「継体大王と尾張の目子媛」1994年 小学館刊 の紹介

継体天皇
  1. 「春日井市政50周年記念 古代史シンポジウム 」とサブタイトルのついた本に、図書館であたり、その内容を高橋和生が30年後に紹介するという、A4版30枚の論文です。
    1. ●はじめに  愛知県陶磁器センターにある県の考古学の成果を示す展示には、名古屋市内の発掘内容がすっぽり抜けています。
    2. 第一部提論   目次そって、内容のサマリーとそれへの高橋の感想を書いていきます。
      1. ●継体大王と妃たち  黒岩重吾(1924~2003)
      2. ●尾張は河海の世界  網野善彦(1928~2004)
      3. ●古代の尾張と尾張氏  新井喜久夫(1934~)
      4. ●文献から見た継体大王と春日部  門脇禎二(1925~2007)
      5. ●新王朝始祖 継体大王  森浩一(1925~2013)
      6. ●騎馬民族説と継体大王の出現   森浩一(1925~2013)
      7. ●神武伝説と継体大王の婚姻   森浩一(1925~2013)
      8. ●継体大王の古墳は今城塚古墳で間違いがない。  森浩一(1925~2013)
      9. ●越と尾張の接点 飛騨と美濃  八賀晋(1934~2015)
      10. ●断夫山古墳と岩戸山古墳  森浩一(1925~2013)
    3. 第二部 研究報告
      1. ●尾張の主要古墳  松原隆治(1952~)
    4. 以降は、松原隆治から離れて、各氏の論を否定して、高橋和生の論をはる。主要な古墳を並べたところで、古墳から尾張氏の出現を改めて推測する。最初は、教科書の古墳時代の定義からである。
      1. ●美濃・野古墳群と後期古墳  中井正幸(1961~)
      2. ●味美二子山古墳と下原古窯  大下武(1942~)
      3. ●尾張の土器と埴輪  赤塚次郎(1954~)
      4. ●尾張と美濃の鏡  伊藤秋男(1936~)
  2. ヤマト王朝が飛鳥時代と歴史上呼ばれるまで、畿内を中心とした日本国はなく、そこに尾張物部氏が登場したのだが、壬申の乱でヤマト王朝を援助するも、持統天皇が律令制度に君臨し藤原不比等が仕切る奈良時代には、尾張氏は他の地方豪族と同様にすでに衰退していた。中央の権威の前に郡司として残る道を選ぶしかなかったのであろう。

●はじめに  愛知県陶磁器センターにある県の考古学の成果を示す展示には、名古屋市内の発掘内容がすっぽり抜けています。

開発に伴う地方自治体の発掘によって成果があがる学問であり、「信長の城」などと、地方自治体の首長の思惑が優先し、考古学には横をつなぐ学問の姿がないと私は嘆いていたのですが、名古屋市でも愛知県でもなく、春日井市が尾張、美濃の濃尾平野全体を見渡し「新王朝を支えた濃尾の豪族たち」という視点の古代史シンポジウムを、1994年に開いていました。

新王朝とは、継体大王(450年?~530年?)のことです。日本書紀によると、武烈大王が後嗣を定めずに崩御したため、彼は応神天皇の5世の子孫であることから、大伴金村・物部麁鹿火からヤマト王朝の大王に乞われたとあり、507年58歳にして河内国樟葉宮(くすはのみや、大阪府枚方市)において即位し、武烈の姉にあたる手白香皇女を皇后にするも、19年間大和に入らず淀川水系にとどまり、526年に磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや、現奈良県桜井市)にようやく大和盆地に入りました。彼の古墳・今城塚古墳は大和盆地でなく、大阪府高槻市郡家新町に作られています。

戦後、万世一系の天皇制のタブーが解かれると、地方豪族の継体が実力で大王位を簒奪して現皇室にまで連なる新王朝を創始したとする説が唱えられたのでした。

継体大王には、百済に乞われて任那4県の割譲など朝鮮半島との関係が色濃くありますが、近江領主の父を幼くして亡くすと、母・振媛は、彼女の故郷である越前国高向(たかむく、福井県坂井市丸岡町高椋)に連れ帰りそこで彼は育てられていることから、58歳で大王になる以前より、「日本海側の越(こし、越前、越中、越後)には出雲と同様に朝鮮半島との交流が強くあったのだ。」と、ここで網野善彦(1928~2004)史観が出てきます。

網野 史観
網野史観

このシンポジウムが開かれた1994年と言えば、網野が「海と列島の中世」「海から見た日本史像=奥能登」「海民と列島文化」「中世の非人と遊女」「悪党と海賊」と立て続けに本を出していた時です。

彼の著作リストにこのシンポジウムの本は入っていませんが、彼のこのシンポジウムでの小さな発表「中世の尾張の河海の交通」から、歴史の表舞台「継体大王の正室・尾張の目子媛の子が安閑、宣化とまず大王となり、その後は皇后・手白香皇女と継体大王との子、欽明が大王となり、その子の3人が、敏達(母は目子媛の孫)、用明、推古と大王をつなげ、現皇統に続くことになった。」を支えた尾張物部氏の海人としての実力が推し量れます。
大和、出雲、吉備、筑紫は従来からの研究の蓄積がありますが、1994年、ここ春日井市のシンポジウムにおいて、尾張・美濃の古墳に埋葬された豪族たちが、地区最大の古墳、断夫山古墳と共に古代史にデビューしました。2000年に考古学者の遺跡捏造事件があったからでしょうか、シンポジウムから30年たちましたが、このように考古学を大胆に展開する本は見当たりません。

「東海学」と言う名で続けられ、20回、20年行い、2013年に終了しています。学者が、学会で発表するような考古学・歴史学の専門内容を、素人向けに説明しているので、東海地区に住む古代史好きには大変貴重な内容です。

第一部提論   目次そって、内容のサマリーとそれへの高橋の感想を書いていきます。

●継体大王と妃たち  黒岩重吾(1924~2003)

1972年の高松塚古墳壁画の発見を契機として、推古天皇、聖徳太子、大化の改新、壬申の乱を扱った小説を書いている。鑑真を書いた井上靖、平安時代を題材にした永井路子、北条早雲を書いた司馬遼太郎など、歴史小説家は数多いが、黒岩は古代が好きなようだ。

二本松山古墳

5世紀後半の長さ97mの前方後円墳・二本松山古墳(福井県吉田郡永平寺町)から出土した金冠、銀冠の写真が最初にある。これらは5世紀の朝鮮半島洛東江沿岸との共通性があり、そこから母・振媛の母、継体の祖母は加羅国(任那)から嫁いできたと、「三国史記」の新羅と倭との他の婚姻記録から黒岩は大胆に推定している。

継体大王の生年450年は、日本書紀が531年82歳で亡くなったと書いているからであるが、黒岩は58歳で大王になって、武烈の姉にあたる手白香皇女との間で欽明を作り、70代で大王として政権を采配というのは古代人の寿命から考えておかしいと言い、古事記にある43歳で亡くなった方を採用する。すると生年は487年となり、506年に大王に乞われた歳は19歳となる。これでは若すぎるかもしれないが、日本書紀の一説では「即位して7年大和に入らず」ともあるので、525年38歳で大和に入るも、河内国樟葉宮での即位の実際は10年遅く、20代の大王は、越から近江へと繋がる父母の土地に加え、美濃から尾張まで配下に置き、尾張から目子媛を正室として迎えていたと考えた。まさに、継体はヤマト王権が頼りとする青年の大豪族であり、朝鮮半島との交流は二本松山古墳の石棺に葬られた継体の母の父から継続してあり、継体は生まれながらにして朝鮮半島の文化を身に着けていたと黒岩は述べる。

475年百済は高句麗に負け南に移る。478年雄略大王は朝鮮半島南部の軍事的支配権を承認してくれるよう上表文を宋王朝に出す。この時、加羅国の荷知王は中国に朝貢して輔国将軍加羅国王に任じられている。日本海側の越は、筑紫を通じての半島とのやり取りをしているヤマト王朝とは別に、直接激動する朝鮮半島とのつながりを持っていたと、網野史観により推定する。冠以降、遺物として残るのは渤海と秋田、金沢、敦賀での交流まで下がる。
継体大王の512年の任那4県割譲の判断は、8世紀完成の日本書紀では大伴金村は百済から賄賂をもらったと大伴を悪者にしているが、任那割譲の交換条件として、百済から五経博士(ごきょうはかせ)という当時最先端の知識人を日本に渡来させているなど、朝鮮文化への独自のアンテナを持っている継体ゆえにできたのではないかと黒岩は推定するが、ヤマト王朝の雄略大王の周りにも、中国への上表文を駢儷体で書ける中国人がいたのは間違いなく、「継体ゆえ」でもなかろう。

天農 系譜
天皇 系譜

二本松山古墳から出土した考古学の成果である金冠、銀冠から、小説家ならばここまで広げてしまう事が出来る。歴史家にはできないことであるが、この本に出てくる考古学者はそれらの中間のようにみえる。考古学は妄想してこそ、学問となるようだ。

前の大王・武烈(在位499~506)の跡継ぎがなく継体が探し出された(506年)という話に似ているのが、武烈の父・仁賢、顕宗の兄弟にもある。専制大王・雄略は有力な競争相手・親族を殺し(456年)すぎて、ちゃんとした跡継ぎをする者がなくなり、第3子の白髪で子供のいない病弱な清寧が継ぐ(480年)のだが、雄略が殺した従弟・市辺推磐皇子の子、仁賢、顕宗の兄弟を清寧大王は探し出し、皇太子と皇子にした(482年)。
継体は大王に即位する(507年)も大和盆地に入ったのは525年頃であり、531年2月に太子(安閑大王?)、皇子と共に死す。殯が終わった12月2日に、武烈の姉・手白香皇女と継体大王との子、欽明が大王を即位する(上宮紀)。とすると、尾張の目子姫が生んだ檜隈高田皇子が、宣下大王になる時間が無くなってしまう。古代の年次の記述はこのように怪しいのだが、檜隈高田皇子の石姫皇女が欽明の皇后になり、子が敏達大王となることは間違いがない。

蘇我一族とつながった用用、推古、崇峻、聖徳太子は絶へ、現皇統は敏達大王の系統であり、尾張物部氏の血統の名は皇室の中で吉備の媛のようにしばらくは残ったのではないか。587年に蘇我馬子、聖徳太子によって、物部守屋は滅びるが、物部郷、物部神社は10世紀の和名抄にはまだ多く残っている。名古屋市東区、岐阜県本巣市に今も物部神社はある。
継体を引っ張り出したもう一人大友金村も540年に加羅問題で失脚しているが、倭の五王の最後・雄略が亡くなった480年から蘇我馬子が出てくるまでの100年間は、大王でなく、大連となった物部と大友が媛を使ってヤマト王朝を実質切り盛りしていたのだろう。系統図を見ると皇統は近親相関を繰り返しており、外からの血脈が必要だ。

●尾張は河海の世界  網野善彦(1928~2004)

濃尾平野というと、広々とした平野であり、稲作地帯と思うが、それは家康が木曽川左岸に「御囲堤」を設けて川の氾濫を抑え、木曽三川に輪中を開発してからのことであり、伊勢湾台風で稲沢まで水が迫ってきたように、6000年前の縄文海進の跡の地盤は低く、洪水にあうことが多かったので米作開発は進まなかった。
延喜式によると、尾張の田は6820町、伊勢の8130町より少なく、美濃の14823町の半分もない。弥生時代の遺跡は洪水に流されないように濃尾平野の外周部の扇状地、河岸段丘にある。

海の表現は、猿投神社尾張古図による。内藤昌作図
地名、養老をいう元号から、江戸後期に作られたもの。

中世の尾張、美濃の荘園、国衙領の税金は、絹、絹糸、絹綿であり、濃尾平野の諸所の河川敷には桑の木がびっしり植わっていたのだった。私の子供時代の記憶にも広大な桑畑があった。13世紀になると、交易が進み、町がおき、税金は銭に代わる。
中世になると、東山古窯、猿投古窯、常滑、瀬戸、美濃の焼き物が盛んになり、海と川を使い、非常に広く各地に運ばれている。奥州平泉にも北上川を遡り常滑、渥美の陶器、中国の青白磁が運ばれていた。中世の古文書に窯の記述はないが、愛智郡と山田郡に「御器所」の地名が残る。
15世紀の京都南禅寺は、木曽山、付知山から木を切り出し、河川を使って琵琶湖に入れ、筏、車、馬によって京都に運び入れていた。

伊勢湾から三河湾、浜名湖へは、田原町本神戸の地名に残るように早くから伊勢神宮が影響を及ぼしていたが、11世紀末になると、摂関家は海上交易の要所に荘園を獲得する。海東郡の富田荘(円覚寺の荘園として絵図が残る)長尾荘・堀尾荘(木曽、長良)。12世紀になると、天皇の荘園と結び、美濃尾張源氏と伊勢平氏が伊勢湾を巡って争い、源義朝は熱田大宮司家と結び、知多半島で死ぬのだが、船運で相模の大場御厨、鎌倉外港の六浦から上総、下総の領地とつながっていた。古代は東山道が幹線であったが、船運の発達と共に、鎌倉幕府ができたことのよりやがて東海道が幹線となる。
1181年の墨俣川源平合戦では、源氏は義朝の子、義円と新宮十郎行家が大将となり熱田宮と、伊勢湾に進出したい熊野の海賊に支えられ渡河作戦を行うのだが、平氏は伊勢水軍を全面的に動員して勝つ。当時は、墨俣で長良川と木曽川が合流していた。

鎌倉 円覚寺の寺領 富田荘

北条得宗家は、海上交通に重きを置き全国を見ていく。
尾張守護所は下津と五条川の川沿い、旧来の国府の東に、渡し船と共に設け、五日市、馬市がたった。
鎌倉街道の庄内川の渡りに、萱津宿を設けた。鎌倉時代の富田荘の絵図の右上に萱津があり、寺が多くある。

一遍上人絵伝には「徳人二人」が描かれている。甚目寺で法会をした一遍に施しをした町の金持ちであるが、その風体は内輪を持つ高下駄と、ポニーテールであり、いわゆる中世の「悪党」「非人」と呼ばれる自由人である。戦国時代の楽市楽座から、寺内町、堺港の自由人へとつながる人々である。

知多郡の枳頭子荘(豊武町、美浜町)も要地であるが、遺跡発掘で成果があったのは、春日井市の篠木荘であり、庄内川の支流の内津川の右岸の下市場遺跡であった。火を燃やした配石は祭りの意味を感じさせ、中国製の青白磁に長崎からの石鍋が出土している。しかし、近くの瀬戸モノはなく、美濃・常滑の陶器が出てくる。市場(市庭)があったのだと思う。

網野は中世の海民、海人を自由人であると熱く語り、網野史観を構築したが、まさに彼が名古屋にいた14年の間に、愛智郡熱田宮の西にある海部郡の名「アマ」の意義を彼は感じたのであった。中世では海部郡は海東と海西に分かれる。海部(アマ)が漁撈にかかわるのはもちろんだが、船を操り非常に広く日本各地と交易をし、古代より塩をつくり、川を遡って山間地に塩を運んでいた。江戸時代の街道を示す。

名古屋中心 江戸時代の街道
江戸時代 街道

御家人の千竈氏(ちかまし)は、庄内川の千竈郷(現・中村区横井から稲葉地町)を本拠地とし、その領域は、鎌倉時代後期、常陸国、駿河国、薩摩国の得宗領の代官職となっており、かなり広範囲に及んでいる。薩摩国の所領については承久の乱以降に与えられたものと見られ、鹿児島の川辺郡を拠点に坊津、喜界島、奄美大島、沖永良部島、徳之島、屋久島下郡などの重要港や奄美群島の島々までが挙げられている(千竈文書)。鎌倉幕府の崩壊により島津の下に入った。

濃尾平野の河海は日本列島を北に上る道筋であり、北陸からは白山信仰が南に降りてきており、篠木荘(春日井市)には14世紀の白山円福寺がある。
信長の桶狭間の戦いでは、海部郡の服部は船を仕立てて鳴海に行き、今川に呼応しようとしたが、今川が破れ、帰りしなに熱田宮を焼いた。信長は長島の一向一揆に手こずる。専制君主に対抗する民が海部郡にはいたのであった。

百姓=農民は江戸時代以降のことであり、百の姓には多種多様の職業があった。貴族と武士以外のすべてが百姓であり職人であった。商業、職人、漁撈は農業もするがほとんど行わない。回船、芸能に携わるものは移動をするので、農業には全く関わらない。この民も百姓と呼ぶ。
江戸時代、石川県の能登は数千人の人口を持つ日本海の港町であったのだが、人口の70%は水飲百姓とある。農耕に従事していないので水飲み=小作人とされたのだが、彼らは輪島塗の工芸と回船で富んでいたのであり、貧しい小作人ではない。

●古代の尾張と尾張氏  新井喜久夫(1934~)

尾張氏とは、尾張物部氏とも言われる、尾張を支配した豪族のことである。

尾張に物部氏の支族がいたのか?の素朴な疑問は、807年以降に書かれたと考証された「先代旧事本記」の中「天孫本記」の物部氏と尾張氏の系図による。

本居宣長がこの系図に基づき「尾張氏は、元はヤマトの葛城地方にいた豪族で、尾張の国造に任じられて尾張に移住してきて尾張を支配する事になった。」と示した事による。
古事記、日本書紀、上宮紀の切り張りである内容から、本居自身も「先代旧事本記は偽書」というのだが、神話によると、「天照大神の孫であり、神武天皇の曽祖父の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と同じ孫である天火明命(あまのほのあかりのみこと)が、天照大神から十種の神宝を授かり天磐船(あまのいわふね)に乗って河内国(大阪府交野市)の河上哮ケ峯(いかるがみね)の地(現在の磐船神社周辺の一帯地と考えられている)に降臨し、その後大和国(奈良県)に移り、神武天皇を迎えたのが物部氏。」とある。
「先代旧事本記」の中「天孫本記」の系図に、物部氏の祖の宇摩志摩治の兄弟として尾張物部氏の祖、天香語山を系譜にチャッカリあげたので、尾張物部氏が存在することになった。

物部氏は、尾張物部氏だけでなく、東国にもあり、下総物部氏、石見物部氏、備前物部氏だけでなく、物部+職業という氏族の名が17残り、国造りでも13残っている。蘇我馬子、聖徳太子に物部守屋が滅ぼされたあとも、自らの出自を物部氏に頼る豪族が多くあったということであろう。

新井は、系図では11代目の乎止与命からが先に作られており、その前は古事記に合わせて作り足したのだろうと推測する。葛城から妻をめとる系譜を10代続け、葛城から来たことを示している。葛城氏は5世紀にヤマト王朝に姫を入れ王朝を支えたのだが、物部氏、大友氏に代わられ、葛城氏の支族であった蘇我氏が6世紀から7世紀のヤマト王朝を支えるとなる。蘇我氏は645年に滅ばされるので、ネームバリューのある葛城氏は8世紀の系図づくりに扱いやすかったのだろう。

仁徳天皇の子であり、雄略天皇の父である允恭天皇(5世紀前半)に仕えた16世の尾治板合連、弟の尾治阿古は、日本書紀にある葛城玉田宿祢事件に関与したとして、尾張の豪族である尾張氏が舎人として弟をヤマト王朝に出していたと彼は推測している。

江田船山古墳、稲荷台一号墳、稲荷山古墳より出土した鉄剣から、九州、関東の豪族の弟がヤマト王朝・雄略大王に舎人として出仕していることが分かった。ヤマトに近い尾張からはもっと早くヤマト王朝に昇り、大王に従っていたのは間違いがなかろう。

3世紀の邪馬台国は大和盆地にあり、邪馬台国と対立した狗奴国は南でなく東にあり、卑弥呼が争ったのは美濃国・尾張国の小国の同盟軍と私は考える。九州には古墳時代にそのまま繋がる弥生時代の遺跡はないので、邪馬台国は九州にはなく、魏志倭人伝の「南」は「東」に読み替えるものと考える。
もとより、3世紀の卑弥呼が5世紀の倭の五王古市古墳群、百舌鳥古墳群に直接繋がることは全くわからない。弥生時代の遺跡として、大和盆地の唐子・鍵遺跡と濃尾平野の朝日遺跡との比較をして間違いないと思う。

記紀の神話の中で尾張氏を探すと尾張氏は姫を皇統に差し出すばかりである。姫の中では目子媛しか実在するとは思えないが、5世紀からヤマト王朝に従属する尾張氏であることを神話で示したかった結果であろう。

尾張氏は操船技術を買われ、大王により、5世紀にはヤマト王朝を支えた葛城氏と共に朝鮮半島まで行かされたのだと思う。それが尾張物部氏の系図に葛城氏姫が多くある事に繋がった。こののち、新井は3世紀から6世紀にかけて作られた古墳により、尾張の統一がどのようにされ、尾張連としてヤマト王朝に認められたのかを見てゆく。

先に古墳の全体像を知るために、赤塚次郎(1954~愛知県埋蔵文化エンター)の発表「尾張の土器と埴輪」の中にある「美濃・尾張(犬山扇状地)・尾張(名古屋)の古墳」を取り出した。

美濃、尾張の古墳 赤塚次郎作成
美濃、尾張の古墳 赤塚次郎作成

一番古いのは揖斐川の支流牧田川の扇状地にある象鼻山一号墳、全長40mの前方後方墳である。象鼻山(標高140m)の山頂から山麓にかけて分布する70基の墳墓群があり、一号墳は山頂に一番大きくあり、弥生時代の墳丘墓から離脱した3世紀中ごろの古墳である。これは濃尾平野の西側、養老にあるのだが、濃尾平野の北側根尾川の扇状地にある舟来山古墳、とりわけ頂上にある墳長65mの前方後円墳の5号墳と似ている。この地の豪族が扇状地を支配する姿を光る石葺きの古墳で示したのだ。

濃尾平野の東は木曽川の扇状地、犬山に古墳が集まっている。一番古い白山一号墳は段丘の上にある。赤塚は、これらの弥生時代の集落から引き継いだ扇状地の古墳群を1期として、4世紀の大きな前方公円墳をⅡ期としている。

名古屋地区、庄内川沿いには、味鋺大塚、志段味と別の系統があり、それを赤塚はⅢ期としている。古墳文化は、近江から美濃に入り、農耕地が扇状地から河岸段丘に降りてきて、最後に名古屋地区にいた尾張氏が5世紀には尾張を統一し、6世紀前半に墳長150mの断夫山古墳を百舌鳥古墳群のように海に向かって尾張氏を誇示したのだった。同時代の継体天皇陵が墳長190mであることからも、尾張氏の誇示する力が強かったのであろう。

次に「尾張の主要古墳」をシンポジウムで発表した松原隆治(1952~)の描いた古墳分布図を見る。

尾張の主要古墳 松原隆治作成
尾張の主要古墳 松原隆治作成

木曽川が美濃と尾張をわけ、国としては古来より常に分かれていたので、尾張国の統一の姿はこの古墳分布を追うと見える。 松原は、古墳を三つに分けている。名古屋地区には、万葉集にある「年魚市潟」を囲む古墳群と北の庄内川沿いの二つがある。

半島の先端には熱田宮があり、愛智郡から音をつなげ、現在の愛知県に至っている名古屋の中心の「年魚市潟」なのだが、4世紀の古墳はない。「年魚市潟」では、漁撈と塩づくりはあっても、天白川、山崎川の流域では、庄内川沿いの志段味、守山、味美程の大きな農地は取れない。名古屋地区の北の古墳に眠る首長に尾張は牛耳られていたのだろうか。

そこで、名古屋地区というより、知多半島の付け根にあった、兜山古墳(東海市)が重要になる。4世紀後半の高さ4.5m直径45mの円墳であり、三角縁神獣鏡が出たのだが今はあとかたもない。
網野史観の出番である。庄内川沿いの志段味古墳・守山古墳の王と味美古墳の王が庄内川沿いの覇権を争う3世紀から4世紀の頃に、尾張氏は海人として年魚市潟を根城として、伊勢の桑名からの海運を支配していた。

近江→美濃→犬山と伝わった古墳文化とは違う海運のルートがあったのである。養老、本巣、犬山のごとき山の頂上に古墳を作り、扇状地を睥睨する必要はなく、3世紀から4世紀にかけて古墳は作らなかったが、操船にたけ、現在の木曽三川を上り美濃の金生山から鉄を得て、武力で味美の王を倒し、さらに川上の志段味の王も支配下にした。

古代の濃尾平野は海だった。
古代の濃尾平野は海だった。

弥生時代の朝日遺跡は、上流の志段味の王に潰され、志段味は味美の王と戦うのだが、その味美が年魚市潟の王、尾張氏に制され、5世紀末になると志段味から濃尾平野北の犬山の王も尾張氏の下に入ったのだと考える。

尾張氏は美濃に面することになり、自己の勢力維持のために、美濃まで出てきた近江と越の若きヲホド王(継体大王)に尾張の目子媛を嫁がせることになった。

尾張氏がヤマト王朝の海上輸送にかかわっていたという傍証に、尾張氏と関係ある地名、神 社、居住地が播磨、備前、周防にある。尾張氏と祖先を同じくするという氏族が「新撰姓氏録815年」にあるが、津守連、但馬海直、凡海連と海に関わる氏族が少なくない。

さらに、国造では丹波国造、但馬国造、但馬国直等の日本海岸側の豪族が尾張氏と同族だと称していること、奈良時代に下がるが、継体の育った越前国坂井郡海部郷には尾張諸上が住んでいたこともある。尾張氏がヤマト王朝に食い込んだ結果なのかもしれないが、尾張氏が海人として活躍していたことは間違いがない。5世紀の尾張氏による尾張の統一には、ヤマト王朝との海人としての関りがすでにあったことが大きいと考える。
尾張氏からは伊勢湾の対岸となる宝塚古墳から大きな舟形古墳が出ており、船舶技術が伺われる。

松阪市 5世紀の宝塚1号墳の船形埴輪は、全長140cm、円筒台を含めた高さ94cm、最大幅36cm。

●文献から見た継体大王と春日部  門脇禎二(1925~2007)

文献と言っても新たに出てくるわけなく、鎌倉時代の「釈日本記」の中に引用されている「上宮記」の中に、ヲホド王(後の継体大王)の母方の系譜が書かれており、そこに注目をしたことと、記紀にあるヲホド王の妃を書き出して、その妃の名前から妃の出身地を探り出し、ヲホド王の育った経緯を探る論である。
祖母、母の出身地は越前の高向(現・福井県坂井郡丸岡町)であり、すでに地域周辺での政略結婚が行われており、母・振媛が近江の応仁天皇4世の彦主人王に嫁いだように、越前で成人したヲホド王は、勢力の地盤かためをするために妃を得ていくと考える。越前の三尾、角折から近江の息長、坂田。若狭から、尾張の目子媛。と、6人が続き、58歳で河内国樟葉宮(くすはのみや、現大阪府枚方市)において即位し、皇后としたのが武烈大王の姉、手白香皇女であった。

越前から見たら、どう見えるか? 継体天皇動きを地図に落とした。

日本書紀によるとその後も妃を3人めとっている。大和盆地に入らず、511年に筒城宮(つつきのみや、現京都府京田辺市)、518年に弟国宮(おとくにのみや、現京都府長岡京市)を経て526年に磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや、現奈良県桜井市)に遷ったことから、妃の名に河内、茨田の地名が残る。

ヲホド王からヤマト地方を見ると、ヤマト王朝を抑えに行く道筋が見える。美濃、尾張とは山越えとなり、近江への陸路も日野川沿いに木野目峠を越える山道となるが、海路は角鹿(敦賀)から一気に近江に入れる。今も国道8号線が通る道だ。

私の話をここで入れる。私が生まれた本巣郡の根尾谷に「薄墨桜」がある。樹齢は1500余年と推定され、「継体天皇お手植え」という伝承があるのだ。根尾谷157号線は山を越えて越前大野、福井とつながるから、越の人々も根尾谷から美濃へ出てきたと思っていた。幕末の天狗党が根尾谷から越前に入った例もある。しかし、学者たちは、越前大野から東に山越えをして、長良川沿いに郡上八幡を経由して南下したと考えている。確かに、揖斐川より長良川の方が川の利用が長くなり美濃に出るには楽である。

春日井市市政50周年であるので、尾張の春日井郡という地名、その由来として「春日部」を門脇が語っている。本巣国造の702年の戸籍に「春日部里」があり、春日山田皇女(尾張目子姫の生んだ安閑天皇の皇后となる。武烈大王、継体大王の皇后・手城香皇女の異母姉妹。)の名代がまず美濃に置かれ、次にヤマト朝廷直轄の部が尾張にも置かれた。というのだが、春日の地名は全国に多く、そのままは信じがたい。 本巣国造とはまたもや、私の生誕地の自慢話になるが、三野前国造、美濃国造ともいわれていたようで、その後の壬申の乱によると、揖斐郡、安八郡と美濃の重心は本巣郡から西によっていったようである。

●新王朝始祖 継体大王  森浩一(1925~2013)

早稲田大学の水野裕の自費出版「日本古代王朝史論序説」1952年刊を紹介し、近年の九頭竜川沿いの古墳群発掘(最大墳長140m)から、ヤマト王朝を納める国際人として乞われたと語り、507年河内国樟葉宮で即位し、511年に筒城宮、518年に弟国宮を経て、526年に大和盆地の磐余玉穂宮に入るも、大和盆地の豪族の力を恐れてではなく、木津川、淀川水系に都をおき、琵琶湖から日本海、瀬戸内海から対馬へと朝鮮半島を見据えての都の形成であった。と、語る。
それほど、朝鮮半島とは緊張が高まっていたのであり、九頭竜川沿いに宮殿を構え、三国の津に容易に出られる越の国づくりは、高句麗の大同江、洛陽の黄河、南京の揚子江と同じである。とまで語られると、その気宇壮大さに私はついていけない。

●騎馬民族説と継体大王の出現   森浩一(1925~2013)

江上波夫(1906~2002)の騎馬民族のヤマト王朝制服説に継体大王がぴったりあてはまれば楽しいが馬が入ってきたのは継体の三代前になろう。

それまでの弥生時代から古墳時代前期までの華中の稲作文化、船を活用した社会が、5世紀になると馬を半島から入れることによって、大きくかわり、馬による伝令、戦いがヤマト王朝による日本列島の支配に貢献した。

継体大王の100年ほど前から馬は入って来ていたが、継体は船と馬の両方を駆使したのだろう。継体の代、6世紀にはいると古墳への馬具の副葬が急に多くなる。

尾張も多く、この馬の埴輪は春日井市の味美二小山古墳の埴輪である。
継体天皇の古墳、今城塚古墳の馬の埴輪と比べたい。

●神武伝説と継体大王の婚姻   森浩一(1925~2013)

古事記を書いた人たちは、皇統の祖は継体大王であり、それ以前は神話の世界と分かっていて、古事記の皇統の祖である神武天皇を描くにあたって、継体の婚姻を真似したのではないか。南九州の隼人から吾平津媛をめとり2子を得ていて、大和に入って大和と摂津との間に生まれたホトタタイライススキ媛を新しい皇后としている。

●継体大王の古墳は今城塚古墳で間違いがない。  森浩一(1925~2013)

これが、名古屋市の断夫山古墳、春日井市の味見二子山古墳と形が似ており、味美二小山古墳から出土した形象埴輪(馬形・人物・水鳥形)および円筒埴輪は今城塚古墳のそれらと相似形で似ている。媛が当然小さい。(愛知県春日井市教育委員会 2004/03)
森は、断夫山古墳は大王の外戚(娘の目子媛の子が安閑大王、宣化大王)として持った尾張氏の力を海に向かって示す目子姫の父・尾張連草香の墓であり、味美二子山古墳は継子の欽明大王とその母親・手白香皇女に追われ在所に帰って埋葬された目子媛の墓ではないか、という。

●越と尾張の接点 飛騨と美濃  八賀晋(1934~2015)

継体の父の母が、美濃の武儀郡にいた牟義都(むげつ)氏の娘とある。5世紀の前半である。

近江と美濃は不破の関で接しており、壬申の乱、織田信長と浅井長政、関ヶ原の戦いと関所と戦争が歴史に残るが、両国は緊密な関係を古代より維持してきた。5世紀は地方の王によって前方後円墳が競って作られるが、中農の武儀郡が西濃の不破郡を挟むように近江と手を結ぶのは戦国時代にもあったことである。

美濃の国府、国分寺も不破郡垂井と美濃国の西に寄ってあった。武儀郡は855年に郡上郡を分化する前は、本巣郡の東にある大きな郡であり、山を介して越前、飛騨とも接していた。郡上から長良川を上り、西に山越えをすると九頭竜川の上流に出られる。 壬申の乱の後に牟義都君広が活躍する。

天正18年とある木簡が福井県池田町から出土したが、そこにも牟義都の名がある。美濃揖斐郡の揖斐川の上流にも池田町があり、揖斐川で繋がっていたのではないか。従弟が本巣市曽井中島で浄土真宗の住職をしているが、18代前に、富山から来たとの言い伝えがある。白山が飛騨と越前を分けているが、古来白山信仰もあり、幾本かの山を越える道はできていたのだろう。

美濃の部民に「伊福部」「建部」があるが、火を操り、軍隊でないかという説がある。

濃尾平野の西には池田山があるが、その南に続いて垂井町に金生山がある。昔、大理石が出たので今も石材工場があるが、金生山は金でなく露頭の赤鉄鉱(酸化第二鉄90%)があった。砂鉄よりはるかに簡単に鉄にできる。近くには4世紀後半の美濃で一番大きい墳長140mの昼飯大塚古墳をはじめ、4~5世紀の古墳がある。石のすり皿、すり棒が出土しており、6世紀の舟来山古墳には、鉄製の武具、農具の副葬品がある。馬、牛と同時に新たな渡来人が不破に入って来て、製鉄をしていのではないか。

金生山 近辺の古墳
金生山 近辺の古墳
昼飯大塚古墳
昼飯大塚古墳

美濃の国の中心が長良川の牟義都、根尾川の本巣郡から西によって来たのは製鉄の為であろう。律令制度で「兵庫寮雑庫」という組織が作られた。

また、東山道のルートにも注目されたい。江戸時代の中山道と違い、美濃では山沿いに通っている。本巣郡の席田(むしろだ)とは、和銅8年(715年)7月尾張から新羅人74家がやってきて根尾川から水を引き開拓した田である。

尾張氏も当然鉄は欲しく、川を越えて来たのであろう。山の民が欲しい塩を尾張氏はもっていた。顔料としてのベンガラ(鉄の赤さび)も弥生時代より大量に仕入れ、尾張独特のパレススタイルという赤塗りの陶器が多く作られた。

熱田神宮寛平記(890年寛平2年と言われているが、鎌倉まで下がるかもしれない。)によれば、熱田さんの由来は、ヤマトタケルが宮酢媛と睦んだ氷上邑の地に宮酢媛と共に草薙神剣を置き、伊吹山に悪を退治しに行くも鈴鹿川の中瀬でみまかってしまう。

宮酢媛は老いて、身近な人々を集め、草薙神剣を鎮守するための社地の選定を諮った。ある楓の木があり、自ら炎を発して燃え続け、水田に倒れても炎は消えず、水田もなお熱かった。ここを熱田と号して、社地に定めたという。そして、媛はみまかり、居宅のあった氷上邑に祠が建てられ、氷上姉子天神として神霊が奉じられることになった。

この伝承によると、4世紀の円墳・兜山古墳の近くに氷上邑があり、尾張氏は愛知郡の南側に本拠をおいていたが、年魚市潟をまたいで北に、愛知郡西側の端の熱田に移ったことになる。一方、北の味美遺跡から南の熱田台地に下って来たとの尾張氏の伝承はない。

とすれば、尾張氏が北に向かい、庄内川沿いの味美の部族と同化し、志段味の部族を抑え、さらに犬山の扇状地の部族を制し、南から尾張の国が統一されたとなる。5世紀、尾張氏はヤマト王朝にその力を認めさせヤマトタケル草薙剣の神話ができたのだった。

弥生時代、濃尾平野だけでなく佐賀平野の吉野ケ里でも大和盆地でも、川下の低湿地より山に近い扇状地の方が土木工事による水利が得やすく、田の面積を増やし、人口を多くし、武力をつけて、その川筋(郡と呼ぶ)の王に至るのだが、尾張は違った。川上の山田郡志段味の王、丹羽郡犬山の王は愛智郡の尾張の王に負けた。

尾張の船が味蜂間(現・安八町)の海(現在の大垣まで海が入り込んでいた。年魚市潟の巨大版)を潮の干満を利用して伊勢湾から一気に遡り、塩で稼ぎ、鉄を美濃国不破郡から運び入れ、馬具・農具を作り、陶器を焼き、農業でなく海人として力をつけたのであろう。

海部郡の名は、海部(あま)の本拠地を示して桑名から熱田までがそう呼ばれているが、津島から佐屋、富田と河床があがって南に港が降りてきているように、海部郡の海岸線は埋め立てられ、膨張してきた。良好な港として、熱田だけが存続した。

現在の木曽三川
現在の木曽三川 河口

養老山地の東側の断層が、濃尾平野を西に傾けさせ、木曽三川が断層に集まってきているのだが、壬申の乱の頃はまだ縄文海進の残影として断層は、味蜂間の海であった。

702年の戸籍では味蜂間(あはちま)郡であるが、日本書紀壬申記では安八磨郡とあらわされ、安八町として今に至る。

上流からの土砂が潟を埋め、島を作り、根尾川は長良川から揖斐川に繋がり、墨俣での木曽川、長良川、揖斐川の合流はなくなった。

●断夫山古墳と岩戸山古墳  森浩一(1925~2013)

断夫山古墳(墳長160m)は、6世紀前半に、目子媛の父・尾張連草香の墓と推定するも確証はない。しかし、尾張氏がヤマト王朝と結び、継体大王との強い関係が構築されてから、尾張氏首長の力を海に向かって示したものであることは定説となっている。
一方、岩戸山古墳(福岡県八女市、墳長135m)は、継体21年、527年筑紫国造岩井の乱を起こした筑紫君磐井墓とされている。

一方、岩戸山古墳(福岡県八女市、墳長135m)は、継体21年、527年筑紫国造岩井の乱を起こした筑紫君磐井墓とされている。

528年物部氏に滅ばされるのだが、そのころ(527年?~532年?)に継体大王はなくなり、墳長190mの今城塚古墳が作られた。6世紀となると巨大古墳が作られなくなり、継体の子である欽明大王(509~571)が堅塩媛と合葬されている丸山古墳(墳長318m)以外では、この3つしかない。

日本書紀では、高天原から下ったニニギノミコトはコノサヤヒメと結婚し、3人の子供を設けた。第一子のホスセリノミコトは隼人(南九州)の祖であり、第二子のヒコホホデミノミコトは神武天皇の祖父となり、第三子のホアカリノミコト(火明命)は尾張連の祖とされている。持統天皇の頃のヤマト朝廷としては、日本列島を統括するに、100年前の朝廷にはむかった九州の雄と朝廷を支えた東海の雄をともに歴史書に残さざるを得なかったことがわかる。

第二部 研究報告

●尾張の主要古墳  松原隆治(1952~)

9~10ページで松原の成果の全体像をすでにあげている。ここでは、主要古墳を7つ地域毎に順番に巡る。古墳の多くは消失しており、実際の数は10倍以上か。副葬品から築造年代がわかる。

〇犬山扇状地の古墳
木曽川による扇状地は、犬山城下を扇の頂点とする半径12kmである。東部丘陵は犬山から知多半島までつながっているが、その西側には洪積世台地があり、犬山から小牧にかけては、標高145mの白山平山から南に2段の段丘崖が伸びている。扇状地から見上げるにもってこいの段丘であり、ここ埋葬した者の権威を示す古墳が作られた。(9ページの番号1~8)
・東之宮古墳 1番 犬山市 白山平山山頂 墳長78m 4世紀初頭

・青塚茶臼山古墳 5番 犬山市 大縣神社の社地であった 墳長123m 4世紀中葉 ・宇都宮古墳 6番 小牧市宇都宮神社 前方後方墳 墳長62m+α 4世紀後半
・曾本二子山古墳 10番 江南市 犬山扇状地端部 墳長60m 5世紀末

〇木曽川の自然堤防上の古墳

・今伊勢車塚古墳 16番 一宮市 円墳 直径35m  5世紀前半

・高塚古墳 55番 北名古屋市 円墳 直径40m  5世紀末

・能田旭古墳 19番 北名古屋市 帆立貝式古墳 墳長43m 6世紀初頭

〇庄内川右岸の古墳
・出川大塚古墳 56番 支流内津川を望む段丘 春日井市 円墳 直径45m 4世紀末 ・高御堂古墳 21番 春日井市 小牧市の宇都宮古墳に似る 墳長63m 4世紀中葉

〇味鋺、味美、勝川古墳 (庄内川右岸にある)

・白山藪古墳 28番 名古屋市立味鋺保育園 自然堤防上 形状不明 5世紀初頭
・味美白山神社古墳 23番 春日井市白山神社 未調査 墳長86m 5世紀末
・味美二子山古墳 24番 春日井市二子山公園 墳長94m 6世紀初頭

・春日山古墳 25番 春日井市 白山神社から西300m  墳長74m 6世紀後半

・御旅所古墳 春日井市二子山公園 円墳 直径31m 6世紀前半
・笹原古墳 57番 春日井市勝川 円墳 直径24m 他に4ケ 5世紀末

・南東山古墳 58番 春日井市勝川 二子山古墳似 円墳 直径40m 6世紀中葉

〇庄内川左岸

・尾張戸神社古墳 29番 名古屋市東谷山山頂 円墳 直径27.5m  4世紀前半

・白鳥塚古墳 31番 名古屋市志段味 白色葺石 墳長115m 4世紀後半
・志段味大塚古墳 32番 名古屋市志段味 帆立貝式古墳 墳長31.5m 5世紀後半

・大久手5号墳 33番 名古屋市志段味 帆立貝式古墳 墳長38m 5世紀後半

・東大久手古墳 34番 名古屋市志段味 帆立貝式古墳 墳長37.5m 5世紀中ごろ

・西大久手古墳 35番 名古屋市志段味 帆立貝式古墳 墳長39m 5世紀中ごろ

・勝手塚古墳 36番 名古屋市志段味大塚古墳似帆立貝式古墳 墳長53m 6世紀初頭

〇小幡古墳群

・守山白山古墳 41番 名古屋市守山 墳長98m 4世紀後半

・瓢箪山古墳 40番 名古屋市守山 墳長63m 6世紀中葉

・長塚古墳 39番 名古屋市守山 墳長74m 6世紀中ごろ

・池下古墳 38番 名古屋市守山 墳長45m 5世紀末 

・小幡茶臼山古墳 37番 名古屋市守山 墳長63m 6世紀中ごろ

〇名古屋台地(御器所、瑞穂、笠寺、那古野、熱田 と年魚市潟を囲む台地)

・兜山古墳 62番 東海市 円墳 直径45m 4世紀後半

・白山藪古墳 28番 名古屋市味鋺 墳長45m? 5世紀前半

・一本松古墳  名古屋市名工大キャンパス 直径37m(墳長70m?)5世紀?

・八幡山古墳 60番 名古屋市鶴舞公園御器所台地 円墳 直径82m 5世紀中葉

・八高古墳 46番 名古屋市名市大キャンパス 墳長40m(70m?) 5世紀前半

・高田古墳 47番 名古屋市愛知県立大学跡地 墳長80m 5世紀前半

・おつくり山古墳 61番 名古屋市瑞穂台地 円墳 直径25m 5世紀後半

・白鳥古墳 52番 名古屋市熱田台地 墳長70m 6世紀初頭

・断夫山古墳 51番 名古屋市熱田台地 墳長150m 6世紀前半

・大須二子山古墳 50番 消滅 墳長75m(138m?)6世紀前半 

以降は、松原隆治から離れて、各氏の論を否定して、高橋和生の論をはる。主要な古墳を並べたところで、古墳から尾張氏の出現を改めて推測する。最初は、教科書の古墳時代の定義からである。

1:画一的な「前方後円墳」が3世紀から6世紀にかけての大和盆地から始まり全国的に展開している。このことがヤマト王朝による全国制覇がなされたことを示す。

2:地方の王は、ヤマト王朝と同形の「前方後円墳」を作ることにより、ヤマト王朝に従うと約した在地の王となった。5世紀に誉田御陵山古墳(墳長425m)が大和盆地を出て大阪に作られると、吉備に造山古墳(360m)、上野毛に太田天神山古墳(210m)と地方にも巨大古墳が作られる。

3:一方、5世紀の尾張には、そのような巨大古墳は作られていない。山陽や関東に比して、尾張にはヤマト王朝に認められる財は成していなかった。平安時代の延喜式によれば、尾張の水田は美濃の半分しかない。弥生時代の水田耕作の遺跡発掘はスポットを浴るが、古墳時代の水田耕作、住居の遺跡発掘はあまり行われていないので、古墳の形状、時代、大きさで尾張氏の出現を探ることになる。


4:弥生時代には、集落同士での戦争があった。濃尾平野の自然堤防上に朝日遺跡が発掘され、その防御柵に皆驚いたが、この集落は2世紀には消滅する。狩猟・採集の縄文人は古墳のある水はけのよい高台に住んでいたが、危険を承知で高台から降りてきたのだ。


5:BC3世紀に水田耕作技術が朝鮮半島から入ってくると、大河の支流沿い水田開発が行われ、自然堤防・河岸段丘の上にも集落が作られたが、川の上流、扇状地の水田開発の方が水害を受けず生産は安定し、川毎にその川の郡(こおり)の王が生まれ、郡(こおり)毎の争いに買った王が、美濃、吉備、筑紫、大和などの国の王となった。古代の郡司、国司の誕生である。


6:古墳は、弥生時代の墳丘墓から、郡(こおり)王が水田開発を終えた権力を示すように、見上げられる高台に作られた。ヤマト王朝のごとく、尾張の王のもとには郡王が従うことを約して存続した。

7:尾張氏は、5世紀末に継体大王の外戚となり、6世紀となれば全国の古墳が下火になる中、尾張氏が出た年魚市潟の熱田台地に断夫山古墳(150m)を、大山陵古墳(486m)が瀬戸内海・大阪湾に向かって権威を示したように、熊野棚・伊勢湾に向かって権威を示した。

以上の1~5は、尾張だけでなくどこの地域でも通用するように文章を一般化したのだが、年魚市潟の水田の量はどう見ても庄内川流域より少ない。山崎川、天白川の流域は矢田川、庄内川、木曽川に比較できるものでない。洪積世台地の上は川がなく、名古屋城下町を作る時にも「荒地を町にする。井戸は15~20m掘らないといけない。」と記されている。では、どうして、6、7が成しえたのか。6.7であったのだと言えるのか。

主要古墳を振り返ってみよう。4世紀の古墳では、犬山の青塚茶臼山古墳(123m)、志段味の白鳥塚古墳(115m)守山白山古墳(98m)に比べて、年魚市潟の兜山古墳(円墳 45m)は小さい。

郡(こおり)王が水田開発を終えた権力を示すように、見上げられる高台に作られた古墳だからだ。年魚市潟の水田は他より少ない。年魚市潟は港であり、製塩所であった。 5世紀になると、尾張の至るところに古墳が作られるが、4世紀の青塚茶臼山古墳、白鳥塚古墳、守山白山古墳を超える大きさのものがない。小さな円墳、帆立貝式古墳がまとまってある。ヤマト王朝のごとく、尾張の王のもとには郡王が従うことを約して、その地区毎の首長の墓が作られた。

5世紀の名古屋の古墳の中では、御器所・瑞穂台地の八幡山古墳(円墳 直径82m)高田古墳(80m)の大きさが目立っている。年魚市潟の港から見上げるようにしたのだろう。古墳から見ると、この5世紀のウチに、尾張の国はまとめられた。
5世紀末の味美白山神社古墳(86m)から6世紀初頭の味美二子山古墳(94m)、長塚古墳(74m)100年を飛び越えての巨大化が示すのは、尾張の王となった尾張氏一族の力であり、6世紀前半の白鳥古墳(70m)断夫山古墳(150m)大須二子山古墳(138m?)に繋がるものである。

守山から味美は、「信長公記」に描かれているように、尾張下4郡の守護所であった清州と庄内川で繋がった米どころであった。
木曽三川の水田開発は家康の「御囲堤」以降のことであり、尾張の米生産は庄内川に頼っていたのである。
清州は、庄内川支流の五条川により濃尾平野を制する津として選ばれたが、水害にあうので、名古屋に城下町を移した。

権力が都市を作り、農村を作った。

ここで、網野史観の主張がいる。「尾張の中世の歴史から見ると、古代も、尾張氏の力の源泉は米でなく、美濃から尾張、知多への船であり、塩であり、鉄鉱石を金生山から仕入れての武器・農具製造であり、強い軍隊を持った事による。」

なんとも、塩を作った鉄鍋は残っていなく、塩売買の記録・木簡もなく、伊勢湾から大垣まで船で行き来した記録もなく、壬申の乱では「尾張大隅は安八郡にいる大海人皇子に私邸を貸した」でしかない中、大風呂敷の網野史観であるが、これでしか、年魚市潟から出た尾張氏が実力を持つ理由がない。日本史は「瑞穂の国」にとらわれすぎているという網野史観に強く賛同する。

金生山の麓「野上」に尾張連大隅おわりのむらじおおすみの私邸があり、きっと価値の高い鉄を守る軍隊もいたのであろうという、すべてが推測でしかないが、美濃氏が軍を集めたと書かれているところでの、尾張連の役割「私邸を貸す。」を是非クローズアップしたい。
壬申の乱では、尾張の軍は美濃の軍の後から出てくる。尾張国守の小子部連鉏鉤(ちいさこべのむらじさひち)が2万の兵を率いて不破の大海人皇子の所に来るのだが、乱の終息した後、彼は山中で自殺をするというおかしなことが起きている。
ある学者は「律令制では「国守」は中央から派遣された行政官を指すので、彼は、尾張国の土着の支配者である「連」と違い、新たに天皇となった大友皇子の前からの指示で兵を用意していたのだった。しかし、地元のボス尾張連が大海人皇子の味方をしたので、兵を大海人皇子に渡さざるを得なくなったという真実を隠すために、自殺をしたのだ。」と解説する。武装した2万人を集めるのは容易でないので、私もそう思う。尾張連大隅は亡くなった後に戦功報酬も得ている。

●美濃・野古墳群と後期古墳  中井正幸(1961~)

野古墳

中井はこのシンポジウムの中心である6世紀前後の味美二小山古墳、断夫山古墳にあわせて、6世紀前後の岐阜県の前方後円墳群として野古墳を取り上げている。
写真のように濃尾平野の北の端、山麓に7つの小山(最大墳長83m)が見えるが、500m四方に23の古墳があるのだそうだ。
ここは大野郡だが、東にある根尾川の向こうは本巣郡となる。702年の最古の戸籍が残る本巣国造(三野国)の古墳群として舟来山古墳群があるのだが、中井はそちらには触れていない。

3世紀から7世初頭までのあらゆる形の古墳があり、数えると290基だそうだ。円墳に横穴式石棺だけのような新しい古墳が多く、前方後円墳(最長墳長60m)は前期・中期の4つしかない。 装飾品はもちろんなのだが、鉄刀、鉄剣、鉄鉾、短甲、馬具、鉄鏃や銅鏃等の武具、鎌、鉈、鑿や鋸などの生活用具、銅鏡などの副葬品を見ると、機内からの影響が大きく、名古屋市の志段味古墳の副葬品と比べると尾張に対して美濃は先進国だと言える。

ここで、私の生家と今もここらに住む従弟たちの家を絵におとし、1530年までの根尾川の流れを示す。舟木山に5世紀から6世紀にかけての前方後円墳がないのは、野古墳がその時期、その役割を果たしていたと容易にわかろう。旧根尾川の川床が鉄道樽見線となっている。

根尾川の川筋が変わった4年後に、今度は長良川本流が大洪水を起こす。中流域の岐阜市長良福光で本川と「長良古川(早田川)」「長良古々川(正木川)」の3つに分派していたのが、今のようになったのは1939年であり、美濃の武儀郡にいた牟義都(むげつ)氏も長く続かない。

岐阜県では、5世紀の古墳である東濃の琴塚古墳(墳長115m)、坊の塚古墳(120m)が4世紀末の昼飯大塚古墳(墳長150m)に続いて大きい。この二つは、木曽川の昔の本流である境川沿いの段丘にあるもので、犬山古墳群と木曽川を挟んで対をなしている。古代から国堺は峠とか川によるのだが、川の流れが変わり国堺も変わることは常であり、歴史上の都市名を今の地図にただ合わせると大きな間違いを生じる。その時代の地図があればよいのだが、ないので空想するしかない。

この絵は、名古屋市の志段味古墳ミュージアムに掲示されていた空想の産物であるが、濃尾平野を一望し、古墳がどのようにあったのかがわかる。尾張の年魚市潟から鉄を求めて不破郡にいくには陸路より海路がたやすいことは一目瞭然である。

1586年洪水 木曽八流の様子(緑は木曽川本川および主要派川)

美濃は、10世紀末に源頼光、頼国親子が摂津から美濃守にもなることから歴史上クローズアップされるも、川沿いの国人が跋扈する国の形態は変わらず明治を迎えた。

家康が「御囲堤」を作る前の絵図はある。浅井川という木曽川の支流を本流として、長良川、揖斐川と木曽川を分けることが水田開発の主眼であり明治まで続いた。「御囲堤」は、美濃側を引くし、洪水は美濃に行くようにしたので、津島への天王川は埋まり、上流の水を伊勢湾に流すために、日光川が江戸時代に開削された。空想の絵は日光川を描いているが、これは間違いというのでなく、弥生時代から濃尾平野とはこのようなものだということである。

●味美二子山古墳と下原古窯  大下武(1942~)

味美古墳の王が庄内川の郡(こおり)を抑えた尾張氏であり、海人として年魚市潟の王であった尾張氏が味美に北上したのだと私は書いてきた。根拠は、古事記のヤマトタケルと宮酢媛の草なぎの剣である。
4世紀の円墳・兜山古墳の近くに氷上邑があり、氷上姉子天神として宮酢媛が奉じられ、年魚市潟の対岸の熱田さんに剣がまつられたことによる。この考えを、大下は古墳と古窯でさらに押した。

大下は、味鋺、味美、勝川古墳群の前に、上流の下街道と内津川に挟まれた40mの円墳をあげた。 富士社古墳、出川大塚古墳、オセンゲ古墳、段丘を降りて篠木二号古墳である。5世紀の小さくなった円墳であるので、庄内川左岸の志段味古墳群と同様に、この美濃とつながる庄内川右岸を治める豪族がいたことを示している。そして、出川大塚古墳が4世紀の円墳・兜山古墳と似ていることを指摘する。出土した鏡、墳丘の形、埋葬主体、副葬品が似ており、さらに篠木二号墳から出土の碧玉製合子も兜山のそれと似ている。5世紀に尾張氏は内津川沿いに東農に向かったのだ。

庄内川が、名古屋の原点
庄内川が、名古屋の原点

出川大塚古墳と同時期の庄内川右岸の前方後円墳の高御堂古墳は小牧市の宇都宮古墳とそっくりである。宇都宮古墳の鏡は大垣市出土の鏡と同笵であることから、西濃から東濃、犬山、小牧、春日井と古墳文化が尾張に降りてきたことも見える。
味鋺古墳群20数基と言われるなかで、一番古いのは5世前半の白山藪古墳である。その鏡は兵庫県、福岡県のそれらと同笵である。次に味美古墳群10基に移り、勝川古墳群でも9基の古墳があり、7世紀の白鳳期の廃寺が確認されている。

この地域一番の巨大古墳・味美二子山古墳を作った5世紀末、尾張北部・春日井郡を統治する尾張氏の拠点がここにあった。古墳の埴輪は30kgにもなるが、土、燃料を求めて、八田川上流に下原古窯を作り、船で下した。

庄内川があり、山間地に塩、鉄器を売る道があり、4km南に行くと熱田の港がある。味美・勝川が交通の要所であることが、尾張氏にとって利点であった。もちろん、水田もある。 6世紀前半の、時代に逆行する熱田台地の巨大古墳、白鳥古墳・断夫山古墳・大須二子山古墳は、尾張氏が、ヤマト王朝が大和盆地を出て百舌鳥古墳群を大阪湾に示したことを真似して、伊勢湾にむかって作ったものであり、尾張氏の拠点はあくまでも味美・勝川であった。

次の時代の尾張の国府は現在の稲沢に移動する。濃尾平野の開発に伴い微高地に集落が散在し、そのまとまりを頭で考えて濃尾平野の真ん中の高地に求め、東海道を作ったのだが、中世になると自然の摂理により、五条川の清州と犬山扇状地の岩倉に分離する。
江戸時代の東海道は、また、海路の熱田と桑名の七里の渡しとなってしまった。熱田から木曽三川の渡し船のある富田にまで埋めたて地を歩く姫街道、名古屋から大垣経由で中山道に合流する美濃街道もあるにはあるが、とにもかくにも木曽三川は古代から現代まで要害であったのである。

●尾張の土器と埴輪  赤塚次郎(1954~)

8ページに、赤塚の美濃、尾張の古墳の制作連関を示した結果を示し、「古代の尾張と尾張氏 新井喜久夫(1934~)」を紹介したが、重複をいとわず再掲する。これは古墳から出土した土器と埴輪によったものであり、土器と埴輪の古墳毎の違いが語られるが、1978年川西宏幸(1947~)の「円筒埴輪総論」による古墳の年代区分1~Ⅴを知らずには、この論文は理解できない。したがって、土器と埴輪の形態の地域差を説明したところのサマリーはやめる。

庄内川水系を重視する私は、庄内川左岸の志段味古墳群、守山古墳群を名古屋台地の尾張氏と結びつけて書いたが、赤塚は庄内川右岸の高御堂古墳を小牧市の宇都宮古墳の横に置くだけでなく、左岸の志段味の白鳥塚古墳、白山古墳、中社古墳を犬山扇状地の旧タイプの古墳群に入れて、志段味に地理的に近い庄内川下流の味鋺の白山藪古墳、味鋺大塚古墳を名古屋台地の古墳群の先陣としている。

土器と埴輪でここまで言えると私には思えない。赤塚はこの図で土器と埴輪の文化圏を示すのでなく、尾張・美濃の征服者の転換を示したかったのであろう。しかし、その意図は論文に明確には書かれていない。「古代の尾張と尾張氏 新井喜久夫(1934~)」とはまた違うので、私が以下に書いてみる。
3世紀、弥生式墳丘墓から古墳に踏み出した、濃尾平野を西から見下ろす養老町の象鼻古墳の前方後方墳(墳長43m)は、濃尾平野の反対側の犬山に山沿いに移り、4世紀初頭には濃尾平野を東から見下ろす東之宮古墳に犬山扇状地の王を埋葬し、その勢力は、小牧市の宇都宮古墳、春日井市の高御堂古墳と南下した。

5世紀の古墳盛期になると、それぞれの後継が濃尾平野の東は名古屋市の志段味の河岸段丘、北の木曽川左岸の犬山では青塚古墳と扇状地を降り、木曽川右岸では東山道ぞいに東農の坊の塚古墳、中農の琴塚古墳、西濃の昼飯大塚古墳と、それぞれの地域の王が鉄器、馬を使い闘い、力を競う。一方、どの王も前方後円墳という古墳の形でヤマト王朝の下についていたことを示している。全国レベルで行われた事が濃尾平野でもあった。

尾張氏は、4世紀の円墳・兜山古墳がある年魚市潟から北上し、5世紀の古墳盛期では、ヤマト王朝志向の小さな前方後円墳も作ってはいるが、それらを凌駕する大きな円墳・八幡山古墳(径80m)を作って独自性をアピールしている。5世紀に大きな古墳を作った濃尾平野の王たちとの闘いに勝ち、美濃の金生山から鉄を仕入れ、6世紀に継体大王とつながりを持ち、ヤマト王朝に尾張物部氏としてデビューする。その結果が熱田台地の時代遅れの前方後円墳であった。

6世紀の断夫山古墳(150m)の須須恵器の埴輪が名古屋市東山111号窯で焼かれたことが判明しており、それを起源として、愛知県名古屋市東部から豊田市西部、瀬戸市南部から大府市および刈谷市北部の、約20km四方に集中する1000基を越す古窯跡の総称を猿投古窯と呼ぶ。窯の近くの燃料を取りつくすと窯は移り、中世の窯も入れているので範囲が異常に広がっており、わかりにくい。
弥生式土器をみると、2~3世紀から尾張独自の土器があったが、5世紀に新たに朝鮮半島から来た須恵器が、年魚市潟に流れる山崎川の上流の東山において作られるのと、尾張の前方後円墳の広がりが一致する。
名古屋台地は、10mほど周囲の沖積平野より高い洪積世台地であり、川もなく飲料水も得られないので、弥生時代の集落は断崖部しかなかった。しかし、5世紀後半になると伊勢山中学遺跡、正木町遺跡、尾張元興寺遺跡と集落が現れる。これらは巨大古墳の制作、古墳の宗教的活用のための集落であったのではないか。

年魚市潟の海の後退が進み、古代東海道が熱田台地から笠寺台地に直接届くようになると、伊勢湾の港機能と合わせて、古代東海道の新溝駅(にいみぞのうまや)は、熱田台地の断夫山古墳近くに作られたと推定したい。「古渡り」でなく新渡りである。

赤塚は、断夫山古墳は継体大王妃・目子媛(めのこひめ)の父・尾張連草香(くさか)と言い切る。

継体は近江の父と越の母の財でヤマト王朝に乞われる大豪族となったわけでなく、近江、越、美濃、尾張の古墳の大きさを右のように並べると、美濃・尾張の財、海を抑える海人を得てこそ、継体は力を持ちえた。
個性的な尾張型埴輪は春日井市の下原古窯からはじまり、美濃、尾張、三河から遠江、伊勢まで広がり、尾張型須恵器は東山古窯からはじまり、越まで広がっている。

尾張連の巨大な勢力圏によって、越にいた継体の妃に尾張連の娘が請われたのであろう。味美二子山古墳、白鳥古墳が尾張連の力を頼られた証であり、断夫山古墳はヤマト朝廷と結んだ成果であった。

●尾張と美濃の鏡  伊藤秋男(1936~)

土器と埴輪の詳細を省いたのだから、考古学の専門用語が飛び交う鏡は私としては省くしかない。と言っても、伊藤が古墳に副葬された鏡から何を言いたいかは書かないといけない。ここで論じられている鏡が埋葬された6世紀初頭の大須二子山古墳はまったく跡形もないが、出土した鏡は越前の継体の母の振媛の古墳?からも出ている。

継体大王の時代を朝鮮半島から彼は解説する。
日本書紀によれば507年~531年の24年間の継体大王在位期間に何があったか。
・倭の五王による413年~502年の中国南朝外交(10回か?)が廃絶。
・512年百済への加羅国任那4県の割譲。
・527年新羅がらみの筑紫磐井の乱。
・532年には新羅に金官加羅を取られた。

死後の541年、544年に百済の扶余で加羅国の復興会議が行われるが失敗し、100年を経て、660年百済は唐軍(新羅も従軍)に敗れ滅亡した。
倭国は663年に白村江の戦いで唐・新羅軍に敗戦し、朝鮮半島から撤退し、天智大王は中国からの侵略を恐れた。ヤマト朝廷は朝鮮半島からの文化によって興隆を極めていたのだが、継体大王から朝鮮半島を転げ落ちることになる。

日本史では、5世紀の巨大古墳がヤマト王朝の興隆をしめすものであり、6世紀になって継体大王がヤマト王朝に入り、その子供、孫たちの大王と蘇我氏によって7世紀の聖徳太子の隋への手紙「日出る国から日沈む国」と日本国の雄姿を今に流すのだが、ヤマト王朝は、5世紀に地方で巨大古墳を作った豪族たちに、かなり手こずった6~7世紀だったのであろう。国内統治を優先し、朝鮮半島には構っておれなかったのではないか。

646年に朝廷は薄葬令(はくそうれい)を発布し、身分に応じて墳墓の規模などを制限し、古墳時代が終わる。
一方飛鳥時代は、聖徳太子が摂政になった推古天皇元年(593年)から藤原京への遷都が完了した持統天皇8年(694年)にかけての101年間、または推古天皇元年(593年)から和銅3年(710年)にかけての117年間を指すので、古墳時代と重複している。

継体大王の時代の鏡に「画文帯同向式新獣鏡がもんたいどうこうしきしんじゅきょう」の40枚がある。

朝鮮2枚中国1枚以外は日本から出土しているのだが、4世紀の三角縁神獣鏡が機内を中心としてあったのに比べ、地方に拡散している。 写真は南山大学にある6世紀初頭の大須二子山古墳からの出土品、画文帯同向式新獣鏡がある。

伊藤は鏡と共に埋葬されている副葬品のリストを作り、地方の豪族が朝鮮半島の新興勢力の新羅から舶来品を得ていたのではないかと言う。

新羅は唐の圧力に対して日本国を頼ってきた。その相手はヤマト王朝だけでなく、地方の豪族にも並行して行われていたと推定する副葬品である。

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