- 血を流して「自由」と「平等」を求めたフランス。 2022年1月11日FB記
- 第1章 血を流して「自由」と「平等」を求めたフランス
- 第2章 国歌ラ・マルセイエーズは「血染め」の歌だ。
- 第3章 フランスの国土
- 第4章 フランス語とは
- 第5章 フランス史とローマカトリック教会
- 第1項 ローマカトリック教会ができる前
- 第2項 フランク王国
- 第3項 パリ伯 ブルゴーニュ公
- 第4項 十字軍
- 第5項 ノルマンディ公国
- 第6項 長い13世紀
- 第7項 中世のパリ
- 第8項 百年戦争
- 第9項 フランス ルネサンス
- 第10項 宗教戦争 ユグノー戦争(1562~1598)
- 第11項 ロワール川の宮殿めぐり
- 第12項 アンシャン・レジーム
- 第13項 啓蒙思想
- 第14項 フランス革命
- 第15項 ナポレオンは侵略者か解放者か
- 第16項 王政復古 (1814~1830)
- 第17項 7月王政、第二共和国 (1830~1852)
- 第18項 第二帝政 (1852~1870)
- 第19項 パリの大改造
- 第20項 パリ・コミューンから第三共和政へ
- 第21項 万国博覧会
- ●まとめ
血を流して「自由」と「平等」を求めたフランス。 2022年1月11日FB記
「名古屋には民主主義がない。法治主義がない。」と、当時、私は嘆き悲しんでいまして、ならば、「自由、平等、博愛」のフランスをお手軽に知ろうと、図書館で篠沢秀夫著2002年と柴田三千雄著2006年の文庫本を2冊借りてきたのでしたが、お手軽の本ではなかったのでした。
「どうして、名古屋は、、、日本は、、、」と比較しつつ、書き進めると「フランス史とカトリック」に行きつきました。読む本が増えて、長く、重くなりました。A4版104枚です。
そうなると、日本の民主主義も「日本教」から見ていかないといけないかと、カミを「神仏習合」に探す。2023年1月1日 A4版153枚 に至りました。
これは、そちらで見ていただくとして、「フランスに学ぶ」は、PDFにして、「宗教は世界を今も制している。」に入れたのですが、振り返って読もうとしたら、大変読みにくいので、ここに、改めて書き写します。
フランスも特にパリこだわって書いてしまうのは、「都市史」学徒を自認する私ですので、致し方ありません。「パリの都市史」としては、「パリと名古屋の都市比較 ブールバール(仏: Boulevard)2021年11月23日記」の中に、サブタイトル「名古屋に馬車はなかった。自動車都市への助走がなく都市計画に失敗した。」がPDFで入っています。こちらの方読みやすくまとまってます。ドウゾ。
●はじめに
名古屋には民主主義がない。ならば、「自由、平等、博愛」のフランスをお手軽に知ろうと、篠沢秀夫著2002年と柴田三千雄著2006年の文庫本を2冊借りてきた。
私がならった60年前のフランス史はアンシャン・レジーム(Ancien régime、古い体制)ブルボン王朝(アンリ4世、ルイ13世、14世、15世、16世)が革命によって倒され、全く新しい歴史の地平が開かれたとするものであり、ブルジョアジー、プロレタリアートはマルクス(1818年 – 1883年)主義で説明されていたのだが、
今は、16世紀がフランス近代国家の始まり「フランス・ルネサンス」であり、フランスという国が形となったのはルイ14世の時であり、アンシャン・レジームの絶対王政は貴族とカトリック教会を、王が締め上げてプレ革命として中央集権国家を作り上げ、最盛期を迎えた途端に抵抗勢力によって崩れ、必然としてブルジョア革命がなされたとある。
どうも、蛮族のケルト、ゲルマン、ノルマンが、ローマ帝国以後に王国を次々と作っていったナントカ王朝という、記憶が先に立つ受験勉強の内容が間違いであり、封建制度は日本でも鎌倉時代に、戦国時代で一度崩れてまた江戸時代にあるので、中世フランスの政体も同様の封建制だと思っていたのが間違いであったようだ。
日本は、8世紀に唐から律令制度による中央集権国家を採り入れ、19世紀明治維新まで日本化しながらも存続していた。武士が現れても天皇は中央集権国家の象徴とあり続け、関ケ原の天下分け目の合戦後も天皇制否定の革命とはなっていない。
戦国時代の100年(1467 – 1568)の世も「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌(いはほ)となりて苔のむすまで」であったと、明治政府は10世紀の古今和歌集に初出した短歌を1930年に国歌とした。歌の君とは宴会の客であり天皇ではなかったのに、君の意味を変えてまで天皇制は続いているとしたのであった。
フランスだけでなく、ドイツ、イタリア、イギリスも中央集権国家の誕生は近代になってからで、王権は、貴族間の選挙、婚姻による拡大、ローマ教皇の認可によってクルクル変わる怪しいものであり、地方領主が封土をしていたのは日本の室町時代以降と同じだが、国家意識となると、イギリスのノルマン王朝が同時にフランス国の地方領主であり、英仏100 年戦争のように、フランスには国家意識は無かった。そして、100 年戦争終結によってイギリス、フランス双方の国家を初めて意識させたと言えよう。従って、今の英語の7割は仏語から移入されたものなのだ。
フランスを革命から見て行こう。
第1章 血を流して「自由」と「平等」を求めたフランス
日本の民主主義は占領国のアメリカに与えられた。先の大戦では日本は300 万人の死者を出しているが、沖縄戦以後、本土上陸に伴う流血戦は無かった。空からの爆弾により40万人が命を落としたが、相手は見えない。同様に、憲法を日本に与えたアメリカ人の顔も見えない。
憲法には「自由」と「平等」という本来相容れないものがある。「自由」を各自が好き勝手に求めれば弱肉強食となり、「平等」には決してなりえないものだ。「平等」を教条的に行えば全体主義となり、民主主義のない専制国家となる。私たちはこれらを民主主義の基本的理念だと教えられてきたが、全く身についていない。実際、とてつもなくメンドクサイものなのだが、それに気づいてもいない。
パリでは、血を流して「自由」と「平等」を求めたきた300 年の歴史がある。政体は、王政、共和制、帝政、傀儡政と変わり、今のフランスは第5 共和政をなす。今も折に触れ、市民は街に出て「自由」と「平等」に照らして議論を重ねる。パリは明治革命の江戸(人口100 万人、上野の彰義隊死者266 名)とどれだけ違うのか、その血の歴史を振り返る。
●フランス革命
フランス革命(1789~1799)10年間の死者数は、反革命派との内乱と処刑で65万人。
宣戦布告はオーストリアだけだが、フランス革命の自国内流入を恐れて同盟が結ばれ、フランスの北部および東部において、オランダ・ベルギー、プロイセン、南部でサルディーニャナポリと戦い、エジプトにはナポレオンが兵5 万を引き連れた。これらの戦死者を入れると100万人が革命で亡くなった。
当時のフランスの人口は当時の日本と変わらない2700 万人であった。明治革命と言われ、従来の権力者の藩、武士階級を無くしたのだが、戊辰戦争1868~69 年(8 千人)から西南戦争1877 年(1 万2 千人)まで戦死者は3 万人に満たない。京都、名古屋、江戸と薩長連合軍が東進するも、道中の都市民との戦いはない。
尾張前藩主徳川慶勝(1824~1883 、藩主在任は1849~58)は、文久年間(1861~63)には、朝廷・幕府・諸藩間の調整に努めるも、元治元年(1864)、慶勝は幕府から第一次長州征伐の総督に任じられた。長州藩の処分をめぐり幕府と対立し、慶応33年(18671867)の王政復古に参加して新政府の議定職となり、佐幕派の1414人を処刑している。(青松葉事件)
●パリ(人口65万人)の民衆蜂起、流血の様を見てみよう。
・10月5日ベルサイユ行進。 7,000人の主婦らが「パンを寄越せ」と20kmをベルサイユに行く。
・1792年8月10日 テュイルリー宮殿襲撃 2万人が集まり、死者双方1000人。
・1792年9月2日 反革命分子がいるとされる牢獄で惨殺1400人。
・1792年7月 立法議会は「祖国は危機にあり」と各地の連盟兵(義勇兵)に訴えたこのとき、パリに集結した連盟兵の中のマルセイユ部隊が歌ったラ=マルセイエーズは後にフランス国歌となった。
・1793年6月 ジロンド派が粛清された。ロヴェスピエールの恐怖政治が始まる。処刑されたロラン夫人の「自由よ、汝の名の下でいかに多くの罪が犯されたことか」が有名。身分差のない処刑方法としてギロチンで死刑となったのはパリで2600人。全国では16千人。
・1789年7月14日バスティーユ牢獄を襲撃したのは800人程であり、死者は100人程。
●全国で反革命勢力との戦闘が起きた 。
・1793 年3 月ヴァンデーの農民15 万人が反乱。12 月11 日ル・マンで1 万5 千人を虐殺した。
・1794 年1月17日 ヴァンデ―の住民は全て殺せ!とゲリラ戦に臨んだ。外国と戦う為に徴兵制が始まる。
●ナポレオンは「侵略者」であり、欧州に革命を広げた「解放者」でもある。 ナポレオン法典は今も生きている。
・1799 年第一統領 ナポレオン戦争 フランス兵死者120 万人
対戦国兵死者370万
・1814 年10 月イギリス・プロセイン・ロシア・スウェーデン・オーストリアによる第六次対仏同盟がライプチッヒの戦いに勝ち、3 月31 日パリ陥落。5 月ナポレオンはエルベ島へ
●1830 年7 月革命 パリ市民6 万人が蜂起し、3 日間の市街戦を経て 7 月王政となる。
●1848 年2 月革命 パリ市民の6 月蜂起では死者3000 人。
この後に、ナポレオン3 世とオスマンはパリの大改造を行う。
蜂起した民衆との市街戦で、パリの街は舗石が剥がされ、細い路地はバリケードで封鎖された。非衛生なスラム街を無くし、交通整備のための広い道路で広場を結ぶというだけではなく、ナポレオン三世が市外戦で優位に立つためであった。
●1871 年3 月 パリコミューン 2 か月でプロシアが支援したヴェルサイユ政府軍に鎮圧された。死者3 万人、投獄者4 万3500 人。
●1914 年 第一次世界大戦 フランスの死者は120 万人だが、パリは戦場にはなっていない。
●1940 年6 月16 日パリ陥落、無血。
フランス政府は6 月10 日にパリを無防備都市と宣言して放棄、政府をボルドーに移していた。
●1944 年8 月25 日パリ解放。
戦車、装甲車で、ド・ゴールを前にアメリカ軍は後ろで入る。死者200 万人
●1968 年5 月パリ5 月革命。
学生が主導した「Egalité! Liberté! Sexualité! 平等、自由、性、」ゼネスト1000 万人。100 万人デモ。
第2章 国歌ラ・マルセイエーズは「血染め」の歌だ。
『ラ・マルセイエーズ』1795 年7 月14 日に正式に国歌として採用された。国歌が国体を表すことが良くわかる。「血」が繰り返される。
日本は「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌(いはほ)となりて苔のむすまで」であり、世界で最も短い国歌だ。
1 番 いざ祖国の子らよ!
栄光の日は来たれり
暴君の血染めの旗が翻る
戦場に響き渡る獰猛な兵等の怒号
我等が妻子らの命を奪わんと迫り来たれり
武器を取るのだ、我が市民よ!
隊列を整えよ!
進め!進め!
敵の不浄なる血で耕地を染めあげよ!
2番
奴隷と反逆者の集団、謀議を図る王等
我等がために用意されし鉄の鎖
同士たるフランス人よ!
何たる侮辱か!何をかなさんや!
敵は我等を古き隷属に貶めんと企めり! 武器を取るのだ、我が市民よ!
隊列を整えよ!
進め!進め!
敵の不浄なる血で耕地を染めあげよ!
3番 何と、我が国を法で縛ろうというのか!
何と、金で雇われた傭兵共の集団で
我等の誇り高き戦士を打ち倒そうというのか!
我等を屈服せしめるくびきと鎖
我々の運命を支配せんとす下劣な暴君共よ! 武器を取るのだ、我が市民よ!
隊列を整えよ!
進め!進め!
敵の不浄なる血で耕地を染めあげよ!
4番 打ち震えるがいい、暴君共そして反逆者等よ
恥ずべき者共よ
打ち震えるがいい、恩知らずの企みは
報いを受ける最後を迎えよう
国民すべてがお前達を迎え撃つ兵士なり
たとえ我等の若き戦士が倒れようとも
大地が再び戦士等を生み出すだろう
戦いの準備は整った
武器を取るのだ、我が市民よ!
隊列を整えよ!
進め!進め!
敵の不浄なる血で耕地を染めあげよ!
5番
我等がフランス人よ、寛大なる戦士たちよ
攻撃を控えることも考えよ
我等に武器を向けた事を後悔した哀れな
犠牲者達は容赦してやるのだ
ただしあの残虐な暴君と
ブイエ将軍の共謀者等は別だ
冷酷にも母体を引き裂いて生まれ出でし
暴虐な虎共には容赦無用なり! 武器を取るのだ、我が市民よ!
隊列を整えよ!
進め!進め!
敵の不浄なる血で耕地を染めあげよ!
6番
復仇を導き支えるのは神聖なる愛国心なり
自由よ、愛しき自由よ
汝を守る者と共にいざ戦わん
御旗の下、勝利は我々の手に
敵は苦しみの中、我々の勝利と栄光を
目の当たりにするだろう 武器を取るのだ、我が市民よ!
隊列を整えよ!
進め!進め!
敵の不浄なる血で耕地を染めあげよ!
7 番
我々は進み行く 先人達の地へ
彼等の亡骸と美徳が残る地へ
延命は本意にあらず
願わくは彼等と棺を共にせん
取らずや先人の仇、さもなくば後を追わん
これぞ我々の崇高なる誇りなり 武器を取るのだ、我が市民よ!
隊列を整えよ!
進め!進め!
敵の不浄なる血で耕地を染めあげよ!
第3章 フランスの国土
ガリア戦記「ライン川の東に住むゲルマン人」が、ライン川が国境であると記憶させた。 しかし、ライン川の西にもゲルマン人はいたのであり、今のフランス人はローマ帝国に同化したガリア人(ケルト人)であり、北から降りて来たゲルマン人であり、さらに遅れてやって来たノルマン人でもある。
紀元前2 世紀には、プロバンス(属州の意)には森の民であるケルト人が北から入ってきており、マルセイユはB C6 世紀からギリシャ人植民地であり、ローマ人はマルセイユからローヌ川沿いに北に開発していった。
属州知事として派遣されたシーザーは紀元前51年に北に遠征し全ガリアを制圧した。
ナポレオンの遠征などにより、「欧州は陸続きであり国境紛争が絶えない」と思っていたが、日本と同様に南・北・西は海であり、アルプス山脈がイタリアと、ピレネー山脈がスペインと、ジュラ山脈がスイスとの国境となっており、国土の形「ガリア」六角形は、2000 年前から変わらない。
国土55 万km2の7 割、38 万km2が平地である。平地が日本の国土と同じ面積であり、日本の平地は国土の2 割、8 万km2しかなく、フランスの人口6700 万人の倍であるので、平地での日本の人口密度はフランスのそれの10 倍となる。私の眼には、パリを除いてフランスは人影の薄い農業国と映る。
第4章 フランス語とは
第五共和国の憲法第2 条第1 項に「共和国の言語はフランス語である。」とあるくらいに、言語を国家統制している国である。日本人が「フランス語は美しく、整然とした文法体系を持ち、その国語は正しく教育されている。大学も全て国立。」と思っている根拠である。
民族の定義には言語が使われる。フランスはそれを国の定義にまで憲法で広げた。すなわち、国の統一が絶対王政によってなされ、フランス語が作られたのである。
1881 年無償の義務教育によって、「良いフランス語」ボン・フランセ―が、フランスの共通語として確立する。明治政府が、教育によって「江戸山の手言葉」を標準語として広めた時期と一致している。明治政府が新国家を成すためにフランスの教育制度を真似たのである。
共通語の必要性は国家の統一、1789 年フランス革命に遡る。亡命貴族が外国と組んでフランスを攻めてくる。国王と王妃はそれに内通している。フランスを守るのは、第三身分しかない。第三身分=愛国者=国民=フランス人との観念構造から、全ての国民はフランス語を話すべきだとした。教育を宗教伝播の柱とする教会と反動勢力の抵抗が義務教育化をフランス革命から100 年遅れさせたのであった。
価値ある共通語としては「良いフランス語」しかなかった。相当の教養をもつブルジョアと貴族しか操れない人工的に作られた「宮廷語」なのである。
1539年、ヴィレル・コトレの勅令「公文書、司法書類には、ラテン語でなくフランス語を用いよ」が出た。フランソワ1 世のフランスルネサンスの時代である。これが、フランス語で高尚な学問、芸術を書く機運を高めていく。統一された言語と熟すには、それを受け取る受け手がいる。ブルボン王朝がナントの勅令1598 年により宗教戦争を治め、ポルトガル、スペインの海外雄飛に続こうと産業を発達させ王権を強め、王は中央集権国家をめざ
した。イギリスの大陸の領地は100 年戦争(1453 年終結)によって既になくなっていた。 この17 世紀に「アストレ」「才女気取り」の文芸作品から「高尚な言葉使い=プレシオジテ」がもてはされる。イギリスではエリザス女王とシェークスピアによって国力が高まった時期と重なる。フランス語が定まったのは、ルイ14世(16611661–17151715)が国家領土の形を決めた時代と一致するのである。
私が初めてパリを訪ねた1979年では、英語が話せてもフランス語でしか私に答えないパリジャンが普通だった。これがパリ嫌いになった理由なのだが、英米語が世界共通語になる風潮にあえて自国語を高らかにうたいたかったのは、英米国の援助によってパリをナチスより奪還した経緯もあるのだろう。日本の「英語を公用語にしよう」という運動があった事の対極の対応である。日本の憲法に言語から国を規定することはない。
また、裏返してみれば、日本と違い、多民族の集合からブルボン朝の絶対王政でようやく国土が定まったという近代の歴史を示している。今のフランスでは消えつつある地方語を残していこうとなり、パリジャンも意地悪をせず、英語で答えてくれるようである。
●フランス語の成立を見てみよう。
フランスF rance の国名は、ラテン語のフランキアF rancia <フランク族が占領している土地>から来ている。ゲルマン人のフランク族がローマ帝国滅後5 世紀ごろに立ち、先に南下していたゲルマン人の西ゴート族を圧迫、イスパニア半島の西ゴート王国、イタリア半島の東ゴート王国と争う。
9世紀にシャルルマーニュが欧州全体に領土を広げたが、蛮族の慣習として子供たちに領土を分け与え、中央集権国家としての国は作っていない。
ルートヴィヒ1 世の死後843 年に結ばれたヴェルダン条約による分割が最後の分割となり、フランク王国は東・中・西の3 王国に分割された。その後、西フランクはフランス王国、東フランクは神聖ローマ帝国の母体となり、中フランクはイタリア王国を形成した。とされるが、フランク王国は母体であり、フランス語を持つフランス王国となるのにはこれから700 年を要している。
ヴェルダン条約の一年前に、ゲルマン人王長男ロテールを次兄ルイと弟シャルルが連盟して破った後に両者が結んだ「ストラスプールの誓約」がある。ゲルマン語と西フランクで使われていたロマン語で同じ内容が書かれており、フランク王国はゲルマン語とロマン語は並列してあったことがわかる。これが、987 年即位した第三王朝・カペー家の始祖ユーグ・カペーとなると、ロマン語しかわからなくなる。
●ロマン語
ロマン語とは、ラテン語の俗語である。今は残っていない。パトア(里の話し言葉)として地方には残っていたのだが、「良いフランス語」で書くように話さなければならないと150 年間強く教育され、「デイスタンゲ 上品」でないパトアは消えた。名古屋弁も今や演芸の中にしかないのと同様である。 キケロの修辞に満ちた名文がラテン語として中世の共通語として教会・大学に残ったが、実際ガリアに入ったのは、定住して農地開拓をした退役兵に、馬、小麦、羊をあきなう商人であり、ローマ帝国で使われていた俗語である。文字をもたないケルト人の言葉は消えて、ケルト言語と混じったラテン語の俗語がロマン語となる。
イタリア語もダンテがフィレンチェの方言を「神曲」で高めたものであり、ロマン語である。yes をシーというのでシー語と呼ぶ。スペイン語もそうだ。 ガリアに入ったローマ人そしてキリスト教も南から徐々に北に向かい、その地方のケルト人との交じり加減が違って、北はy es をオイルo il と言うのでオルク語という。今のウィ(o u i) はそれがなまったものである。ボルドーからリヨン、ジュネーブに至るラインの南はオック語と言われた。1209 年アルビジョア十字軍がローマ教皇によって作られ、南部トゥールーズ伯爵領をルイ8 世(1187 年 1226 年)が攻め、1229 年王領となり、オック語は消えていく。
今のフランス教育では、フランク王国の末裔でなく、祖先はケルト人だと教えているそうだ。ゲルマンがケルト人を武力で支配したのだが、人口は10 分の1 もなくケルトとの同化が強く、ゲルマン語はロマン語に置き替わってしまった。後にあらわれたノルマン(バイキング)は言わずもがでない。
987 年からフランク人の第3 王朝カペー家がパリを中心としたイル・ド・フランス地方とその南のオルレアン地方を核として大きくしたフランス国なので、パリ伯爵の方言がフランス語の基幹となしたのは間違いないが、ラテン語をフランス語に置き換える過程での学者の作業、フランス・ルネサンスの文芸、と、人工的に作られたからこそ、「フランス語は美しく、整然とした文法体系を持ち、正しく教育できる。」のであろう。
今に残る地方語を調べると、多民族であった歴史が見える。
ブルトン語
ブルターニュ西部では、20 世紀初頭では200 万人が話していたが、現在モノリンガルはいない。ケルト語系でありラテン語とは全く違うので、ラテン語系のフランス国としては残すべきだと運動を続けている。ローマ軍に追われてブルターニュに逃げ込んだケルト人が今に伝えたという説は間違いであり、5~6 世紀にアングロ・サクソン人の侵入を受けてグレートブリテン島からブルターニュ地方に逃れたケルト人の言語 (ブリソニック語) の現在の姿である。アイルランド、スコットランドにはケルト語系が今も残っている。
バスク語
バスクと言えば、スペインにいる100 万人のバスク人の独立運動が頭に浮かぶが、フランスの隣接地方にも数万人のバスク人がいる。同化教育により、フランス語とのバイリンガルとなっている。言語系統は不明であるが、フランス語、ラテン系ではない。
アルザス語
ドイツ国境沿いのアルザス地方とローレーヌ地方の一部でドイツ語方言のアルザス語を話す。フランス語とのバイリンガルとなっている。
ラテン語系であるが異言語として、
カタラン語
ペルピニャンを中心とする地中海スペインよりの地域で使われている。スペイン語でカタローニュの中心はスペインのバルセロナである。
地中海沿岸のイタリアよりのプロバンスは、フランス語の方言でありフランス語と同系の異言語である。フランス南部にはオック語という消えてしまった言語があった。
ニース語、コルシカ語
どちらも、イタリア語の方言である。ナポレオン・ボナパルトは、1768 年に併合されたコルシカ島の地主に生まれ、その名はナポレオーネ・ヴオナパルテであった。
第5章 フランス史とローマカトリック教会
●はじめに
1979年8 月、私の初めての海外はパリのサクレ・クール寺院から始まった。飛行機の中では映画を見ていて一睡もしていなく、小雨の中バスを降ろされ、カッパを急ぎ羽織ってモンパルナスの丘をひたすら登るのがきつかった。
「なんだ、こんな安物寺院」と中を一巡りし外に出たところで、「パリだ!パリに来たんだ。」と大変興奮したのを今も鮮明に覚えている。登りの時には街の姿に気づいていなかったのだった。パリ観光は確かにサクレ・クール寺院から始めるべきだ。
目の前に広がるナポレオン三世のパリの街を前に、望遠レンズで撮りまくった。南に出来たばかりのモンパルナスの駅ビル・高さ210m(1972 年)がそびえているが、その右手前にあるエッフェル塔の存在感が凄い。パリを制している。凱旋門、その向こうにラ・デファンス地区も小さく見えるが、私には高さ324mの優美な鉄塔がパリのシンボルに見えた。
あれから40 年たつが、パリには今もこの3 本の高層建造物を超えるものはない。ミッテラン大統領が「パリ大改造計画」をフランス革命200 年にむけて1985 年に打ち出して以来、パリの都市景観論は常に交わされているが、ほとんどがセーヌ川沿いの建物であり、ナポレオン3 世のパリの街とどのようになじませるかであり、高層建造物を建てる話はない。
ロンドンの都心シティがドイツ軍の空襲で焼きつくされてしまい、高層ビルの雑多なデザインが競われているのを横にみて、パリの都市文化を世界に誇るフランス人なのである。
パリ都市史が動くのは、フランスを国としてまとめたルイ14世の17 世紀半ばに、中世の市域を拡大して人口50万人となった時からであり、江戸が都市域を拡大した明暦と同時期である。
江戸は17世紀末には人口100万人に達するのだが、その後の300年の都市への視座がフランスと大きく違い、東京では都市景観論を語る事はない。神宮外苑の運動も「木を切るな」であり、都市景観から超高層ビルをどこに集めようか、との視座はない。パリ市内にはエッフェル塔、モンパルナスの駅ビル、サクレ・クール寺院しか高層の構築物はない。
サクレ・クール寺院・丘を含めた高さ213mは、今もパリ市民から見上げられている。1905年にフランスはローマカトリック教会と袂を分け、今ではカトリック信者と名乗るのは4割になってしまったパリ市民は寺院に何を感じているのだろうか。熊本城を見上げる熊本市民のような誇り=都市のシンボル=をサクレ・クール寺院に感じているのだろうか。
私には、勝ち誇るエッフェル塔に対して、サクレ・クール寺院はローマカトリック教会の負けのシンボルと見えた。エッフェル塔は普仏戦争1871年にフランスが負けて、わずか18年後に、たった2年の工期で建てたのである。
一方、サクレ・クール寺院は、ローマカトリック教会が、流した血へのあがない(普仏戦争死者14万人、パリコミューン死者3万人)をする場として、カトリック教会のパリのシンボルとして企画されたが、完成するのに40年もかかってしまった。もがいている間に、パリのブルジョアは第33共和国(1879年)を作り、第一回ロンドン万博1851年・水晶宮に対抗すべく、第四回パリ万博1889年・エッフェル塔を打ち立て、国内に鉄道を張り巡らし産業革命を押しすすめ、北アフリカとインドシナに植民地を拡大していったのであった。
1914年、鎮魂の為のサクレ・クール寺院の竣工は、皮肉にも帝国主義国家による総力戦となった第一次世界大戦がはじまった時である。 サクレ・クール寺院がフランスにおけるローマカトリック教会の終点と見えたことにより、ここに、フランス史をローマカトリック教会と紐づけて見ることを思いついた次第である。
第1項 ローマカトリック教会ができる前
シーザーが、ガリアさらにブリテンまで攻めて、ケルト人を治め、ローマの属州として、初めて、現在のフランスの地図がラテン語でデビューした。 ローマ人の属州の支配拠点として都市も生れた。マスセイユは、紀元前6 世紀からのギリシャ人の地中海の拠点であったが、リヨンが、ローマ人のガリアの新たな拠点となった。ローマ帝国がライン川、ドナウ川をゲルマン人との境界線として戦った時もリヨンが拠点なのは変わらない。ライン川防衛線のローマ人の拠点はマインツ、ケルンであった。
ローマ人はリヨンからローヌ川を北上して、今もブルゴーニュ地区の中心にあるデイジョンを作り、そこから西に向かい、ロワール川沿岸のサントル=ヴァル・ド・ロワール地域の中心にあるオルレリアンを作った、農産物・ワインの集散地としてどちらも今に続く。
パリも、セーヌ川を利用した公益の中継地点であり、植民地都市ではあったが、対ケルト人への中心とは思えない。北にあるカレーは、アミアンと共にゲルマン人が南下して来てからの、北海からのアプローチの良さが町を大きくしたと思われる。 ローマ人は、川ごとにケルト人の部族名を記録している。
日本は、狩猟民族であったアイヌを北に押しやっていった。多賀城(仙台)から、城・柵を徐々に北進させ、秋田、盛岡から青森に大和王朝はその支配を延ばした。ガリアも同様にローマ人が北進したのである。
日本では、弥生時代、水田の開発から川筋ごとにまとまりができ、豪族が出て、古墳をつくり、郡(クニ)ができていくのだが、ケルト人は鉄器と馬車を持つ、森の民であり、移動する野蛮人という印象が強い。農地も持つがその生産性が悪く、新たなゲルマン人の移動によって、辺境の地に追いやられた。
ローマ支配下のガリア属州と現代の仏領を並べた。この1600 年間の間、フランス国が出来ていく様を、ローマカトリック教会を軸に見ていきたい。
ローマ帝国がキリスト教を認めたミラノ勅令313 年に、リヨン、ケルンでは同時に司教座が出来たという伝承があるが、この当時のキリスト教はまだローマカトリック教会とは言えない。キリスト教はギリシャ語の新約聖書と共に様々な宗派を作っていた。
写真は、ドイツの黒い森である。南フランスのこのような山地の裾野にケルト人は集住していた。木曽三川の尾張の開発の前に扇状地の美濃に渡来人が来たのと同じであり、川を制するにはクニが必要だったのである。
中世の10 世紀から12 世紀にかけて、森の開発を急速に進め農耕地を増やし、人口を増やした。
ガリアとはナラ・ニレ・シナノキ・ブナなどの落葉樹が茂る森であった。フランスは、中世に国土を農業と酪農で荒らしたが、近代になって国土の15%まで森を復元した。ドイツも同様であり、都市に周りには必ず森があるが、すべて育てた森である。
一方、日本は今も昔も山地であり、平地は国土の30%でしかない。これがそれぞれの公園への思いの違いに繋がっている。愛知県の大村知事は植林された山が近い田園地帯の育ちであり、都市内の公園を潰して興行場・アリーナを作ることになんらの疑問をいだいていない。名古屋を人口稠密な都市とみなしていないのは、名古屋市長、名古屋市民も同様である。
ヨーロッパ人の森への親しみは今もケルト人文化と共に残る。日本のように下草が無い森は人を受け入りやすい。シンデレラ、赤ずきんちゃん、眠れる森の美女、ロビンフッドと森は常に身近にあるものであった。クリスマスは冬至の新たな年を迎えるケルト人の祝いであり、ささげるヤドカリの木はケルト人の森の象徴であった。秋のハロウイーンは収穫祭でかつ冬への転換点であり、同時にケルト人の祖先が村に戻ってくる日であった。日本人のお盆のようなものある。季節ごとに万物に神が現れ、魂は輪廻転生するのが、ケルト人の信仰であった。
そこに、新たな蛮族ゲルマンが北から侵入してきた。ゴート人、ゲルマン人、アングルサクソン人、ノルマン人だけでなく、00人と多くの名が歴史に残しているが、黒海近辺で生まれたインド・ヨーロッパ語族が、馬と鉄器でもってヨーロッパに攻め入る時の波が違っただけの事であり、メソポタニア文明、エジプト文明が、地中海を西進してギリシャ、ローマと先に地中海沿いに農耕文化を広げたのに対し、その北の森の開発は蛮族の南下によって行われたのである。
ゲルマン人は強い武力をもっていたが、流入人口は土着のケルト人の10 分の1もなく、やがてケルト人の中に溶け込むことになる。「フランスはゲルマン人の王国であるフランク王国を発祥とする。」と昔は言われたが、今のフランス教育ではフランス人はケルト人の末裔であり、部族・王の交代が1600 年続いたのであった、としている。
第2項 フランク王国
ゲルマン人が統一国家を作ったと言われているが、国の体裁は極めて怪しい。蛮族は先住していたケルト人から略奪し征服するだけであり、僧侶、騎士、民衆の身分があったと書かれているだけでは、その統治の姿はわからない。
歴史では蛮族がローマ帝国から文化を得て国らしきものを作る過程をガロ・ロマン(ローマ)文化と名付けている。リヨンに博物館がある。フン族を相手に451 年に西ローマ帝国が勝つが、戦いは似た集団同士だと思う。中国がたびたび騎馬民族に襲われているが、ヨーロッパも同様であったのであろう。476 年ゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって、西ローマ帝国は滅びる。
●ローマカトリック教会との関わり1:帝冠式
496 年クロービス一世(466466~511511)は、妻の勧めでキリスト教アタナシウス派(カトリック教会)に改宗した。ベルギーが出生地であったが、これによってアタナシウス派が多い南ガリアへの統治が楽になり、さらに妹のアウドフレドを東ゴート王国のテオドリックに嫁がせて同盟を固め、493
年にはブルグント王国の王女クロティルドとソワソンで結婚し、王国を固めた。
「洗礼地は古来ランスであった。」と9 世紀になって司教が主張し、816 年のルイ1 世が初めて戴冠式を行って以来、1825 年のシャルル10 世に至るまで国王の戴冠式がランスで32 回行われた。現在のゴシック様式の大聖堂は、1211 年に建造が開始され1445 年に完成したのを元として、第一次世界大戦で燃えたので、1938 年に大改修したものである。
私は、1979年に、ここを訪れた。頭の中に東大寺の大仏殿を浮かべながら、空間の扱いが全く違う西洋伽藍の「吹き抜け」に、名産のシャンパンをしこたま飲んだかように酔った。
フランス史を読むと、メロビング朝からブルボン朝まで、王、貴族の戦争の記録である。日本でも、中大兄皇子、大海人皇子、源義経、楠政重、武田信玄、織田信長、徳川家康と武力による政権の交代が多くあり、武将と合戦のそれぞれに人気争いがあるので、フランス人にも王の人気争いが当然あるのであろう。戦争の記録は詳細に書かれている。
さらに、フランスはヨーロッパの中心にあって人口も多く、イギリス、ドイツ、イタリアはもとより、ベルギー、オランダ、スペインと周囲の外国との戦いが多く、しかも国が婚姻により統合されるので、王、貴族と戦争の記録はとても私の頭には入りきらない。フランス史をローマカトリック教会との関わりで見て行こうとした理由の一つである。
●ローマカトリック教会との関わり 2:王権神授説
732 年トゥール・ポワティエ間の戦いで、イベリア半島から攻めて来たイスラム教徒(ウマイヤ朝711~1031)を、メロビング朝の宮宰カール・マルテルが撃退した。
751 年「フランク王に」と、貴族・司教に言わせ、752 年にサン・ドニ教会にローマ教皇に来てもらい、息子と共に塗油を受け、教皇に「神の国」カロリング朝を認めてもらった。そのお礼で、イタリアのラベンナ地区をランゴバルド王国から奪い、ローマカトリックの封土として寄進した。サン・ドニ教会に眠る。
800年ピピン3 世の子、シャルルマーニュ(カール大帝)が、教皇レオ3 世により「西ローマ皇帝」の帝冠を聖ペトロが眠るローマで授けられる。
フランスだけでなく、今のドイツ、オーストリア、イタリアをも領土とした。
「王権神授説」をローマカトリック教会が、東ローマ帝国(395~1453)とギリシャ正教に対抗し、ガリアに唱えたので、蛮族のゲルマン人がローマ皇帝を名乗れたのである。王は積極的に教会、修道院(529 年ベネディクト派修道院設立、910 年クリュニー修道院設立)を作り、教会への10分の1税を勅令で示した。
カール大帝はドイツ語読みであり、彼は首都をアーヘン(現ドイツ領)に移し、そこに墓もある。フランク王国が3 つに分割(843 年)されたあとに続く、神聖ローマ帝国(962~1806)の祖と慕われており、30 人の皇帝がここで戴冠式をしている。
現在のEU 欧州連合でも、ドイツ、フランスが基軸であり、シャルルマーニュとカール大帝の二つの名を持つゲルマンの王の威光は健在だ。
●ローマカトリック教会との関わり 3:統治機構
封建領主の王、貴族、騎士は、カトリック教会の教皇、司教、司祭に対応して各地に展開しており、両者が一体となって農民を支配した。 小教区の司祭は洗礼(生)結婚(生産単位)終油(死)の秘蹟によって戸籍を把握し、領地の収益も把握する。世俗権力と教会権力の二つの中心が並立する独自のヨーロッパ世界がこれから800 年間続いた。
9世紀から12 世紀にかけて、フランスの中世ど真ん中の理解は日本人には難しい。
日本は、中国からの律令制度、公地公民の輸入によって天皇を中心とする中央集権国家、租庸調の税収から始まり、やがて荘園制が中央集権国家を破壊し、人殺しを専業とする武士が天皇制は残しつつ、新たな中央集権政府の鎌倉幕府、室町幕府を作り、集大成として江戸幕府の封建制度を作っていったのだが、フランス王国としての中央集権国家の成立は、この中世のばら撒かれた領主の封建制度から王が力を貯めて、12世紀末から作られていくのである。
王、貴族、騎士の関係は、主君が臣下に土地を与え、臣下から代わりに軍事、物を主君が得るという単純なものではなく、3 者の関係は複雑である。騎士の主君は複数いるのが当然であり、王権が弱い中、土着をした領主同士の争いがあっても王だけでは抑えられず、カトリック教会の司教も出てくる。10 世紀のカペー朝になると、王の弟が地方の土着の騎士の上に領主として突然配されたり、結婚によって領土が合体したりしている。領主が何代にもわたって領主であり続けることは難しいのであった。
13 世紀も半ばになったルイ9 世から「フランス王」をようやく名乗る。それまでは、日本の戦国時代のようだ。
第3項 パリ伯 ブルゴーニュ公
987年パリ伯のユーグ・カペー(940?~996)は「ガリア人(フランク人)、ブルターニュ人、デーン人(ノルマン人)、アキテーヌ人、ゴート人、、、等の王として選ばれた。」とある。
カペー家から選ばれた3 人目の西フランク王であるが、彼がカペー朝の祖となり、以後ヴァロワ家、ヴォロワ・アングレース家、ブルボン家、オルレアン家と男系で王を繋ぎ王家は替わるも全ての家の祖となる。
元は、ユーグ大公の3 人目の妻を母として生まれたフランスの一地方であるパリ伯爵なのである。その母エドヴィジュが、東フランク王ハインリヒ1 世の娘で神聖ローマ皇帝オットー1 世の実妹にあたる血脈で若くして家を継ぎ、王に選出されたのは熟年の47 歳であった。
フランク王国の分裂のあと150 年、王とは名前だけの事となっていき、ランス大聖堂で聖油を塗られる事で国王としての聖性があるだけであり、王であっても他の封建領主と同様に封土からの農産物のあがりと、鍛冶屋・パン屋など商工業者からの間接税でしか収入はないのであった。
この時代のヨーロッパは温かく、森を開墾して農業地を大幅に増やす。中世は暗黒でなく、農業革命によって人口は600 万人から1300 万人に倍増したのであった。この力があって、はるか東に十字軍を送れたのである。1098 年設立のシトー派修道会は、森林開墾の為の修道院を各地に展開させた。
●ローマカトリック教会との関わり 4:王と教会との争い
1075年 グレゴリウス7 世は「教皇令27 条」を提示して、教皇権の世俗の権威への優位を主張した。教皇が王による叙任(司教や大修道院長の任命)を禁止する通達を出したことは、王によって大反発を受けることになる。伯領の首都には司教座が置かれており、司教が封建領主の意を組まないのでは伯領としてなりたたないからである。ヘンリー8 世(1491~1547)は司教に宰相を務めさせていた。
ドイツでは1077 年にカノッサの屈辱があり、1122 年のヴォルムス協約で王が屈し、ドイツの統一が遅れたが、中央集権国家をめざしたフランスでは、1438 年シャルル7 世はガリカニスムに拠る「ブールジュの国事詔書」を公布し、フランスの司教の任命は、10 分の1税を取る教会でなく、徴税を支配する王がするとした。
1439 年より国王の直接税タイユが始まる。教会は、国家の役人、学校、病院を兼ねていたが、まずは役人の役目を外しにかかった。
1516 年、フランス王国フランソワ1 世はレオ10 世教皇と ボローニャ政教条約を締結し、国王が司教の指名権を持つことを教皇についに認めさせ、国家教会主義(ガリカニスム)が完成した。
イギリスでは、ヘンリー8世が1534年ローマ−カトリック教会から分離して国教会を成立させている。ヘンリー8世は6人の妻を持つために「離婚したい」からだけではなく、フランス、ドイツと同様にローマカトリック教会権力からの離脱を図ったのである。
絶対王政になると、民間の徴税請負人に間接税を集めさせるようになる。
グレコリウス7世は、ローマに教会会議を招集して聖職者の妻帯と聖職売買(聖職者の地位と特権を金銭で取引すること)の禁止を徹底するよう求めた。しかし、これはルネサンスのチューザレ・ボルジア(1475~1507)を塩野七生の著書で読むに、教皇自身がまもっていない。16世紀になって、カルヴァン、ルターによる宗教改革に繋がり、多くの血が流される事になる。
●ローマカトリック教会との関わり 5:破門
1094 年、リヨン司教は、離婚をして二人目の王妃を得たフィリップ1 世を破門した。さらに翌1095 年11 月にはクレルモン教会会議において、ローマ教皇ウルバヌス2 世が正式に破門を通告した。離婚をしてはいけないのは結婚が神の前の契約だからでなく、庶子では神の認めた子ではなく、王を継げないので正式な結婚をするのである。カペー朝は男系男子を相続の決まりとしてあり、王朝を300 年も続けるためには王妃を変える事はしばしばあった。うまく立ち回って教皇に「そもそも、前の結婚は無効であった。」と言わせたのである。
第4項 十字軍
司教が塗油をする前に、王は「神の為に戦う」と宣言をしないといけない。したがって、クレルモン教会会議でローマ教皇から「聖地エレサエムをイスラム教徒から奪還せよ。」と言われと行かざるを得ない。しかし、免罪を信じて勇んで行くの者もいれば、命惜しさにごまかす者もいた。7 回あったが、フランス人を中心に2 回までを抜き出す。
[第一回 1096 年~99 年]
エレサレム奪還は成功し、地中海東岸にエルサレム王国、エデッサ伯国、トリポリ伯国、アンティオキア公国が作られた。
南イタリアのノルマン人封建君主であるターラント公ボエモンはアンティオキア公国を作る。もう一人の十字軍のまとめ役の南フランスのプロヴァンス人諸侯の長だったトゥールーズ伯レーモン4 世(レーモン・ド・サン・ジル)は死すも、庶子がトリポリ伯国を作る。ロレーヌ人の3 兄弟、ゴドフロワ・ド・ブイヨンはエレサレム初代の王に。末弟のボードゥアンはエデッサ伯からエレサレム王に。
フランドル伯ロベール2世は戻ってノルマンディ公、ブロア伯と争いルイ7 世の為に死す。ノルマンディー公ロベールはイギリス王になれず。ブロワ伯エティエンヌ2 世はエレサレムで死す。フランス王フィリップ1 世の弟ユーグ・ド・ヴェルマンドワ(フィリップ1 世は直前に破門されたので代理)はタルススで死す。
●ローマカトリック教会との関わり 6:第一回十字軍は封建君主連合
十字軍の旗に集まった封建君主たちは、それぞれに私欲を求め、十字軍国家を武力で作り、無事戻っても隣国と戦い死んでいる。中世の君主とは蛮族ゲルマンの武闘の血を継いだ者たちなのである。
ヨハネ騎士団
傷病者の救護の為に、修道士が剣と薬を持って1113 年に設立した。2 つの大要塞と140の砦を守っていた。1187 年にエルサレムが陥落した後も、トリポリやアッコンを死守していたが、1291 年、ついに最後のキリスト教徒の砦アッコンが陥落した後は、キプロスに逃れた。この後は海軍(実態は海賊)となってイスラム勢力と戦ったが、キプロス王が騎士団の存在を恐れたこともあり、1309 年に東ローマ帝国領であったロードス島を奪いここに本拠地を移した。これ以降、ロードス騎士団と呼ばれるようになる。1522 年、オスマン帝国のスレイマン大帝によって、そこも追われマルタ島に渡りマルタ騎士団と名を変え、今に至る。
テンプル騎士団
慢性的な兵力不足に直面したエレサレム。巡礼を守るためにフランスの貴族ユーグ・ド・パイヤンのもとに9 人の騎士たちが集まり、1119 年に結成された。修道士である前に貴族である気質を強く持っており、前線での戦いだけでなく後方の寄付集めの組織を拡充し、資産の殆どを換金し、その管理のために財務システムを発達させ、ルネサンスのメディチ家による国際銀行の構築に先立ち、独自の手形システムを作った。
その豊かさがアダとなり、1314 年に、アヴィニョン捕囚で有名なフィリップ4 世(1268~1314)は「テンプル騎士団は異端である。」として財産を没収し、ジャック・ド・モレーら最高指導者たちをシテ島の刑場で生きたまま火あぶりにした。
[第二回 1147 年~1149 年 ]
「1144 年エデッサ伯領がイスラムに奪われた、奪還せよ。」と教皇から発せられ、ルイ7世(1120~1180)は破門を解かれ参加する。アキテーヌ領主でもある王妃アリエノールもアキテーヌ諸侯を引き連れて参加する。奪還できず、またダマスカス攻略にも失敗し、第2 回十字軍はそこで解散した。
ルイ7 世夫妻は1149 年の復活祭(4 月)までエルサレムに留まり、2 人は海路イタリアを経由し、パレルモではシチリア王ルッジェーロ2 世に歓迎され、トゥスクルムで教皇エウゲニウス3 世との面会を経て11 月にフランスに帰国した。
これ以降、最後の十字軍まで、現地の要望を無視した十字軍の暴走を十字軍国家が止められず、結果遠征規模に見合った成功を得る事無く終わるという図式が続く事になる。
●ローマカトリック教会との関わり 7:王妃アリエノールの結婚・離婚・結婚
ここの主役は、王でなく王妃アリエノール(1122~1204)。南フランス最大の封土アキテーヌ公領、ガスコーニュ公領、ポワティエ伯領など、フランス全土の3 分の1 近くを支配していたアキテーヌ女公(在位1139~1204)でもあった。
パリ伯でありフランク王であるルイ6 世(1081~1137)は子のルイ7 世(1120~1180)と彼女との結婚で支配領土を広げる事を目論み、それはルイ6 世の死後すぐに、15 歳の彼女が王妃となって1137 年~1152 年の15 年間は成功するが、夫婦仲の悪さを教皇に訴え「この結婚は近親婚でありもともと成立していない」と離婚が成立し娘2 人を残して離婚し、2 か月後にはより近親である11歳年下のアンジュー伯・ノルマンディー公のアンリ(11331133~11891189)と30 歳で結婚する。
アンリは、フランスの北、西部のノルマンディ、アンジュ―、メーヌ、トゥーレーヌアンリの諸侯領を治めており、アキテーヌ女公のこの結婚はルイ7世を怒らせ、恐れさす事となった。 さらに、1154 年にイギリス王ヘンリー2 世となり、アリエールはイギリス王妃(在位1154~1189)ともなる。大陸と島にまたがるこの「アンジュ―伯国」の出現は、後の百年戦争(1337~1453)において、互いに王位継承を主張する伏線となった。
アリエノールは、5 男3 女をもうけた。末子のジョン(1166 年~1216 年)を生んだ44 歳の頃、ヘンリー2 世は妾を宮殿にひきいれたので別居をする。
せっかく大きくまとめたアンジュ伯領なのだが、蛮族の風習に従い、ポワイエ伯、ブルゴーニュ公とアキテーヌ公と子供に分け与え、娘はザクセン・バイエルン公、カスティーリャ王(スペインのレコンキスタの主力)シチリア王に、後にトゥールーズ伯に嫁がせる。とりわけ3 男のリチャード(1157~1199)にアリエノールは期待する。
子供の3 人がイングランド王となったのだが、最後のジョン王(在位はリチャードの死1199 から)以外は彼女より短命だった。アリエノールは1174 年(52 歳)からヘンリー2 世が亡くなる1189 年(67 歳)までヘンリー2 世に幽閉される。リチャード1世は獅子心王と仇名されている。戦闘にあけくれ、10 年の治世のうち6 ヶ月しかイギリスにいなかったが人気が高い。
第三回十字軍(1189~1192)では、フランク王フィリップ2 世はイングランド王リチャード1 世、オーストリア公レオポルト5 世ともに、アッコン包囲戦1191 年7 月に勝つが二王は帰国してしまい、残って一年以上エレサレム奪還のためにイスラムと戦う事になる。しかし、達せず1192 年9 月「非武装のキリスト教徒の巡礼者がエルサレムを訪れることを許可する」旨の休戦条約をサラデンと結び、自らはエルサレムに詣でることを辞して帰路についた。
陸路で帰るところ、レオポルト5 世につかまり、神聖ローマ皇帝ハインリヒ6 世に渡され、アリエールは身代金集めに奔走、1194 年2 月に解放された。
第三回十字軍は神聖ローマ皇帝のフリードリヒ1 世も含め、イギリス、フランス、ドイツ、イタリアの国力をあげて攻めたのだが、4国の統制が取れておらず、エレサレム奪還ができないだけでなく、本国に戻ってから、戦争がより激しくなっていった。
教皇と諸侯の力が衰え、王権が強まり、ベネツアは第4 回十字軍(1202~1204)でコンスタンチノーブルを攻め、東地中海貿易の覇者となる。
第5項 ノルマンディ公国
9世紀になって遅れて北海から南下してきた、バイキングである。セーヌ河河口のルーアンを本拠に川を遡りパリのシテ島を襲うので、フランク王はノルマンディ半島を911 年にロロに与えて懐柔をした。公国の始まりである。
その5 代後に、ギヨーム2 世はアングロ・サクソン人の王・エドワード懺悔王の崩御に伴う後継者争いで王位継承者を主張、ブリテン島に侵攻し、懺悔王の妃の兄であるハロルド・ゴドウィンソンの勢力と戦いを繰り広げ、最終的にこれをヘイスティングズの戦いに討ち取り、勝利した。
ギヨーム2 世はイングランド王ウィリアム1 世として即位し、ノルマン朝を開いた、これによりイングランドはノルマン人により支配されることとなり、現在のイギリス王室の祖となった。
1066年ノルマン・コンクェスト:イギリス王はフランス王と国としては対等であるが、大陸の領地を治めるノルマンディ公としては、フランス王の配下となる。というややこしいことになった。これからフランス語がブリテン島に広まり、英語の綴りの7 割がフランス語由来となる。1154 年にブリテン島と大陸にまたがる巨大な「アンジュリー伯国」が生れるも、1204 年、フランス国王フィリップ2 世が征服し、それ以降はフランス王領となった。
日本では、武士が鎌倉幕府を作り、鎌倉と京都の2 元国家となった頃である。日本は7世紀から国家体制を中国から輸入しており、日本の方が国の体制としては先進性を感じるが、日本は中国の元にこの後に海から攻められるも、外国に攻めて出たのは17 世紀の秀吉だけである。
フランスは、この後13 世紀、14 世紀と王の力を貯めて、ルネサンス・大航海時代を迎え、宗教戦争をまとめ、植民地を作り、17 世紀に世界を圧倒する国家となる。
第6項 長い13世紀
1180年~1328 年をフランスの歴史書では「長い13 世紀」とある。1180 年フィリップ2 世が戴冠した時から、7 代後のシャルル4 世が亡くなりヴォロア朝に替わる1328 年までを指すのだが、とりわけ、フィリップ2 世、ルイ9 世、フィリップ4 世の3 人の王が王国の姿を変えた。
14~15 世紀の国の変化は、100 年戦争によって疲弊し、変わらざるを得なかったと違い、勇ましい。
●ローマカトリック教会との関わり 8:結婚・戦争・買収・異端
フィリップ2 世(1165~1223)は、王の直轄地をひろげ、尊厳王(オーギュスト、AugusteAuguste)と呼ばれた。方法は3 つある。
結婚:例によって3 回もの結婚をしている。1198 年に新教皇インノケンティウス3 世は3回目の結婚は無効であるとフィリップ2 世を破門し、フランスを聖務停止とした。最初の妃の持参金のアルトワは、息子のルイ8 世に継がせて直轄地とした。
戦争:イギリス王のジョンと2 度の大戦に勝ち、ノルマンディを得た。ジョンに味方したフランスの有力諸侯フランドル伯、ブローニュ伯の土地も取る。
買収:北フランスのクレルモン・タン・ボヴェージ伯領を買い上げた。
異端:アルビジョワ十字軍(1209~1229)「教皇は太陽であり皇帝は月である。」と権勢を誇ったローマ教皇インノケンティウス3 世は、南フランスのアルビジョワ派(カタリ派)を異端と断定し、アルビジョア派の殲滅とそれを保護する南仏諸侯の征伐のため、十字軍を呼びかけた。
南仏の有力封建君主であるトゥールーズ伯レーモン6 世は、当初はアルビジョア派を規制することを誓い十字軍に参加したが、北仏レスター伯のシモン・ド・モンフォールの狙いは南仏の征服であり、レーモン6 世はイギリスに逃げ、1215 年に征服した。1217 年レーモン6 世親子が民衆を味方にトゥールーズ領を奪還する。
ルイ8 世(1187~1226)はレーモン7 世を破門にさせ、1226 年に十字軍を率いて、ランドック、オーベルニュ、神聖ローマ帝国(962~1806)領のアヴィニョンも落とし、1229 年トゥールーズ領は消えた。
この20 年にも及ぶ十字軍は、他の十字軍と同様に、異端者を無残に殺すだけでなく、新興の北ゲルマンが、かつては豊かな先進地であった南を征服する事であり、ベネチア軍が主力の第4回十字軍(1204~1261)が東ローマ帝国をほろぼし、フランドル伯ボードゥアンがラテン帝国(1204~1261)の皇帝についた姿と重なる。
ローマ教皇が仕掛けた宗教戦争でなく、貴族が富を求めた征服であり、先進地の文化を壊すのだが、結果、吸収することにもなった。南仏のオック語は南仏の文化と共に消え、ルイ9世(1214~1270)はフランク人の王でなく、フランス国王を名乗るようになった。
ルイ9世は死後「聖人」に列せられた唯一の王である。第6回十字軍(1248~1254)では、エジプトを攻め捕虜となり、第7回十字軍(1270)では北アフリカのチェニスを攻めそこで死すので、戦利品はなかったが、フランスの力をローマカトリック世界に示した。王の直轄地には、バイイ、セネシャルと言う王国役人を地方に配した。パリ大学が作られ、そこから王国役人が輩出されるようになる。
● ローマカトリック教会との関わり 9:王、教皇に勝つ
フィリップ4 世(1285~1314)は、1303 年、ローマ教皇ボニファティウス8 世をイタリアの山間都市アナーニで捕らえるアナーニ事件を起こし、ボルドーの司教であった教皇クレメンス5 世をアヴィニョンへ移住させ、教皇のバビロン捕囚(1309~1377))を引き起こして教皇権に対する王権の優位を確立した。
神聖ローマ帝国のハインリッヒ7 世がイタリアを侵略(1310~1313)しており教皇は帰れなかったのだが、68 年の間に7 人のフランス人教皇が続く。ローマにもどるも、アヴィニョンにも教皇が立ちローマカトリック教会の分裂は1417 年の神聖ローマ帝国内のコンスタンツ会議まで続いた。
1307年テンプル騎士団全員を一世に捕らえ、1314 年テンプル騎士団長を異端裁判にかけ火刑し、その富を取り上げた。 フィリップ4 世は、イギリスと結んだフランドル、ガスコーニュを支配しようと1294 年から死ぬまで20 年間戦争を続け、戦費が必要であった。1306 年にはフランス国内のユダヤ人をいっせいに逮捕、資産を没収した後に追放する。
全国に新たな税を課す為に三部会(僧侶、貴族、平民)を1302 年にノートルダム寺院で開き、教会にも税を課した。これがローマ教皇ボニファティウス8世を怒らせ、アナーニ事件と繋がる。裁判所であるパリ高等院をつくり売官できるようにした。立法とは王が王令で示すものであった。1789年フランス革命の三部会は、この中世に始まったものであった。フィリップ4世側近には、聖職者であると共に法曹(レジスト)であるギョーム・ド・ノガレやアンゲラン・ド・マリニーがいた。
第7項 中世のパリ
フィリップ2 世の戴冠時1180 年のパリの絵である。王国の直轄地を増やすとともに、パリは首都として拡大する。
パリ伯の司教座都市は1086 年に王領地となり、入札制で統治を請け負う代官プレヴォによって治められた。1261 年フィリップ二世の城壁によって拡大されたパリの管区改革が行われ、ルイ9 世はプレヴォに国庫から報酬を出して、エチエンヌ・ボワローを任命した。彼は裁判・財政・軍事において周辺地域を含めて王権を代表した。
1121年に作られたパリ水上商人組合は、やがて河川交易を独占し、利益を王とわけ、船着き場、河岸の修繕の為の国王税の徴収も代わりに行った。セーヌ川は葡萄酒、小麦、木材を商う特権的な流通を支えるパリの原点であった。フィリップ2 世に命じられた城壁の費用もねん出した。
1260 年の管区改革で、水上商人組合は都市代表組織と変わり、プレヴォリは相変わらず治安維持、団体の監視を行う行政府であるが、国王と国王税を協議し、道の舗装、城壁の維持管理、飢餓対策、都市の防衛費用と、パリの政治的代表としての性格を強めていく。
14 世紀には、商人会頭と4 人の参審人、罰金と税を徴収し都市財政の管理運営を行うパルトワールの書紀をトップとして、パトロワールに不定期に参加する平民がいて、基底には都市商人に継続的に雇用される執行官、巡邏で構成されるグループがいた。パトロワールはセーヌ川の特権をまもる裁判所でスタートしたが変容を重ねた。14 世紀初頭に人口20 万人となり欧州一の都市となる。
応仁の乱の前の京都の人口15 万人に匹敵するが京都の都市域・碁盤の目はパリの5 倍、23㎢あった。従って、実際に人が住む、上京と下京の中世の京都となる。
国王も、国の中央行政を担う高等法院、国王会計院をおき、パリに住むようになる。ルーブル宮は中世都市の典型として、フィリップ2 世の城壁の一部として作られた。
この16 世紀のパリの絵では、フィリップ二世の城壁を壊して、シャルル5 世からルイ13 世にかけて作られた城壁がセーヌ川右岸にある。この城壁がルイ14 世に壊され、19 世紀のパリを彩るグラン・ブールヴァールとなる。
●ローマカトリック教会との関わり 10:ノートルダム寺院は、「長い13 世紀」と言われたフランス国の成長とあゆみを合わせて完成している。
バジリカ・ロマネスク様式のパリのノートルダム(我らが貴婦人=聖母マリア)寺院は、1163 年に着工し1225 年に完成している。以後、前面の双塔は1250 年。ゴシック様式のフライイング・バットレスをつけて、ほぼ今の姿に竣工したのは1335 年であた。
フランス革命によって荒らされたので、1864 年に中央に尖塔を建てて全体改修を終えたが、2019 年4 月15 日の夕方に大規模火災が発生し崩れた。
第8項 百年戦争
1337年に始まり、1453 年に終結されたとされている。18 世紀末の歴史家の命名「100 年戦争」なのであって、当人たちにはそんなくくりはなかった。
フランス王がカペー家から先王の従弟であるヴォロア家のフィリップ6 世に替わった事「男系男子」の系譜に対し、イギリスの王エドワード3 世が、母のイザベラがフランス王フィリップ4 世の娘であり先王の甥となる「女系男子」の方が血が濃いと王位継承権を主張した事を戦争の端緒としている。
1066年ノルマンディ公がイギリスを征服して以来、ノルマン・コンクェストという捻じれた関係「イギリス王は大陸ではフランス王の臣下」から、常に英仏の争いがある。
1154 年、イギリスにプラネジット王朝を打ち立てたイギリス王ヘンリー2 世は大陸と島にまたがる巨大な「アンジュ―帝国」を作ったのだが、「長い13 世紀」によって、大陸の領地がギュイエンヌ公領のみになったので、その領土(1300 年フランドル領もフランスに併合)挽回戦争であった。また、イギリスと争うスコットランド王がフィリップ6 世に逃れた意趣もあった。
終結は大陸に最後まで残ったイギリス領ボルドーが陥落した年としているが、イギリスは1801 年まで「フランス王」を名乗り続けている。
途中に休戦もあり、「00の戦い」を順に追ってもわけがわからなくなるが、歴史家が100 年とくくる意義は、根底には英仏王家の争いなのだが、周囲のヨーロッパの諸勢力30 ケ国余(ブルゴーニュ、ブルターニュも一つの国)を巻き込んだ国際戦争であり、それが長引かせた理由であると共に、この戦争の終結がヨーロッパ人に「国家」を意識させ、宗教戦争を潜り抜け15 世紀から16 世紀にかけて、主権国家を作っていくことにある。
● ローマカトリック教会との関わり 11:教皇も王もペストを恐れ都市から逃げ出す。
戦争は勝っても負けても戦費を喰い、戦場で略奪を受ける農民には苦しい時代であったが、さらに、この時期にペスト(黒死病)がヨーロッパを席巻し、人口の3 分の1 が亡くなるという暗黒の時代であった。気候が寒冷期に入り飢餓も頻発し、フランスでもイギリスでも農民の反乱がおきる。
ジャン二世(1319~1364)は1356 年ポワティエの戦いで敗れ捕虜となり、三部会はパリ商人会頭を中心にこれ以上の戦争継続に反対するが、王太子シャルル(後のシャルル5 世1338 年 ~1380 年)はパリを包囲し商人会頭を暗殺し、父の身代金を臨時課税し、1360 年ジャン2 世は戻る。イギリスはギエンヌからアキティーヌ(イギリス王妃となったアリエールの故地)へと領地を大きく拡大する。
●ローマカトリック教会との関わり 12:聖人ジャンヌダルク、パリを攻める。
シャルル6 世(1368~1422)が1392 年に発狂し、ブルゴーニュ公フィリップ(シャルル5 世の弟)その子のジャン1 世(1371~1419)を中心とするブルゴーニュ派と王弟のオルレアン公とその息子シャルル・ド・ヴァロワの間で内戦が起きる。1415 年、この内乱を見てイギリスのヘンリー5 世は北フランスを攻め連戦連勝をする。
1419 年、王太子シャルル(後のシャルル7 世1403~1461)がジャン1世を和解交渉の場で殺害し、子のブリゴーニュ公フィリップ3 世(1396~1467)はヘンリー5 世と同盟を結び、シャルル6 世の死後にヘンリー5 世とシャルル6世の娘の子ヘンリー6 世(フランス王の戴冠はパリで1431 年)がフランス王となるトロワ条約を結んだ。王太子シャルルはブルージュにいてロワール川南を支配し、北フランスを支配するイギリス連合軍に対抗する。
1420年12 月1 日ヘンリー5 世はシャルル6 世とフィリップ3 世と共にパリに凱旋した。パリ大学と三部会はトロワ条約を支持した。
イギリス連合軍が圧倒的に優位となった時、男装のジャンヌ・ダルクが現れる。「オルレアン包囲戦1428 年10 月12 日から1429 年5 月8 日」である。イギリス軍に包囲されたロワール川沿いのオルレアンは半年間にわたりイングランドが優勢であったが、「Ou Nom De (神の名の元) 」と叫ぶジャンヌ・ダルクの到着後9日間で、イングランドによる包囲は崩壊した。
7月17日、ジャンヌを従えた王太子シャルルはランスのノートルダム寺院で戴冠し、フランス国王シャルル7世となった。 1429年9月3日~8日、3,000人のイングランド兵とパリ市長以下市民6000人が守るパリをフランス軍は包囲する。そこでジャンヌ・ダルクは石弓の矢が当たって脚を負傷し、フランス軍も撤退した。オルレアンと全く反対の事が起きた。
フランス人であるパリ都市民は、フランス王でなくイギリス王を支持したのである。1435年、シャルル7世はブルゴーニュ公フィリップ3世と和約し、包囲戦から7年後の1436年4月13日、フランス王軍とブルゴーニュ軍に対してパリ市民は自ら城門を開いた。
1430年、ジャンヌ・ダルクは少数の志願兵を率いてフランス軍が籠るコンピエーニュに向かった。ジャンヌ・ダルクはブルゴーニュ兵に捕らえられ、イギリスに引き渡され、1431年11月99日に、イギリスの占領統治府が置かれていたルーアンで、異端審問裁判が開始され、5月30日に火刑にされた。復権裁判法廷は、1456年にジャンヌの無罪を宣告し、1920年に、ローマ教皇ベネディクトゥス15世がジャンヌ・ダルクを聖人とした。
● ローマカトリック教会との関わり 13:国家教会主義(ガリカニスム)
1438 年、シャルル7 世はガリカニスムに拠る「ブールジュの国事詔書」を公布し、フランスの司教の任命は王の権限だとした。
中世の権力は神から与えられた王の「王権神授説」から、領地を治めるそれぞれ世俗と聖界の2 元の権力者になり、王が戦費を集める中で税金の徴収を王権が直接行うようになり、司教は王の意に動く政治家になっていく。
1516 年、フランス王国フランソワ1 世はレオ10 世教皇と ボローニャ政教条約を締結し、国王が司教の指名権を持つことを教皇についに認めさせ、国家教会主義(ガリカニスム)が完成した。
イギリスのヘンリー8 世が1534 年ローマ カトリック教会から分離して国教会成立させたことだけが有名だが、ヘンリー8 世が6 人の妻を持つために「離婚したい」からでなく、フランス、ドイツでも同様にローマカトリック教会からの離脱を王は図ったのである。
●フランス王の直轄地の拡大。
ルイ11 世(1423~1483)は、軍隊を使わず領土を広げていく。
〇ブルゴーニュ公はフランスと神聖ローマ帝国の間に国を作ろうと、ブルゴーニュ公領とブルゴニュー伯領をもって頑張っていたが、フィリップ3 世の子シャルル(1433~1477)が亡くなると直系男子が途絶えたからとルイ11世は王領に召し上げた。
どうして、こんなことができるのか。ブルゴーニュ公は、王が配したからである。封建制度として、地方には土着した諸侯、騎士がいるが、そのトップの伯爵、公爵は王の弟など親族が配され、フランス国を「長い13世紀」をかけてまとめて来た。フィリップ3世の祖父であるフィリップ2世が第一代ブルゴーニュ公であり、彼は王シャルル5世の弟でありシャルル6世の叔父であって、幼い王の後見人であった。
〇シャルル5 世の父ジャン2 世は、アンジュ―にもルイ1 世(1339~1384)を配して初代アンジュ―伯としている。彼はイギリスの捕虜となったが逃げだしたので父が代わりにイギリスに人質として渡る。彼はアキテーヌ公領を征服したのち、南フランスのランドック(征服したトゥールーズ伯領)の代官につき重税をかけ住民の蜂起を受けて王に更迭されるも、ナポリ女王ジョヴァンナ1 世(アンジュ―家の系譜)の養子となり、アヴィニョン教皇クレメンス7 世の支持を取り付けて南イタリアに進出しナポリで死す。次の王朝ヴォロア・アンジュ―家の祖となる。
〇ブルタニュー公領は受け継いだブルタニュ―公女のアンヌがシャルル8 世(1470~1498)との結婚で併合された。シャルル8 世はナポリ王の継承を主張し、1495 年にナポリ王になったが統治できず、スゴスゴとフランスに帰っていくしかなかった事で有名な王である。彼はメディチ家をフィレンツェから追放し、マキャベリの君主論に出てくる王たる王であった。
〇ブルボン公の所領は1521 年に女公シュザンヌが死ぬと、夫のブルボン家シャルル3 世への相続がフランス王のフランソワ1 世によって阻止され、王がブルボン公の所領を吸収した。王の親のルイーズ・ド・サヴォアが女公シェザンヌに血縁上一番近いと高等法院に訴え、シャルル3 世が神聖ローマ帝国皇帝カール大帝に逃げ込むと、王は反逆罪を宣言したのである。罠にかかったブルボン公としか見えない。
第9項 フランス ルネサンス
レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452~1519)を1516 年に招いたフランス王、フランソワ1世(1494~1547)の治世の時を、ルネサンスとフランスでは言う。
ミラノ公国を占領しスフォルツア家を追い出した彼は神聖ローマ帝国の皇帝を夢見て、ハプスブルク家ブルゴーニュ公のカール5世(フランドル生まれ、スペイン王としてはカルロス1 世)と争ったが選挙(1519 年)で負け、ドイツとスペインに領土を持ったハプスブルク家に挟まれた。
イタリアを巡ってのカール5 世(1500~1558)と争いは、子のアンリ2 世まで続く。1525 年パヴィアの戦いでは捕虜となりスペインに1 年幽閉される。
反ハプスブル家の同盟を教皇、イングランド王ヘンリー8 世、ドイツのプロテスタント諸侯(ルター派)と結ぶ。さらに、異教徒であるオスマン帝国のスレイマン1 世と秘かに結びつき、1529 年第一次ウィーン包囲をけしかけたりもしている。
戦争では成果があがらなかったフランソワ1 世だが、イタリアルネサンス(文芸、絵画、建築)を愛し、フランスに持ち込んだ。活版印刷によってラテン語の聖書が各国語に訳され、これがルター(1483~1546)カルヴァン(1509~1564)の「聖書に立ち返れ」という宗教改革の原動力になったのだが、印刷物の流布は宗教だけでなく、人文主義全般に言える事である。
1530 年には保守的なスコラ学のパリ大学、ガイリカニスムの高等法院後に対抗して、後にコレージュ・ド・フランスとなるコレージュ・ロワイヤル(Collège Royal Royal)を設立し、ヘブライ語・ギリシャ語・ラテン語をフランス語に訳させ、さらに、1539 年にヴィレル・コトレの勅令「公文書、司法書類には、ラテン語でなくフランス語を用いよ。」を出す。
●ローマカトリック教会との関わり 14:プロテスタント弾圧
王の姉のマルグリット・ド・ナヴァールがカトリック教会の改革運動、福音主義を応援した事もあり、当初は宗教改革を擁護していたが、カルヴィンが1536 年「キリスト教綱要」を出版すると、教会の分裂を恐れ、1540 年フォテンブロー王令で世俗裁判所に異端取り締まりの権限を与え、子のアンリ2 世は1547 年にパリ高等法院内に特設火刑裁判所を設置し、プロテスタントへの弾圧を強めた。
〇フランスの宗教改革 教皇レオ10 世が聖ピエトロ大聖堂の為にドイツで大量の免罪符を販売し、ルターの免罪符を非難する1517 年「95 か条の論題」が出され、南ドイツの商工業者がプロテスタントし、ルター派が生れた。 フランスには免罪符騒動はなく、フランス生まれのカルヴィン(1509~1564)によって宗教改革が始まった。カルヴァン自身はパリを逃げ出しジュネーブに行き30 年に渡り神権政治を行う。職業は絶対的な神から与えられたものであり(職業召命観)得られた富の蓄財を認め、聖書の権威、長老による教会政治、信者の訓練に特色がある。
〇反宗教改革、イエズス会が生れる。 1534 年8 月15 日イグナチオ・デ・ロヨラとパリ大学の学友6 人は、モンマルトルの丘にあったサン・ドニ大修道院教会堂(現在のサクレクール寺院の場所)で、「清貧と貞節、エルサレムへの巡礼」の誓いを立てた。「自分にとって黒に見えても、カトリック教会が白であると宣言するならそれを信じよう」と、教皇への服従を第一に唱えながらも、カトリック教会には改革と刷新の必要があることを十分に理解し、教会にはびこる汚職、不正、霊的倦怠を激しく批判した。られた富の蓄財を認め、聖書の権威、長老による教会政治、信者の訓練に特色がある。
学校を作る事、プロテスタントの拡大に対するカトリックの「防波堤」となる事、非キリスト教徒を信仰に導く宣教活動をするの活動の3 本柱により、ナバラ王国生まれのフラシスコ・ザビエル(1506~1552)が1545 年に日本に来る。
王権のもとに国をまとめていくには、国境を越えて自由に活躍し、教皇への忠誠を誓うイエズス会は目障りであり、18 世紀にはイエズス会員はフランス国外退去とした。
フランソワ1 世はアメリゴ・ヴェスプッチのスポンサーとしてその航海を援助した。新大陸の中南米を押さえたカール5 世に対抗し北米を狙ったためである。またジャック・カルティエをカナダ植民に送り出し、ヌーベルフランス(フランス領カナダ、現在のケベック州)の基礎を築いている。
第10項 宗教戦争 ユグノー戦争(1562~1598)
宗教戦争には、オランダ独立戦争(1568~1609)、三十年戦争(1618~1648)もあるが、ユグノー(カルヴァン派のフランスでの名前)と国王との戦いを記す。
36 年間、8 次にわたる長い内戦であったので、主人公も代わり、例によってイギリスもフランスに攻めてくる。多くの血を流した宗教戦争であるが、高校の教科書では一行でしかなかった。「カトリックとプロテスタントの宗教の分裂は国の分裂」である。
大雑把に語ると、カトリックはキーズ公(ロレーヌ公領)兄弟とその子が主役で北仏を地盤にし、スペインフェリッペ2 世が後押し、ユグノーはコンデ公(ブルボン公領)兄弟との子たちが主役で南仏を地盤にし、イングランド女王エリザベス1 世が後押ししており、英西戦争(1585~1604)のフランス国内版の様相も持つ。
日本の宗教戦争は、1532 年に京都で法華宗が浄土真宗の寺を焼いた「天文法華の乱」、山科の浄土真宗が法華宗に襲われた「山科本願寺の戦い」と、その報復として延暦寺勢力に1536 年に京都の法華宗の21ヵ寺が全て焼かれた「天文法難」があるが、細川、六角の戦国武将が絡むも国土の統一には宗派の戦いは関係ない。
戦国武将の織田信長が、比叡山焼き討ち、長島一揆壊滅、石山寺本願寺占領を行い、宗教勢力を一期に潰して、国内統一がされた。イエズス会が日本に入るも、日本は鎖国政策をとってしまい、本願寺は東西に分かれ、武士が領地を治める戸籍管理に使われた。
● ローマカトリック教会との関わり 15:妥協の産物、ナント勅令
ブルボン朝初代のアンリ4 世はプロテスタントであったがカトリックに改宗して1592 年2 月シャルトル大聖堂でフランス王となり、1598 年4 月アンリ4 世は「ナント勅令」を発し、プロテスタントの信仰の自由を保障し、一定地域に限られてはいたが、礼拝を認めて終結した。
この凄惨な戦争の中で、カトリック、プロテスタントのどちらの民衆も、ユダヤ人排斥、魔女狩りを行って多くの人々を殺している。
「信仰の自由」の文言により「ナント勅令」が美化されて教えられているが、イスラム教徒は当然いまも敵(1492年レコンキスタ完了)であり、真の「信仰の自由」ではまだ無い。キリスト教が割れた中で国王が国をまとめきれず、民衆は混乱し、疲弊する。
絶対王政君主となったルイ14世は、87年後の1685年10月18日に「フォンテーヌブローの勅令」によって「ナント勅令」を廃止しプロテスタントを非合法化した。ユグノーは拷問を受け改宗を迫られたので、イングランド、プロイセン、オランダ、そしてスイスへ移住した。
ルイ16世の1787年11月7日「ヴェルサイユ勅令」で「フォンテーヌブローの勅令」が廃止され、プロテスタントも公民となりようやく結婚ができるようになった。
フランス革命で「自由と平等」の人権宣言が1789年8月26日に憲法制定国民議会で採択されるまで、まだ12年かかる。
それでは、煩をいとわず、陰惨な争いを年毎に書いていこう。日本の教科書では凄まじさがわからない。
〇1559年 、アンリ2世は、アンリ2世の娘エリザベートとスペイン王フェリペ2 世の結婚を祝う宴の一環で行われた槍試合で事故死する。フランソワ2 世(1544~1560)の妃で、生れてわずか6 日でスコットランド女王となったメアリー1 世(1542~1587)の母の出であるギーズ家(キーズ公フランソワ、弟のロレーヌ枢機卿)が王宮の実権を握った。
〇1560 年3 月、プロテスタント貴族ラ・ルノーディを中心とする不平貴族たちが国王フランソワ2 世を誘拐してギーズ家を除こうと謀った。だが陰謀は露見し、数百人の容疑者たちが処刑されてしまう。ギーズ公フランソワはブルボン家のコンデ公ルイが黒幕であると疑い、コンデ公ルイは11 月に逮捕された。この若く弱い王の前での貴族の政権闘争を「アンボワーズの陰謀」と言う。
〇1560 年にユグノーによるカトリック教会に対する最初の聖像破壊がルーアンとラ・ロシェルで発生し、翌年には20 の都市に広まった。これに激怒したカトリックの都市住民による流血の報復がリヨン、サンス、カオール、カルカソンヌ、トゥールその他の都市で行われる。
〇1560 年12 月、フランソワ2 世が死去し、弟のシャルル9 世(1550~1574)が即位。メディチ家出身の王太后カトリーヌ・ド・メディシスが摂政となる。14 歳が王となる年齢とされていたので、王親政の前に母親、叔父が摂政となるのが通常であった。
キーズ公のロレーヌ公領はフランスとドイツにまたがる独立国であり力が強かったので、摂政カトリーヌはブルボン家当主でありナバラ王のアントワーヌ(1518~1562)を国王総代官となし、アントワーヌの弟コンデ公ルイ(1530~1569)に特赦を与えた。
アントワーヌ(後のフランス王アンリ4世の父)はプロテスタントからカトリックに改宗する。7歳であった後のアンリ4世も宮廷に1561年に入りカトリックに改宗する。プロテスタントの母は宮廷を出てコンデ公ルイの元に行く。
〇1562 年1 月17 日 - サン・ジェルマン勅令(一月勅令)
フランス人口1800 万人の内、カルヴァン派が10%となり、反乱を回避するため城壁外および屋内での礼拝を容認した。
〇1562 年3 月1 日 - ヴァシーの虐殺
だが、3 月1 日、シャンパーニュのヴァシーでギーズ家の郎党が礼拝をしていたカルヴァン派を襲撃し、虐殺する事件が発生してしまう。
〇1562 年3 月~1563 年3 月 第1 次戦争
コンデ公ルイは「悪」の貴族たちから王と摂政を解放すると宣言をし、プロテスタント教会を組織化してロワール川沿いの町々を占拠し、軍隊を駐留させた。ヴァシー虐殺を彼の軍事行動の大義名分に用いた。そして、戦闘が起こると実際にこのサン・ジェルマン勅命は、ギーズ家の圧力によって取り消された。
ユグノーは イングランド女王エリザベス1 世と条約を結び、援助の見返りにセーヌ川河口の港町のル・アーヴル、ディエップ、ルーアンを引き渡す約束をする。これに従い、イングランド軍がル・アーヴルに上陸した。ルーアン包囲戦(1562 年5 月 10 月)ではカトリック国王軍が町を奪回した。コンデ公ルイと国王軍として戦ったルイの兄、ナバラ王アントワーヌが流れ弾で戦死した。
〇1562 年12 月19 日 ドルーの戦い
双方8000人の兵が死す。カトリック軍はスイスの傭兵がメインであり、長槍をもって方形に固まっている歩兵の中に火縄銃隊がいる。
〇1563 年2 月のオルレアン包囲戦において、ギーズ公フランソワがユグノーに銃撃され、その傷が元で死亡した。ギーズ家はユグノーのコリニー提督の差し金である暗殺であると信じた。
暗殺だとして引き起こされた暴動とオルレアンが陥落しないため、摂政カトリーヌが和平調停を行い、アンボワーズ勅令が発せられた。
〇1567 年9 月~1568 年3 月 第2 次戦争
王家はカトリック、ユグノー両派の和合はイングランドに占領されているル・アーヴルの奪回のために必要であると考えていた。1564 年7 月にイングランドを追い出すことに成功し、翌月シャルル9 世は成人を宣言、カトリーヌ・ド・メディシスの摂政は終わった。しかしカトリーヌはなおも政治を主導し続け、1566 年にかけて彼女は息子の国内巡幸に同行して国王の権威の再興を図っている。後のアンリ4 世も随行している。巡幸の最中の1565 年2 月、カトリーヌはスペイン王首席顧問アルバ公とバイヨンヌで会談を持った。
フランドルでの聖像破壊の報告を受けたシャルル9 世が、この地のカトリックへの支援を行ったことが、ユグノーたちに危機感を起こさせた。スペイン軍がフランドルでのプロテスタントの反乱を鎮圧するためフランス領を通過し、その警戒のために国王が軍備を増強させたこともまた、ユグノーを恐れさせ、政治的不満が増大した。
〇1567 年9 月にプロテスタント軍はシャルル9 世を誘拐して自陣営に取り込もうと謀ったが失敗(モーの奇襲)、続いてラ・ロシェルなどのいくつもの都市がユグノー側に就くことを宣言した。ニームではカトリックは聖職者も平民も虐殺され、この事件はミチェラード(MicheladeMichelade)と呼ばれている。
〇1567 年にアンリ4 世(15531553~16101610)は母にベアルンへ連れ帰され、ユグノー陣営に加わった。ベアルンでカトリックの反乱が起こると、アンリは初めて軍隊の指揮を執り、見事に撃退している。アンリは母と共にユグノーの本拠地ラ・ロシェルに入った。
この事件が第2 次戦争を引き起こした。主な戦闘はサン=ドニの戦い(1567 年11 月10日)で、国王軍が勝利したものの司令官アンヌ・ド・モンモランシーが戦死している。その後、ユグノーはオルレアンとブロワを攻略してパリに迫る。
〇1568 年3 月にロンジュモーの和議が結ばれ、プロテスタントに対して信仰の自由と権利が与えられた。
〇1568~70 年 第3 次戦争
1568年夏、この和平に反抗するようにカトリックが各地でユグノーの迫害を始め、ユグノーもこれに報復してカトリックを虐殺した。異端者の魔女狩りはこの虐殺の系譜である。王太后カトリーヌ・ド・メディシスは協調派の大法官ミシェル・ド・ロピタルを罷免し、政情はカトリック優勢へ傾いた。
身の危険を感じたコンデ公ルイとコリニー提督らユグノー指導者たちは宮廷を脱出したが、彼らの部下の多くが殺害された。9月、サン・モール勅令が出され、ユグノーの礼拝の自由は再び禁じられてしまった。コンデ公ルイは、フランス南西部の軍勢とドイツからのプロテスタント兵1万4千の傭兵の助けを受けて強力な軍隊を編成した。
〇1569年3月 - ジャルナックの戦い
ユグノーのコンデ公ルイが戦死し、狂喜した王弟アンジュー公アンリ(後のフランス王アンリ33世1551~1589)はコンデ公の死体をロバにつないで引きずり回している。
傭兵部隊はコンデ公ルイの戦死後もユグノーに雇用され続けており、このためにユグノーはナバラ女王ジャンヌ・ダルブレの王冠の宝石を担保にイングランドから借金をしている。ユグノーの軍資金の多くはイングランド女王エリザベス11世から提供された。
カトリック国王軍は王弟アンジュー公アンリが大将となり、スペイン、教皇領、トスカーナ大公国の援軍を得ていた。ユグノー軍はラ・ロシェル防衛のためにポワトゥーとサントンジュ地方の幾つかの都市を包囲し、それからアングレームとコニャックを攻めた。
ユグノーはコンデ公ルイの15歳の息子アンリを名目上の司令官としてコリニー提督が指揮を執ることになり、また国王の権威に対抗するために戦死したナバラ王アントワーヌと女王ジャンヌ・ダルブレの16歳の息子アンリ・ド・ベアルン(後のフランス王アンリ44世)を指導者とした。
〇1569年6月 - ラ・ロッシュ=ラ・ベイユの戦い ユグノーは勝利したもののポワチエを奪取することはできず。
〇1569年10月 - モンコントゥールの戦い
ユグノーは国王軍に大敗を喫してしまう。コリニーと彼の軍隊は南西部へ後退してモンゴムリ伯ガブリエル・ド・ロルジュ(アンリ2世を馬上槍試合で殺しカトリーヌ妃に恨まれ1574年パリ市庁舎広場で斬首)と合流し再編を行い、1570年春にトゥールーズを掠奪して南部への連絡路を切断、そしてローヌ渓谷を進軍し、パリから200kmのラ・シャリテ・シュルラ・ロワールに達した 。
〇1570年8月8日 戦争によって王家の負債は激増しており、シャルル99世が平和的解決を望んだためサン・ジェルマン和議で終結。
● ローマカトリック教会との関わり 16:パリ、サン・バルテルミの虐殺
1572 年8 月18 日、フランス王シャルル9 世の妹、王女マルグリットと、プロテスタントのナバラ王アンリ(同年6 月の母の死により王位を継承、後のフランス王アンリ4 世)の結婚で手打ちにしようと、コリニー提督やその他のカルヴァン派貴族たちがパリに来る。 ユグノーによる報復クーデターを恐れたカトリックのギーズ公アンリ(キーズ公フランソワの長男1550~1588)とその一派は行動を起こし、サン・バルテルミの祝日である8 月24 日早朝に従者とともに宿屋にいたコリニー提督を襲撃して殺害した。
コリニー提督の死体は窓外へ投げ出され、その後、死体はパリ市民によって無残に切り刻まれ、切断されて、群衆の中を引き回された末に川に投げ込まれ、絞首台に釣り上げられた後に焼かれた。その後5 日間にわたって大規模な虐殺が行われ、カルヴァン派は男も、女もそして子供までも殺され、彼らの家々は略奪された。 これらの蛮行に王の許可は当然なく、結婚式に参列するためにパリに来たユグノー貴族たちの殺害は予測されないことだった。王であるシャルル9 世に権力はない。異端であれば、ユグノーも魔女狩り同様に惨殺される。
5週間にわたり、十数の都市で無秩序が広まった。結局、パリではおよそ2000 人のユグノーが虐殺され、地方ではおそらく1 万人が犠牲となった。ナバラ王アンリと従弟コンデ公アンリは、カトリックへの改宗に応じたことで辛うじて死を免れた。
〇1572~73 年 第4 次戦争
虐殺はさらなる軍事行動を引き起こし、カトリック軍はアンリ・ド・モンモランシーの軍がソミエールを、アンジュー公アンリの軍がサンセールとラ・ロシェルを包囲した。
ブローニュ勅令「以前ユグノーに与えられた権利を縮小したもので、全てのユグノーに過去の行動の赦免と信仰の自由が与えられたが、礼拝はラ・ロシェル、モントーバン、ニームの3 都市でのみ許され、しかも住居内のみであった。」で終結。
〇1574 年5 月、シャルル9 世が死去した。王太后カトリーヌはアンリが帰国するまで摂政に就任すると宣言する。アンジュー公アンリ(フランソワ2 世およびシャルル9 世の弟。ポーランド初の選挙王、ポーランドではヘンリク・ヴァレジと呼ばれる。)がポーランド王に即位した3 ヶ月後であった。アンリは極秘裏にパリに戻り、ポーランド王を放棄し、1575年2 月フランス王アンリ3 世となる。
〇1574~76 年 第5 次戦争
パリ城内を除くフランス全土でのプロテスタントの公的礼拝を許すボーリュー勅令で終結。パリはカトリック教徒の牙城であった。
〇1576 年に、1572 年サン・バルテルミの虐殺以来パリに幽閉されていたナバラ王アンリとコンデ公アンリは逃走してプロテスタントに再改宗した。ナバラ王アンリ(後のフランス王アンリ4 世)は生涯で5 回も改宗している。確かに、改宗など命の前ではどうでもよいのであり、宗教戦争は民衆の間の事であり、貴族たちは政治権力を、血を流して求めていたのだっブルボン王朝を開いたアンリ4 世は、教会が分裂し、有力貴族が反目する王政の中で、カトリック教会の特権を抑え、貴族を律し、税制を改革し、役人の地方への派遣によって国の増収に努め、フランスを絶対王政に導いた。
〇1576 年 過激派のカトリック貴族がキーズ公を中心としてカトリック同盟を結成してボーリュー勅令を廃止に追い込んだ。
スペイン王フェリペ2 世とローマ教皇グレゴリウス13 世およびイエズス会はこのカトリック同盟の成果に対する満足の意を表明したが、ヨーロッパ中のプロテスタントたちには恐怖と憤慨を引き起こしている。フランスではユグノーたちが恐慌状態になり、カトリックへ改宗する者が続出し、一部は国外に亡命して、王家に対抗するユグノーの力が酷く弱まってしまった。
一方で、残ったプロテスタントはより過激になり、君主を選ぶ権利は人民にあり、君主が暴政を行うならば追放することができるとする「暴君放伐論」が唱えられた。
また、法曹家を中心とした穏健なカトリック教徒たちはカトリック過激派の暴走を危惧し、王国の分裂を防ぐためにカトリックとプロテスタントとの融和とより強い王権の確立を主張するようになり、彼らはポリティーク派と呼ばれた。
〇1576~77年 第6次戦争
これに対してナバラ王アンリを盟主とするプロテスタントが蜂起したが、カトリック側から彼に味方になる者はおらず、1577年のベルジュラックの和約ではユグノー側への宗教的寛容が大きく制限された。
〇1579~80年 第7次戦争、 これに不満な一部の急進派プロテスタントはコンデ公アンリを担いで反乱を再発させたが失敗に終わって、王国内には一時的に平和が訪れた。ル・フレクス和議で終結。
〇1584年6月 - 王位継承者の王弟 アンジュー公フランソワ 死去 サリカ法に基づきプロテスタントの大将ナバラ王アンリがアンリ33世の筆頭王位継承者となった。
〇1585~98年 第8次戦争
このことは反プロテスタント感情を再び高め、パリ市民の強い支持を得たギーズ公アンリ率いるカトリック同盟が1585年3月に北フランスの主要都市を占拠する軍事行動に出た。内乱は新国王アンリ33世(シャルル99世の弟)、カトリック同盟のギーズ公アンリそしてユグノー陣営のナバラ王アンリ(後のフランス王アンリ44世)の三つ巴のいわゆる「三アンリの戦い」と呼ばれる泥沼状態に陥る13年間だ。 フランス王アンリ3世は面目を守るためにカトリック同盟の盟主となり、ナバラ王アンリのフランス王位継承資格を奪い、カトリックに改宗を強制する勅令を発した。これに対してプロテスタント側はナバラ王アンリを指導者として戦うことを決め、イングランド、デンマークなどのプロテスタント諸国の支援を取り付けた。また穏健なカトリック教徒たちも、ガリカニスムの伝統を無視するカトリック同盟のローマ教皇との結び付きを危険視し始めた。
〇1588年5月12日、アンリ3世がギーズ公の命を狙っていると疑ったパリ市民が、ギーズ公を守るために通りにバリケードを組んで蜂起し、恐れたアンリ3世は逃亡してしまう(バリケードの日)。 16区総代会がパリ市政を掌握し、ギーズ公が市への補給路を確保した。王太后カトリーヌが仲介して統一勅令が出され、アンリ3世はヌムール勅令(1585年プロテスタントの礼拝禁止と改宗に応じない者の国外追放)の再確認、ナバラ王アントワーヌの弟でありナバナ王アンリの叔父である枢機卿シャルル(1523~1590)を王位継承者に承認、ギーズ公の国王総代官任命、といったカトリック同盟の要求をほとんど全部飲まされた。
〇1588年12月、アンリ三世はギーズ家が王権に対する脅威であると考え、カトリック同盟のギーズ公アンリとその弟を暗殺し、今度はナバラ王アンリのプロテスタント陣営と協力関係に入り、カトリック同盟に戦いを仕掛ける。カトリック同盟はアンリ三世に対する宣戦を布告する。これに対して、パリ高等法院が国王の有罪を申し立てた。
パリ市民とカトリック同盟は憤激し、アンリ3世をもはや国王と認めないと宣言して、ギーズ公アンリの弟マイエンヌ公を新指導者に推戴するに至ったため、王国は完全に二つに割れた。
〇1589 年8 月1 日朝、フランス王アンリ3 世はカトリック同盟に属するドミニコ会修道士ジャック・クレマンの謁見に応じたが、この暗殺者に短剣で殺されれる。 アンリ3 世は死の床へナバラ王アンリを呼び、国政運営のためにカトリックへ改宗するよう懇願し、もしもこれを拒否すれば酷い戦争が続くだろうと訴えかけた。サリカ法に則り、アンリ3 世はナバラ王アンリを王位継承者に指名する。翌日未明にアンリ3 世が死去し、ヴァロワ朝は断絶した。
アンリ3世のやった事は、全く筋が通らないことばかりであるが、これは宗教戦争でなく、王位の争いと見ると理解できる。その中で、パリ市民が力をつけていることに注目したい。権力者の足元・首都での市民によるバリケードはしばしば政権を倒してきたが、世界初はパリだった。
1589年時点で、新たにフランス国王に即位したアンリ4 世は南部と西部を確保し、カトリック同盟は北部と東部を支配していた。 カトリック同盟の主導権はギーズ家一門のマイエンヌ公(キーズ公アンリの弟)に委ねられた。カトリック同盟は枢機卿シャルルを「シャルル10世」として国王に擁立し、マイエンヌ公は王国総代官に任命されている。カトリック同盟はノルマンディー地方のほとんどを支配していた。二人の王が並立し、南北朝となった。
だが、9 月のアルクの戦いでアンリ4 世はマイエンヌ公に大勝を収め、国王軍は冬季に町々を攻略してノルマンディーを掃討した。アンリ4 世はフランス平定のためにはパリを攻略せねばならないと知っていたが、これは容易なことではなかった。プロテスタント化したイングランドにおける聖職者や平信徒に対する残虐行為の話がカトリック同盟によって出版され、またその支持者たちにより広められていた。
〇パリ市民はカルヴァン派の国王アンリ4 世を受け入れるよりは死ぬことを覚悟して、戦う準備をしていた。
〇1590 年3 月14 日のイヴリーの戦いでアンリ4 世は再びマイエンヌ公を破った。
国王軍はパリを包囲したが、8 月末にパルマ公アレッサンドロ率いるスペイン軍が歩兵1 万8 千と騎兵隊5 千をもって来援したため、包囲を解かねばならなかった。
〇1593 年7 月25 日、アンリ4 世は根強いカトリックのパリ市民がプロテスタントの国王を受け入れる見込みはないと悟り。アンリ4 世はサン=ドニ教会でカトリックに改宗した。
アンリ4 世はカトリック教会に受け入れられ、1594年2 月にシャルトル大聖堂において成聖式を行う。本来はランス大聖堂で行わねばならないが、ここは依然としてカトリック同盟の勢力下にあり、アンリ4 世の誠意を疑って敵対していたためである。3 月22 日、アンリ4 世は遂にパリに入城し、服従を拒否した120人のカトリック同盟のメンバーはパリから追放された。
パリの開城により他の多くの都市も後に続き、ベアルンでのカトリックの復旧と高位官職にはカトリックのみを任命すると定めたトリエント布告の見返りに教皇クレメンス8 世がアンリ4 世を赦免して破門を取り消すと、残った都市も国王の支持に回った。
国の統一とは、城を取る事、都市を取る事であった。遅れてイタリア、ドイツも周囲に農村をもつ都市国家が勢力争いをして国としてまとまっていく。フランスはパリが要だった。
アンリ4 世のカトリックへの改宗はプロテスタント貴族たちを悩ませた。その時まで彼らの多くは妥協ではなく勝利をして、フランス教会の完全な改革を望んでいたからであり、彼らがアンリ4世を受け入れたのはこのような結果のためではなかった。
〇1595 年1 月にアンリ4 世はスペインに宣戦布告を行った。これは、カトリックに対してはスペインが宗教をフランス侵略の口実に使っていると示すため、プロテスタントには国王はカトリックに改宗したが決してスペインの傀儡ではないと示すためであった。
戦いは主にカトリック同盟を標的にして、フォンテーヌ=フランセーズの戦いなどが行われたが、春からスペインが集中攻勢をかけ、4 月にカレーとアルドが占領される。1597 年3 月に国王軍はアミアンを包囲し、9 月にこれを降伏させた。これより前の1596 年1 月にマイエンヌ公は降伏し、他のほとんどの地方もアンリ4 世に帰順し、カトリック同盟は瓦解していた。
アミアンを落とすと、アンリ4 世の関心はブルターニュへ向き、1598 年初めにメルクール公を標的に進軍し、3 月20 日にアンジェで降伏を受け入れた。その後、メルクール公はハンガリーへ亡命した。
ナント勅令の後の1598 年5 月にヴェルヴァン条約が結ばれ、スペインとの戦争は正式に終わった。
〇1598 年4 月 - アンリ4 世がナント勅令を布告
〇1610 年5 月14 日、アンリ4 世は狂信的なカトリック信者に暗殺された。
ブルボン朝は、「宗教戦争」という名の身内同士の血を血で洗う権力闘争の中で、偶然できてしまったのだが、これから絶対王政に突き進み、ブルボン朝は19 世紀初頭まで続く。
第11項 ロワール川の宮殿めぐり
Palais et parc de Versailles 「ベルサイユの宮殿と庭園」の王宮から見た庭園の写真です。私がべルサイユを訪れたのは1979 年、漫画「ベルばら」が映画となってヒットした後であった。
宮殿の華麗なインテリアは赤坂離宮の延長で「ウン、こんなものか。」と想定内だったが、噴水が踊る壮麗な庭に度肝を抜かれた。ルイ14 世は水が欲しく、10km離れたセーヌ川から山越えをしての大土木工事をしていた。どうして、このような形にしたのか。イタリアから輸入された建築文化が、二人のメディチ家からの王妃もあり、華麗にロワール川沿いに花開いていたのを模し、巨大化したのであった。
絶対王政を確立し、貴族・宮臣を従えてのベルサイユ宮建設1661 年~1715 年は、国政の場をパリ市内にあったルーブル宮でなく、パリから22km離れた離宮に求めたのだ。人口が20 万人から50 万人と急拡大したパリは猥雑で不衛生であり、疫病も怖かったので逃げだしたのだと思っていたのだが、フランソワ1 世(1494~1547)がイタリアからルネサンスを輸入して以来150 年間、国王はパリにいついていない。
宗教戦争を詳しく調べてみてわかった事だが、パリ市民(平民)は武器を取って都市パリを守り、フランス王はしばしばパリから逃げ出ざるを得なかった事があった。ルイ15 世、ルイ16 世もパリを逃げ出している。逃げ出していてはパリすなわちフランスを統治できず、フランス革命が成就された。
観光戦略として、ロワール川の流域200kmを「世界遺産:ロワールの城めぐり、300城」としているが、押しなべて「城」との訳には問題がある。日本人は「城」が大好きであり、シャトー (フランス語 châteauchâteau)を「城」と訳したのであろう。
ライン川沿いの朽ちたブルグBurgBurg(古城)は館が要塞化されており中世の「城」だが、今に残るロワール川沿いのの城は「宮殿」と訳すのが正しい。パリが王のいる場所なので「離宮」でも良いが、この時期の王にとってはパリのチェルリー宮殿が「離宮」なのだった。
ロワール川沿いの宮殿にも城壁、塔、跳ね橋があり要塞化が見られるのがあるが、周りの城下町の城壁はない。町は後から宮殿のまわりに作られたものである。フィレンチェのように、都市の城壁を持ち、町の中心に広場、教会、王宮があり、それが時計塔を持った市庁舎となった中世の都市ではない。
また、ドイツの華麗な城の多くが1919世紀の金持ちの館であると同様に、今の姿は持ち主が変わって住居としての増改築が18世紀~19世紀に行われた結果であることも、宮殿と呼ぶのにふさわしい。
●シャトー・アンポワーズ
1560年「アンボワーズの陰謀」で、ギーズ公フランソワがユグノー数百人を絞首刑にした事で有名である。ロワール川の渡河の地を見下ろす高台にあり、ガロ・ロマーナの時代に既に砦があった。現在の建物規模は、往時の5 分の1 程である。
ジャンヌ・ダルクに助けられたシャルル7 世(1403~1461)が1434 年に城を奪い、イタリア戦争を始めたシャルル8 世(1470~1498)が、1495 年に2 人のイタリア人建築家、ドメニコ・ダ・コルトナとフラ・ジョコンドを雇い入れ、フランス建築では最初のルネサンスの装飾モチーフ、幾何学的構成の庭をアンボワーズに取り入れた。ルイ12 世(1465~ 1515)が庭の周りにギャラリーをもうけた。
フランソワ1 世(1494~1547)は育ったここを宮殿とし、レオナルド・ダ・ビンチをミラノから呼んでおり、レオナルドの墓が今もある。 アンリ2 世(1519~1559)と、メディチ家出身で、フランスにイタリア文化(フランス料理の祖)を持ち込んだ王妃カトリーヌ・ド・メディシス(1519~1589)は自分たちの子供(三兄弟は順に王となっている。フランソワ2 世、シャルル9 世、アンリ3 世)と一緒に、フランソワ2 世の王妃となるスコットランド女王のメアリー・ステュアート(母がギーズ家)もアンボワーズ城で育てた。
1563年シャルル9世の摂政カトリーヌがユグノー戦争の調停に乗り出し、プロテスタントに街の城壁の外なら領主と裁判官の教会においてのみ信仰を認める「アンボワーズの勅令」をここから出している。宗教戦争時の「宮廷」は、ここであった。なお、メアリーは再婚し、今至るイギリス王家の祖となる。
●シャトー・ブロア
ルイ12 世(14651465~15151515)の居城であり、王政がここで行われた。フランソワ1 世が王になると、クロード王妃はブロワ宮を改修させて宮を移ろうとする。フランスルネサンスの王、フランソワ1 世は城に新しい翼を建設し、図書室を造ったが、アンボワーズ宮を動かず、イタリアから持ち込んだ大量の蔵書はフォンテーヌブロー城に移されてBibliothèque
NationaleNationale(国立図書館)が作られることとなった。
ギーズ公アンリの暗殺1588 年:アンリ3 世は、パリ市民が怖くブロア城に滞在していた。1576 年と1588 年、ここで三部会を開く。暗殺したのも三部会の会期中であった。惨殺されたギース公アンリの遺体は、焼かれて灰は川に捨てられた。
パリ市民にカトリック教に改宗して受け入れられたアンリ4 世も使用する。アンリ4 世がの二人目の王妃であるメディチ家出身のマリー・ド・メディシス(15751575~16421642)は、アンリ4 世が死ぬと、イタリア出身のアンクル元帥ことコンチーノ・コンチーニなる人物を補佐官として重用し、アンリ4 世が腐心したカトリックとプロテスタントの融和を壊し、カトリックを偏重した。よって、子のルイ13 世によって1617 年ブロワ城に幽閉されてしまう。マリーは1619 年にブロワ城を脱出し、次男オルレアン公ガストンと共に反乱軍を決起したが、ほどなく国王軍に鎮圧された。
1626年、ルイ13 世は結婚祝としてブロワ城を弟のオルレアン公ガストンに与えた。マンサード屋根で有名な建築家フランソワ・マンサールは、オルレアン翼をルイ12 世翼と向かい合わせにし、翼の中央部分にドーリア式、イオニア式、コリント式のオーダーを重ねた。
●シャトー・シャンポール
ロワール渓谷に点在する城のうち、最大の広さを持つ。ブロア城の東15km、細いコソン川を堰き止めて、フランス王フランソワ1 世の狩場のために建てられた。夏場の短期訪問を目的に建設されたので、イタリア・ルネサンス様式の大きな部屋、開いた窓や高い天井のため、冬の暖房が行き届かなかった。また、城の周りには村や集落がないので、狩りの獲物のほかにはすぐに食べ物も手に入らなかった。
ダ・ヴィンチがシャンボール城の設計に関与していたと考えられている。城の完成が近づくとフランソワ一世は、自分の富と権力の巨大な象徴として、宿敵カール5 世をシャンボールに招待して見せびらかした。
シャンボール城は中央の本丸と4 つの巨大な塔から成る。本丸は大きな塔2 基とともに、大きな前壁を形作る。さらに大きな塔2 基の土台が後部にあるが、これらはそれ以上建設を進められることもなく、壁と同じ高さのままである。 城には部屋が440 、暖炉が282 、階段が74 ある。ヴォールト建築の直線の廊下が4 本、交差して十字を形作っている。シャンボール城には、敵からの防御を意図した構造物は何もない。128m ものファサード、彫刻された800 以上もの柱、精巧に飾られた屋根は、ビザンチンの臭いを感じる。
ルイ14 世は本丸を改修し城に調度品を備え付けた。300 頭の馬の厩舎を作らせ、狩猟に出かけたり、モリエールなどの名士を毎年数週間滞在させたりできるようにした。しかし、ルイ1414世はベルサイユ宮を建て、1685年にはこの宮を放棄した。
●シャトー・シュノンソー
ブロア城の南西30km、シェール川をまたいである。シャルル8 世侍従のトマ・ボイエは古城を壊し、1515 年から1521 年にかけて新しい邸宅を川沿いに建設した。国庫への債務のためボイエの息子によってフランソワ1 世に献上され、フランソワ1 世が1547 年に死ぬと、子のアンリ2 世(1519~1559)は城を愛妾(愛妾となったのは1538 年?)のディアーヌ・ド・ポワチエ(1499~1566)に贈った。「女の城」の歴史が続く。
ディアーヌは城と川沿いの眺めを非常に愛した。彼女はアーチ型の橋を建設し、城を向こう岸と結んだ。庭園に花や野菜、果樹なども植えさせた。川岸に沿っているため氾濫に備えるため石のテラスで補強され、4 つの三角形が配置された洗練された庭が作られた。シュノンソー城は20 歳若い王や、王の客の接待用の城として整備された。
ディアーヌは城主ではあったが所有権は王にあったため、長年の法的策略の結果、1555 年にようやく城は彼女の資産となった。
〇アンリ2 世が1559 年に死ぬと、その妻のカトリーヌ・ド・メディシスは妾のディアーヌを城から追い出した。城はすでに王室の資産ではなかったので、カトリーヌもシュノンソー城を召し上げて終わりというわけにはいかず、ショーモン城と無理やり交換させたのであった。ただし、実際にはショーモン城のほうが付属する領地からの収入が多かったし、シュノンソー城は王や来客接待用の城であり、王亡き後のディアーヌには接待の必要もなかったことから、「無理やり」ではなく双方合意の上だったという説もある。
王太合后カトリーヌは、33人の子を順に王にし、王の摂政を行なったユグノー戦争の重要な登場人物である。自分の庭を付け加え、お気に入りの滞在場所とした。やはり接待用に使ったのである。15601560年、フランソワ22世の戴冠祝賀行事ではフランスで初めての花火が打ち上げられた。グランド・ギャラリーは15771577年、川全体を横切るように既存の橋に合わせて増設された。川を渡るための橋は近隣にはなく、シュノンソー城は商業にも旅行にも必須の場所だった。
〇カトリーヌが1589年に死ぬと、アンリ3世の妻のルイーズ・ド・ロレーヌ=ヴォーデモンが相続する。シュノンソー城でルイーズは夫の暗殺を知り、うつ状態に陥った。
〇1624年にはアンリ44世の愛妾ガブリエル・デストレ(1571~1599)がシュノンソーを居城とした。33人の子を持つが結婚は認められず15991599年44月に急死する。同年、教皇からマルグリット(1553~1615)との結婚が無効であったとの宣言が下され、1600年にアンリ4世(1553~1610)はメディチ家のマリー・ド・メディシス(1575~1642)と結婚した。
〇1720年になるとブルボン公ルイ・アンリがシュノンソー城を買い取る。彼は少しずつ城の調度を売却した。すばらしい彫像の多くがヴェルサイユ宮殿に納められた。
最後に、パリ南東50km、セーヌ川沿いのフォンテーヌブローの森にある。
●シャトー・フォンテーヌブロー
フォンテーヌブローは13 世紀のフィリップ2 世やルイ9 世のお気に入りの狩場の居城であった。 現在の建築を作ったのはフランソワ1 世である。1522 年~1540 年。イタリアから入れた新たなマニエリズム様式の装飾を「フォンテーヌブロー派」と呼んだ。その後、歴代に渡って増築、改築をしている。
〇アンリ2 世とメディチ家出の王妃カトリーヌ・ド・メディシスの時代に、建築家フェリベール・ド・ロルムとジャン・ビュランによって宮殿の大拡張が行われた。 ・アンリ4 世も、フランソワ1 世とアンリ2 世にならって、彼自身の名を冠した「王の中庭」や、その隣の「ディアーヌ・ド・ポワチエのギャラリー」や「雄鹿のギャラリー」を設け、図書室として使用した。 こういった建築整備の間には「第二フォンテーヌブロー派」が生まれたが、第一派ほど実験的でも独創的でもなかった。アンリ4 世は、樹木の生い茂った庭園に1200m もの長さの運河を設けた。また彼は、松やニレの他、果樹なども植えるよう命じた。彼の庭師クロード・モレはアネの街で、図案化したパルテア花壇の修行をしている。
〇フィリップ4 世、アンリ3 世、ルイ13 世は皆この宮殿で生まれ、フィリップ4 世はこの世を去るときもフォンテーヌブロー宮であった。 1685 年にはルイ14 世により「フォンテーヌブローの勅令」が発令され、これにより1598 年のナントの勅令が破棄されることとなった。
このように5 つの宮殿を並べると、ベルサイユ宮殿へのルイ14 世のデザインコンセプトがわかる。絶対君主「太陽王」として、全ての宮殿を超えないといけなかったのだった。
●この頃にパリのルーブル宮がどうなっていたか。
ルーブル宮は、フィリップ2 世の城壁と共に、中世の城らしく城壁の一部としてパリの西の「郊外」に作られた。
以後、パリが城壁を作り直し、パリが拡大すると共に、ルーブル宮はパリの中心となる。
1615年、ルイ13 世の時代のパリの絵図である。
王はシャルル5 世以来の城壁を整備し、城壁の外に、1563 年に摂政カトリーヌ・ド・メディシスが建造を命じ、フィリベール・ドゥ・ロルムが設計したチュイリー宮殿が広大な庭を持って一番手前に見える。
セーヌ河沿いに城壁内にあるルーブル宮とつなぐ長さ400mの渡り棟も見える。これはアンリ4 世が作った。
パリ市民に受け入れられたアンリ4 世はシャトー・ブロアを相変わらず根城にするが、平民が入る三部会は当然の事、高等裁判所以下の役所はパリに置いているので、チュイリー宮殿の増改築を引き継ぎ、ルーブル宮には芸術家・工芸家を招いて住まわせ、創作活動を行わせた。これはナポレオン・ボナパルトが禁止するまで、歴代の王によって継承される政策となった。
ポン・ヌフ、国王広場、王太子広場をつくり都市空間の改造で市民にアピールしている。フランスの復興者、父なる善良王、寛容の王といった銅板画、絵画を多く作成させ自らのイメージを高めた王にとって、都市空間も同様に人気取りに必要と考えたのだった。
力を持った為政者でしかできないパリの都市空間づくりは、これ以降、フランス為政者になれば誰しもが行うべきものとなり、社会党の大統領のミッテラン(1916~1996)もフランス革命200 年祭に向けてセーヌ川沿いに建築している。
チュイリー宮殿はフランス革命後にルイ16 世、ナポレオン、ナポレオン3 世と継続して使われるが、1871 年5 月23 日、パリ・コミューンの鎮圧の最中にコミューン側の兵士が放火し、焼失した。テュイルリー宮殿は再建可能な状態であったものの王政・帝政の遺物として撤去が決まり、反対運動の中1883 年に外壁が解体された。現在では庭園(テュイルリー庭園、仏:Jardin des Tuileries Tuileries)のみが残り、当時の面影を伝えている。
●アンリ4 世の統治
1594 年国王となってパリに入城してから1610 年に56 歳で暗殺されるまでも王は忙しい。ブルボン王朝の祖として、ルイ13 世、ルイ14 世への絶対王政への道筋をつけている。
宗教戦争の為に多額の借金を抱えていた。カトリックはスペインから、ユグノーはイギリスからであるが、統一の王としては、どちらにも対応しないといけない。
フランソワ1 世が息子のアンリ2 世の王妃にカトリーヌ・ド・メディシスをメディチ家から持参金付きで得たように、離婚をしてメディチ家から二人目の妃マリー・ド・メディシス得ても、とても間に合うものでない。 プロテスタントの下級貴族、シュリ―を財務卿にして国家財政の再建を図った。直接税のタイユ税(1439 年制定)の配分と徴収を適切に行うために各地に親任官を派遣し、調査、介入を行った。後に地方長官と呼ばれ中央集権国家の要となる。 タイユ税は平民からだけの直接税なので、間接税である塩税などを導入して、貴族、聖職者から税を得るようにした。
1604年にポーレット法を作り、慣習化していた官職の世襲を認め、官職価格の60分の1を国庫に納めさせた。これで平民の富裕者層が国の官職を得られるようになった。人殺しが仕事の騎士、貴族を「帯刀貴族」と言うのに対し、「法服貴族」と呼ばれ、200年後のフランス革命を迎える。
カトリック同盟に加担した都市の都市特権を削減し、パリ市政の選挙に介入して王党派の役人の比重を高めるなど、統治がゆきわたるようにあらゆることに手を付けた。
第12項 アンシャン・レジーム
フランス革命では、それ以前の国家体制をアンシャン・レジーム( Ancien régime 、直訳:古い体制)と名付けた。
具体的には、1516 年、フランソワ1 世がレオ10 世教皇と ボローニャ政教条約を締結し、国王が司教の指名権を持つことを教皇についに認めさせ、国家教会主義(ガリカニスム)が完成させ、宗教戦争をアンリ4 世が制し、1598 年にナントの勅令を発し、ブルボン朝を立てた時からである。
いずれも、中世の2 元権力の聖界を王の下に置くことがポイントであり、三部会の頂点の聖職者は力を弱め、次の階層の貴族は徴税権を王に握られ「法服貴族」にとってかわられていく。新たな税を取られてもかまわない平民は、それだけ力をつけて来ているとも言えよう。
アンリ4 世以後の、ルイ13 世(1601~1643)、ルイ14 世(1638~1715)、ルイ15 世(1710~1774)、ルイ16 世(1754~1793)をカトリック教会との関わりでこれからみていくのだが、国家として体制が作られるほどに王の影は薄くなっていく。教科書の奥にある実力者を追うことにする。
● ローマカトリック教会との関わり 17:枢機卿にして、宰相が続く
・リシュリュー
リシュリュー公爵アルマン・ジャン・デュ・プレシー Armand Jean du Plessis, cardinal et duc de Richelieu 1585 年~1642 年は、「三銃士」では悪役だが、ルイ13 世(治世1610~1643)の王政を取り仕切った。
・マゼラン
ジュール・マザランJules Mazarin 1602 年~1661 年 イタリア名はジュリオ・マッツァリーノ Giulio Mazarino は、リシュリューの意を受けて、ルイ14 世(治世1643 年~171 5 年)が5 歳で戴冠してからは実際に王政を仕切り、彼が亡くなった事によりルイ1414世は2323歳にして王の親政を宣言する。
彼らが何を行ったかを、見ていく。
●出自、出世
・リシュリューの父は、アンリ3世に仕えるポワトゥーの下級貴族であり、母は法学者の娘であった。5人の子の3男であり、5歳の時に父はユグノー戦争で死んでいるので、長男はアンリ4世に仕えるが、彼はアンリ4世から与えられたリシュリュー家の資産であるリュソン司教職を1606年に21歳で得る。司教職は若者が生きていく稼ぎの道なのであった。日本でも叡山、興福寺、東大寺に皇族、貴族の口減らしの為に親族が送られている。
1622年に枢機卿になり、1624年39歳で23歳のルイ13世の宰相になるが、それはルイ13世の母親マリー・ド・メディシスのひきによる。 王太后マリーはイタリア人のコンチーニを重用し、アンリ4世が腐心したユグノーとの融和を忘れてカトリック教に偏ったので、1614年コンデ公アンリ2世(ユグノーの旗手コンデ公ルイの孫、アンリ4世の従弟の子)が兵をあげ、三部会を開く事となった。
そこでのリュソン司教リシュリュー29歳の演説が巧みな事に歓心し、1615年にルイ13世がスペイン王フェリペ3世の王女アナ(アンヌ・ドートリッシュ)と結婚すると、王妃付きの司祭として宮廷に入れコンチーニと組ませた。自立したいルイ13世は1617年にルーブル宮でコンチーニを射殺させ、コンチーニの遺体はパリの群衆によって寸断され晒し物にされた。王太后マリーはブロワ城に幽閉される。
1619年に王太后マリー逃げだし、ルイ13世と王太后マリーとの「母子戦争」に至る。リシュリューは調停役を務め、王太后マリーを宮廷に戻して枢機卿となった。
・マザランはローマ教皇に仕えた父を持ち、教皇ウルバヌス8世 ((1623–1644)に仕えた。30年戦争に耐え、教皇領を最大にした教皇は、1634年にフランスに近づくべく、マザランをリシュリューへの外交交渉相手として送る。リシュリューの目に留まり1639年37歳にフランスに帰化し国王に仕える事となる。
1641年ルイ1313世の推挙で教皇は彼を枢機卿にし、リシュリューの遺言により、リシュリューの宰相を継ぐ。 二人とも、今まで歴史をにぎわしてきた諸侯とは出自が全く違っていて、低い身分である。平民ではないが、カトリック教会の衣をまとうことをきっかけにして王に近づき、実力で宰相となった。これ以降「法服貴族」の数が増していく。
●リシュリューの足跡
・1627 年大西洋岸にあるユグノーの港町ラ・ロッシュにイギリス艦隊が派遣されると、ルイ13 世と共に町を水陸から一年にわたり包囲して、町民を餓死させ、2 万8 千人の人口を5分の1にしてしまった。ナントの勅令に追加された守備隊を持つ要塞「安全保障地域」を徹底的にたたいたのである。
・1629年アレスの王令により、プロテスタントの信仰は保証するも、「安全保障地域」などのユグノーの政治的、軍事的特権をなくし、プロテスタントも王権の下に統合した。
・1618年からスペイン、ハプスブルク家は「三十年戦争」を始めていた。王太后マリーは同じカトリックのスペインにつくことを主張したが、リシュリューはフランスを囲むハプスブル家の脅威に対し、カトリック枢機卿でありながら、プロテスタントを援助すべきだと主張した。
・1630年パリで王太后マリーはルイ1313世にリシュリューの罷免を要求するも、ルイ13世は当日の午後ベルサイユでリシュリューと会い、翌日王太后マリー派の大臣マリヤックを逮捕した。1631年、王太后56歳は宮廷を追われハプスブル家が治めるネーデルランド(北のオランダは1581年に独立)のブリュッセルに亡命し、ケルンで死す。
・1635年スペインに宣戦し、1638年神聖ローマ帝国に宣戦し、フランスはスエーデンと共に東西のハプスブル家と戦う。リシュリューが亡くなり、マゼランに引き継がれ神聖ローマ帝国との戦争は1648年まで13年に渡り続く。スペインとは1659年まで24年に渡り続く。フランスはとにかく戦費を集めないといけなかった。
・アンリ4世の直接税の徴税策を強め、1642年には地方長官は地方に常駐し、従来の貴族の伯公に替わって地方行政の最高責任者となる。
・間接税では徴税請負人制度を設けた。国家が金融業者と請負い契約をして、税収の前借しと引き換えに徴税権を与えるものである。国家は手早く確実に税が入るが、徴税人は利息を載せて民衆から徴税するので税金は高くなり、1630年代後半には反税蜂起が各地で起きる。
●マゼランの足跡
・リシュリューを引き継ぎ、三十年戦争への介入を続け、1648 年(ルイ14 世10 歳)、ヴェストファーレン条約でアルザスの大部分及びヴェルダン・メッツ・トゥールをフランス領に取り込んだ。
・戦争継続のために重税を課したことによって、フロンドの乱(1648 年 1653 年)を招いたが、反乱側の内部分裂を利用してこれを鎮圧。結果として大貴族勢力を弱体化させ、王権を強化した。以下にパリ市民に注目して書く。 パリ市民に、1644 年家屋税と富裕者税、1646 年パリ市への入市税を課して、パリ市民の1648年11月暴動から「フロイドの乱」が始まり、さらにマゼランが4月に官職保有者への俸給支払い停止するに及んで、パリ高等法院の司法官たち官職保有者による反政府運動となった。高等法院は、直接税の減税、徴税請負制度の廃止、地方長官の廃止を7月にマゼラン政府に訴えた。マゼランは高等法院司法官ブルセルを逮捕したので、市民は街にバリケードを築く。
1649年1月、マゼランは11歳のルイ14世と母后アンヌと共にパリのパレロワイヤル(リシュリューの館パレ・カルディの名を変えた。)を密かに逃げ、国王軍にパリを包囲させた。ルイ14世にとってパリは怖い所であった。
司法官たちは戦時体制の常態化に反対しているだけで王政を否定するわけでなく、イギリスのピューリタン革命でチャールズ1世が1月30日に公開処刑され共和国が宣言されると、3月にマゼランと和解した。
大貴族にとっては、リシュリュー、マゼランと続く中央集権国家の成長によって、その座を奪われた事からフロイドの乱に参加する。乱は権力をかけた党派争いに替わる。コンデ公、オルレアン公の王族、パリのレ枢機卿がマゼランの正面に立つ。スペイン兵と共にコンデ公はパリに入り、マゼランは亡命し、宮廷はポワチエに移る。パリ市民の国王待望の声にコンデ公がパリから出るとルイ14世がパリに入り、コンデ公は国王軍に敗れる。
武力だけでなく「マザリナード」というパンフがパリ市内にばら撒かれた。 1653年7月、コンデ公はネーデルランドに亡命、オルレアン公は隠棲、レ枢機卿は入牢してマザランの勝利に終わった。以後の貴族は、王にへつらう事でしか糧を得られなくなる。
・ルイ15世は、パリ間接税を徴税する為に、パリを徴税人の城壁で囲い(1784~1791)、パリに入る2323の門の前で徴税して、フランス革命の要因の一つとした。
・1655年新たな課税に対して、パリ高等法院は抵抗の動きを見せると、17歳のルイ14世は4月13日法院を訪れ審議の中止を命じた。法院長は「国家の利益を持ち出し課税に反対」というと「朕は国家なり」という有名な言葉が発せられたと言う。マゼランの賄賂で高等法院は課税を認める。
・内政が乱れる重税は戦争にあるので、マゼランは終戦に努める。1659年にはイングランド共和国の護国卿オリバー・クロムウェルと結んでスペインを破り、アルトワとルシヨンをフランス領に編入した。(ピレネー条約)
・1660年にはルイ14世22歳とスペイン王女マリー・テレーズ(マリア・テレサ)との政略結婚を実現した。
・死後にマゼランが残した資産は国家予算の半分にも積みあがっていた。個人の債権が多く、債務者には徴税請負人、大貴族、ルイ14世もいた。国王、国家の財政難に付け込んで財産を稼いだのである。その資産運用を任されていたのがコルベール(1619~1683)である。マゼランは死にのぞんでルイ14世にコルベールを推挙した。
●ローマカトリック教会との関わり 18:絶対王政の最少単位は小教区
●太陽王の親政 54年間(1661~1715)
マゼランが死去すると、あくる日に23 歳で親政を宣言し、7 歳で死ぬまで王を務める。長生き過ぎて、次のルイ15 世(1710~1774)は、ルイ14 世の子の王太子ルイが1711 年に49 歳で死に、替わりに王太子になった孫のルイが1712 年に29 歳で病死しており、その子すなわちひ孫になってしまう。絶対王政、専制君主として君臨したルイ14 世は、摂政が必要な5 歳のひ孫を王としなければならない事になんて思ったのであろうか。
ルイ14世の甥オルレアン公フィリップ2 世が8 年摂政をし、ブルボン公ルイ・アンリが3 年、次いでフルーリー枢機卿が20 年宰相を務めた。その5 年後には宮廷の中心はポンパドゥール夫人(1721~1764)が握るので、ルイ14 世が作った常備軍と官僚制度が国家をなんとか回していたのであろう。
ルイ14 世の行った戦争は、南ネーデルランド継承戦争(1667~1668)オランダ侵略戦争(1672~1678)プファルツ継承戦争(1688~1697)スペイン継承戦争(1701~1713)と、合計28 年になり、王位の半分は戦争に費やしている。
その結果としては、フランドルの一部とネーデルランド、アルトワ、アルザス、フランシュ・コンテが領土となっただけで、とても領土拡大に成功したとは言えない。それどころか、イギリスの優位を基礎づけることになった。
常備軍:1688 年国王民兵制を敷く。各小教区から20 歳~40 歳の男子を強制的に徴兵した。平民であっても代理を立てられるし、もとより特権階級は免除されたので国民皆兵ではないが、新たに4 万の兵を集められた。
中世の兵は、封建制の軍役奉仕義務により王の支配下の伯・公が私兵を持って集まる事で成り立ち、スイス、ドイツからの傭兵も常備軍として正規の兵であった。13 世紀からの戦争は、いわば都市国家同士の戦争であり、城壁を破る大砲が飛躍的に発達し、それにあわせてさらに築城術も向上させた。よって、騎兵の役割は低下し、歩兵を中心とする兵員の数が物をいう近世の軍隊が誕生する。三十年戦争1648 年では12 万5 千の兵が、1690 年では歩兵27万7千、騎兵6万5千、民兵9万2千と、合計43万4千になっている。
森を開拓し農業革命に成功し、国民の数が2000万人を超える大国であったので可能だった。日本の陸上自衛隊は15万人、アメリカのそれは48万人、韓国のそれは110万人、中国のそれは97万人、ドイツのそれは6万人である。
兵の質となると、将校が兵を集めて訓練をするのだが、その将校も売官制の下にあり、能力の保証はなく、兼職しており、兵数確保のための偽兵もいたりして、脱走、犯罪も多く兵士の社会的地位、信用は低かった。ナポレオン出現までまだ100年ある。
官僚制:中世以来の売官制の保有官僚(官職保有者)に対して、王が任命し、罷免する親任官僚が作られた。地方長官は、中央政府を支えた実務官僚の中から選んで地方に送り込み、治安(ポリス)・裁判・財務を見させ、中央に報告させて地方統治を強固にした。アンリ4 世の時の親任官が制度として固められた。少ない人数なので、実務は地元の名望家に頼らざるを得ないが、徴税は小教区で把握している戸籍と教会への10 分の1税によって、確実に把握された。
ルイ14 世の国家予算の半分は戦費であり、戦争時になると8 割となっていた。戦争継続のためには、戦争反対論を潰し、国庫を増やさないといけなかった。保有官僚は官職を転売、譲渡、世襲することができ、能力を国が問えなく罷免もできず、国王・国家より所属する組織に帰属意識を持ち、三つ、四つと兼職されるので、コベールも売官制の廃止を望んだが、王国財政の赤字体質の中で、一つの官職の1 年任期を二分割、三分割して売る事さえしており、1664 年では官僚数は4 万5000 人となる。フランス革命まで保有官僚は継続する。
・1670 年ルイ14 世は、城壁の外にある貧民窟を見て、「城壁を壊せ」と王令を出す。パリの拡大である。この城壁の跡が、19 世紀のグラン・ブールバードとなる。コルベールがパリの壮麗化を進めるも、王は16 61 年にベルサイユ宮建設も指示しており、宮廷が移るのは1682 年だが、この頃には ル・ノートルによる造園が終っており、建設途中のベルサイユに王は移っていた。
・1702 年、城壁が壊されて、新たなパリ警察管区(カルチェ)が20区敷かれ、住民数に応じて11~3 名の警視が置かれた。警部(アンスベクター)は治安に特化して首都の規律化に努めたので、パリ市民と対立した。日本の警察機構はフランスを真似ているが、フランスの警視、警部の呼称には、300年の伝統がある。
・1705年のパリである。都市防衛としての城壁は持たない自信に満ちたパリであった。この外側にルイ16世が1784年から1791年までかけて、徴税請負人の城壁を作る。
・王の権力を示すもの
出版業はあっても反王政を出版する事は自粛された。検閲があった。国王、政府、教会、風紀、良俗に反したものとパリ警視総監が認めれば、訴訟手続きを経ずにバスチーユの監獄に入れられた。
これが1789 年バスチーユ襲撃に繋がる。
王は、努めて姿を描かせ、町に立つ彫像、メダル、版画で偉大な王を国民にイメージさせた。建築は王の権力を示す舞台装置として作られた。
また、儀式での姿を誇示した。公衆の面前での国家儀礼である、国王の葬式、戴冠式、入市敷、ロイヤル・タッチは重要な儀礼だが、なによりも、ベルサイユ宮でのルイ14 世の
日常生活が重厚で華麗な宮殿を舞台に儀礼化された
国王は24 時間公人でなければならかった。国王への権力集中が高まる程に、高位聖職者、帯刀貴族、法服貴族(ブルジョア)は王の恩寵を受けようと宮廷の近くに館を構え、宮廷に日参し、宮廷貴族となる。特に、起床の儀と就寝の儀が王からの恩寵の度合いが示される場であった。夜着から昼の正装に替わるのも儀式化されており、参列者はまさに太陽王が生成されるシーンに立ち会い、その一部を助けるのである。
宮廷人は6 つのカテゴリ―に分けられており、筆頭侍従から名前を呼ばれて寝室に入る「拝謁」は、王国の特権の序列を可視化した。前半の「小起床」では、王の近親者、王家直属の役職者であり、後半の「大起床」では、官僚、聖職者、儀礼の責任者と公的になる。就寝の儀でも繰り返される。ここで、飛び込みで王に会える者が寵愛されている者となる。
・教会の役割
小教区の司祭は、戸籍管理、生産管理を行い、小学教育、薬剤師を担っていた。洗礼、堅信、叙階、結婚、終油の5 つの宗教上の儀礼、秘蹟によって担っていたのである。
生(洗礼)と死(終油)だけではない。アンリ2 世によって、秘密出産、嬰児殺しは死刑とされた。秘密婚を阻止するものである。男親の同意が無ければ神の前での結婚という契約はできない。
人の再生産は国の力であり、多産多死の時代だからこそ結婚は重要であったが、再生産を意図しないセックスをカトリックは姦淫として認めていない。
結婚は社会的・経済的動機にもとづき同質の社会・職業集団で行われるものであり、貴族と上層市民は家系の存続が第一であるが、下層市民にも家族は労働の構成員であり、経済的動機である事では同じであった。結婚は両性の合意でなく、社会経済の合意の上でなされるものであり、それで秘密婚を認めないとされたのであった。
もちろん、こんな事がその通りできているわけなく、農村で飢饉があればパリに出て城壁の外で何とかして食いつなぐしかない。不衛生であり疫病が流行っても神に祈るしかないのだ。捨て子は増加の一途だった。
7 歳になっての唯一の義務教育は、教会で司祭が教えるカテキムズだけであった。カテキズムとは、宗教戦争によってカトリック教会内部でもラテン語でのミサが反省され、カトリック教の教理問答集(カテキズム)を自国語で子供に教えるとなった。しかし、これは子供にトレント公会議での正当な文言を暗唱させることが主眼であり、読み書きを教える事が目的で無かった。1690 年の識字率(署名ができるかどうか)は、男29%、女14%であった。パリの平民の識字率は100%であっても、2200 万人の国民の8 割が農村にいたのでこの数字となる。
堅信(10 歳~12 歳)は、仕事の見習いに出る時と重なる。職人組合の構成員、労働者としてカウントされ時期だ。
・1685 年10 月、ルイ14 世は「ナントの王令」を廃止して、プロテスタントを異端として国外退去を求めた。ユダヤ教も当然異端であった。軍隊を使っての集団改宗が行われた。国にとどまり改宗しても「新カトリック」と呼ばれ差別を受けた。隠れプロテスタントも多くいた。ルイ16 世の「寛容王令」1787 年までフランスのプロテスタント(カルヴァン派)には、生も死も結婚もなかった。
第13項 啓蒙思想
高校の倫理社会で、偉大な人の「箴言」というのを学んだ。「人間は考える葦である。パスカル1662 年没」とか「コギトエルゴスム。デカルト1637 年方法序説」とか、今でも覚えているが、その原典は読んだことがない。啓蒙主義者にとっての「神」はどうだったのか。と、見直してみた。
ルネサンスは、ギリシャ・ローマへの「人間性の回帰」であるが、カトリック教の基にあってそれらのように「多神」ではないし「無神論」でもない。
プロテスタントの出現によって、信仰生活を見直すことがカトリックとプロテスタントとの争いの中でどちらでも行われた。
カトリック教が封建権力者として長く振舞った来たことが攻撃されたのであって、それへの反省としてイエズス会が現れ、兄弟会と言う教会組織から離れて社会改善のために活動をする宗教結社も現れた。
法服貴族の中には、貧困や病気を救護する施設運営を経済的に援助し、従事する修道女の団体設立の支援するものが現れた。
フランス革命の前に、啓蒙思想の流布があったというのは、そうなのだろうが、神学論だけでなく、経済活動を行う上で宗教生活を再考する事も含めての啓蒙主義的議論がされ、「革命」が起きると、それ以前の事を全てひっくるめた「アンシャン・レジーム」とされた。こうして人間が幸せと富を求めたフランス史を見てくると、なんでもかんでもアンシャン・レジームとひっくくりすぎであり、「革命」でひっくり返したいものの内容は複雑である。革命の主張「自由、平等、人権」に宗教が関わらないはずはないのである。
「暴動」が契機であるので、ルイ16 世だけでなく、2500 人の修道女もギロチンによって殺されるが、その後フランスでは、ナポレオン帝政、反動王政もあった。19 世紀の海外進攻、産業革命によるブルジョアの進展が20 世紀のアメリカ・プアグマティズム全開の時代となって、21 世紀はまた迷いに入っている。人間の幸せ、富を求める事に迷っているのである。
●ローマカトリック教会との関わり 19:理神論
自然神論,自然宗教ともいう。神は世界を超越する創造主であるが,神の活動性は世界の創造に限定されているのであって,創造されたあとの世界は,あたかもねじを巻かれた時計のごとく,神によって定められた自然法則に従い,その働きを続けるとするもの。創造されたのちの世界の自己展開には,もはや神は干渉しないところから,超自然的な啓示,特に奇跡などを排す。
これは歴史的には宗教の合理化,世俗化,人間化の過程に現れた合理主義的・自然主義的有神論といえる。 17 世紀なかばから 18 世紀にまずイギリスの自由思想家,科学者たちによって唱えられ,のちフランスの百科全書派,ドイツの啓蒙主義者へと広まった。
〇モンテスキュー(1689~1755)
ボルドー高等法院の裁判官。「法の精神:1748 年ルイ15 世の時代」で、国の政体を、共和制、君主制、専制とわけ、その政体を維持するために国民が持つべき心性を、それぞれ徳、名誉、恐怖とした。「各国を見るに、為政者が政体維持に好ましい法を制定しなければ、政体は移行する。」と書き、「フランスは君主制が好ましいが、専制に移行しようとしている。」と読者に訴えた。
〇ヴォルテール(1694~1778)
イギリスの宗教的寛容と市民の自由を称賛し、ニュートン力学をフランスに紹介した「哲学書簡1734 年」を若くして出しているが、彼がもっとも力を入れたのはカトリック教会批判であり「寛容論1763 年」がある。子供殺しで死刑判決を受けた家長を「冤罪だ」と世論を動かして救った。詩人であり、演劇作家であり、歴史書・思想書も書いた。
〇ルソー(1712~1778)
ジュネーブに逃れたカルヴァン派の時計師の家に生まれた。写譜屋を生業としながら「新エロイーズ:1761 年」というベストセラーを生み、その著作は、政治論・経済論・教育論・宗教論は言うに及ばず、植物観察、音楽辞典に及び、オペラ「村の占い師:1752 年」も成している。若い頃はヴァランス夫人の情夫をしながら、カトリック教に改宗し、夫人の手配で多くを学んでいるので、不良なのだけど人を引き付けるものあったのであろう。35 歳で女中と事実婚をして5 人の子供ができるが、すべて捨て子としている。
不平等の社会はいかにして出現したか「人間不平等原因論:1755 年」不平等のない理想の社会はいかにして形成できるか「社会契約論:1762 年」社会でなくルソー個人はどのように育ちどのような生涯を送ったか「告白:没後出版」、そして、教育論の古典、理想の教育が施されるならどのような人間となるか「エミール:1762 年」の著作に結実する。
百科事典を、自らを先端的知識人と見せる装置として、書棚に重々しく並べるのは、私の時代でもそうだった。今は、この私の執筆のようにネットで情報を探し出しコピペで済ませる時代になり、「人間が持つ知識の総目録」をうたうなんて、なんと傲慢で不遜なことかと思われるが、18 世紀の知識は「書き表せた。」と思えるぐらいの小ささだったのだろうか。
経済が大きく伸び、教育水準が全般的に向上し、ジャーナリズムも生まれた。新たな読書人層の知的欲求が出版文化を花開かせ「啓蒙思想」の集大成「百科事典」を作らせた。 当然のことに、王権から1759年に出版禁止(65年まで)とされ、執筆者が去る中でディドロは独力で最後までやり遂げた。
〇ダランベール(1717~1783)
哲学者、数学者、物理学者。ドゥニ・ディドロらと並び、百科全書派知識人の中心者。母マダム・タンサンは「百科全書」編集にも貢献し、著名人、知識人、上流貴族らを集めたサロンをサントノレ通り界隈等で開いていたが、その母に生まれてすぐ捨てられ孤児院に入るが、父なのか、父の代理なのか、フランス王国軍砲兵士官のルイ=カミュ・デトゥッシュがもらい受け、養子に出され、育ての母とは50 年一緒に暮らす。
26 歳で「動力学論:1743 年」を出版し、流体、風の研究を発表して、ディドロ、ルソー、コンディヤックらの哲学者と知り合い、関心分野を広げた。その知名度と関心の広さを見込まれ、ディドロとともに『百科全書』の責任編集者となり、その刊行(1751 年)にあたっては序論を執筆した。
他に「力学」「原因」「加速的」など150 の項目を執筆、それらをとおし「力学は単なる実験科学ではなく、混合応用数学の第一部門である」との説を主張した。ダランベール力学の大きな功績は、ニュートン力学を肯定しながらも、そのなかにみられた神の影響を払拭した点にある。晩年に「数学小論集:1761~1780 」をだすが、1760 年代以降のダランベールは、関心が哲学や文学に向かった。
カトリック教を非難する神学者、ニュートン(1643~1727)はニュートン力学の中に宇宙を作りだした神を見たが、ダランベールは数学の向こうに哲学を見出した。今の工学の数学は、功利的にものづくりをするための道具でしかなく、自然界の真理を見つけ出すのに「哲学」は必要なく、膨大な計算を一瞬で片付けるコンピューターのシミュレーション、AI の力業となっている。
〇エヴェシウス(1715~1771)
「精神論:1758 年」「人間論:1771 年」一種の認識論であるが、心地よいものを選び、不快なものを避けるのが人間の行動原理である。その思考の真理は感覚的なものであり、短期的には不快でも長くみれば快適になる事があるので、教育が必要だと唱えた。
〇コンデイヤック(1715~1780)
「人間認識起源論:1746 年」「感覚論:1754 年」
〇ドルバック(1723~1789)
「自然の体系:1770年」は、サロンでの議論の集大成。「キリスト教暴露:1761年」によってキリスト教を批判。精神と肉体の同一性を説く徹底的な唯物論者。1759年ダランベールが『百科全書』から手を引いてからは、自然科学関係の項目の編集に協力した。
〇ラ・メトリ(1709~1751)「人間機械論:1743年」唯物観、無神論
〇マブリ(17091709~17851785)コンディヤックの兄
「フランス史論:17651765年」「立法論:17761776年」
フランス人の啓蒙思想者と言われる偉人を並べたが、いずれも1789年のバスティーユの襲撃前の直前に亡くなり、王政が倒れてフランス国中で騒乱がおきたことは知らない。 カント(1724~1804)が彼らの後で、プロセイン王国フレードリッヒ大王の為に「啓蒙とはなにか:1784年」で書いたように、「啓蒙とは、人間が自分の未成年状態から抜け出る事である。賢くあれ。自分自身の悟性を使用せよ。」であり、この後は学者でなく、血に染まった政治家の出番となる。
第14項 フランス革命
第1 章は、フランス革命から19 世紀まで、フランス人の「自由、平等、人権」の獲得は血に塗られたものだと示すために、暴動、死者数を示したが、その内容には触れていない。
モンマルトルの丘にサクレクール寺院が聳え、第一次世界大戦に世界中が巻き込まれるまでのフランスのカトリック教を箇条書きで追いかけていく。
〇1756 年~1763 年 七年戦争。
フランスは負け、アメリカの植民地をイギリスに渡し、強大な債務に苦しむ。
〇17 76 年 アメリカ独立。
前文に「全ての人間は平等に造られている。」と唱え、不可侵・不可譲の自然権として「生命、自由、幸福の追求」の権利を掲げているが、カトリック教への批判は無い。
●ローマカトリック教会との関わり 20:政治、統治から離されるカトリック教。
●1789 年5 月5 日~1793 年9 月3 日 ブルボン王朝
・1789 年5 月5 日に、高等法院(裁判所)によって、174 年ぶりに三部会が開かれる。王権は、公債を発行しても売れず、印紙税を平民(第三身分 578 人)にかけるとしたが、三部会のみが課税の賛否を決める権利があるとされた。ルイ15 世の時は三部会にかけずに王権は間接税をかけていたのだが、免税され年金を受け取り、高級官僚を独占している第一身分の僧侶 291 人、第二身分の貴族 285 人も含めての三部会 1154 人での会であった。当然、思惑が違うので、議決方法を身分ごとにするか、人数別採決にするか議決形式を巡って紛糾し会議は膠着状態に陥った。
・6 月117日第三部会だけで国民議会を宣言。国王には国民議会の決定にいかなる拒否権もないこと、国民議会を否定する行政権力は無いこと、国民議会の承認しない租税徴収は不法であること、いかなる新税も国民議会の承認無しには不法であることを決定した。そこに、第一身分の僧侶も加わるとなり、19 日に会場は王権に閉鎖され、20 日に第三部会は宮殿のテニスコートで「王国の憲法が制定され、強固な基盤の上に確立されるまでは、決して解散せず、四方の状況に応じていかなる場所でも会議を開く」と、宣言した。程なく聖職者の代表の大多数と47 人の貴族がこれに参加した。6 月27 日、国王はこれに屈して第一身分と第二身分へ第三身分への合流を指示した。2 万人の軍隊がパリとヴェルサイユ周辺に集結していた。パリやその他の都市から国民議会を支持するメッセージが押し寄せた。
・7 月12日軍隊がパリに向けて出撃を始めた。パレ・ロワイヤル(オルレアン公が金貸し業者からの借金80 万リーヴル(1780 年当時)を返済するために、借金の抵当になっていたパレ・ロワイヤルの屋敷の庭園をぐるりとコの字を描くように建物を建て貸し出し、一階にはレストランや商店が並び、中庭にはカフェができた。繁華街となったばかりではなく、警察の立ち入りを禁じたので、革命家のたまり場となっていた。)では「武器を取れ、市民よ」という演説がされ、6000 人の群衆が軍隊と衝突した。
・7 月14 日バスティーユ牢獄襲撃。再び軍隊が出動すると群衆がフランス衛兵と共に廃兵院に押しかけ、3 万丁の小銃と20 門の大砲を奪ってバスティーユ要塞に向かった。群衆が占領したバスティーユに政治犯はいなかったが、要塞は大砲をのぞかせて周囲の脅威となっていたことと、武器弾薬庫を抱えていたので重要な戦略目標だった。
国王の軍隊はパリで戦わずして敗北し、地方都市でも暴動が起き、給料をもらえていない国王軍の反乱が起こった。国王の側はこれ以上の軍事行動ができなくなった。有力な宮廷貴族たちは16日に亡命し、国王は17日に和解のため自らパリの国民会議に出席し「朕は国民と共にある」と和解を宣言した。憲法制定議会(4分の1は聖職者)のバイイを市長として、新たなパリ市政府を発足を認め、ブルジョワジーが組織した民兵隊を国民衛兵として承認した。この革命により、フランスの各都市ではブルジョワジーからなる常設委員会が設置され、市政の実権を掌握するようになった。
・8月4日宣言。農民暴動に対し、「人にまつわるもの」(十分の一税(決定は1790年8月まで延びた。)と領主裁判権、死亡税、狩猟権、鳩小屋の権利など)は無償で廃止し、「土地にまつわるもの」(封建貢租と不動産売買税)は有償で廃止する提案が出され、自由主義貴族の多くが賛成して可決された。こうして領主権は単純な地代に転換された。農民は「有償」の意味がわからないまま、農民暴動は取りあえず収まった。「租税の平等」「文武の官職に全ての市民を登用する」「金銭的特権を廃止する」「貴族の官職独占の否定」「官職売買の禁止」も含まれていた。「租税の平等」とは、無税であった僧侶、貴族にも課税されるのだが、具体的に内容がない宣言なので農民の「有償」と同様であったのだろう。11年後に具体化され、王党派とカトリック教会は結び、フランス国内で内乱が起きる。
・8月26日人間と市民の権利の宣言。人間が生まれながらに有する自然権(自由・所有・安全・圧政への抵抗)は法律でしか制限されない事、その法律は主権者たる国民が市民として選んだ代表たちで構成される立法府に基づくことが記された。
・10月5日パリの婦人7000人がパンを求めてヴェルサイユに行き、ルイ14世一家と国民議会はパリに移転することに決まった。国王は宮廷貴族から切り離されてチェルシー宮で軟禁状態に置かれた。しかし食料不足は解決せず、小規模な暴動がたびたび起こったが、国民議会と国民衛兵によって鎮圧された。首謀者は処罰・処刑され秩序が回復された。ベルサイユ行進は宮廷貴族の残存勢力に決定的な打撃を与え、国王を人質に取った国民議会の権力を全国に及ぼすこととなった。
・11月2日教会財産が国に没収された。上位聖職者12万人(人口の0.5%)で、フランスの土地の5%~10%を持つ、封建領主でもあった。12月2日国有化された僧侶財産を担保に紙幣を発行することにし、これをアシニアと呼んだ。アシニアを受け取った者は僧侶財産を買い入れることができた。
農村で農民と共に生活する司祭は上位聖職者に入っていない。フランス革命の「教会の管轄権は信仰と教義にしか及ばない、法の介入による改革は宗教に本来の純粋さを取り戻す。」は、聖職者に生活の保障を与えるので下位聖職者の生活の向上をもたらした。ヘンリー8世やヨーゼフ2世などによって、近隣諸外国ではもっと厳しい教会改革が行われた前例があったことも、すぐに国内で大きな反発を生まなかった要因であった。
・1790年2月13日、聖職者も人権宣言により、聖職者の終身誓約と修道団体の廃止(修道院の閉鎖)を宣言して、聖職者に職を辞める自由を与え、修道院を出たいものは自由に出て良いと許可した。
・1790年3月29日の枢機卿会議では人権宣言の原理を「背神行為だ」と断罪せずにはいられなかった。貴族出身の教皇ピウス6世にとって人民主権はすべての君主制に対する脅威でしかなかった。
・1790年6月に三部会の第一身分と第二身分が廃止され貴族の称号の使用が禁止された。以後全ての人は「市民」(シトワイヤン)とよばれることになり、男性はシトワイヤン、女性はシトワイヤンヌと呼ぶことになった。しかしこの呼称は定着せず、それまで貴族に使われていた「ムッシュ」「マダム」が普通の人に対しても使われるようになった。
・1790 年7 月12 日、聖職者基本法が憲法制定議会で議決され、同年8 月24 日に国王ルイ16 世の裁可により成立した。カトリック教会を国家の管理下に置くものであった。
司教区の行政的再編成、宗教的秩序の廃止、戸籍抄本の民間委譲、聖職者の叙任・給与などについて定めた。聖職者は国に生活保障がされ、教会の上位からの任命ではなく、一般信者から選ばれる公務員のような扱いとなった。
また、憲法を全力で維持すること等の宣誓を義務としたため、聖職者の大多数が聖書以外に誓いを立てることを拒否し、革命と宗教との対立に発展した。
信仰の根強い地方では、宣誓拒否聖職者が王党派と協力して農民の反乱を扇動したため、農民暴動・ヴァンデの反乱の原因の一つとなり、反革命運動の根源ともなった。
4年後の1794 年に廃止されるが、ローマ・カトリック教会とのフランスとの敵対、およびフランス・カトリック教会内の分裂は、1801 年7 月16 日のナポレオン体制における政教条約で和解がもたらされるまで続いた。
・1791 年3 月20 日に総徴税局が廃止され「徴税請負人」が廃止された。
・1791 年6 月20 日に国王ルイ14 世のフランス脱出計画が実行されたが、国境近くのヴァレンヌで捕まり、パリに連れ戻された(ヴァレンヌ事件)。
●1791 年9 月3 日~1 79 2 年9 月21 日 立憲君主制
・1791 年9 月3 日 1791 年憲法が制定された。立憲君主制を採用して行政権は国王に属し、立法権は議会に属するが国王に拒否権を認めた。議会は一院制で選挙権も被選挙権も一定の租税を納める者に限定した。「フランス王国は唯一にして不可分」と宣言された。
・1791 年10 月1 日に立法議会が招集された。国民議会の議員は立法議会の議員になれないという規定が設けられたので、議員は全員入れ替わった。権力の主導権を握るフイヤン派(自由主義貴族(領主)とブルジョアジーの最上層)が264 人、野党的左派が136 人、中道派が345 人いた。中道派は、外国との革命戦争を主張する左派に傾く。
・1791 年10 月31 日 亡命した貴族の財産を没収する法が成立。ジャコバン党は王弟と王族財産の没収を要求し、11 月9 日に可決された。
・1972 年4 月20 日 対オーストリア宣戦布告
・1972 年8 月10 日 全国からブルジョアの師弟が傭兵をひきつれてパリに終結。義勇兵は議会では「王権の停止」ができないと、ルイ16 世のいるチェルリー宮殿を9 日夜に囲む。これに対して領主権の無償廃止に反対する貴族階級が、党派を超えて王制を守る決意を持って宮殿に集合した。フイヤン派のブルジョアジーと自由主義貴族、合流した地方貴族の彼らは旧体制に対する寄生性が強く特権的な立場にあり、領主でもあったが、虐殺された。戦闘が終わると群衆が議会を囲み、王権の停止と普通選挙による国民公会の招集が要求され、立法議会はその圧力に屈した。
・1972 年9 月20 日 義勇兵とプロシア軍はヴァルミーの丘で出会った(ヴァルミーの戦い)。当時、軍隊は貴族のもとで整然と組織されなければものの役に立たないと思われていた。しかし、戦闘が始まると義勇兵の士気の高さと覚悟の強さに、プロシア軍は突撃命令を出すことができなかった。プロシア軍は砲撃戦だけで終わり、わずかの死者を双方に出しただけで後退した。
●1 79 2 年9 月21 日~1799 年11 月9 日 第一共和制
・1 79 2 年9 月21 日国民公会招集。男子21 歳以上の普通選挙であるが、奉公人・召使は除外され、間接選挙であった。結局のところ、従来通りにブルジョワ階級と地主層が選挙人集会を仕切り、多数を占めた。彼らの手で王党派と極左分子の両方が弾き出された。労働者階層で議員に選ばれたものは2 名のみである。最も多数を占めた前職は、弁護士や公証人など法律関係者であった。フランス革命の指導者になった著名な政治家のほとんどは法律の学位を持っていた。次に多いのは地方行政官、司法官で、大商人や地主は意外に少ない。
ジロンド派約165人と平原派(中道)約400人とモンタニヤール派(山岳派)約150人の三大勢力に分かれた。ジロンド派と山岳派の抗争となる。 22日、共和制宣言をする。
グレゴワール司教は「王朝とは、人民の血をむさぼりのんだ暴食人種以外の何者でもなかったのだ」と王制への憎悪を述べ、慎重論を退けて、「宮廷は犯罪の工場であり、腐敗の中心であり、暴君の洞穴である。諸王の歴史とは、国民の犠牲者名簿である」と意気込んで、熱狂のうちに満場一致で採択された。王に替わって国民公会は立法と行政を行う。
・179 3 年1 月21 日ルイ16 世死刑。387 対334(欠席23 ・棄権55)で死刑と決まった。
・1793 年10 月3 日に21 人のジロンド派議員が処刑され、10 月16 日には王妃マリー・アントワネットも処刑された。
ジロンド派は平原派の支持を失って、次第に山岳派に押されていき権力の座から後退していった。ジロンド派は累進強制公債の採決に敗れると、徹底的な反抗を組織した。それに対して山岳派とジャコバンクラブが過激派と手を組み、5 月31 日と6 月2 日に武装したパリ市民が国民公会を包囲し、ジロンド派議員は逮捕された。
貧民の圧力を背景にしたエベール派により、後に恐怖政治と呼ばれる政策が実行された。革命裁判所の人員が増強され、次々と反革命容疑者に死刑を宣告していった。
9月29 日に最高価格制が布告された。生活必需品の品目を定め最高価格を決定した。この布告で群衆が商店に押しかけ商店は空になった。10 月の末になるとパンがなくなり、パリ・コミューン(パリ市の自治市会、革命自治体)はパンの配給切符を実施し、他の都市も真似をした。品不足と食糧不足が起こった。
10月4 日に買い占め人を摘発するための法令が国民公会に提案され、買い占め人の家宅捜索と強制徴発を行い、即席裁判でギロチンにかけることが決まった。
10月半ばにはさらに食糧不足が深刻になり「革命軍」を新しく編成し、農村を回って食料を徴発し、家宅捜索を行い違反者を処刑して回った。これによって一時的には都市の食糧不足を和らげた。
・1793 年11 月10 日 式典「理性の崇拝」
ノートルダム大聖堂の内陣中央に人工の山が設けられ、その頂上にギリシャ風の神殿が建てられ、その四隅にはヴォルテール、ジャン=ジャック・ルソー、シャルル・ド・モンテスキューといった啓蒙思想家たちの胸像が設置されて神殿のなかから「自由と理性の女神」に扮したオペラ座の女優が現れるといった趣向で「理性の祭典」が始まった。
キリスト教の祭壇が取り壊されて「自由への祭壇」が設けられ、大聖堂の扉の上方には「哲学へ(et de la philosophie philosophie)」の碑文が石に刻まれた 。祝祭の少女たちは白いローマ風のドレスとトリコロール(3 色)の帯を身にまとい、「自由に扮した」理性の女神のまわりを動き回った。真実を象徴する祭壇の上では、炎が燃えあがった。「狂信はいまや正義と真理に決定的に席を譲った。今後司祭は存在せず、自然が人類に教えた神以外に神は存在しないであろう」これはパリの各教会はじめ地方の主要都市でも、あたかも即興演劇の様相を呈しながら、以後数か月にわたって開かれつづけた。
●ローマカトリック教会との関わり 21:カトリック教の弾圧
1792年5 月から1794 年10 月まで、キリスト教は徹底的に弾圧された。当時カトリック教会の上位聖職者は特権階級に属していた。革命勃発以来、聖職者追放と教会への略奪・破壊がなされ、1793 年11 月には全国レベルでミサの禁止と教会の閉鎖が実施され、祭具類がことごとく没収されて造幣局に集められ、溶かされた。
こうして、クリュニー修道院やサント=ジュヌヴィエーヴ修道院などの由緒ある教会・修道院が破壊されるとともに、蔵書などの貴重な文化遺産が失われた。破壊を免れた教会や修道院も、モン・サン=ミシェル修道院のように、牢獄や倉庫、工場などに転用された。 なお、ユダヤ人は1790 年8 月3 日政府によって権利を全面的に認められた。
・1794 年7 月27 日 テルミドール9 日のクーデター、ロベスピエール他100 人処刑。 17 94 年春にエベール派とダントン派が粛清されると、ジャコバン派の一部は国民公会の中間派と密に協力してロベスピエールを打倒しようとした。
テルミドール9 日(革命暦)議長のコロー・デルボワは繰り返し発言を求めるロベスピエールらの発言を阻止。議場から「暴君を倒せ」と野次が飛ぶなか、タリアンはロベスピエール派の逮捕を要求した。
パリ市のコミューンが蜂起し、そのすきにロベスピエールらはパリ市庁舎に逃げ込む。市庁舎にはロベスピエールを守るべくパリ市国民軍司令官フランソワ・アンリオ率いる200 人の国民衛兵と3500 人の群集が集結してきたが、独裁者と呼ばれたくないロベスピエールに彼らの先頭に立つ気はなかった。この間に、国民公会は、ロベスピエールらコミューンに従うものを法の外に置くことを決定した。深夜になって国民衛兵は引き上げ、国民公会が派遣したポール・バラス率いる軍隊はやすやすと市庁舎を占領した。
・1795 年8月22 日 共和国憲法制定
平原派とジロンド派の生き残りの国民公会テルミドール派は、普通選挙を制限選挙に戻し、議会は上院の元老院と下院の五百人会議に分かれ、議会から5 人の総裁が選出され、総裁が行政権を握った。議院内閣制であったが、この制度ではブルジョアジーと大土地所有者の代表者が絶対的に有利であった。
・1795 年10 月27 日に総裁政府が成立した。政府は法案を提出できず議会解散権がなく、議会は総裁罷免ができない。恐怖政治を逃れた結果、不安定な政府となった。1797 年9 月第2 回選挙で王党派が躍進すると、242 名の議員を流刑もしくは議員資格はく奪をする。1798 年5 月の第3 回選挙で議席を増やしたネオジャコバン派の議員106 人を当選無効とした。 たび重なる対外戦争の戦費の為に、公債の実質的な帳消し「三分の二破産」を可決。新たな直接税の導入、間接税の復活、貴金属貨幣の復帰、政府による財務局管理を行った。
カトリックが復活を阻止するために革命宗教を創出し、共和暦にもとづく旬日礼拝を決め、国民祭典を行い、カトリック教による教育に替わる公教育に力を入れる。中等・高等教育機関としてコレ―ジュに替わる中央学校を86の各県におき、フランス学士院をパリに設立、高等師範学校などのグランド・ゼコールを整備した。
・1797 年4 月、総裁政府の総裁バラスによってナポレオンはイタリア方面軍の司令官に抜擢された。ナポレオンはオーストリアの帝都ウィーンへと迫り、ナポレオンは総裁政府に断ることなく講和交渉に入った。そして10 月にはオーストリアとカンポ・フォルミオ条約を結んだ。これによって第一次対仏大同盟は崩壊、フランスはイタリア北部に広大な領土を獲得して、いくつもの衛星国(姉妹共和国)を建設し、膨大な戦利品を得た。
このイタリア遠征をフランス革命戦争からナポレオン戦争への転換点とみる見方もある。フランスへの帰国途中、ナポレオンはラシュタット会議に儀礼的に参加。12 月、パリへと帰還したフランスの英雄ナポレオンは熱狂的な歓迎をもって迎えられた。
・1798 年7 月、イギリスとインドとを断つために、ナポレオン軍はエジプトに上陸し、ピラミッドの戦いで勝利してカイロに入城した。しかしその直後、アブキール湾の海戦でネルソン率いるイギリス艦隊にフランス艦隊が大敗し、ナポレオン軍はエジプトに孤立してしまった。
12月にはイギリスの呼びかけにより再び対仏大同盟が結成され(第二次対仏大同盟)、フランス本国も危機に陥った。
1799 年にはオーストリアにイタリアを奪還され、フランスの民衆からは総裁政府を糾弾する声が高まっていた。シリアのアッコンの砦での敗北もあり、これを知ったナポレオンは、自軍を次将のクレーベルに託し、エジプトに残したまま側近のみを連れ単身フランス本土へ舞い戻った。
・1799 年11 月9 日(共和暦8 年ブリュメール18 日)、ブリュメール18 日のクーデター
ナポレオン・ボナパルトらが総裁政府を打倒した。12 月15 日共和国暦8 年憲法を公布。
総裁政府の実権を握ったエマニュエル=ジョゼフ・シエイエスは政局を安定させるべく、強力な政府を求め憲法の改正を考えていた。憲法改正を支持する元老会を通過させることはできても、憲法擁護派の多い五百人会を説得するのは無理と思い、エジプト遠征から帰還したばかりのナポレオンを利用した軍事クーデターを画策し成功する。 シェイエスらが統領(3 人制)として職務に入るとき、議長を誰とするか諮ったおりに、民衆の人気と武力を背景に持つナポレオンはいち早く買って出て、第1 コンスルとなってシェイエスらを抑えた。
この5 年後、1804 年に帝政を敷き、ナポレオン1 世として皇帝に即位した。
第15項 ナポレオンは侵略者か解放者か
いずれにしても、ナポレオンは、40 回の戦勝した事からフランス人にとって英雄というのは間違いない。1805 年トラファルガーの海戦では負けたが、ヨーロッパ戦線で勝ち続け「ナポレオン法典1804 年」を広げた。しかし、ロシアに負け1812 年、ライプチッヒで欧州連合軍に負け1814 年、戦局が悪くなり、経済が悪化すると世論に見放された。またもやイギリスにワーテルローの戦いで負け1815 年、ブルボン朝の王政復古となった。しかし、アンシャン・レジームへの回帰とはならなかった。革命時の虐殺からナポレオン戦争までは第一章に書いたので、ナポレオンの統治体制を拾い出す。
・1799 年8 月25 日 1793 年の徴兵制が総裁政府によって整備された。兵役義務は20歳から25歳の独身者、子供のいない寡夫に課し、平時は5年、戦時は無期限となっていたが、後に兵員不足のため18歳に繰り下げられ、兵100 万人体制を作った。
共和国8 年憲法は、憲法制定作業がシェイエスからナポレオンに替わっており、ナポレオンに行政権が集中していた。第一コンスルが、法案の提案、軍の指揮、外交、大臣の使命を行う。立法府は憲法判断だけの元老院、審議はするが採決できない護民院、審議できずに採決する立法院の3つにしてしまい、まったく力を失った。ナポレオンは世論の賛同を得て相手に権威主義を強めていった。その為には戦争に勝ち続けるしかない。
・1800 年1 月18 日 貨幣の統一のためにフランス銀行を民間で作る。1803 年、フランス銀行はパリのフラン発券銀行となった。パリからフランス全土に及ぶのは、1848 年の二月革命後、九つの地方発券銀行を吸収合併して地方支店としてからである。
・1800 年2 月17 日 県、郡、小郡、市長村の地方行政の枠組みが作られ、全98 県の県庁所在地に第一コンスルにより任命される県知事を置いた。県内の行政は県知事に一任され、県住民による県会と行政裁判を行う県参事会により補佐された。三権分立ではないが、中央の指示による安定的な統治を可能とする行政システムができた。
・1800 年12 月24 日ナポレオン暗殺未遂事件で、ネオ・ジャコバン党150 人を追放するとともに、革命期の亡命者、逃亡者の帰国を認め、王党派の取り込みを行った。農民、町人の兵を指揮する帯刀貴族が必要であった。
●ローマカトリック教会との関わり 22:宗教協約コンコルダートを結ぶ
・1801 年7 月16 日 ローマ教皇ピウス7 世と宗教協約コンコルダ―トを結ぶ。
聖職者民事基本法は1794 年に廃止されたが、ローマ・カトリック教会とフランスとの敵対が続いていた。ナポレオンは1800 年6月に第二次イタリア遠征でオーストラリアを破り翌年2 月北イタリアを支配する。そんな力を背景にして秘密裏に交渉し、
〇教皇はナポレオンの統領政府を正式に承認し、没収教会財産の返還要求をしないことに同意した。
〇叙任権は教皇が持つが、その任免の際に聖職者のフランス国家への忠誠宣誓を必須とし、人選についても第一統領が指名大権を持った。
〇教区の変更の線引きは教会と国家が協議して決めるということになった。
〇聖職者の公定俸給は国が支払うことになり、聖職者はやはり実質的には公務員のようになった。
聖職者民事基本法の内容を踏襲しており、教皇には妥協の産物であった。これで、「聖書以外には宣誓をしない一派」はおとなしくなった。
・1802 年8 月4 日 共和暦10 年憲法 自らを終身統領(終身執政)と規定した。選挙制度はあらためられ、名士リスト制度を廃止し、小郡集会と県・郡選挙人団に基づく間接選挙とされ、小郡集会には21 歳以上の男子の参加が認められたので普通選挙が実現した。しかしながら、フランスと言えども、女性の参政権は第二次世界大戦以後である。
・1804 年3 月21 日 ナポレオン法典すなわち、「フランス民法典( Code civil des Français)」が作られた。ローマ法とフランス全土の慣習法、封建法を統一した初の本格的な民法典で、近代私法の三大原則たる、法の前の平等、私的所有権の絶対、契約の自由、過失責任の原則や、「国家の世俗性」「信教の自由」「経済活動の自由」等の近代的な価値観を取り入れており、近代市民社会の法の規範となった。
しかし、非嫡出子の差別的取り扱いを規定していたばかりでなく、一応男女平等を原則としながらも、家父長制を採用し、夫は妻の財産・素行を全て管理、監督し、夫は妻を保護し妻は夫に服従する義務をおう。子は父親に服すべきであり、年齢いかんによらず父親に対して尊敬の義務をおう。
・1805年55月 ナポレオンの世襲帝政が国会と国民投票で決まる。
・1805年、イタリア共和国はミラノを首都とするイタリア王国となった。1805年5月26日、ナポレオンは鉄王冠をミラノに運び、ミラノのドゥオーモにおいてイタリア王ナポレオーネとして戴冠した。
・1805年12月2日 「フランス人民の皇帝」としての戴冠式がパリのノートルダム寺院で行われた(フランス第一帝政)。
この戴冠式には、教皇ピウス7 世も招かれていた。ナポレオンは教皇の目の前で、自ら王冠をかぶった。教皇はパリの教会が国家に支配されているのを実際に見、ナポレオンが教皇を政治的に利用するこの儀式によって、ナポレオンから離れる。 ナポレオンが教皇領を接収するにおよんで、ピウス7 世はナポレオンを破門した。1809 年、ナポレオンはこれに応えてピウス7 世を、北イタリアのサヴォーナにナポレオン退位1814年まで監禁している。
1810年1 月10 日には嫡子が生まれないことを理由にジョゼフィーヌ王妃を離縁したが、破門されているので、教皇の許可はいらない。
・1807 年 護民院 廃止。立法院は残る。
・1809 年 帝政貴族が設立。生まれた身分でなく、国家への貢献で叙されたので開かれた制度である。
第16項 王政復古 (1814~1830)
いわゆる「保守反動」である。第六次対仏大同盟がナポレオンを破って第一帝政が終わり、ブルボン朝ルイ16 世の後継者による王政が復活した16 年間。
ルイ16 世の弟ルイ18 世(1755~1824)はルイ17 世の死後ルイ18 世と名乗り、亡命生活(1791~1814)しながら王政復古の活動(反ナポレオン)をしており、3 月パリに入った同盟軍とウイーン会議のフランス代表を務めたターラントによりブルボン朝の復古を約されると、「立憲君主制とする。」と宣言し、4 月2 日にパリに入った。
6 月4 日に自ら作成した1814 年憲章を発布する。世襲貴族による貴族院と有権者11 万人夜代議院の二院制である。ナポレオンの百日天下を挟んで1824年まで、王侯貴族の特権を復活させつつも中道政治を行った。
弟のシャルル10 世(1757~1836)は、カール大帝に憧れ、ランスのノートルダム寺院で戴冠式を行う事からして超王党派であり、国有財産を売って亡命貴族の保証する法をつくり、自由主義者勢力が増すと検閲を復活させ、無許可集会に制限をかける法を作るなど、フランス革命への反動を強めたので、1830 年7 月革命によってわずか6 年で退位させられた。
●ローマカトリック教会との関わり 23:国教らしきもの
カトリック教会も、亡命貴族と同様に没収地の回復を願うが、1801 年のコンコルダートは教皇が認めたことであり、ドイツ他の国家も順次ローマ教皇とコンコルダートを結び(1817 年ドイツとバイエルン、1821 年プロイセン、1824 年ハノーファー、1827 年ベルギー、1828 年スイス)、世俗国家の権力の下にカトリック教会は置かれ、近代国家への道を進む。
「信教の自由」であるので、カトリック教はフランスの国教とは言えないが、司祭は国から報酬を得ているので「国教のようなもの」にその立ち位置は回復する。1805 年、ルイ16 世、マリー・アントワネットの遺骸は王家の墓所サン・ドニ聖堂に移され、贖罪のミサが行われた。革命期にはパンテオンは国家の殿堂であったが、教会に戻された。
1805年パリに設立された基礎教育協会の小学校は、わずか6 年で全国に1200 校作られており、王党派・カトリック教会・修道会の初等教育に対抗して自由主義教育がされた。地方行政が徴兵制、選挙制(大規模農場者、ブルジョワ)によって回り出してしている事と合わせて、7 月革命、2 月革命とフランスは進む。
第17項 7月王政、第二共和国 (1830~1852)
たったの「栄光の三日間」で7 月革命1830 年はなされ、パンテオンは革命の聖堂に戻り、ナポレオンの栄光の日々を想い、ナポレオンの遺灰はセント・ヘレナから移されアンヴァリッドに埋葬された。
パレ・ロワイヤルでパリ市民に親しまれているオルレアン公のルイ・フィリップが王についたが、彼を推したのは銀行家の大ブルジョアであり、貴族院は世襲でなく大地主と血統の特権は排除された。
1831 年には市町村議会選挙制度がなされ280 万人が選挙権を得た。国民軍の士官選出は国民軍メンバーの互選となった。制限付きながら民主化を進めるも、社会の不平等には目を向けなかった。ギゼーが公共教育大臣となり、地方における公共の初等教育制度を1833 年に法制化した。
1830年にルイ・フィリップ王は1814年にプロイセン・ロシア軍がパリに迫った恐怖から、パリを環状に囲む新たな城壁を望み、ティエールの提案によって、1841 年から1844 年にかけて6周目の最後の城壁を建設した。これに伴い、5 周目の城壁は取り壊されて、並木道となりました。
78.02 平方キロメートルの領域を取り囲んで全長33 キロメートルに及び、現在のパリの市域を画しています。パリが現在の20 区の市域となったのはこの1860 年でした。52 か所の門(主要は17 カ所)が県道に開かれています。
・1846 年末からヨーロッパを襲ったジャガイモ凶作が深刻な経済危機を生み、食料価格が暴騰し、産業革命により生まれたばかりの繊維業を営む中小企業の倒産が続出する。パリの人口は1800 年では50 万人であったが1840 年には100 万人と急激に増えた。
・1848 年2月市内要所に1500 カ所のバリケードが築かれ、デモ隊への軍の発砲から、自由主義者と労働者の蜂起となり、チェルリー宮殿が襲われ、7 月王政は潰れ第二共和国となる。
憲法制定国民議会選挙では、6 ヶ月以上定住している21 歳以上の男子すべてに選挙権があたえられ、所得制限のあった7 月王政の25 万人から900 万人となった。(フランスの人口3600 万人)しかし、選挙結果は王党派280 議席、中道派500 議席、左派100 議席であり、労働者階層の意に反する政策を実行していくことになる。
「政治に参加できる」といきなりなっても、庶民は教会司祭や地方名望家の先導によって投票したのだった。
・6月蜂起
失業者対策で「国立作業場」が作られたが、地方から人を集め5 月には10 万人が登録され、財政上深刻な事態となり、中道派議会は6 月21 日に「閉鎖をする。25 歳以下は兵役につくか、地方の土木工事につくか。」との選択を迫り、あくる日22 日には数千人のデモが起きた。
陸軍大臣は鎮圧に5 万人の兵を投入し、2 日で鎮圧をした。死者4000 人、逮捕者2 万5 千人とパリ市民に深い傷跡を残した。
・11月4 日に1848 年憲法が発布された。一院制の立法議会は、それぞれ大統領候補を立てたのだが、74%という高得票でルイ・ナポレオンが大統領となった。
労働者は、臨時政府への反発をナポレオンの名に頼り、保守派は秩序維持できる人として、ナポレオンの栄光の伝説を重ねた。1850 年に選挙人の資格を、定住3 年と延ばし、パリに出稼ぎに来ている労働者を排除した。
2018年11 月からパリでは黄色いベスト運動が行われているが、フランスでは政府に対する庶民の直接行動は権利であり、政治参加の一つの形だと認識されている。
1848年革命は、自由主義・民主主義の流れを抑圧したウイーン体制を崩壊させる「諸国民の春」であった。クラフフとガリツァ、スイス、パレルモの後にパリで2月革命がおき、ハンガリーが続き、3月13日のウイーン革命で宰相メッテルニヒが失脚し、ベルリンではプロセイン国王が憲法制定国民議会の開催を約束し、イタリアではオールトリア支配に対して、ミラノ、ヴェネツィアで蜂起が起こっている。民族の自立、統一国家への大きなウネリとなっていく。
大統領の任期は4年であり再選されないとあったので、再選禁止条項撤廃、選挙人資格の定住撤廃の全国遊説を行い、議会で撤廃案が否決されると、1851年1212月22日、警察と軍を味方にしてクーデタをおこし、3日に立法議会は解散され1848年憲法は失効した。
憲法改正を行うぞとの国民投票では9割の支持を受け、クーデタは追認された。1852年憲法が策定され、国民投票で帝政復活が9割の賛成でみとめられ、ルイ・ナポレオンはナポレオン3世となる。帝政という権威主義要素と男子普通選挙という民主主義要素が結合した不思議な統治機構となった。
第18項 第二帝政 (1852~1870)
統治機構の特色は、コンセイユ・ユタ(国務院)という官僚機構にある。立法、行政、司法の全てに渡って影響を与え、立法府は法案の審議しかできなかった。国民投票もこのあと1870 年5 月にあっただけであり、議員の選挙も「官選候補者」という政府公認の候補者が知事などの地方行政当局から露骨な支援をうけ多数当選した。
帝政の前半は、出版と集会の自由を統制し共和派を陰謀罪で粛清するなど、国民を抑圧したが、蜂起、革命に明け暮れた社会に秩序と平安をもたらすとして受け入れられた。後半の10 年は政治的意見表明に対する統制が緩められ、「自由帝政」と言われている。 フランス経済は、ナポレオン三世の時代に産業革命と植民地により大発展する。サン・シモン主義者を起用し、鉄道・道路建設を進め金融制度の改革を行い、フランスという国意識を国民に持たせた。
鉄道路線6社に統合し、1850年は2915kmであったのを、1870年には1万7440kmと延ばし、製鉄・炭鉱・機械の重工業を発達させた。1860年に英仏通商条約を結び関税撤廃をし、ナポレオン1世が大陸封鎖した(1806年)保護貿易主義を自由貿易主義にまっさきに転換し、ヨーロッパ全体に広げた。
植民地獲得に努めた。アルジェリアの支配を強化し、チュニジア、モロッコ、セネガルに手を伸ばし、アジアでもイギリスと手を組んで清に入りこみ、インドシナ半島では、1857年アンナンを征服、1862 年にコーチシナを併合し、1863 年にはカンボジアを保護領とした。1858 年には徳川幕府と日仏修好通商条約を結び、幕府へのテコ入れをしたので、1867 年のパリ万博に徳川幕府は参加した。第2 帝政の20 年で植民地は3 倍となった。
国民の民意がナポレオン三世の力の源なので、ナポレオン一世と同様に対外戦争に勝ち続けないといけない。クリミヤ戦争(1853~1856)でロシアに勝ち、イタリア統一戦争(1859)でニースとサヴォアを獲得するまでは良かったが、ナポレオン1 世と同様に戦争で負けて力を失う。メキシコ出兵(1861~1867 年撤退)で失敗し、プロイセン王家のスペイン王継承に反発し普仏戦争(1870~1871)を起こして、1870 年9 月2 日、8 万の兵と共に自らも捕虜となり、第二帝政は終わった。
第19項 パリの大改造
「名古屋に馬車はなかった。」で、オスマンのパリの大改造の内容を順を追って書いているので、ここでは、新たにネットで見つけた写真・絵を中心にする。
人力と馬車でしか、労力はないのだが、良くもこれだけやったものだと。 ナポレオン三世とフランスに力があり、パリの民衆には力がなく、言われるがままに退去せざるを得なくて、じゃ、行き先はというと、郊外か、壊されなかった裏どおりのバラックになったのだと思われる。
この古い町に光を入れる広い道をわざわざ作るとは、長安を知る私には理解できない。計画都市・平安京では小路でも12mの幅があった。
漢と隋の長安は同じ長安でも場所が違う事を皆は知らない。今の都市名は長安でなく西安といい「これが昔の長安」といわれているが、この添付のように長安とは黄河のこの辺りということであり、3000年の集住の歴史をもっている。
パリも郊外に土地はあるので移せばよいと思うのだが、シテ島がなくてはパリにならないのだろう。木造の都市では、地震と火事で施設はなくなるが、煉瓦の都市であるので一気になくなりはしないが、その代り壊すのも大変だ。
5番の徴税請負人の壁(1780 年代建設)の中、東西8km南北6kmの34k㎡の市域に100 万人の人口を抱えていた。都心4km×3kmに、宮殿、議会、乗合馬車発着所、中央市場、市庁舎、株式取引所、新聞社、商会、病院、の都市機能が集まり、働くには歩いて行けるところと集まっていたが、上下水道、し尿登記上などの施設は劣悪であり、疫病が怖い不衛生なパリだった。
シテ島の周りは中世のままだったので、幹線道路を南北にまず用意する。鉄道が国の幹線となり、パリ市内6 カ所の始発駅が作られたので、駅を結ぶ道は馬車がスムーズに走れる事がメインであった。コミューンのバリケードがしばしば作られたので、軍と大砲の移動が便利なように、広場を繋ぐ道ができた。
1848年に亡命先からパリに入ったナポレオン3 世はオルレリアン公によって作られていた新たな6 番のチエールの壁(184 4 年)に驚いたであろう。
ルイ14 世が壁を壊してグランド・ブールバードを作った(1670 年)のを真似すれば、パリは拡大する、と考えるのはたやすい。新たな城壁を外泡に作り、内側の城壁は壊し、新たなブールバード(並木道)に変えればよい。
パリの面積は7878k㎡と2 倍以上に拡大した。12 区であったのを20 区にした。人口は170万人となる。今は、同じ地域に230 万人が住む。
道路ばかりでなく、道路の下には、上水を引き、下水を流している。また、王の狩場(ヴァンセンの森、ブローニュの森)をパリ市に編入して、市民に開放している。町の中にも公園を点在させた。煉瓦つくりの6 階建ての表通りの建物は地下に埋蔵されていた石材で化粧された。
16区のオートゥイユ地区の写真である。徴税請負人の壁の外には、パリへの間接税を払えない人々のバラックがあった。
貧民窟と言う名がふさわしい。汚く不衛生な町で疫病を恐れて住む人々には、公園が生きるために必要であった。
オペラ座通りを作るために、これだけ壊して作らないといけない。
1852年に百貨店「オ・ボン・マルシェ」ができ、オ・オプランタン、ラ・サマリテーヌと続く。
中産階級プチブルが、消費文化を広げる。
バスティーユ広場の記念塔(1830 年7 月王政)が見える。 2 階建て、3 階建てがそれまでのパリの主流であった。
1841年のパリである。これをみると、オスマンパリ市長の都市計画の手順が読める。パリを範として欧州の都市の改造がこれから始まり、それらを「バロック都市」と呼ぶ。
第20項 パリ・コミューンから第三共和政へ
ナポレオン3 世が捕虜となったあくる日、1870 年9 月4 日、共和制が宣言され臨時国防政府ができた。パリ・コミューンの混乱を経て、こんどこそ共和制は三度目の正直となった。
・穏健な共和制の臨時政府はプロイセンとの休戦を選択した。
プロイセン軍は1870 年9 月19 日から翌71 年にかけての132 日間、パリを包囲することとなる。オルレアン派(王党派)の司令官デュクロによる出撃戦は惨憺たる結果となってプロイセン軍の包囲を突破することに失敗、パリは冬を前に陸の孤島と化した。
しかし、この包囲中の仮政府による配給制はお粗末なもので金持ちが隠匿物資で生活を守る一方、市中ではねずみや猫、犬をはじめあらゆる動物が食料として取引される状況に追い込まれた。11月28日、臨時政府とプロイセンの交渉の結果、パリの篭城戦が終結した。こうした危急存亡の情勢はパリの革命的な性格を急速に強化した。
1871年2月8日の総選挙では、王党派が共和派を抑えて多数を占めた。26日、プロイセンとの講和条約が締結され、アルザス=ロレーヌ地方の割譲、50億フランの賠償金支払い、プロイセン軍によるパリの象徴的占領を内容とする協定が議会で承認された。
・1871年3月1日、プロイセン軍は祝勝パレードのためにパリに入城した。弔旗が掲げられて静まり返るパリをプロイセン軍が3日にわたり占領した。
臨時政府のティエールはこうした緊迫した情勢の中でプロイセン軍との無謀な武力衝突を避けるため、そして革命派からパリを再び掌握するための措置を講じる。市内各所の大砲陣地を奇襲して大砲を押収、国民衛兵の武装解除を進めるよう指示した。
3 月18 日、パリ防衛の重要な堡塁モンマルトル陣地から国民衛兵が守備する大砲の撤去を図るとともに、パリを武力で制圧するよう親政府派の軍に命令を下す。ルコント将軍とパチュレル将軍の指揮で大砲400 門余の撤去を実施するが、これを偶然目撃した国民衛兵の女性兵士の一群が撤去に抵抗した。
すぐさま、将軍は配下の兵に発砲を命じたが、この命令は兵に無視されてしまう。この事件を機にパリでは「コミューン万歳!」の声が高まっていた。臨時政府の休戦協定に反発したパリ市民が武装蜂起した。
・臨時政府がベルサイユに移ると、パリ市議会は選挙を行い、パリ・コミューン「プロレタリアート独裁」を3 月26 日に宣言する。
2 万人の国民衛兵と市民の祝賀を前に、金色の総飾りに飾られた巨大な赤旗が翻る市庁舎の広場でコミューン政府成立の盛大な式典が開催された。
・国家に対して都市が反乱するというのだ。都市国家は14 世紀に消えたのだが、そこがパリのパリたる所以であり、臨時政府としては徹底的に弾圧せざるを得ないとなる。
プロシアが臨時政府を助け、2 ヶ月で死者3 万人を出して鎮圧された。 裁判により370 人が死刑となり、410 人が強制労働、4000 人が要塞禁固、3500 人がニューカレドニアなど遠方の海外領土に流刑となった。関係のない市民も、その場にいたという不条理な理由で殺されたほか、ヴェルサイユ軍の将軍たちは捕虜に因縁をつけては処刑するなど、パリ全域はコミューン退治を口実とした虐殺の舞台と化していた。
・パリ・コミューンの制圧は、穏健的共和派や王党派にとっては「危険な過激思想を吹聴する叛徒」を排除する絶好の機会であった。カール・マルクス(1818~1883)はコミューン崩壊の2 日後、「フランスの内乱」を執筆し、コミューン戦士の名誉を擁護した。 逆説的に、この「功績」によりティエール率いる共和派は、農民、ブルジョワ、王党派から第三共和政という政治形態の支持を得られることとなった。
モンマルトルの丘に建つサクレクール寺院は普仏戦争で亡くなった人々への鎮魂として企画された。
それは、オスマンによってパリが拡大され、それまで北の郊外に見上げていたモンマルトルの丘が市内に取り込まれ、パリの市街戦における大砲陣地として使われ、多くの人の命を「丘という地形」が奪ったからである。
王党派と共和派の争いは続き、1879 年に共和派が議会と大統領職を掌握し、10 年を経て第三共和政が成立した。この後は、穏健共和派と急進共和派の争いとなる。
・1881 年6 月16 日 初等教育の義務化、無償化、世俗化(教会から離脱)の法が成立。
国家が統合された国家たるには、小さな子供から国体を教えることが重要と、フランス語教育・国歌・国旗・7 月14 日祝日が決められた。フランス革命から100 年、9度目の国体であり、3 度目の共和制を今度こそ地に着いたものとするためにであった。さらに、国民全般の知力の向上により、国力をあげる為にと中等・高等教育の充実を図って行った。
日本は1872 年(明治5 年)に「学制」を公布し、全国を学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置することを計画し、身分・性別に区別なく国民皆学を目指している。フランスを真似たものであるが、明治政府の意気込み「国家が国家たるには」は、フランスと同時期であった。
・1901 年 急進共和派は急進党を作り、修道会の教育への関与を禁止。
・1905 年 政教分離法
工業化の進展は貧困問題を生んだ。1880 年以降、公的補助局・労働局が作られ、無料医療扶助法、高齢者身体障碍者扶助法、多子家族扶助法、労働災害補償法、老齢年金法、公衆衛生法、10 時間労働制、低廉住宅法が、順次作られていった。 急進共和派は、国家の社会への介入を巡る自由主義と社会主義との対立を克服し、国家の介入を正当化するために「連帯主義」を唱えた。
フランスは植民地により豊かになると、政官財の結合をあらゆる社会階層で行い、政党を問わない「植民地党」が形成され、1910 年に議会に正式に登録された。
第21項 万国博覧会
この章は、サクレクール寺院とエッフェル塔から始まっている。最後にエッフェル塔を書いて終わろう。エッフェル塔だけでなく、グラン・パレ、プチ・パレ、アレクサンドリア3 世橋、オルセー駅(美術館)など、万博の為に作られた。ロンドンはドイツの空襲で消えたが、パリは19 世紀に作られた建造物が今もパリの特色となっている。
名古屋は広い道路を火除け地として作ったが、日影規制により、道路の南側に凸凹マンションが建ち、およそ、都市景観などとは程遠く、大村知事と河村市長は貴重な名城公園を潰すという。日本一高い料金の名古屋高速道路は赤字のまま、延長しようがないので新たに出入り口を作るという。まったく都市のあるべき姿は「面白い」だけの首長の元で、名古屋はどうなるのか。パリを知って名古屋の範としよう。
パリの第一回産業博覧会は1798 年と、革命で衰退した産業復興をめざしたもので、サロンでの美術品展示と同じように、単に展示をするだけでなく審査制度を取りいれ、優れたものを表彰した事に特徴があり、人集めに効果があった。万博の狙いは、競い合って産業技術を磨き、その実物を展示し、一番肝心な事は多くの人を集める事である。
1849年までにパリ産業博覧会は11 回開かれているが、その1849 年のパリ産業博覧会をロンドンの公文書館で館長補佐をしていたコール(H. Cole)がみて、国際博覧会を開こうとヴィクトリア女王の夫であり王立技芸協会会長のアルバート公に提案し、1851 年第一回ロンドン万博が開かれた。水晶宮により「世界の工場、ロンドン」を示し、会期中の入場者数は604万人で、この数は当時のイギリスの総人口の約1/3、ロンドンの人口の3倍に当たる。
ナポレオン三世は、クリミア戦争中にもかかわらず、ロンドン万博の成功を見て、1854 年のパリ産業博覧会を変更し1855 年第1 回パリ万博とした。
蒸気機関車、蒸気船等の大型機械が実際に稼動している様子を見ることができるようになっていた。産業に芸術を加えて、初めて本格的な美術展示をモンテーニュ大通りの独立したパビリオンで行い、また、海外植民地の文物展示を大規模に見せるなど、ロンドン万博と違う所を打ち出した。イギリスのヴィクトリア女王夫妻が万博に来訪した事によって、自由貿易主義の良さを世界に見せ、パリの政治、経済、文化的優位性を強く国際社会にアピールできた。
ボルドーワインは昔からイギリスが多く輸入していたのだが、この時からワインの格付けが始まった。パリ万博で金賞を受賞したのは「シャトー・ラフィット・ロートシルト」、「シャトー・マルゴー」、「シャトー・ラトゥール」の3 つであり、「シャトー・オー・ブリオン」は銅賞にとどまっている。
・1867 年第二回パリ万博
会場は、シャン・ド・マルスの14 万6,000 平方メートルという広大な敷地があてられることになった。ここに、中央の温室庭園を囲んで7 つの回廊が同心円状に広がる巨大な楕円形の展示会場が建設された。
それぞれの回廊は特定の展示部門に対応しており、内から芸術作品、文化教養 リベラル・アーツ 関係品、家具、 と並び、6 番目の最大の回廊には機械工業関係が展示されていた。また、円の中心から放射状に、展示品が国別に並べられていたため、円の中心から あるいは中心に向って 通路を歩けば、その国の出展品をまとめて見ることができた。
そしてメイン会場の外周には100 軒を超える各国の展示会場、売店や遊園地、レストランなどが立ち並び、人気を博した。こうしたアイデアは第2 回パリ万博が最初の試みであったが、娯楽施設を設置した明るいお祭り雰囲気の万博は、その後の万博のモデルとなった。出品者数は6 万、入場者数は906 万人と1851 年の第1 回ロンドン万博を凌ぐものとなり、成功を収めた。
また、この万博では、ジーメンス( 社による電動機、発電機、エドゥー(L.Siemens)社による水圧式エレベータといった機械、クルップ( 社の大砲などの武器が大きな注目を集めた。中でも水圧式エレベータは、会場屋上まで昇ることができ、会場の俯瞰風景を楽しむことができた。大河ドラマで、渋沢栄一が屋上に登ってパリの街を俯瞰したシーンは良かった。この万博は日本が初めて正式に参加しており、幕府、薩摩・佐賀両藩が出品した。日本からの出展品は珍しがられ、いわゆるジャポニスムの契機となった。
・1878年第3 回パリ万博
1871年普仏戦争に負けたフランスが、第三共和国として世界に認められる事、フランスが再び文化の中心として復活したこと事を示す事を目的とした。
会場は、前回のパリ万博の会場となったシャン・ド・マルスに加え、トロカデロの丘まで拡張された。シャン・ド・マルスには長さ760 メートル、幅350 メートルの長方形の展示会場が、トロカデロの丘には中央のホールから左右に円弧を描いて伸びる翼廊を持つトロカデロ宮殿が建てられた。
トロカデロの会場内には電車が走り、セーヌ川から汲み上げた水によって4 つの噴水が造られた。この水は、機械館の床に通してクーラーとしても使われた。トロカデロの本館ではフランスの美術品が展示されると共に、一方では様々な国際会議が開かれた。アメリカの出展品には、ウィルソン(A.Wilson) やシンガー社などのミシンがあった。また、エディソンは音声を電気信号に変えるマイクロフォンや蓄音機を披露した。
アメリカに贈る「自由の女神」の頭部が建設された。毎日、何百人もの見物人が、自由の女神の頭部に登るために列を成した。また、日本もシャン・ド・マルスに日本館を建て、トロカデロ会場にも、古物館への出品の他、茶室や日本庭園を持つ日本式家屋を建てて参加した。
・1889年第4 回パリ万博
フランス革命100 周年を記念したので、立憲君主国の政府の参加はなかったが、民間企業は関係なく、35 ヶ国、6 万人の出品者(55%がフランス人)、来場者3225 万人と大成功した。
今もパリを代表する万博の目玉は、15 日間のコンペの中から採用されたとされるエッフェル塔である。実際は1877 年にドゥロ河マリア・ピア鉄道高架橋(ポルトガル)の実績を持つエッフェル(A. G. が、錬鉄・リベット留めを用いた塔312mこそ現代技術のモニュメントとしてふさわしい、プレハブ化するので軽く、早く、安いと売り込み、これに飛びついたロクロワ商工大臣だった。エレベータ―8台、電話、電信も装備された。
鉄骨造と言えばエッフェル塔の前、1855 年ロンドン万博の鋳鉄とガラスで庭師が作った水晶宮をまず思い浮かべるのであろう。しかし、世界初の鉄骨造は1779 年にアーチ橋で既に作られていた。イングランド南部シュロップシャー州のセヴァーン川に架けられたアイアン・ブリッジは、世界遺産に指定されている。鋳鉄であり、その組み方は木造からの援用であった。この100 年の間に、鉄自身が強くなり、リベットでの接合が構造計算をたやすくした。
万博の中心施設は機械館である。水晶宮から34 年、エッフェル塔と同じ材料、工法で作られた。1900 年の第5 回パリ万国博覧会でも再びパビリオンとして使用されたが、エッフェル塔のように今日まで残されることはなく、1910 年に取り壊されてしまった。
建築家デュテール(F. C. L. Dutert)と技術者コンタマン(V. Contamin)によるもので、当時まだ新しかった鋼鉄が用いられ,スパン約111m,ライズ43.5m の3 ヒンジアーチ(三鉸式アーチ)で,奥行き420mの無柱の大空間を実現した。
それまで最大であったセント・パンクラス駅(St.Pancras station) のスパン73m(ライズ25m)を抜き去る。
3 ヒンジアーチを初めて屋根構造物に適用し、静定構造として解析できるようになり構造計算ができた。
アーチはトラス状に組まれていて,約3.5m の梁せいに対して,その幅はおよそ5 分の一の75cm 。柱の足元は絞られ、ピン構造としているのに来場者は驚いた。
会場内ではシャン・ド・マルスから小型電車が10 分おきに発車し、周辺約3 キロの会場を電車から見て回ることができた。エッフェル塔は夜には三色のサーチライトでライトアップされ、会場はエディソン(T. A. Edison)の発明である白熱電灯で照らし出され、万博史上初の夜間開場が実現した。午後9 時からは毎日シャン・ド・マルスの庭園で噴水と照明による華やかなショーが催された。
・1900 年第5 回パリ万博
20 世紀という新たな世紀に沸き立ち、入場者は5086 万人であった。当時のフランスの人口4000 万人より多い。電気、化学、自動車、航空機、アルミニウムの新産業が蒸気機関と置き換わった。「動く歩道」「電気館」が人気となる。
セーヌ川右岸、ヴァンセンヌの森も会場とされた。シャンゼリゼに新たにグラン・パレとプチ・パレが建設され、セーヌ川対岸のアンヴァリッドとの間は壮麗なアレクサンドル三世橋でつながれた。メトロ(地下鉄)開通を間に合わせた。
フランスは、高級装飾、装身具もパリの特産品であり、産業芸術の生産をとなえ、万博を機にアール・ヌーヴォ―が流行した。
名古屋の「文化のみち二葉館」の主、川上貞奴は川上音二郎一座と共に万博に招かれ、会場の一角にあったロイ・フラー劇場において公演を行った。7月4日の初日の公演には、彫刻家ロダンも招待されていた。ロダンは貞奴に魅了され、彼女の彫刻を作りたいと申し出たが、彼女はロダンの名声を知らず、時間がないとの理由で断ったという逸話がある。8月には、当時の大統領エミール・ルーベが官邸で開いた園遊会に招かれ、そこで『道成寺』を踊った。貞奴の影響で、キモノ風の「ヤッコドレス」が流行。ドビュッシーやジッド、ピカソは彼女の演技を絶賛し、フランス政府はオフィシェ・ダ・アカデミー勲章を授与した。
同時にオリンピックも開かれた。フランス人は、万博、オリンピック、サッカー、世界遺産、国際建築家協会と、あらゆるもののグローバル化を繋げ、利権を得るようになっていく。
日本も真似をして、殖産興業の旗を掲げて内国勧業博覧会を行った。
・1877年第一回内国勧業博覧会 東京上野公園 入場者数:454,168人
・1881年第二回内国勧業博覧会 東京上野公園 入場者数:823,094人
・1890年第三回内国干魚博覧会 東京上野公園 入場者数:1,023,693人
・1895年第四回内国勧業博覧会 京都岡崎公園 入場者数:1,136,695人
・1903年第五回内国勧業博覧会 大阪天王寺今宮 入場者数:4,350,693人
国家的博覧会の日本での実現は、戦後、19701970年の大阪万博まで待つこととなる。
名古屋でも博覧会は鶴舞公園の誕生と共にあった。
・1910年(明治43年)) 第10回関西府県連合共進会
3府28 県の殖産工業の展示会、地方博覧会だが、娯楽施設やイベントも充実し、大規模な催しであった。市の人口が約40 万人だった当時、総入場者は260 万人余にのぼった。
・1928年(昭和3 年)御大典奉祝名古屋博覧会
開催の主旨は昭和天皇の即位を祝うものだが、当時の深刻な不況を脱して産業を振興することが目的だった。全国から37 府県が参加し、入場者は194 万人であった。
・ 1937 年(昭和12 年 名古屋汎太平洋平和博覧会 名古屋の臨港地帯(港区)で開催
名古屋市主催の博覧会で、日本国内のみならず、環太平洋地域の29 か国ほか、都市、地域などからの出品を含めて、総計37 か所の参加があり、入場者は480 万人余に達した。
●まとめ
フランスがローマカトリック教会とどのように関わったかを、フランスの通史から拾い出してみた。都合、22項目となった。このような論考は管見したところない。獲得に血を流したからこそ「自由、平等、人権」の価値を知るフランス人という仮説から初めて2 か月も要してしまった。
フランス人が血を流した歴史は本を読めばすぐにわかる。フランスと日本との血を流した歴史に大きな差があることが、日本に民主主義が根付かないのだと仮定してネットを徘徊した。フランスの歴史は日本史のように当然フランス語では詳細にある。英語版ウイキぺデアの日本語翻訳が手助けとなった。
違う国の歴史なのだから、違うのは致し方ないが、フランスはカトリック教会から小学教育を取り上げ、国語教育をして子供に国家を意識させ、理科・社会の教科により社会を理知的に捉える訓練を施してきた。宗教史を教えるフランスに対し、日本は明治政府の天皇主権を引きずったまま、教育を今の「象徴天皇」に至るように行っている。天皇のもつ宗教性が曖昧のままなのがいけない。昭和天皇の「人間宣言」が曖昧なのである。
占領軍から文字で渡された「自由、平等、人権」は、永遠に日本人の身につかないのだろうかと、改めてフランス通史で、ローマカトリック教会との関連を追ってみた。
496年 1:帝冠式(伝説)
800 年 2:王権神授説を唱える
900年代 3:二元統治機構として
1075年 4:王と教会の争い
1095 年 5:教皇が国王を破門
109 6 年 6:第一回十字軍は封建君主連合
1154年 7:王妃アリエノールの結婚フランス妃・離婚・結婚イングランド妃
1 2 23 年 8:結婚・戦争・買収・異端 により領土拡大
130 9 年 9:王、教皇に勝つ(バビロン捕囚)
1335 年 10:ノートルダム寺院は、国の成長と合わせて完成(1163 年着工)
1349年 11:教皇も王もペストを恐れ都市から逃げ出す。
1429年 12:聖人ジャンヌダルク、パリを攻める。
1438年 13:国家教会主義(ガリカニスム)
1540 年 14:プロテスタント弾圧
1572 年 15:パリ、サン・バルテルミの虐殺
1598年 16:妥協の産物、ナント勅令
1661年 17:枢機卿にして、宰相が続いた
1715年 18:絶対王政の最少単位はカトリック教の小教区
1751年 19:理神論(啓蒙思想)
1789年 20:政治、統治から離されるカトリック教。
1792年 21:カトリック教の弾圧
1801年7月16日 22:ナポレオンはローマ教皇ピウス77世と宗教協約コンコルダ―トを結ぶ。
聖職者民事基本法は1794年に廃止されたが、ローマ・カトリック教会とフランスとの敵対が続いていた。ナポレオンは1800年6月に第二次イタリア遠征でオーストラリアを破り翌年2月北イタリアを支配する。そんなナポレオンの力を背景にして秘密裏に交渉し、
〇教皇はナポレオンの統領政府を正式に承認し、没収教会財産の返還要求をしないことに同意した。
〇叙任権は教皇が持つが、その任免の際に聖職者のフランス国家への忠誠宣誓を必須とし、人選についても第一統領が指名大権を持った。
〇教区の変更の線引きは教会と国家が協議して決めるということになった。
〇聖職者の公定俸給は国が支払うことになり、聖職者は実質的には公務員のようになった。
簡単に以上の22項目をまとめると、フランスは「神」と一体のキリスト教にどっぷりつかって、神と王との二元主権のバランスの上に封建時代を生き、宗教戦争を経て、国は教会の上にあるとし、ローマカトリック教会からの離脱にもがきながら、中央集権国家とまとめ、18世紀になって絶対王政を築いたのだった。フランス革命は猛烈な絶対王政があればこそ、それへの反動で起きた。ナポレオンと教皇との宗教協約で関係を文書化するも、1789年から100年を経てようやく「自由、平和、人権」の共和制の国体が整った。
「神」の末裔の天皇を基に、ア・プリオリの中央集権国家の建前で政権の変容を行ったきた日本。天皇は革命を起こして潰す相手でなく、政権が利用しやすい存在だった。利用するのは「神性」だが、その「神性」にローマカトリック教のような力のイデオロギーはない。中央集権国家の地方長官は、国司、守護、藩、県とシステムを変えて存続した。
日本の歴史にフランスのような隣国との戦争はない。海に囲まれ、鎖国政策により1919世紀まで国家消滅の危機はなかったのだ。日本国は天皇制の基で政権看板の架け替えだけですまされた。
明治革命とならなかったのは、江戸時代の庶民には忘れられていた天皇を、幕末の「尊王攘夷」運動から明治政権が「尊王」と蘇らせたことにある。天皇が江戸に行き、江戸を日本の首都とする。近代の中央政権国家には、その中央の首都が重要なのだ。
戦後、戦争で負けた故の混乱も「人間宣言」した天皇によってなのか、起きていない。
国民の「お上」意識、中央集権国家の1300年の歴史によって、日本には「国民が主権」だとの民主主義が根付かない。これが私の「フランスに学ぶ」の結論である。