犬山城下町 3万5千石 with 歴史地理学

城下町

3万五千石の犬山藩はなく、尾張藩の筆頭家老の成瀬家の城下町として、犬山は今に続きます。昭和50年代の街並み保全運動 から、地方都市における古い街並みの観光地化の流れの中で、犬山は国宝の天守を城下から仰ぎ見る街並みを作り出し、飛騨高田と並ぶ観光地として、城とセットで城下町も世に売っています。

正保絵図1647年は徳川林政史研究所に確かにあるのですが、その絵はネットには転がっていません。私は50年前に写真で見ていますが、他の正保絵図とは表現において違いました。

50年前、名古屋の城下町は万治期の絵図で私たちは復元したのですが、その後、蓬左文庫で「正保絵図」が発見されました。正保と書いてありますが、描法は幕府が指定した狩野派の絵図でなく、幕府提出の絵図の下絵もしくは控えだったのでしょう。となれば、この犬山正保絵図も幕府提出の正保絵図でなく、下絵もしくは控えだと私には思われます。
しかし、そのような論文はないままに、徳川林政史研究所は「研究のための正保絵図の撮影には応じる。」であり、公益財団法人・犬山城白帝文庫のホームページには正保絵図の掲示はありません。
最近「長久手合戦図」屏風への松浦由起氏の論考が発表されましたが、 「正保絵図」においても研究され、ホームページ上に発表されることを願っています。 

  1. 「犬山城天守はいつ建設されたか。」を私はすでに「石川貞清が作った。」とアップしています。その後、2021年5月に麓和善名工大教授から「織田信雄が小牧長久手の戦いの後に犬山城天守を作った。」とありましたので、その反論を試みない事には、いつもの「ブラリ、犬山城下町」にいけません。しかし、まずはいつもの城下町探訪と同様に、犬山の古代集落から始めます。そして、山村亜紀京都大学教授の「歴史地理学」による犬山城下町の景観復元を紹介します。私は「都市の発展経過」に興味を持つ「都市史」の学徒ですが、それぞれの土地の過去の文脈を鮮やかに明かす山村さんの「歴史地理学」の成果に、いつも拍手をしています。
    1. 第一章 白山平山(標高143m)東乃宮古墳から濃尾平野を見下ろす。
      1. 濃尾平野の古墳
      2. 犬山は濃尾平野を制する権力者にとって、格別の記憶を持つ。
      3. 秀吉は、1585年小牧長久手の戦いに勝った後、1586年に木曽川の大洪水にあい、その対策としての堤の建設と共に、山奥にある材木の利用を考えます。そして、1590年に身近に使番として仕える石川貞清(~1626)に信濃木曾の太閤蔵入地10万石の代官を命じ、同時に1万2千石の犬山城主も命じます。
    2. 第二章 要害の犬山城は1537年に作られ、梯郭式城郭と天守、櫓13軒は1592年に石川光吉によって作られた。
      1. 麓 和善 著「国宝犬山城の創建に関する新発見」2021年5月1日
      2. 梯郭式城郭を作った土木工事、とりわけ石垣工事に、犬山城の築造年を探る。
        1. 秀吉は、1590年の城割りで、岡崎城(田中吉政)、吉田城(池田輝政)、浜松城(堀尾吉晴)、掛川城(山之内一豊)、駿府城(中村一氏)と、東海道沿いに豊臣政権の与力大名を置き、松本城(石川和正)と合わせて、関東にいる家康をけん制した。同時に、美濃でも家康包囲網として犬山城を木曽谷代官の石川に作らせた。
      3. 秀吉の城下町つくり 長浜1576年 姫路1581年 大坂1585年 京都・名護屋1591年
    3. 第三章 山村亜紀 著「犬山城下町の空間構造とその形成過程」の紹介から、「歴史地理学」について。
    4. 第四章 私の「都市史」参考図書
    5. 第五章 ブラリ、犬山城下町
      1. 犬山街道、総構え、桃山時代の町割り
      2. 500m角の城下町が、500m×200mの城郭にくっついたよう。
      3. ブラリ、ブラリと城下町   写真には番号がついています。

第一章 白山平山(標高143m)東乃宮古墳から濃尾平野を見下ろす。

西北を木曽川に沿って見ると、正面に犬山城天守が見えます。この写真は東乃宮古墳への途中の瑞泉寺の上からです。

左手、東に、濃尾平野の縁を形作る段丘が南に続き、名古屋の洪積世台地に繋がっていきます。名古屋の超高層ビルが見えます。
その手前にあるのが、家康が犬山城の秀吉に対峙して陣をはった小牧山です。信長もここに美濃攻めを考えて砦を作り、4年いました。
聚楽第を模して、城戸久がコンクリートで設計した小牧城天守がてっぺんにポツンと見えます。

濃尾平野の民が仰ぎ見る高台には、諸所、古墳が作られました。西を薄目を凝らしてみると、濃尾平野の西の壁、養老山脈が見えます。そちらにも古墳は当然作られています。

この写真は東乃宮古墳への途中の瑞泉寺の上からです。西北を木曽川に沿って見ると、正面に犬山城天守が見えます。

西北を木曽川に沿って見ると、正面に犬山城天守が見えます。この写真は東乃宮古墳への途中の瑞泉寺の上からです。

美濃の山々は、岐阜の金華山に続きます。信長が愛してやまなかった濃尾平野の姿は、岐阜城の逃げ城である金華山山頂から、南向きに、西から東に首をまわしてこそ、素晴らしいものです。
しかし、この平野の東の犬山からの景色、平野の西の養老山脈からの景色、それぞれにおいても、ブラタモリ的に景色を楽しめます。地学をベースに地理を語り、その上の歴史を楽しむブラタモリでした。残念ながら、番組は2024年3月で消えますが、そんな目でこれから犬山城下町を見ていきます。

今回は、ブラタモリで顔を売った「歴史地理学」の山村亜紀京大教授に、第三章で焦点をあてます。「歴史地理学」にお急ぎの方は第三章に飛んで下さい。

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濃尾平野の古墳

●尾張の土器と埴輪  赤塚次郎(1954~)

8ページに、赤塚の美濃、尾張の古墳の制作連関を示した結果を示したが再掲する。それは古墳から出土した土器と埴輪によったものであり、ここで土器と埴輪の違いが語られるが、1978年川西宏幸(1947~)の「円筒埴輪総論」による古墳の年代区分1~Ⅴを知らずには、この論文は理解できない。
尾張の土器と埴輪  赤塚次郎(1954~)  「継体天皇と尾張の目の子媛」1994年小学館 刊

弥生時代に同一の河川を利用する集落に間に力の上下が生まれ、河川域を支配する郡(クニ)が生まれました。古墳時代です。古墳は群をなして、集落から見あげられるところに作られました。赤塚次郎は濃尾平野の古墳群を表にまとめ、河川域毎の豪族の栄枯盛衰を示し、尾張国が愛智郡の尾張連によってまとまっていく道筋を示しました。図と見比べながら以下に書いていきます。

3世紀、弥生式墳丘墓から古墳に踏み出します。濃尾平野を西から見下ろす養老町の象鼻古墳の前方後方墳(墳長43m)は、濃尾平野の反対側、東の犬山の山沿いに移り、4世紀初頭には濃尾平野を東から見下ろす東之宮古墳に犬山扇状地の王を埋葬しました。犬山は、木曽川左岸の尾張国ですが、右岸の美濃国とのつながりも強いです。伊勢国にある桑名が尾張国とのつながりで発展したのと同じです。大河は、国境であり、交易の動脈でもあります。

5世紀の古墳盛期になると、木曽川左岸の犬山では青塚古墳と犬山扇状地を降り、古墳を作ることができる勢力は、小牧市の宇都宮古墳、春日井市の高御堂古墳と丘陵に乗って南下していきます。木曽川右岸では東山道ぞいに東農の坊の塚古墳、中農の琴塚古墳、西濃の昼飯大塚古墳と東西に並びます。また、濃尾平野の東、庄内川沿いには、志段味の河岸段丘から、守山にかけて古墳群が作られました。
それぞれの地域の王が鉄器・馬を使い、闘い、力を競いあいます。一方、どの王も前方後円墳という古墳の形によってヤマト連合国の下についていたことも示しています。古墳時代4~6世紀に、全国レベルで行われた日本統一のうねりは、濃尾平野でも当然あったのでした。

尾張氏は、4世紀の円墳・兜山古墳がある鮎千潟から北上し、5世紀の古墳盛期には、ヤマト王朝志向の小さな前方後円墳も作ってはいますが、それらを凌駕する大きな円墳・八幡山古墳(径80m)を作り、尾張名古屋地区での王の力をアピールしています。
5世紀になると、尾張氏は大きな古墳を作った濃尾平野の王たちとの闘いに勝ち、美濃の金生山から鉄を仕入れ、6世紀に継体大王とつながりを持ち、ヤマト王朝に尾張物部氏としてデビューし、記紀に神代からの系譜を書かせることに成功します。その成果が熱田台地に作られた6世紀の前方後円墳、断夫山古墳です。海を行く人々に力を誇示する、墳長151mの巨大古墳です。

名古屋市の志段味古墳ミュージアムに掲示されていた空想の産物

この絵は、名古屋市の志段味古墳ミュージアムに掲示されていた空想の産物ですが、縄文海進の後の濃尾平野を一望し、古墳がどのようにあったのかが一目でわかります。尾張の鮎千潟から鉄を求めて美濃の不破郡にいくには陸路より海路がたやすいことは一目瞭然です。

尾張は河海の世界  網野善彦
濃尾平野というと、広々とした平野であり、稲作地帯と思うが、それは家康が木曽川に「御囲堤」を設けて川の氾濫を抑え、木曽三川に輪中を開発してからのことであり、伊勢湾台風で稲沢まで水が迫ってきたように、地盤が低く洪水にあうことが多く米作には適していなかった。延喜式によると、尾張の田は6820町、伊勢の8130町より少なく、美濃の14823町の半分もない。弥生時代の遺跡は濃尾平野の外周部の扇状地、河岸段丘にある。

中世の尾張、美濃の荘園、国衙領の税金は、絹、絹糸、絹綿であり、濃尾平野の諸所の河川敷には桑の木がびっしり植わっていたのだった。私の子供時代の記憶にも広大な桑畑があった。13世紀になると、交易が進み、町がおき、税金は銭に代わる。

中世になると、東山古窯、猿投古窯、常滑、瀬戸、美濃の焼き物が盛んになり、海と川を使い、非常に広く各地に運ばれている。奥州平泉にも北上川を遡り常滑、渥美の陶器、中国の青白磁が運ばれていた。中世の古文書に窯の記述はないが、愛智郡と山田郡に「御器所」の地名が残る。

15世紀の京都南禅寺の用材は、木曽山、付知山から木を切り出し、河川を使って琵琶湖に入れ、筏、車、馬によって京都に運び入れていた。

伊勢海から三河湾、浜名湖へは、早くから伊勢神宮が影響を及ぼしていた(本神戸)が、11世紀末になると、摂関家は海上交易の要所に荘園を獲得する。海東郡の富田荘(円覚寺の荘園として絵図が残る)長尾荘・堀尾荘(木曽、長良)。12世紀になると、天皇の荘園と結び、美濃尾張源氏と伊勢平氏が伊勢湾を巡って争い、源義朝は熱田大宮司家と結び、知多半島で死ぬのだが、船運で相模の大場御厨、鎌倉外港の六浦から上総、下総の領地とつながっていた。古代は東山道が日本の幹線であったが、船運の発達により東海道沿いが幹線となる。

1181年の墨俣川源平合戦では、源氏は義朝の子・義円と新宮十郎行家が大将となり、熱田宮と伊勢湾に進出したい熊野の海賊に支えられて渡河作戦を行うが、平氏が伊勢水軍を全面的に動員して勝つ。当時は、墨俣で長良川と木曽川が合流していた。

犬山は濃尾平野を制する権力者にとって、格別の記憶を持つ。

「信長公記」にあるように、織田信秀、織田信長が美濃攻めをするとき、眼前には木曽三川が幅広く横たわっており、犬山市から各務原市と、上流の川幅の狭いところで渡河するのでした。川は国をつなぐ動線であり、国を違う境でもありました。
白山平山(標高143m)は、尾張の国にとって、格別の意味を持ったのでした。木曽川が山から顔を出すこの犬山の地は、長良川が山から顔を出す金華山と共に、川の流れが緩む河川交通の要所であることはもちろんですが、古代からの濃尾平野を治める要所の記憶があるが故に、江戸時代になっても、尾張藩の筆頭家老が犬山城を持ったのだと思います。
1581年に武田から戻った織田勝長は信長に犬山城城主とされます。1582年に兄・信忠に従い甲州征伐に行き、本能寺で死にますので、犬山城下町の経営には彼はタッチしていません。しかし、犬山は木曽川沿いの尾張の国の守りの要点というだけでなく、 織田信長の叔父・織田信康が1537年に犬山城を作って以来、武将に箔をつける価値が「犬山城主」の名には積みあがっていたのでした。

名鉄は、名古屋から犬山に犬山線と小牧線の2本を渡しています。さらに川を越えても鉄道がつながっていきます。今は観光の犬山でしかないのですが、材木産業の町・犬山であったのでした。

1972年に33歳の内藤先生が書いた CD「都市・名古屋を考える」より

秀吉は、1585年小牧長久手の戦いに勝った後、1586年に木曽川の大洪水にあい、その対策としての堤の建設と共に、山奥にある材木の利用を考えます。そして、1590年に身近に使番として仕える石川貞清(~1626)に信濃木曾の太閤蔵入地10万石の代官を命じ、同時に1万2千石の犬山城主も命じます。

家康の木曽川左岸の「御囲堤」を右岸より高くする事が尾張の濃尾平野を洪水のない(その代わり美濃が常に洪水です)米どころとしました。これは大変有名ですが、その前に、天正14年(1586)の洪水で木曽川が長良川と離れたあと、秀吉は1992年に堤を作って「木曽川」を分離します。「木曽谷から流れてくる川」として名が付きました。現在の道路もですが、その限られた地での名が付きます。それまでは鵜沼川でした。材木の集散地として犬山を栄えさせる基を石川に築かせたのでした。旧木曽川は境川として生かしました。

今は「日本ライン」と呼ばれている急峻な木曽川も、山を抜けた犬山でゆったりとした流れに変わります。古代からここは「鵜沼の渡し」としてあり、美濃の東山道はここで木曽川を渡り、木曽川の左岸を東進し、庄内川を上り、神坂峠を経て飯田盆地に出ました。江戸時代の中山道は馬籠から木曽谷に入り信濃に向かいます。神坂峠が大名行列にはきつかったからでしょう。

織田氏が美濃攻めをするには、ここの犬山城を押さえて木曽川を渡る必要がありました。信長も1564年に犬山城主の織田信清を追いやります。関ヶ原の戦いの前哨戦では、石川は西軍として犬山城にこもりますので、犬山は、材木産業の町だけでは当然なく、石川は城としての守りを固めました。

川を天守の後ろにして、街道を城下に引き込み、町人地を街道沿いに広げる都市計画は、同時期に行われた田中の岡崎城、池田の吉田城と似ています。さらに「総構え」として、城下町全体を堀で囲うの発想は岡崎、犬山でしか見られません。そして、犬山は、高低差を無視した外堀であり、道もまっすぐでないのです。
私は夢想をしています。「石川にはテクノラートの普請奉行はついておらず、石川が城下町・近江八幡で実績のある田中にスケッチを書いてもらい、近江八幡から呼び寄せた職人にすべてお任せして作ったのだ。」と。天守の造形も、入母屋の大屋根の中に望楼を突き刺した構造そのままに、実に単純なものです。目立つ唐破風は成瀬氏の元和年間での付加ですので、当初の天守は作りやすく、安くすんでいます。

木曽川には錦織(加茂郡八百津町)に、飛騨川には下麻生(加茂郡七宗町)に、それぞれ関所があり、材木の1本流しをここで網で止め、長さ3,6mにそろえられた材木を筏に組んでいました。ここで「運上」という通行税が必要でしたが、秀吉は通行税を廃止し、太閤蔵入地とし、犬山でさらに筏を大きく組みなおして大量に木曽材を流し、笠松や岐阜に木材の自由市場を開き、地元商人に運営させました。大阪や堺の商人も出入りし、木曽材を軸とする商業取引が始まったのです。

秀吉による木曽材の伐り出しは、天正11年(1583)大阪築城の時から始まりました。そして、同13年には聚楽第、同15年には淀城、同17年には方光寺大仏殿の建設に多量の木材を伐出し、天正18年(1590)に秀吉はこれらの地域ならびに木曽川、飛騨川を直轄領とし、石川備前守光吉を木曽代官として木曽谷を支配させ、同時に犬山城城主としました。
さらに同19年には外征用船舶、文禄3年(1594)には伏見城の築城、京都の公武の邸宅の新築、城下町の造営、船舶、車の製造のために、多量の木材を伐出しました。    

木曽材の京都、大阪方面への搬出は、木曽川を筏(いかだ)で下し、木曽川から境川を経て長良川へ入れ、墨俣で陸上げし、近江の朝妻(米原町)へ陸送して琵琶湖を船で運ぶルートでした。当時短期間にこれほど多量の木材を伐採し運び出した山々は、川に近い比較的浅い山々でした。  

第二章 要害の犬山城は1537年に作られ、梯郭式城郭と天守、櫓13軒は1592年に石川光吉によって作られた。

犬山城を探る前に、織田家の復習と、館城・岩倉城を示します。 

●尾張国の守護代は、1479年以来、清洲城を守護所とする上4郡の織田大和守家と岩倉城を守護所とする下4郡の織田伊勢守家に分かれていた。
織田家は、越前・尾張・遠江の守護大名であった斯波武衛家の家臣であり、1400年頃に越前から主家と共に尾張に来ていたのですが、応仁の乱(1467~1477年)の斯波氏の家督争いでは、守護代の織田家も二つにわれました。 織田信長の曾祖父・良信は、織田大和家の分家から出て清洲の3奉行と言われ、織田弾正忠家をおこし、信長の祖父・信定(?~1538年)が、中島郡・海西郡に勢力を広げ、津島の港を押さえ津島に居館を構えています。永世年間(1504~21年)に津島の北東の勝幡に城を構え、信長の父・信秀(1511~1552年)が城を継ぎ、この城で信長は天文3年5月(1534年~82年没)に生まれました。

●犬山城は1537年に織田信秀の弟の織田信康(~1544年没)によって作られた。」は、怪しい。
犬山城は上4郡の一つ丹羽郡にあり、犬山扇状地の裾に丹羽郡岩倉城があります。下4郡の織田弾正忠家の信康がどうして犬山の川沿いの山に城を作ったのか。犬山市のパンフに理由はありません。現在の梯郭式平山城の犬山城が、1537年からあったと思い込ませるようにパンフではされていますが、1537年には、城の発達史からしてこのような城はありえません。

信康は、1533年兄・信秀が主家筋の織田大和守家・織田達勝と争った際、和平成立後、兄・信秀の代理として清洲城に出向いています。今川氏との小豆坂の戦い1542年では、兄・信秀と三河岡崎まででかけ、斎藤道三との井の口の戦い1544年で戦死しています。美濃、三河と尾張が戦争をするには、信長の祖父・信定(?~1538年)の織田弾正忠家の実力が必要であり、織田伊勢守家(岩倉織田氏)の織田信安の後見役含みで、1537年に犬山城に入城したのでしょうか。
その城とは館城であり、16世紀の遺物が出る大手前の最も標高の高いところ(山村亜紀2016戦国期の犬山城下町を参照)だと推測します。現在の城山ではありません。

天文6年(1537年)と年月日が明確なのは、現在は犬山城の帯曲輪に祀られている白山社(針綱神社)は、その獅子頭刻銘に,「天文6 年に大工五郎左衛門尉近佐が東之宮に寄進した。」とあることから、天文6 年時点で白山社は城山ではなく,東之宮(東宮山)に存在したことが知られており、白山社が城山を離れて東宮山に立地する理由は,城山への築城以外に想定しがたいので、織田信康が1537年に犬山城を作ったとされたのでした。
1537年となれば、信秀は26歳であり、弟の信康はもっと若いとなりますので、従前の逸話「犬山城は金山から移築」と同様に「現在の梯郭式平山城の犬山城が、1537年からあった。」と思い込ませる伝承ではないかと私は強く疑っています。
「城と言えば天守」であるのが、一般の人の感覚ですが、天守は信長が安土城で1579年に作るまでありません。信長が18歳で家督を継ぐ1551年頃までは岩倉織田が犬山を支配していたという最近の研究(横山 2012,白水2017)があります。

●南北朝を語る太平記には「城を枕に討ち死に」とありますが、その「城」とは「館城」なのか「要害」なのか。いずれにしろ、今に残る犬山城のような梯郭式平山城の形ではありません。
中世になると武士の「館城」の絵が描かれます。堀と塀で囲まれ、門の上に楯を建てて高楼を組み、中には、蔀戸の母屋に、土倉、馬屋、武器が描かれています。信長に燃やされた一乗谷の朝倉の「館城」は、現地で今も体感できます。岩倉城は発掘により、200m角の土塁と堀が確認されました。

清洲城は、織田信雄が1586年の天正地震のあとに、壊れた城を大改造して、長島城から清洲城に移ったとあるので、その時に堀を大きくして、金の瓦をのせ、1585年完成の大坂城のような「平城」を作っていたかもしれません。岩倉城は信長の3か月の包囲によって、1559年に落とされ廃城となりました。

村上要害図 1597年 東北の辺境にあり後進的であった。
村上要害図 1597年 東北の辺境にあり後進的であった。

要害となると、太平記にある楠木正成の千早城が有名です。「平城」「平山城」に対して「山城」と建築学では言っています。
信長の岐阜金華山山頂の「逃げ城」もそうでした。とても住めませんので、平時は、麓に家臣を集めて住み、それらは「根小屋」と言われていました。

「平山城」は1579年完成の信長の安土城をもって嚆矢となし、戦国大名がこぞって真似をするようになりました。丘を段々に削り、郭を作り、館をならべ、頂部に権力のシンボルとして天守を置き、楽市楽座の城下町から見げるようにしました。城下町が天守を欲したのでした。館の守りを固めるためには、石垣での郭づくりに、掘割りと、城づくりに大変な土木工事が必要となります。

平山城 安土城 滋賀県復元作図
平山城 安土城 滋賀県復元作図
城郭の類型

犬山の城山に伝承の時の1537年から、さらに1564年にかけて、要害すなわち、信長の岐阜金華山頂上のような「逃げ城」、籠城用の砦があったのは間違いがないでしょう。信康の子、信清は犬山城を信長(丹羽長秀)に落とされています。 1564年でした。彼は甲斐武田に逃れます。

この当時に、現在の犬山の城山はどうだったかはわかりませんが、岩倉城の館城より大きいことはないでしょう。地震で被害を受けた清州城が1588年に信雄によって大改造され、絵図に残る堀で囲まれた城郭長さが500mとなってからなら、支城の犬山城の城郭の長さ(三の丸も含む)も500mにできましょう。できても、時差が生じます。犬山城は信雄によって作られたのなら、信雄が流される1590年以前にできていないといけないのですが、それだと、尾張第一の清洲城と第二の犬山城の工事は連続して同規模で行われていることになります。
麓は「犬山の城主は、土方雄良(後の雄久)であるが、弟・武田清利を城代とした。」と言いますが、信雄の配下では、これだけの城づくりには役不足だと思います。首を取る戦働きとは全く違う才能と経験が要ります。家康には、藤堂高虎、中井正清、小堀遠州がついていましたが、それらに比肩する必要はないですが、土方雄良や、城代の弟・武田清利にはテクノラートはついておらず、秀吉サイドからの城づくり経験者が配されないかぎり、作れないと思います。

犬山城天守最上階に掲げられた歴代城主の額を出します。

犬山城天守最上階に掲げられた歴代城主の額
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ここでは、石川は文禄4年1595年から城主となったとされています。例の「家康の好意で、金山城から天守材の移築がされた。」話がこれには付いてきますが、昭和36年の解体修理により移築は否定されています。
石川は関ヶ原では西軍につきますが、京で茶人・商人、徳川幕府の御家人として生を全う(寛永3年1626年死去)していますので、子孫のために家康との逸話を作っている可能性が高くなります。
城代が5人続きますが、岡崎城、吉田城に匹敵する犬山城の構築は織田信雄、豊臣秀次の城代では作れません。秀吉が直接指示する、金切裂指物使番の石川光吉しかありえません。

天正14年(1586年)の洪水で荒れた木曾川に秀吉は文禄元年(1592年)から3年かけて、長良川と墨俣で合流していた鵜沼川を外して、木曽川として単独で流し、木曽谷からの材木を京大阪での天下普請に使います。
防衛の為の美濃・尾張の国境の明確化と水害防止と材木のため「文禄の治水」といわれる天端が2米程度の堤防を築きました。その後、家康は、慶長12年(1607年)に義直を清洲城に配すると、慶長13年に東国の防衛と治水のために伊奈忠次に命じて犬山から弥富まで50kmにわたって御囲堤を造りました。この御囲堤は「美濃の堤は、尾張の堤より三尺低かるべきこと。」とされ、美濃側の堤防より尾張側の堤防が高く、天端(馬踏)も8間ほどの堅固なものでした。

秀吉が1585年に織田信雄から犬山城を取り上げ、石川が家康の関東移封1590年から関ヶ原の戦い1600年まで、10年も木曽谷の代官であり、犬山城の城主であるならば、「城持ち大名」としての子孫への逸話があってしかるべきと私は思うのですが、ありません。
石田三成も佐和山城主ですが、五大老五奉行の一人として豊臣政権中枢にいることが重要であったのと同様に、石川も慶長4年(1599年)正月、豊臣秀頼の側近に列し、石田正澄(木工頭)・石川頼明(掃部頭)・片桐且元(東市正)の3人と共に、奏者番となった事の方が「城持ち大名」より大切であった事と、関ヶ原の戦いの前哨戦では、石川は犬山城に籠城するも、東軍の中村一忠・一栄に攻められると、戦闘をせず城をカラにして逃げ出していることも「城持ち大名」自慢ができない理由かもしれません。

麓 和善 著「国宝犬山城の創建に関する新発見」2021年5月1日

日経新聞2021年4月1日夕刊記事に対して、私は「石川が犬山城を作った。」と、「犬山城天守はいつ建設されたか。」を書きましたが、麓和善 名工大名誉教授は、犬山市より(従来の定説を覆す調査結果報告)として「国宝犬山城天守の創建に関する新発見」を2021年令和3年5月1日に出していました。何はともあれ、PDFをそのままアップします。

20210501犬山城 麓論文

「天正14年1586年には織田信雄の重臣土方雄良(後の雄久)が犬山城主となるが、雄良は清洲で信雄を補佐するため、弟武田清利を城代とした。三階床梁の伐採年が天正16年(1588)であるので、城主が変わったとはいえ、この頃は織田信雄方の清洲に次ぐ第二の城として、天守の建設工事は続けられていた。」とあるのに、びっくりしました。

2016年の山村亜紀は「天正10 年(1582年清洲会議)から天正18 年(1590年信雄切りすて)にかけて、織田信雄の家臣中川定成1万5千石の時に,山腹の横堀・堀切によって,松ノ丸を含めた曲輪群が一体化されたと推定する。これをふまえると,形状は近世と異なるだろうが,戦国末期には既に城の曲輪群は存在したのではないだろうか。」としています。小牧長久手の戦い1584年のあと、「織田信雄は伊勢は秀吉に取られるが、尾張の領土は安堵されたので、戦いの前の犬山城主・中川定成が犬山に舞い戻ってきた。」としたのでした。しかし、中川定成の名は小牧長久手の戦い1584年のあと古文書から消えています。

私はウイキぺデイアの記事(右に添付)から、小牧長久手の戦い1584年の後、犬山城は秀吉に奪われていたとして、論をまとめました。

小牧長久手の戦いのあと、麓の犬山城城主は武田清利であり、山村の城主は中川定成であり、私・高橋の犬山城城主は石川であり、天正20年(1592年)からは三輪出羽守が犬山城の城代を務めたとしています。
麓は1591年秀吉の甥の豊臣秀勝が岐阜に入り、その父、三好(長尾)吉房が清州に入る前、信雄が流される前に犬山城ができていたとしています。

長久手合戦の後、秀吉と信雄の和議

山村、麓、ウイキぺデイアの三つの論は明らかに相反しています。どれかが正しければ他の二つは間違いとなります。諸氏は古文書を読めますので、それぞれの持論に自信を持っていましょうが、この3つは明らかに対立しています。おそらく、彼らの資料として古文書がそれぞれあるのでしょう。犬山市教育委員会で古文書を管理していますので、犬山城が誰が作ったかの以上の3案を犬山市教育委員会において、古文書からぜひ検証していただきたいものです。

犬山城については、17世紀から色々な事が書かれていますが、麓が言うように「文字の2次資料は信用できない。」です。成瀬家には小牧長久手の戦いの屏風があります。「ご先祖様は偉かった」とばかり、若き成瀬正成が短刀をもって首を刈り取る絵が中央にあるものです。私はこれを追っかけて、江戸中期以降に書かれた歴史、地図は信用できないと読書感想文 「いざ城マニアたらん」A4版24枚を書きました。
歴史から消えた中川定成は、消えた故に古文書の内容は正しいと思いますが、麓の掲げた土方雄良(後の雄久)は、信雄の三家老を「秀吉に寄った」とで切り、信雄が流されると秀吉に吸い付き、次は徳川秀忠につき、子孫は江戸時代を通じて伊勢で大名をつなげます。「ご先祖様は偉かった。」と、もっとも言わなくてはならない家系であり、この家の伝承は信用できません。

私は古文書を読めませんが、織田信雄(もしくはその配下)が犬山城を作ったという麓、山村の論を否定します。私はウイキぺデイアにある「犬山城は秀吉に取られた」説が正しいと思いますが、お二方の言われる信雄の(配下の)犬山城築城説を考えてみましょう。                             
信雄は、地震で壊れた清洲城の大改造1586~1588年はすれど、美濃(岐阜城;1583池田元助→1585池田輝政→1591豊臣秀勝)と尾張(織田信雄)は共に秀吉の旗下にあり、尾張と美濃との境の犬山城を信雄が整備する理由はありません。小牧長久手の戦い1584年で、犬山城は家康の小牧城に対抗して秀吉が座った所です。信雄が犬山に大々的に城づくりする事は、信雄の秀吉への対抗心を具体的に示すものであり、伊勢の領地を削られても秀吉に和議を求めた弱い立場の信雄にはできません。地震で壊れて住めないのでこのさい大改造した清洲城とはわけが違います。
小田原城攻めに織田の惣領として資金を使わねばならなく、そして、直ぐ1590年に流罪になります。材木年輪から天守は1589年以降の建設ですので、信雄が犬山城を作る時間・資金の余裕はありません。

梯郭式城郭を作った土木工事、とりわけ石垣工事に、犬山城の築造年を探る。

麓、山村の古文書が読めるプロに対抗できる私独自の力は、建築の設計と建設です。恩師・内藤昌の論文は素晴らしいですが、建築・都市の具体的な工学への探求・経験は研究者故に先生にはありませんので、私は設計施工者として「安土城の復元」を新たに書きおこしました。ここでは以下に「秀吉の石垣」を示します。
もちろん、私は北垣 聰一郎先生のような石垣のプロではないです。しかし、犬山市教育委員会では石垣の現状をまとめていないようですので、素人なりにここで石垣を書いておきます。
小牧、岐阜、近江八幡と、城跡の発掘調査はしていますが、地方自治体の予算で動く発掘は、その地方の首長に従い「信長の城、発掘!」の声ばかりであり、各教育員会の横の連絡が取れていません。城跡の石垣技術の発達比較もされないまま、博物館を作って「信長の城、発掘!」と展示しています。よって、「信長の石垣=安土時代、天正の石垣」と同様に「秀吉の石垣=桃山時代、文禄の石垣」のまとめも当然ありません。

石垣に、城郭の建設年代を探る

1590年に秀吉は、家康を関東に移封し、対家康包囲網として、岡崎城を田中に、吉田城を池田に、掛川城を山内に、駿府城を中村に作らせており、田中には木曽谷の代官だけでなく、犬山城も1590年に秀吉が作れと命じたと私は考えています。
石垣はどこの城でも、壊れて積みなおしており当初のままの姿でないことがほとんどであり、また地方への技術の伝播は遠方であるほど遅れるものですが、1579年安土城天主において「野面積」の高い石垣を組んでから、1612年名古屋城天守の「割石積」、1629年大坂・江戸城の「切り石積」と50年の間に急速に進化しているので、現地に残された石垣を建設年代のタイムスケールにしようと考えたのでした。

結論から言えば、「石川が1592年に作った犬山城」と言える石垣でした。年輪測定から犬山城天守の建設は1588年以降となります。秀吉は、京で使う材木の要求をガンガンしています。1592年の堤防ができてからは材木は数量コントロールして流されており、1590年も待たずして、石川は秀吉の命を受け、田中の岡崎城、池田の吉田城に対抗して、資材を集め、城郭の土木造成をおこなっていたのではないでしょうか。
天守は城の中で城下経営の為に真っ先に作るので、天守に石垣の古様が出ます。昭和36年からの天守の解体修理で、石垣も積みなおしていると思いました。城郭の石垣はいずれも400年の苔を帯びていません。石種は名古屋城と同様に味岡(小牧から犬山)の赤さびを帯びた花崗岩を運んだと見えます。犬山の地山は岐阜、小牧と同様にチャートであり固くて石垣にはむきません。

積みなおしていても、それまでの石を再利用していると思います。全体的には「野面積み」です。とりわけ、根石、隅石、天端の石は形状が独特であり、積みなおしだからこそ前と同じように使ったのでしょう。これから他の城の石垣を写真で示し、犬山城と比較しますが、特に隅石に注目下さい。
私の目視による犬山城城郭の石垣調査では、④、⑫はコンクリートですし、⑤、⑥もコンクリートが内包されていると思いました。⑤、⑩では、隅石が算木積みでかつ、短手を足して上下を合わせる秀忠の大坂城のようですので、明らかに新しいです。

岡崎城は石垣の調査研究が進んでおり、パンフを作っています。「野面積み」→「割石積み」→「切り石積み」と進化し、「乱積み」→「布目積み」と石が幾何学的な形に斫られている姿が、ここ岡崎城ですべて見られます。

秀吉が1590年家康を関東に送ると、尾張国は豊臣秀次に、岡崎城は田中吉政(1548~1609)に与えられます。吉政は東海道を引き込んで城下町の縄張りをします。この5年前、1585年に秀次が近江八幡43万石を秀吉から与えられると、吉政はその筆頭家老格となり、信長の安土から人を移し、水路で囲まれた城下町、近江八幡を秀吉の指示で作っていました。城下町は碁盤の目ですが、城は急峻な山の上に作られました。1595年に秀次は自害させられ、配下の多くも巻き込まれるのですが、吉政は加増され岡崎城10万石となります。

岡崎城 天守復元図  明治に廃城されたのをコンクリートで復元

岡崎城天守は、本多康重が山頂の本丸を崩して平山城を平城として、1617年に作ったとされていますが、田中が、すでに野面積みで「天守」を作っていたことはないのでしょうか。
残された天守台の石垣は、隅石は算木積みですが「野面積み」です。1612年名古屋城「割石積み」をみるに、「野面積み」は古式であり、1617年建設とは思えません。
私は、田中は吉田城のように隅櫓は作っても「天守」を岡崎城に作ってはいないと考えますが、田中の使った石を本田が再利用したとも考えられます。もちろん、旧の櫓の石垣をそのままに天守をあらたに作ることも可能です。

もう一度、犬山城天守台の隅石に戻って見てください。石川光吉が犬山城を作ったと思えましょうか。

もとより、木造の架構から犬山城天守の単純さを突き、古式であるともいえますが、それは城戸久、西和夫、内藤昌、各先生の論文にありますので、そちらをご覧ください。

秀吉の城下町つくり 長浜1576年 姫路1581年 大坂1585年 京都・名護屋1591年

安土桃山を代表する城は、文字通りに、信長の安土城1579年に、秀吉の桃山・伏見城1597年ですが、城下町となると、信長が浅井長政の居城・小谷城を1573年に落としたあと、小谷城の地盤つくりを参考に、安土山に目を向け、新たな天主の構想を建て、同時に秀吉に琵琶湖に面して長浜を作らせたことから始まります。秀吉が長浜に天守を作った記録はありません。今ある天守は、内藤昌の師匠・藤岡先生がコンクリートで設計したものです。
秀吉は北国街道と小谷城下町を丸っと長浜に移しました。それから、秀吉は、20年かけ、領国の経営の為の城下町を城を中心にして作り出します。徳川幕府の幕藩体制により、日本全国に城下町が一斉にできますが、その萌芽となる都市計画の多くは、信長から秀吉にかけての全国統一の過程の中で作られました。江戸、名古屋、仙台という、巨大な町が荒れ地に新設できたのも、秀吉の手本があったからこそでした。

●長浜 1575年(秀吉に力がまだなく、建設に2年を要した。)

●姫路城 1581年 黒田孝高は姫路城を秀吉に渡し、秀吉は信長の安土城を参考にして、姫山に平山城を作る。大工棟梁磯部直光は三層の天守を作った。

●大坂城 1585年 石山寺の跡に作る。信長と大坂での城つくりを話していたのか、山崎で光秀を討つと、急いで作りに入る。柴田勝家他の重臣も存命であり、織田家には信孝、信雄がならび織田家のいくすえも見えないのにである。秀吉包囲網がしかれ、1584年に小牧長久手の戦いが起きるが、大坂の城下町づくりは、家康3万の軍勢に10万の軍勢を正面からぶつけて勝つ事と同様に重要だったのであろうか。さっさと大坂に戻っている。

●京の城下町化 1591年 聚楽第を中心にして武家屋敷を集め、中世の上京・下京を「お土居」で囲み、120m角の街区を二つに割り、寺を集めて鴨川沿いに寺町を作った。 

秀吉による「京の城下町化」
聚楽第 

●名護屋城 1591年 朝鮮半島への基地都市として作られた。

名護屋城図屏風
名護屋城図屏風

●伏見城 1597年 3期目の伏見城は徳川家康中心の天下普請であり、家康はここで城と町を学ぶ。

伏見城下町の復元図
伏見城
伏見城

秀吉は、1590年の城割りで、家康の旧領地の東海道沿いに、岡崎城(田中吉政)吉田城(池田輝政)、浜松城(堀尾吉晴)、掛川城(山之内一豊)、駿府城(中村一氏)、と豊臣政権の与力大名を置き、松本城(石川和正)と合わせて家康包囲網を敷きます。
秀吉の城づくり、町つくりを近くでまじかに見ていた与力が、出世して大名となり、自身で普請の采配ができるのですから、張り切り競い合います。田中吉政は豊臣秀次の為の近江八幡をすでに作っていました。石工、大工は、関西から呼び寄せました。岡崎は花崗岩の産地であり、今も石屋が多いです。

私は、現在に残る犬山城を見るに、麓、山村の言う織田信雄とその配下による犬山城築城とは思えないのです。石川光吉は、1590年に秀吉から木曽谷の代官を命じられ、1592年に木曽川の改修工事を行い、秀吉が京・大坂で使う材木を木曽谷から出す仕事をしていました。石川は九州の名護屋城の普請も行っています。家康の抑えとして、犬山城も岡崎城、吉田城と同等にしようと言い出したのが秀吉であったればこそ、現在の平山城、梯郭式の重厚な城構えができたのだと思います。

第三章 山村亜紀 著「犬山城下町の空間構造とその形成過程」の紹介から、「歴史地理学」について。

「犬山城下町」とGoogle検索に打ち込むと、「京都大学のKURENAI虹」から「犬山城下町の空間構造とその形成過程」山村亜紀PDF が上位にヒットします。もう3千ものダウンロードがされていますので、彼女の「歴史地理学」が人気なのは間違いがありません。
私は「正保絵図」を明治20年代の陸軍の測量図に落としこみ復元した絵を元に、現代の町をブラリ探訪するのが楽しみですが、この学問分野を長く知りませんでした。ここに紹介します。

犬山城の歴史的景観
山村亜紀2016年  犬山城の時代ごとの景観復元

何はさておき、ここに彼女のPDFをアップした方が良いのに決まっていますので、以下にアップします。

私は山村さんの「歴史地理学」のファンです。山村さんはブラタモリに3回出ていますので、名古屋に住んでいる方は覚えていられるでしょう。私が山村さんを知ったのは、「千田の信長の小牧城復元はオカシイ」からでした。 千田の1989年の「信長の小牧城」発表には私も惑溺しましたが、小牧市が考古学に基づく発掘をしてからは、確かに「オカシイ」です。でも、小牧市は千田の小牧城復元をそのまま放置しています。地方の教育委員会は、学問ではなく、市長の意に即した「信長の城、発掘!」が優先されますのでそうなります。

以下にアップした山村さんの論文は、学者らしく、回りくどく感じ、また単語の意味も分からなく、スラスラとは読み進めません。しかし、地図に昔の土地の景観を透かし見て、歴史を古文書に探るのですから、これほど私の「都市史」にとってありがたい学問分野はありません。ゆっくりでよいので、読み進まれることをお勧めします。

犬山 山村亜希

●歴史地理学に期待します。
都市史の学徒を任じてきた私ですが、「歴史地理学」と言う学問分野があるのを知ったのは10年前です。歴史景観をフィジカルに再現しようとする手法に驚きました。山村亜紀氏は、愛知県立大学から京都大学に行かれてしまいましたが、熱田、津島、岐阜、犬山と幾つもの町について論文を残されています。

小学校の教科書に、「平城京」関野貞・復元とあったのを覚えていましょうか。明治43年にまとめられた彼の大要に、世論が沸き立ち、当時田畑であった土地が収容され、「発掘」が行われ、1300年前の都が実証されました。70年で都は捨て去られ田畑になっていたことが、かえって遺跡の保護になっており、復元に幸いしたのでした。

一方、「平安京」は、現在に至るまで都市であり続けているので、遺跡の破壊が進み、「発掘」の成果は部分的にならざるを得ませんし、何層にも重なった遺跡から、その年代を特定することが難しいです。

「歴史地理学」の方法は今も「平城京」関野貞・復元と基本は変わりません。私が理解した手法を箇条書きにします。

①まずは地表面をよく観察する事です。都市はその時代の地勢に基づき作られています。その時代の地勢をまず、復元します。今は航空写真なども使い、地表面のわずかな高低差も読みとります。

②明治の地図をもとに、字(あざ)の名を引っ張り出します。地名と言うのは昔のまま残っていることが多かったのです。今はダメですので、明治初期の地図を探します。

③明治の中ごろ、税金の算出の為に宅地割図が作られていますので、それで道路に対しての宅地の方向が読みとれます。建築物はすぐに変ってしまいますが、都が田畑になっても道路の跡は残っていて、1300年もの間、土地の権利の継承は道路に沿って行われていたのでした。

④江戸時代の古絵図を参考にします。平板測量技術がオランダから伝わり、絵図でなく地図として見る事が可能なところもあります。ただし、江戸時代の学者がこうであったろうという記事は、あくまで参考とします。江戸時代の学問には、当然限界があります。

⑤中世になると、神社・寺が多く建てられており、その古文書が残っていますので古文書を時代特定の鍵とします。発掘では陶磁器を使っての年代推定もしていますが、50年単位になり精度が悪いです。

⑥机上の理念によって都市は作られているので、その理念を研究します。都は中国から輸入された律令制度に基づいてあり、生産の基本である田圃の条里制と都の都市計画である条坊制は同時に考えられていました。

以上、6つの手法から「歴史地理学」とは「推定」の学問であるといえます。学問としては、都市の形というフィジカルなものを追っかけているのですが、その方法からフィジカルに成りえない宿命をもった学問なのです。そこに「考古学」からの検証を加えて、初めてフィジカルな形が明らかになります。

歴史地理学「読み屋」と考古学「堀屋」はセットでないと近世都市研究はすすまないのですが、いかんせん学問の個性が違っており、仲が悪いように私は感じています。「読み屋」は古文書を読み解く「歴史学」の知識が優先しますが、「堀屋」はお金を使っての発掘事業を成り立たせないといけないので、「発掘成果」を急いで求めます。そのせいか、発掘結果から逆に古文書をじっくり読み説く事は苦手のようです。

●信長の城下町、歴史地理学で復元された、小牧、岐阜、安土を見る
信長は、12歳で名護屋城の城主となり、18歳で家督を継ぐも22歳までの10年間を名護屋で過ごしました。 22歳で叔父と入れ替わりに清州城に入り、24歳で弟を殺し、26歳で尾張の戦国大名だと京の将軍に名乗りに行き、岩倉城をその通りにすぐに落とし、27歳で桶狭間まで今川を倒し、ようやく全国デビューをする「遅れて現れた戦国大名」でした。 清洲城には8年いて、30歳から34歳まで美濃攻略のために小牧山に移ります。美濃を制してすぐ、35歳で足利義明を奉じ、5万の大軍を率いて京に入り、岐阜から天下一統を目指します。9年を過ごし、43歳で嫡男・信忠に美濃・尾張を渡して、安土に移り、城を作ります。6年間、本能寺で殺されるまで城下町の整備を図り、京と同じ規模になっていました。

と歴史を振り返ると、以下に復元された小牧の城下町が岐阜、安土より大きいのはオカシイとすぐにわかります。

従来、小牧山城は、清州の守護所に対して、古渡城・末森城と同じ、戦略上の砦と考えられていたのですが、1989年に千田から「信長は、小牧に、近世城下町ができる前に、先進の町を作っていた。」と発表され、大騒ぎになりました。それから30年かけて発掘調査をしましたが、砦を壊して岐阜に移っており、屋敷の礎石も、掘立柱の跡もなく、ゴミ穴と背割り側溝と、染物屋の痕跡しか出てきませんでした。60年ぐらいは集落があったようですが、犬山街道は今の名鉄駅の方に移り、集落も移りました。江戸時代に小牧山の東に用水路「合瀬川」を「木津川」から通すまでは、水のない高台であり、信長にも住みにくい場所だったのでした。

1578年正月29日安土城下のお弓衆の福田与一宅から出火し、調べたら馬回り共含め120名が妻子を安土に置いていないことが判明し、信長は尾張の屋敷を焼き、罰として安土の南の入江にそった新道(朝鮮人街道)を作らせています。 妻子は岐阜でなく、清洲に置いていたのです。ですので、小牧城は砦であり、信長の城下町は五条川を11km下った清洲にあったと考えるのが当然です。清州は、尾張下4郡の守護所として100年の都市歴があり、尾張の領国経営に外せません。

歴史地理学では、寺社の古文書に頼るのですが、小牧では寺社がなく、千田は明治の地籍図の地名と江戸時代の絵図から、復元したのでした。しかし、17世紀になると「犬山城は金山城から移築された。」のような話が作られてきます。それを「歴史」だと間違って捉えないようにしないといけまません。文字の2次資料には注意が必要です。

第四章 私の「都市史」参考図書

都市史の学徒を自称する私が、古地図を読むのに使っている参考図書をあげておきます。50年前の本です。
「都市史」では対象が漠として具体的に見えませんが、山村亜紀さんは「景観復元」であり、恩師・内藤昌は「風景」でした。二人のプロの書作は人・者・金・情報が渦巻くダイナミックな都市像を探求するものではないのでした。卒論の研究中、内藤先生からは「フィジカルであれ、数字で示せ。」と言われ続けたので、裏切られた感じでした。
「都市史」の学徒として、今は社会学からの都市アプローチの方が、都市の本質が分かる気がしています。

●江戸と江戸城 内藤昌著 1966年 再販2013年
私の卒業論文「城下町町人地の町割り規模」は、指導教官・内藤昌の元で行われたものです。この内藤昌の「江戸」は、半世紀たっても色あせていません。「江戸城」も入れてしまったことから、「城」に先生は傾いてしまうことになりました。ついでに、私も傾いています。

1966年 鹿島出版会 「江戸と江戸城」内藤昌34歳の本を 2013年講談社が文庫本にして再販しました。古本の方はカラー刷りです。

●日本 町の風景学 内藤昌著 2001年 草思社 

「フィジカルであれ」と私に常々言っていた先生でしたが、なんとも「風景」です。朝日新聞「城のある風景」昭和55年、中日新聞「町の風景学」昭和58年の連載をまとめなおしたものであり、都市史を「風景」と言って優しく書いています。私の卒論を「城下町には中世型、桃山型、江戸型がある」と、わずか3行に要約して書かれています。しかし、書かれただけマシだと思っています。
文章は易しいですが、巻末の参考図書がすごいです。コピーしました。「おまえら、これくらいは読んでこないと内藤昌は相手にしないよ。」と言われているようです。はい、10分の1も読んでいません。

●都市図の歴史 矢守一彦著 1974年 講談社

昭和49年5月発刊です。

まさに、私が内藤研究室で城下町図に取り組んだところでした。
内藤先生とは視点が違うので、私が発見したような口ぶりで、先生に本の内容を問うていました。まったく鼻持ちならない生意気な私を思い出させる本です。

京都大学文学部史学科人文地理学専攻に席を置き、藤岡謙二郎、原田伴彦が彼の先生です。

とにかく図版が多く、日本で刊行された天正期からの古地図の一覧はとても便利です。

いまやインバウンドで儲けている「歴史的町並み保存」の仕掛け人でもありました。

●都市の思想 保存修景への指標 西川幸治著 1973年 日本放送協会

都市の誕生から始まる、壮大な都市の流れには、自ら発掘調査をしたガンダーラ、モンゴルもあり、それでいて日本の都市についても、とても細かいです。

日本の保存修景は彼の掛け声で始まったのですが、今の清水寺、3年坂を見ると、「こんなはずでなかった。」と言われるのでしょうね。

●図集 日本都市史 高橋康夫、吉田伸之、宮本雅明、伊藤毅 著 1993年 東京大学出版会
私が退職した2012年、名工大の河田教授の研究室でこれを見せられました。建築学会での都市史の論文は全くなくなってしまったと嘆いたら、「これで、もう終わったんのではないの。」でした。確かに、各時代の、各都市の都市図が網羅されており、図表から研究を進めるには古地図が限られている以上、これ以上の図版は作れません。都市史の視点を変えないとダメなのでしょう。

第五章 ブラリ、犬山城下町

犬山街道、総構え、桃山時代の町割り

名古屋の清水口から発する犬山街道(稲城街道)が犬山城大手に向かって真っすぐ来ています。

①上本町より天守を見上げる  買い食い通りと化した町の中心です。

門前町・金刀比羅さんのような都市景観づくりです。 城下を睥睨し、町民が見上げる天守は城下町とセットであるものであり、城山に城郭だけが城下町より先に作られていたことなどはありえません。江戸城天守は、火事で燃えてしまったあと再建されなかったのでした。北斎の絵「日本橋」に江戸城天守を入れてみました。櫓とは確かに違いますね。

大曾根から庄内川沿いに土岐に向かい中山道に通じる「下街道」が古代の飯田盆地に抜ける東山道に変わる名古屋からの関東への主街道でした。城下町は、岡崎、吉田、名古屋、大垣のように街道を内に取り込んで賑わいを作ります。犬山街道は殿様の主街道であり「上街道」とも呼ばれました。距離は「下街道」の方が短いですが、名古屋から大垣への「美濃街道」と同様に宿場町が整備された脇往還でした。美濃街道は中山道により京都に繋がりますので、東海道の七里の渡しを嫌う人々の幹線でした。

犬山市の城下町の売り込みに「総構え」があります。田中が岡崎城下町で行った城下町全体を「堀」で囲うものと同じです。手にする種々のパンフには「総構え」と色を変えて表現されているのですが、形は違っています。現地に立ち、「堀」を探すのですが、ありません。東に郷瀬川、西に木曽川があるのですが、城下町は見たところ水面より8mは高いです。東西は崖の下で流すにしても、城下町の南北に8m以上の深い堀を作ったとは思えません。江戸時代の地図を見ると「堀」は消えかかっており、雨水、汚水の排水用でしかなかったのではないでしょうか。岡崎市は堀の跡を試掘調査しています。犬山市には、よりよい観光地であるためにも「都市史」の視点でパンフをまとめてほしいものです。
街並み保存を行って観光地化するのは、木曽の「妻籠」で成功し、「伝統的建造物群保存地区」が昭和50年に制度化して、名古屋市の有松地区、高山市など全国に広がりました。しかし、犬山は「街並み創り」でした。

②上本町から南を見る。左手の伸びる道が魚新町であり、中山道とつながる。「新」がつく道は路幅を広げていますね。
舗装をおこない、電信柱を消すのは官費ですが、この新しい木造建築は民費でしょう。大変な事です。伊勢の「おかげ横丁」と同じに見えますが、こちらの方が安普請です。
昭和の本町、道幅を広げ、軒先に壁を立ち上げ、四角いモダンな建物に見せています。これらが全て建て替えられました。
明治時代の本町 家屋は小さく、道幅も3間あるかないかです。
5軒ほど、これから登録有機江文化財の家屋の写真を載せますが、明治大正の古いのはすくなく、戦前の昭和の木造建築です。
地方都市は空襲にあっていなく、このような観光地化が出来ます。レンタル着物を着た外人が多いです。

街道沿いの町人地のように、町の通り添いのブロックは長く、奥行きは110mありますので、ブロックは名古屋より大きいです。通りに面した町屋の裏には背割り側溝があり、京都の辻子のような細道もあります。名古屋以前に都市計画されたので、秀吉の大坂城下町、京都の城下町化、近江八幡城下町のグリッドを参考にしたのでしょうが、それらと違い、きちんと道路は直交していません。藤堂高虎のようなプランナーがいなかったからでしょうか。駿府、岡崎、吉田と同様に街道筋にそって2本の側道を設け町人地としていますが、町屋は木曽川沿いと、街道沿いに「総構え」を超えて増殖していきます。ただし、12町と呼ばれる山車を出す町には、彼らは入れてもらえません。

500m角の城下町が、500m×200mの城郭にくっついたよう。

天主のある本丸と屋敷のある二の丸(松の丸)を3つの帯曲輪でつなぐ梯郭式の城郭ですので、平山城としては極めて素朴なものです。松の丸で堀を回し、さらに三の丸でも堀を回し、島状の大手門を置くのは、関ヶ原の前の戦いの城を見せています。

模型は高さを1.5倍にしているので、凄い感じですが、山背と違て身近に感じる平山城です。
模型は高さを1.5倍にしているので、凄い感じで迫ってきますが、姫路城のように身近に感じる平山城です。櫓が13か所、門は18か所あります。
一部でなく、天守以外はすべてなくしました。その天守も濃尾地震崩れています。昭和36年に解体修理をしていますが、明治の修理を除いて、400年前の創造をしないといけません。今回の年輪測定により、城の中では一番古いことが証明されました。
天守の北に、ホテルがあります。
沼地であり、川の遊水地であったようです。
⑤ 犬山の城下町の西側は8mの崖になっている。 この低地は川湊で働く人々がすんでいた。今も鵜匠町とある。
江戸時代末の絵図  西の崖には、寺と墓がある。南の名古屋への街道、東の中山道への改造沿いに、町が伸びている。「総構え」の堀は江戸時代に無用となった。ため池でもないと堀に水はなかろう。
津島のようなぼんぼり船が木曽川を流す
犬山からは流れが遅く、10日分の食料を船に入れて、大勢で流した
桑名、津島、笠松と川湊を伝い川をさかのぼることもできた。
⑥内堀の上、左の山が二の丸 正面がどんと落ちる
④郷瀬川の上から 右に登ると左の写真に出る。

ブラリ、ブラリと城下町   写真には番号がついています。

航空写真は土地の高低差が分からないので、都市史の学徒としては使わない方が良いです。
⑦三の丸 本町通りを南にみる。なんともおおらかな武家屋敷地を今に残す宅地割り。
今は、町に陥没した大手門跡 発掘している。
⑧米屋「米清」町は耐火の為に土蔵、塗籠で作られていた。木造の「犬山城下町」はテーマパークとして新たに作られたものです。
魚町に面していて、魚屋もあったのだろうが、この広い道は嘘っぽい。
⑨小森家住宅 間口がデカイ 木戸の前、堀の上?
⑩ フレンチレストラン この家の前から「中山道」と書いている
⑪酒屋  練屋町 小島醸造 
⑫川村商店 
⑬中本町 ただ一つの四辻だが、ずれている。
⑭旧磯部家住宅
商売が書かれている 酒屋が多い
間口は3間半しかない。
⑮ 倉庫をなくして、いつも展示。祭りを観光に使う
⑯ 明治17年 武士が町の外に屋敷をつくる
㉑ 下本町 の手前 堀の上か?
⑰ 町の外、 街道沿いの店
⑲西に落ちる
⑳大本町 武家地
㉒ 熊野町
㉓ 熊野町 3本目は町屋はすくない
㉔ 辻子のような道、家は堀の上に建っている? 堀はすぐに埋められたようだ。
⑱ 寺内町というほどでないが、このブロックは北まで寺となっている
寺内町が奥に見える 左右が「駅前とおり」
㉕ 木ノ下城とあるのは古文書からだが、この低いところを館城にしたのは解せない。扇状地であり10mも掘れば、水は出るので、本町の高台に館を作るのが常識だ。
㉖ 今もロータリーはある。 駅前に西にむかう道路は城下町にはなかったのだが、都市計画で道路を通した。
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