていました。

つづく。

安土城天守復元 NHK大河ドラマ「麒麟が来る」 2021年1月30日 高橋和生。 3人の弟子がそれぞれが動いて安土城は内藤案となった。

フェイスブックに書いたものを、PDFに落としました。

アルバム「復元 安土城」

池上家伝来「天守指図」の信頼性 河田克博・名工大名誉教授 2021年9月10日 日本建築学会歴史意匠部会、日本建築史小委員会

日本建築学会歴史意匠部会、日本建築史小委員会 2021年9月10日午前
名工大開催なのですが、全てズームでの大会です。説明1分、質問4分を司会を5人づつかえて、城郭、江戸時代 15人の発表の中から畏友・河田さんの発表を抜き出しします。
説明が短いのは、事前に5分の動画をとり、添付のA4版と共にクラウドにあげていたので、それを事前に見ての試聴となります。
池上家伝来「天守指図」の信頼性  
河田克博・名工大名誉教授
昨年2020年の大会での、中村泰朗・広島大学准教授の「天守指図」の考察への反論です。
限られた字数の中で、丁寧に言いたいことをいう、これが学者の論なのですよね。私には書けません。
❶❷❸と反論し、さらに、2018年に坂本氏からの論文で、「天守指図」の原本の一部が発見された事も書かれています。2020年中村氏は、この坂本氏の論文を見ていなかったのでしょう。

注1~17が、こうした短い論文では重要であり、これらを読んで理解していないと、質問はできません。注7、北垣総一郎氏より直接聞いた、以外は。
名古屋市石垣部会の座長をされている北垣先生が、1987年「石垣普請」を出され、それしか石垣でまとまった本は今もなく、中村氏の根拠はそれしかありません。
中村氏の現地で石垣を見ての2020年論考はありませんでした。北垣先生は「その後の30年間を足して書き直さんといかんな。」とおっしゃっていましたが、本を待っておれないので言葉でいただきました。

2020年大会
静嘉堂文庫蔵「天守指図」への考察
中村泰朗・広島大学准教授  を載せます。
その主張は、昭和50年内藤昌先生の「復元 安土城」を昭和51年に宮上茂隆氏が「天守指図は、大工・池上が信長公記に基づいて書いたものであり、天守指図に従った復元は誤りである。信長公記と現地の考古学成果によってのみ復元すべき」の継承です。

❶内藤昌が崩れた石垣から石垣を復元したが、その方法は北垣先生の本にない「そり」を入れて、「天守指図」の平面に合わせた復元は間違い。「天守指図」は現在の石垣にあっていない。
反証:そりのある石垣は今も2の丸に残っている。中村氏は現地を見ていないです。宮上氏は現地の八角形の石垣の中に四角の天守を復元したのですが、三浦氏の新案(佐藤、中村の名で学会提出)は、八角形にしています。内藤復元案すなわち「天守指図」を見なければできませんのに。
❷橋渡しの礎石の遺構はない。「天守指図」の記述が間違っている証である。
反証:これは「フロイス」に書かれている。平成の発掘前に失われた。
❸江戸末の盗掘されていた。よって、大工・池上が現地に来て、石垣が八角形であることを知っていたと推定できる。

反証:昭和14年の発掘以前は、崩れた石垣と壁土に覆われ樹木が繁茂していた。盗掘は、天守台中央に「信長の埋めた黄金」を求めてあるが、全体石垣の姿、柱の礎石は、燃え崩れたあと400年間、昭和14年まで、誰も知りようがない。
イチャモンは、学問の進歩です。内藤論文の中で、細かい事ででも、一部でも突っついて、だから全体がオカシイと言うのはアリです。しかし、内藤論文を引っ張り出しての他からの借り物でケチつけだけでないか。自説など何もない。と、内藤昌の弟子を自認する私は怒り、畏友・河田さん(満田さん)の論文に結び付きました。

内藤先生は 新発見の天守指図の信ぴょう性を、現地の実測、信長公記と3本の柱を相互に比較して、つまびらかに明からかにしました。

内藤案が正しいとしては、映画「火天の城」も、三浦氏等がイラストレーターに描かさせた安土城の新案も全て意味をなさないので、こうして、三浦正幸・広島大学名誉教授の弟子たち(佐藤氏、中村氏)は日本建築学会で昭和51年宮上茂隆氏の論「天守指図は、大工・池上が信長公記に基づいて書いたものであり、天守指図に従った復元は誤りである。信長公記と現地の考古学成果によってのみ復元すべき」を繰り返すのでした。三浦氏本人は学会に論文を出していません。

しかし、学研が出す本では、三浦氏復元です。

今も、講談社では文庫本で「復元 安土城」を販売していますし、教科書の副読本では、内藤昌案として安土城が載っています。ですので、安土城の新案を訴える三浦氏としては、なにかについて内藤案にケチをつけないといけません。 

「日本の城郭の第一人者」と、マスコミは三浦氏を形容しています。なぜなら、彼の本「城の作り方図典」は、ベストセラーだからです。

今までの城の本は残っている城を北から順位ならべたのですが、この本は、堀、石垣、門、馬出し、櫓、天守、御殿と、要素に分解して「つくり方」を示しており、画期的でした。

でも、この本でもって、三浦氏が「城を作れる」ことはありません。読者から復元への期待が大きいですが、一級建築士と言っても伝統木軸工法の技術を知りません。
彼は木造技術を語りませんが、弟子の佐藤氏の建築学会での論文は「この内藤案のナナメの庇の切りあがりは大工が作れないと言っている。だから、この復元案はナイ」です。もう笑うしかありません。
一番長い庇のところで水勾配を決めて、あとは石垣の平面形にあわせて、軒先を切り去った結果が斜めの庇の切り上げになったという事であり、単純なことです。技術的に極めて当然の帰結です。

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