Interior design of Japan (2)輝度で設計する。 2012/12/01

絵画史(私の設計方法論の前段)

光がなければ空間はない。インテリアを設計するには、その姿を意図どおり形作ろうとするには、なにより光を与えなくてはならない。光は空間で散り、モノと壁、床、天井の間で反射を繰り返す。 一方向からの光に対して、モノの光のあたらないところを陰Shadeと言い、モノによって光を遮られ、モノの形を写して暗くなったところを影Shadowという。
外部の強烈な太陽の光のもとと違い、インテリアでの陰影は壊れやすく、丁寧に扱う必要がある。 私たちは、そのモノの表面の光を感じて、そこにモノとして、素材として視認する。
網膜への情報は偉大な脳につながり、ザラッとか、懐かしい匂いとか、他の触覚も動員して私たちにそのインテリア特有の気分を湧きたたせる。素材の味が重要だ。 以上の3題話を、インテリアは「輝度で設計する。」と私は短く言い切る。

しかし、これではわからないですわね。輝度という単語の説明は、前のデジイチのノートを見ていただくとしても、かえってワカラナイ。(@_@;)
空間を文章と写真の2次元のネタで説明することが難しいのでしょうか?いいえ、模型を使い、3次元のCGを使っても「心地よい」インテリアの説明は難しいものです。そこをなんとかやってみようというのが今回のテーマです。
優れた画家は2次元で意図する空間を表現しますので、名人たちの絵を拝借してやってみましょう。まずは、西暦1600年のカラヴァッジョ(1571-1610) から始めます。

聖マタイの召命

ローマの路地に、一条の光が刺します。その光の方向をみる3人。背中を見せている使徒ペトロの向こうで横顔を見せ、指差しているのがキリストですが、3人はキリストでなく「私は世の光」という光を見ているようです。右のイスに座る人は右側に足元から全身に光を浴びていますが、ペトロとキリストは上の方だけ光を浴びています。

机の上は手前が明るく、奥は髭の男の黒い服と同化して暗く、左でうつむいて金貨を数えている収税吏マタイの手を最も明るくし、内面の変化を映す顔をほのかに浮かび上がらしています。マタイの後ろに落ちる影の濃さがこの絵の主役マタイは髭の男でなく彼であることを示しています。

この絵は間違いなくイル―ジョンなのですが、とてつもなくリアリティがあります。この凄さが今も多くのカラヴァッジョのファンを魅了し続け、多くの追従者を生んでいます。明暗の扱いが画期的でした。舞台や映画なら多くのスポットライトを操って可能でしょうか?京都太秦に凄腕カメラマンがいて「必殺、仕置き人」などで、ずいぶん楽しませてくれましたが、このような7人同時の画面は作れません。絵だから可能なのですね。

そして、その絵は、ニコンの最新デジイチ24メガD600で撮ったかのごとく精緻です。静物、風俗画家としての若き日の訓練が生きており、ルネサンス(科学)という時代が育ててきた技術によって、西暦1600年の今がこの絵の中にあります。彼は必ず太陽の光のもと(当時は太陽でしかこの強い光はだせない)で、モデルをおいて描いていたようです。その人の組み合わせで、時としてバランスが崩れているのでわかります。

絵は3m角ほどの大きさです。ローマの教会内の小さな聖堂を他の2枚のマタイとセットで壁上方を飾っています。当時の反宗教改革の絵ときとして<信仰を得た直前の>マタイを描いているのですが、インテリアの一部として周到に準備された絵の構成となっています。聖堂への光は上からハイサイドライトで画面と同じ方向から入ってきます。左右ともマタイが一番手前に配置され、見上げる私たちの視線を受け止め、大きく見えるように意図されています。後に続く盛期バロックの雄ベルニーニ(1598-1680)は、「聖テレジアの法悦」で、エロチックな表情を、建築と絵画と彫刻で包括していますが、とてもグロに感じてついていけません。カラヴァッジョが良いですね。

源氏物語図屏風  伝 狩野永徳(1543-1590)

同年代に、安土桃山という日本のルネサンスを輝かせた絵師、永徳がいました。一族を率いての豪達なふすま絵が有名ですが、やまと絵の面相筆の使い手でもあります。10代であの洛中洛外図を描いた風俗画家でもあり、このお姫様様式の中にも表情があります。

建物は古代からの「等角図法」にのっとり、奥行きを表現していますが、金のベタが全体を覆っていて、陰影のない装飾的な絵となっています。人も、衣装も、そして草木も、重ね浮かすことで、遠近と主役が誰だかをしめしています。京都という都市も丸ごと一枚の風俗画として描けたのは、光はどこでも平行に降り注ぎ、屏風を眺める私たちの視点は自在に絵の上を飛ぶ事が出来るからでした。

これが日本のインテリアの伝統です。

黒書院と呼ばれる現代住宅の祖も部屋の装飾としては、水墨画に変り、華やかさが落ちるだけでインテリアのしつらいとしてはこの屏風と同様に平板なものでした。日本の住宅の中で陰影のある油絵がかかるのは応接間だけというのがつい最近まで続いていました。そして今もなお、重い油絵は住宅には好まれていないと思います。

ルネサンス 透視図法

ルネサンスでは、透視図法を駆使して宗教画が作られました。

「楽園追放」の絵でルネサンスを開いたと言われる画家マザッチョ(1401-1428)は、フィレンツェのク―ポラを設計した建築家ブルネッレスキ(1377-1446) に透視画法を教えてもらっていた。この話は、建築家としては愉快極まりませんが、その後の透視図法の著しい流布は間違いなく画家の力によります。

私は、平面図/断面・展開図によってインテリアを考えるのですが、その時、頭の中には立体的にイメージはできています。図の脇にチョコチョコと透視図的な絵を描き、「こんなかんじかな。」と確認しながら、平面・断面図の形で2次元図上に落としていきます。キチンとした透視図は平面・断面図が出来てから完成予想図として作図しなおします。

遠いモノは小さく、近くのものは大きくは経験則で分かっていたのですが、ルネッサンスの画家は、その暫小への比例が科学的に消点と絵を落とす画面と画面を見る位置によってきまることを知り、イリュージョンにリアリティを与えるために多用しました。

修道士アンジェリコ(1400-1455)が、サン・マルコ修道院の階段を登ったところの僧坊の壁に描いた「受胎告知」は、どこで建物をスケッチしたか絵から算出できます。聖母の姿は平板であり、生身の女性をモデルにしたとは思えませんが、建物は実物を写しています。

「最後の晩餐」レオナルド・ダ・ビンチ(1452-1519

レオナルド・ダ・ビンチ(1452-1519) による僧院の食堂に描いた「最後の晩餐」は、食堂の入口に立つと、食堂が延長されて、妻側に12使徒とキリストが座っているように見えます。

そして向き直り、壁画を正面に見据えると、透視図効果から彼らが背後の壁から浮き立つように見えます。実によく透視図法を操っています。カラヴァッジョの頃となるともう背景の建築は「だまし絵」状態です。

TVなどの動画で視点を動かしながらインテリアや建築の説明をする方が、「だまし絵」にならず、良い説明方法と言えましょうが、人を包む空間の実体験とは厳然と違います。

建築家はいまだできていない空間を、どだい説明しきれない商品を、なんやかんやと言って売り込まないといけないのです。(;一_一

手前に何かをおいて、その向こうのモノをみる。

ガラスのような透明なものをモノの手前に置いたとき、ガラスの向こう側にあるモノのこちらからの見え方は、ガラスの透過率と反射角から、複雑になります。

格子のような隙間から見るときは、モレアがおき、また不思議です。

しかし、一番重要なことは、小さな絵や写真を一目で見るのではなく、3次元の実際の空間では、キョロキョロと眼玉を動かして網膜の一点で部分を追っかけ、脳でまとめなおして空間として捉えていますので、工学的に見えている事とは違うという事です。手前に美しい少女が立てば、後ろにいるオジンなど目に入りませんね。

ライトアップはお化けの世界

ライトアップは、
自然界ではあり得ない「お化けだゾ~。」の光の当て方ですので、驚きのテクニックとして使います。

右はアメリカ人の設計による東京国際フォーラムのホール天井をみあげた写真です。ガラスの屋根を透過した光は闇に吸収され戻ってきませんが、「ここを見せたい。」というものをしっかり照らしています。

カラヴァッジョの光も「これを、見せたい。」という光なのですね。インテリアの光の操作は「何を見せたいか。」から始まり、周りの輝度との対比の中で、その見せたいものの輝度を図る事なのです。

「輝度で設計をする。」のところまで、強引に?持ってきましたが、ドラマチックなイル―ジョンとは違い、自然な光をもとめた印象派の絵から、また始めましょう。これからは、普通のインテリアです。

踊り子 ドガ(1834-1917)

印象派の中でも、ドガは室内での絵を多く描いています。少女の動きを追った絵は今も人気がありますが、この絵は室内全体を描いている珍しいアングルです。右手前に大きな窓があり室内を照らしていますが、その窓自身は描かれていません。踊り子の影は屋外のように黒くはっきり書かれることなく、床・壁・天井に反射した光が影をぼかしています。

曇天の屋外でもこのような影はできますが、閉じられた空間ならではの優しいグラデーションが絵の全体を支配しています。

車のデザインを評価するために、天井全体を光源とする特殊な部屋を作った事がありますが、真下にしか落ちない曇天の光は、車の形がぼけてナントモ落ち着かないものでした。光には角度がいります。

CGによる作画

スターウォーズ1978年のCGは、パンフに挿絵として載せられないレベルのものでしたが、ジェラシックパーク1993年では、動くものをよりリアルに映せるようになり、スターウォーズ2002年エピソード2/クローンの攻撃では全編デジタルとなり、「ああ、これで手書きの絵を超えた。」と思いました。

時間も人もかけられる映画の世界から、まずは車のデザインの開発に使われるようになり、今は、単品生産の建築にも手軽にレンダリング計算できるようになりました。入力が大変ですが、一度入れると視点が無限にとれるので、TVで視点を変えながらインテリア・建築を説明するテクニックが使えて「そうかな。」と、思わせやすくなりました。

この絵は、天井の照明を光源として、どのようにモノが見えるか、中に透明の球まで浮かして計算したものです。

そのモノ自身の輝度を、適当な面にわけて、その面がどれだけの光を受けているかを計算してそれを集めて表現したものです。適当な面は「適当」に人が判断します。

でないと、計算すなわち時間とお金がかかってしょうがないからです。白色は紙の色が上限なので明るい部分は多少荒くても良いのです。ゲームにおけるフィギアの動きではココまでの陰影の計算はやっていませんが、建築は「完成予想図」として静止画がメインとなるので計算しています。

実際のインテリアでは、外の光を窓から入れる事が多く、「照度600ルックスが机上面でとれる天井の蛍光灯による全般照明」などと言っても<昼行燈>状態で絵になりません。人の眼は一万ルクスにも簡単に対応し、それが徐々に600ルクスまで落ちていく分には違和感がないのです。

この絵は、中庭を設けたので外光が両面から入って来るロビー空間を設計したときに、そとからの光をCGで計算して書いたものです。わかりやすくするために影の部分の濃さを強くしました。

写真で撮ったものと比べて、どうでしょうか?内観パースのアングルでは写真に撮れません。また、写真も実際の空間とは違ったもので、それなりの技術によって2次元に置き直したものです。なになに「ツマラン。」ですって? そう、建築は背景であり、舞台装置であって、このように主役が入っていない空間はツマリマセン。(-“-)

名所江戸百景 大はしあたけの夕立 歌川広重(1797-1858)

次は、ヨーロッパで印象派に多大な影響を与えた広重です。彼は見ては書いていませんね。この場合は鳥にでもならないと。数ある版画の中ではコレが一番好きです。というか、そのままインテリアのテクニックに借用しています。
インデイゴブルーのグラデーションが印象的です。鮮やかに色を使うのは、モダンデザインの鉄則その①です。

そして、グラデーションでなじませる。結果、河が光って前面に来る。その②。

対岸の家屋は黒く縁取りすることなくシルエットにして、空気を描いている。その③。

大胆な構図は、河が右に下がり、橋がまぁーるく、そちらに近づく。空間の方向性あり。その④。
リズミカルな橋げたは等角図法によって正確に繰り返され、まぁーるい橋と相まって、人間の知を感じさせる。その⑤。
人は急な雨に急ぎ足で駆けだしたところ。時代の風俗を感じ取れる衣装と合わせ、親しみを感じる。その⑥。
そして、なによりも画面全体をおおう雨粒の黒い細線が、音をたてています。なんと印象的な一瞬になっていることか。その⑦。

雪中の狩人1565年 ブリューゲル(1520-1569) 

広重と同じような絵をヨーロッパで探すと、

ブリューゲルはバベルの塔の画家として大変有名ですが、ユーモラスであたたかな風俗画も多く描いているフランドル地方の画家です。彼の絵も大好きです。透視図法も解剖学的素描もイマイチ怪しいのですが、油彩での細密画の伝統を引き継いでいて、楽しい絵です。カラバァッジョの若き日々の修練に少なからずの影響を与えたと思っています。

脱線しました。広重との比較で出してきたのでしたね。広重が、日本の絵が、300年西洋に遅れたと言われるのは、絵の具の問題だと思っています。油絵の具が容易に一般に使うことができておれば、信長時代の南蛮図からつながって、光のつかみ方も西洋流になっていたのではないか。もしくはそういう一派が名をなしていたのではないかと、独り合点をしています。岩絵の具やフレスコ画では、カラバァッジョの絵はかけません。

広重の絵の凄いところは、多量に販売されることを前提とした木版画中で、人の心に印象づける光を捉えることに成功している事です。素晴らしい、世界に誇れることです。

ヨーロッパの銅版画はラファエロなどの古典を広めるツールとしては貢献しましたが、油絵に近づきたいと、線を多くして白黒写真のようになっていっただけで20世紀にならないとその独自性は出せず、写真機の登場と共に消えました。

中学の美術部で初めて油絵の具を触りました。このころ、賞をとれたのは、ボールペンでクロッキ―風に縁取りして、水彩絵の具で色をつけた物だったのですが、美術部顧問の先生がお祝いに油絵の具を買ってくれました。先生から「色を重ねて、縁取るのです。重ねると黒色になります。モノの面を大きく捉えて、陰の度合いをつかむようにしなさい。」(>_

そんな事を言われても急にはできませんし、高校では剣道が面白く、すぐに描く事をあきらめました。その後、仕事の中でスケッチを書かざるを得ない事になるのですが、相変わらず、中坊の時の書き方のままです。

積みわら モネ(1840-1926)

積みわらを1890年の夏から翌年の春までなんと25枚書き続けています。よくあきないものだと感心していますが、確かに光を重視する「印象派」の中心となった人だと思います。後年の睡蓮の多作は、お金稼ぎのとしか思えませんが、「ああか、こうか。いや、これなんだ。」と、積みわらの見る角度をかえ、季節の移ろうの中、太陽の時間もかえて、表現を追及していったんだと思います。

絵具が違うだけで、広重のマネをしていると先に書きましたが、はやり大変な事に挑んでいます。

私が書いたのでないですよ。レンダラーにCGを使って書いてもらった当初の頃のモノです。建物の図面は線で表現されており、下絵(透視図では点取り図という)は線で描かれます。線で輪郭をつかんでから、影の形の良いところで、太陽の時間を定め、陰影の計算をします。

しかし、そんなことはどうでもよく、映しこむ青空とガラスと手前に置いた樹木がこの絵の売りです。でしょ?点景の車が唯一の実在感を生むものなので、これはそこにあるかのごとく描きますが、あとはイメージをどう伝えるかが優先します。

外観イメージの場合は、インテリアデザインのように光をコントロールできなく、私は「光の透過と反射を使ってECO&TECをデザインコンセプトとしている。」のでこれでいいのですが、インテリアはそうはいきません。はい、「輝度で設計をする。」でしたね。

マンガ

高校を卒業して40年たち、集合写真をみても名前が浮かばない。それで、写真の上に紙を置いて「エイ、ヤッ!」と似顔絵を書きました。鉛筆で一度なぞり、それを写真と見比べ、一気にペンを走らせました。一瞬、40年前のナマの顔が浮かぶのです。

マンガの輪郭、やまと絵の面相筆、雪舟のうさぎ、ダビンチのスケッチetc.いずれも2次元上で形をつかむのは線ですね。では、その線は何によってひかれるものか?

「面によって輝度が大きく変化する、その面の境界線」に黒い線を入れているのです。

線を引き、輝度の差を決めることによりインテリアデザインをしているのです。ですので、「輝度で設計をする。」と短く言いきりました。

何本ものためらい線を引き続け、「これが、その一本。」と決めちゃう事の連続が「設計をする。」ことだと私は考えています。

追記:レティネックス理論によると、コントラストの差のあるところを強調して視覚神経は捉え(マッハバンドという)、明るいところ、暗いところでも差異が見分けられるのは、境界でのコントラスト比は一定(光の恒常性)であることによる。複雑な形態も、人の視覚は直ちに境界を見定めて視野全体のコントラスト比を計算して把握している。

写真が作品ならば、実空間とは違うものとして「現像」もありなんでしょうが、建築家は空間そのものを作ります。時空間の変化を許容し、何より空間を体感されるかたそれぞれの偉大な脳に応じないといけません。これが、私がデジイチで「現像」までしようとしない理由です。

ネットの世界よりリアルなお付き合い。(^_-)-☆

実はこのアングルでの透視画風のスケッチは起こしていませんでした。竣工写真を撮る段になって「こっちから撮ると、面白いぞ。」の結果でした。実空間ですので視点は無限にとれます。「こんなんだったか。」というのもありの世界なのです。

あと、照明による明るさの決定は、光を実際に灯してみてから、ワット数で調整できるようにしています。CGでのシミュレーションはその程度のものと思ってください。

あとがき

最後は気負いもなくなり、内輪話のようになってインテリアの設計の話を終わりましたが、「輝度で設計する。」という事はつたわりましたでしょうか。

青空に夕焼けが綺麗ですネ。万物は太陽の子どもですので、この太陽のような感動を与えてくれるものを作りたい。
というのは、不遜なことなのかもしれません。(爆沈:

※カラヴァッジョについては、こちらの本に詳しく書かれていますので、興味のある方はどうぞ。

イタリア・ルネサンス美術論 関根秀一(編)2000年東京堂出版
カラヴァッジョ 宮下規久朗 2004年名古屋大学出版会

付録 13通りの遠近法がある。 ジェームズ・ギブスン The Perception of Visual World から

A:位置遠近法

1:密度遠近法   表面の密度が遠くなるにつれて、次第に増す。例、18番目のインテリア写真の木。

2:大小遠近法   遠い物は小さくなる。例、歌舞伎では布の波の向こうで子役がつとめる。

3:消点遠近法   消点に向かう補助線をひき、上記の1.2を規則正しく配列する。例、5番目の写真

B:視差遠近法

4:双眼鏡遠近法  意識していないが、人は両目があることで遠近を図るという理論。例、近くのものを片方の目で交互にみると像が違う。

5:動きの遠近法  前に動くとき、静止した物体に近づくにつれてその動きが早く感じられる。また、一定の速度で動いている物体はそれと離れているほど、よりゆっくり動いているように見える。例、まじかに見るF1の車より、空を飛ぶジェット機の方がゆっくり見える。

C:観察者の位置や動きに依存しない遠近法

6:空気遠近法   介在する大気によるかすみ具合の増加と色彩の変化による。例、高地の乾燥した空気が異常に澄んでいて、実際にあるより近く感じる。例、13番目の広重。安定的な技法でなく、雰囲気による。

7:ぼやけの遠近法 近くのものを見ていて、目の焦点が合っていないその背景は不明瞭に見える。例、望遠レンズ。

8:視野における相対的な上昇  海や大平原では、消点は水平線、地平線とひろがり、目の高さにある。足元の地面が目の高さまでせりあがる。例、近い物は見降ろし、遠い物は見上げる。

9:線の間隔の推移 断崖の淵からみた谷底は深い。きめの密度が急速に増し、不連続だからである。例、14番目の絵。すぐ近くの葉っぱと遠くの家が同じ大きさ。

10:2重像の量の変化  遠くの一点を見つめていると、観察者との間の全てのものが2重に見えてくる。近いものほど重複の仕方が大きく、遠いほど重複は少ない。この推移の勾配が距離の手掛かりとなる。急なら近く緩やかなら遠い。例、ピントをレンズ式で合わせるとき、といってももうそんなカメラはないか。

11:動きの速さの推移  5の別の表現。視野の中で動く物体の運動の差。近くのものは遠くのものより多く、早く動く。例、TVカメラが観察者と同じ具合に移動するたびに、この遠近法が強調される。2つの物体が重なり合って見え、観察者が位置を替えても相変わらずなら、2つの物体は同一平面にあるか、移動がわからないほど遠くにあるのかのどちらかである。

12:輪郭の完全さあるいは連続性  手前のものが奥のものの輪郭線をかけさせるいると認知させることによって、手前と奥とをわからせる。形の連続性を予測する事によって成り立っている。カモフラージュが成功するのはこの原理を使い、輪郭の連続性を断ち切るからである。

13:光と影の移行  視野の中のテクスチャの急激な変化はフチの信号となり、明るさの急激な変化もフチと認識する。明るさが徐々に変わっていくのは、なだらかな変化ないし、丸みを知覚させる。例、上記の12番目と17番目。 

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