- マンション、賃貸アパート、戸建てと、住まいの姿かたちを分けずに、住宅(住むこと)を書いてみます。
- どこに住もうか。街はそれぞれの個性を持っています。
- 新婚さんの家具選び。 1980年大塚の社宅は、わずか1年しか住んでいませんが、ここでの家具、照明、敷物、カーテン、ペンキは、西宮社宅、砧社宅も引き継がれ、1992年のマンション購入にも使われ、1995年~2010年の2軒の賃貸マンション暮らしにも、システム家具の並べ替え、使い回しの能力を発揮しました。
- 新婚さんの家具選び 文京区大塚 1980年~81年
- 大阪支店へ転勤 西ノ宮仁川社宅 1981年~85年
- 世田谷区 砧社宅 55㎡と小さくなってしまった。1985年~92年
- 日本住宅公団採用 鈴木成文博士の44㎡の2DKプラン。 これぞ、日本マンションの原点、縮みの日本です。家具・家電・生活の洋式化などは、博士には想定外です。間口2間長屋を圧縮しただけでした。
- 78㎡中古マンションを買い、400万円かけて改装しました。1992年~95年
- 名古屋支店 また賃貸に逆戻りです。6畳にベッドを入れて?南のテラス窓を潰してソファを置きました。腰窓は西洋風に1995年~04年9年間。2004年~10年6年間、築1年の賃貸、角部屋、初めてのエレベータ付きです。南に広くあり、ダイイングテーブルを手作りしました。
- 築27年の90㎡の中古マンションを2500万円で買い、躯体にして1500万円で内装をしました。老夫婦には郊外の一軒家より、都心のアパートです。
- What is the living room ? リビングルームとは?2012年4月29日FB記
- What is a dining kitchen? ダイニングキッチン(DK)とは? 2013年4月22
- 大工に頼んだ「母父の家」1977年8月竣工
- 高断熱、高気密の家を勧める国の政策ですが、結露に注意。
- 耐用年数は税金の償却期間の事であり、寿命ではないです。
- 住宅にオフィスの回転いすを持ち込む。ソーホー書斎でなく、リビングルームのしつらいに、オフィスの回転椅子です。
マンション、賃貸アパート、戸建てと、住まいの姿かたちを分けずに、住宅(住むこと)を書いてみます。
仕事で扱った住宅をここに示すわけにもいかず、ほんと面白い話が満載なのですが、私自身のネタで書いていきます。結婚して、今の住まいは8軒目なので、「住むこと」コンサルタントとして、なんとかします。
皆さんに参考になるのは、このページの最後ですので、それまではパーと流して下さい。家具が目に入るようにしていますが、その家具一個一個は皆さんの参考にはなりません。「家のプランを考えるには、家具をプランに落とし込んで、家の中の行動を考えよ。」です。
どこに住もうか。街はそれぞれの個性を持っています。
我が町も空家率40%に? ゴーストタウンの恐怖。2012年10月12日FB記
本「東京は郊外から消えていく。」空家率40%時代。からデータをいただきながらも、私の考えが主体になっていますので、まじめに東京圏で自宅購入をお考えの方は本をお買いになりお読みください。
内容の引用から、名古屋でならどうか?これからどうすべきか?まで、少し欲張って考えてみました。
これを書いてから10年経ちますが、コロナ4年で在宅勤務が当たり前の職種もありましょうが、基本はフェイストゥーフェイスですので、名古屋の街の方向付けも変わりません。栄にタワーを2本建てたところで、名駅前のオフィス優位は変わりはしません。リニアで東京と繋がると、八王子に行くのも名古屋に行くのも時間はかわりません。
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住まい探しは考古学的に、風土から調査です。地下鉄沿線だから、はダメですよ。
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住まい探しは考古学的に。2012年3月
2年前に家探しをし、ここに決めました。明治30年代に日本全国を陸軍が測量をして地図を作成しています。これで、100年前の姿を見ましょう。これ、東日本地震からの教訓「防災」です。
今日は徳川園80周年記念の展示で、こんな絵を見つけました。明治35年といえば、日比谷公園をドイツ式庭園にすべきかどうかもめていたころです。色鉛筆のタッチなんかみると西洋教育をうけている人の手によるようですが、文字は筆ですネ。
私のアパートの前にロータリーがあり、春爛漫(^u^)一本の桜の巨木のように花をつけます。
この前の6階建て築27年の中古マンション90㎡を2500万円で買いました。
高校の時、このロータリーにぶつかりつつ、徳川美術館に源氏絵物語を見に来ました。
ことしの写真です。45年前と桜は変わっていませんが、周りはずいぶん違います。
思い出せよ。7m前を歩くのは勝川。(@_@;)いや?瓜生。((+_+))いや?田中。()ダメだぁ~。(妄想:
陸軍の地図では「尾張徳川 大曽根邸」で、敷地内絵があるはずもないですが。今回の徳川美術館では平面図に多くの写真があり、よくわかりました。
これは江戸初期の城下町絵図ですが、なんの記載もありません。次の絵図と比べて文字を入れました。家老の下屋敷ですので本宅から歩いて30分。郊外の別荘地みたいなもんです。城下の防御のためにマル秘にしたのかもしれません。
左は犬山に独立した成瀬家が、明治3年に尾張徳川慶勝に土地を返すため測量したものだそうです。2代尾張徳川家 光友の屋敷は完成しないままに、3人の家老がもらいうけ、成瀬家がそのまま江戸時代を引き継いだようです。今の住宅地図を右に置きましたが、よく一致します。今のロータリーは馬場の南、雑木林の中になります。明治33年竣工の大曽根屋敷の黒門、門番屋敷は今もその地に残っており、当時の図面と写真とあわせると、昭和になってからの開発の姿も読み取れました。
左は明治41年徳川18代義禮の葬儀の列が、総門から出てくるところです。先の住宅地図では、左端にあたります。
右の写真は今日の同じ3差路からの写真です。どうも、日比谷公園のような西洋庭園はダメで、写真で見るかぎり、果樹園のようです。
徳川園の庭です。写真は、こちらで。https://www.nagoya-info.jp/contents/photolib/index.php…
折角ですから、ついでにお殿様の庭園を見てみましょう。我が家の庭と比べてはいけません。今公園としてある姿の原型は西欧の王の庭でした。
名古屋は徳川、白鳥と二つの和風(大名)庭園を有料の公園としています。
戸山荘と徳川園を並べて、ついでに桂離宮、後楽園、毛通寺(寝殿作りの庭)も、置きました。池を中心とした回遊式庭園が日本庭園の代表ですが、池の大きさがどの庭でも同じ大きさに気づきます。小さな徳川園も結婚式場、徳川美術館の森を加えて、だいたい同じ大きさになり、200m×200m=4ha となります。地区公園の大きさとなります。
台北に復元された18世紀の大地主の庭です。林安泰古暦。
林安泰古暦 の庭の説明です。
新婚さんの家具選び。 1980年大塚の社宅は、わずか1年しか住んでいませんが、ここでの家具、照明、敷物、カーテン、ペンキは、西宮社宅、砧社宅も引き継がれ、1992年のマンション購入にも使われ、1995年~2010年の2軒の賃貸マンション暮らしにも、システム家具の並べ替え、使い回しの能力を発揮しました。
新婚さんの家具選び 文京区大塚 1980年~81年
私の新婚生活は、昭和28年竣工の清水建設社宅から始まりました。日活ロマン映画「団地妻」の前のコンクリート造の実験住宅でした。風呂は地下に共同浴場があり、洗濯機はバルコニーしかなく、冷蔵庫置き場に困るキッチンですが、8畳と6畳の南北の続き間です。
1980_2DK大塚no最新入社5年目、プリンスホテルと伊香保温泉旅館の担当をさせられており、家具備品を設計図書に落とし込むコツを知ったばかりで、張り切ってシステム家具に挑戦しました。名古屋の嫁入りは服部家具でトラック一杯が常識ですが、「それでは社宅に入りません。100万円下さい。」と言い、嫁の父親を怒らせてしまいました。
1992年にマンションを買うまで8畳間はなく、日本の賃貸アパートは6畳が基本ですので、
①ベッドは入りません。学生時代に習った「寝食分離」は前提のキッチンが小さすぎたのです。布団は、長さは身長が違うので身長に合わせ、幅は80センチとしました。
②ソファーセット(ラブチェア)は、布団と同様に軽く動かせるものとしました。
③畳にはウールの絨毯を、敷居の上にも敷き詰め、柱にはのり付きの白いシートを張り、さらにペンキを壁に合わせて塗りました。カーテンでなく、白いブラインドです。
④ソファは軽く布団のように、寝転がるためのものですので、プラスチックの土台に木綿布団を載せてカバーしたイケア製。
⑤下の階の女の子「こんな小さいテレビあるんだ。」と、リビングはテレビの位置が決め手だと、改めて知った次第です。
大阪支店へ転勤 西ノ宮仁川社宅 1981年~85年
大塚社宅で買ったしつらいを生かすしかないのですが、87,500円の赴任手当では社宅の改装はできません。
住之江は大塚社宅の絨毯を切り刻み、こちらに合わせてくれました。ブラインドを新品に、木部のペンキ塗りは仕方なし。
こちらも風呂が別棟であったのですが、北側に洗面所と風呂を増築し、キッチンが新しくなっていました。
すると、北の8畳をダイニングキッチンにするのがこの社宅の定番ですが、洋服ダンス2本の置き場に困ります。作り付けの飾り棚が邪魔なのでした。北の8畳にタンスを置いてクローズキッチンにしました。布団で寝て、座って食事をする。キッチンから食事は運ぶ。これによってできた南側の豊かな空間です。子供がいないからできるプランです。
世田谷区 砧社宅 55㎡と小さくなってしまった。1985年~92年
3回目となれば、さすがに手際よく、悩むことなく業者に指示しています。北東の部屋ですので押入れの中にカビが見えました。断熱材ボードを貼りまわしました。狭いだけに、ダイニングテーブル、大きな本棚を作りました。洋服ダンスは押入れの棚を壊して入れています。洋服タンスのない時代の大きな押入れです。軽いソファを動かして布団をひきます。押入れを二段ベッドにしている方もいました。
日本住宅公団採用 鈴木成文博士の44㎡の2DKプラン。 これぞ、日本マンションの原点、縮みの日本です。家具・家電・生活の洋式化などは、博士には想定外です。間口2間長屋を圧縮しただけでした。
戦争により420万戸の住宅が不足しているので、まずは絶対数の確保が第一であり、戦争に負けたので<和風>というものは全て悔い改め、なんでもかんでもアメリカは良い、真似しようという時代でした。東大の若き研究者、鈴木成文は「最小限住宅」として13坪(44㎡)の2DKプランを作り、住宅公団に採用されました。
その指導原理は、京大の西山夘三先生の「食寝分離」理論です。食べるところと寝るとこころが一緒なのは乞食・浮浪者の家であって、人間らしく住むには分けなくてはいけない。それでもって、13坪の中で、親と子の寝室を分けよとなれば、エエィ!台所を少し大きくして、そこで食事をしてしまおう。という鈴木さんの苦肉のアイデアでした。
私は西山先生の御本「住居論」は今も捨てきらずに持っています。枕になるほどの大書です。戦前からの農村住宅、工員住宅の研究を積み上げたもので、マルクス主義の香りをほのかに立てつつ、お殿様は黒書院という8畳の間で、寝る・喰う、なんでも行っていたことも十分踏まえて、戦後の住宅政策に数々の提言をされていますが、残念ながら「最小限住宅」が最優先され、アメリカのダイニングキッチンとは全く違うものをDKと称して日本中に広めることになりました。
お風呂も、一穴の便器も2DKにはセットでついていること。2室とは4畳半と押入れのついた6畳の和室が襖で仕切られてあって、ベッドも子供の勉強机も前提になく、畳にふとん敷きで寝ることであること。
これらは、この後3LDK 80㎡となっても、家具配置を(意図的に?)忘れたマンションプランの呼称と部屋面積の最低基準として、住宅金融公庫からの融資基準に残りました。そして、今も引きずっています。2DKの符号こそアチラ風ですが、良くも悪くも純国産の設計仕様なのです。
私は、昭和28年に作られた東大の実験住宅で昭和55年から新婚生活を始め、その後この類の住宅を4回引っ越しています。お蔭さまで身をもってこの「食寝分離」と家具配置とのジレンマを体感できました。詳しくはGoogleのHPに家具配置を載せていますので、そちらに。
1970年代に入り、日活のスター、白川和子が「団地妻の昼さがり」を演じる頃になると、DKの流し台、ステンレス深絞り(サンウェーブ賛)の輝きも落ちて来ます。
台所と食堂という二つの部屋が一つですむ経済性だけでなく、手を伸ばせば食べ終わった食器をすぐ流しに突っ込んだり、湧いたままのやかんも椅子に座ったまま取れてしまうという安易さも当初は受けました。これが「動線」を短くするということなのだ。アメリカ的合理主義だ。と思っていたのです。
でも、生活がちょっと豊かになると、普段は「おい」「ふろ」「めし」「ねる」としか言わない夫が、夜遅く帰ってくるなり文句を言い始めました。汚れもののあふれた流しの脇で飯を喰わせるとは何事か。なんで子供のおもちゃが、調味料が、ダイニングテーブルの上に置きぱっなしなんだ。でかいケツをこちらに向けたまま飯を作りやがって、少しは愛想をみせろよ。etc. 企業戦士、会社に住んで家に通勤するといわれた高度成長時代の事です。
負けずに、女房たちも言い返します。家族と話をするのにイチイチ振り返るのは首が痛いのよ。私だって、私が洗わないかぎり、朝のフライパンに卵のついたのが眼の前でさらしものになっているのは嫌だわ。PTAのお友達が訪ねてきて、昼下がりにおしゃべりをしようにも流しをモロに見られるは困りものよ。つっこめば自動で食器が綺麗になればいいのにねぇ、アメリカ製であるらしいけど。はぁあ~、とため息一つ etc.
豊かになった階層に、民間の分譲マンションは公団とは違いますぞ。とばかり、システムキッチンを売り込みました。独立したキッチンとそれに付随したダイニング、またはリビングとダイニングの組み合わせです。
キッチンは二層シンクとなり、調理台のトップも大理石風。お湯のすぐ出る瞬間湯沸かし器、冷蔵庫、オーブン付きの電子レンジはすぐに必需品となりました。日本の食器に合わず、壊れやすいものでしたが食器洗い機もアメリカから直輸入されました。
78㎡中古マンションを買い、400万円かけて改装しました。1992年~95年
昭和56年(1981年)売り出し時は2800万円の住宅公団でしたのに、買ったのは6000万円でした。バブルが下がり始めて「イイゾ」と買ったのですが、これ以降下がり続けます。商業施設見聞のアメリカツアー60万円を会社からさせてもらい、東京で商業施設のプロになるのだから転勤はないと思って買ったのですが、3年で名古屋に転勤でした。会社から3000万円の借金をして買ったのが会社の罠でした。このおかげで、2010年に2700万円で売れるのですが、2000万円の損をしました。
折角ですので雑誌に売り込みましたが、会社にばれて商業施設からマンション部隊に移されるのも困るので、yomeの名前にしました。素人ではこんな改装はできないので、業者の名前を出しましたが、マンションの内装業者に設計のできるものはいません。この10年、名古屋でコンサルタントをやっていますが、設計をサービスと考える施主ではそれは無理と言うものです。
北の部屋を一つにして、初めてベッドを入れました。しかし、キッチンはクローズドにあえてして、食事は畳の部屋で座ってしました。母が亡くなって、もう名古屋には戻れないからと、父・伯父叔母と東京に来てもらえる客間の構えを作ったのでしたが、意味なし。即、名古屋に転勤でした。モノレール東京競馬場でしたので、部下たちを芝浦本社から呼んでのパーテイにはもってこいのプランでした。
名古屋支店 また賃貸に逆戻りです。6畳にベッドを入れて?南のテラス窓を潰してソファを置きました。腰窓は西洋風に1995年~04年9年間。2004年~10年6年間、築1年の賃貸、角部屋、初めてのエレベータ付きです。南に広くあり、ダイイングテーブルを手作りしました。
築27年の90㎡の中古マンションを2500万円で買い、躯体にして1500万円で内装をしました。老夫婦には郊外の一軒家より、都心のアパートです。
プランの内容をここでどうのこうのと書いてもディテールはわかりませんので、是非、見に来てください。事前にメールをください。ここでは、中古マンションの選び方を示します。見に行ったマンションはこれだけあるのですが、買いにいっても、相手のある事でして、ここに決まった事に運命を感じています。
見にいった中古マンションのリストpdf以下のようなスケッチは、見に行った中古マンションすべてに行っています。家具配置40年、鍛えられていますから。
20100415一社の賃貸と徳川スカイマンションWhat is the living room ? リビングルームとは?2012年4月29日FB記
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リビングルームなんて日本ではなかったのですが、住宅公団が11㎡以上とLDKの小さな面積基準を作り、奇妙なものが分譲マンションの中心となりました。
そんなん、西欧ではダイイングキッチンであり、ダイニング、リビングは別にあるのでした。
「奥様は魔女」の家が、アメリカの平均的な家なのです。アメリカの建売りを3人で借りて住みましたが、施工のレベルはひどいですが、それぞれの家の面積はちゃんとありました。
キッチンがDK(流し台の近くで食事する)から独立キッチンになり、汚れ作業は見えないところで行うことで、いったんは食事の場の格式がアップしましたが、裏側にいたくないという主婦の力が強く、ダイニングリビングに顔を向けるカウンタータイプに戻っています。
この考えからさらに進め、今住むついの住み家は、28畳のダイニングキッチンとし、ソファセットにオーデイオ、テレビのリビングらしいしつらえは一切無くしました。
1960年代。
テレビ番組「奥さまは魔女」をみて私はアメリカの家の中を初めて知りました。それを見る我が家の白黒テレビは、テレビ画面の中にあるようなリビングルームではなく、親の寝室6帖間にありました。また、父の宝物のFMステレオセットは座敷の床の間においてありました。
家の中で板の間は、土間をかさ上げし床を張りステンレス流し台をおいたキッチンと、ちゃぶ台にかえてデコラのダイニングテーブルおいたダイニングと、私たち兄弟の2段ベッドを廊下をひろげておいた子供部屋だけでした。
家の基本は和室で構成されており、家の中で扉はトイレだけで、建具は全て引き戸でした。洋間は、ちょっとお金持ちの家の玄関の横にある応接間、兼おとうさんの書斎であるのが普通の時代でした。団塊の世代は団地世代ともいわれます。日本中にコンクリートの箱が建ち、2DK,3DKが西山の論文「食寝分離」を元に作られました。寝室は4畳半、6畳の畳敷きが基本であり、押入れをつけることによって伝統的な和室利用形である多用途を期待されましたが、これが間違いの元でした。畳の上にタンスや机を置いてしまうんですね。
What is a dining kitchen? ダイニングキッチン(DK)とは? 2013年4月22
キッチンは<住まいづくり>の中で中心なのは間違いがないのですが、どうにも、ガス、電気、水、換気など素人では操れないような機能がついてきますので、ナンカ怪しげな「システムキッチン」のメーカーをどこにするでしか世の奥様には選択肢はなくなっています。
「食洗機の大きさと取り付け場所」とか「IHヒーターとガスのガラストップ」という雑誌の比較記事ぐらいしかキッチンの知識を得られていないようです。
今回の「ダイニングキッチンとは?」は、中学の技術家庭科の教科書「美しい生活」につながることを密かに目指しています。
私の子供の頃には、台所とは土間で、おかまで飯を炊く竈があり、手押しポンプで井戸水を汲み、人砥ぎ流し台の排水は小川に流している姿がまだありました。
日本の懐かしいこの台所からオープンキッチンへは、たった50年の変化なのです。
欧州では昔から台所でも居間でも寝室でも土足であり、家具を使って生活をしてきました。日本では台所では土足ですが畳の部屋にあがるには靴を脱ぎ、大きな家具を置くことなく押入れから物を出し入れして生活してきました。
日本のダイニングキッチンの成長には、椅子と机による生活スタイル全般の変化が必要だったのです。これを素人が自分で気づくには、最低3回の普請道楽が要りましょう。是非、コンサルタントにご相談下さいませ。
よって、以下の「ダイニングキッチンとは?」は、長いです。
食魔亭、花の宴。
今日も今日とて、私は新たなお客様(その昔、あこがれの美少女)に、食魔亭の機能をいともなめらかに説明いたします。
私「ええ、1DKです。全部で90㎡しかないアパートなので、20畳のDKとしてこのように大きなテーブルをドンと置き、なんでもかんでもこの周りでやってしまう生活をしているのですよ。」
昔美少女「でも、こっちは8畳かな。書斎コーナーとつながっている大きな部屋じゃないの。これはリビングみたいなものでショ?」
私「腰を痛めてから、ソファーを捨てたので、・・ナイし、大型のTVもオーディセットもナイ(あえて見せていないのですが)のでLDKとは言いませんでしたが、書斎コーナーをやめてソファをそのようにセットすれば、28畳のLDKとも言えましょうね。仏壇も隠れてあるし。(笑 」
昔美少女「これで、DK(ダイニングキッチン)というの? 違うのじゃない。」
私「そうですね。オープンキッチンという言葉もありました。もう30年前ですが「家庭画報」という雑誌が、我らが名古屋の誇るイケメン建築家、宮脇檀さんのダイニングキッチンを、オープンなキッチン<皆でワイワイ楽しめるキッチン付きのダイニング>であるからとOpen Kitchenと命名し、一時流行りましたね。
Dining KitchenもOpen Kitchenも生活を憧れのアメリカに近づけたいという日本人ならでの和製英語です。
その後、ハウスメーカーやマンションディベロッパーが「私はメシを作る召使いではないわ。」という奥様の気分にのっかり、たんなる「対面式キッチン」を「オープンキッチン」などと名付けましたので、宮脇さんも言わなくなりました。」
昔美少女「オープンキッチンって、おしゃれなイタメシ屋さんなんかで、ガラス越しにキッチンの中が見えるのをいうのかと思っていたわ。あれって、全然オープンじゃない。お鮨屋さんのカウンターなら、ホントのオープンキッチンだけど。」
私「いや、厨房は機能的に食事室に対しオープンにできないのですよ。鮨屋さんも、煮焚きは裏でやっていて、切って、握って、盛り付けだけでしょ。
大容量のバーナーを使う西洋・中華料理では、大量の空気を取り入れ、炭酸ガスと水蒸気をまた大量に排出しないといけません。厨房に空調という機能をつけるのはどだい無理なんで、厨房を空調の効いた食事室と一緒の空間には出来ません。
また、保健所からも「衛生上わけなさい。」と言われます。厨房の中の消火設備も消防法でしっかり規定されていまし、厨房の床を水洗い習慣も残っています。おしゃれなオープンキッチンのイタメシ屋を設計するのは、大変難しいのですよ。
住宅でも程度の差はあれ、オープンキッチンが難しいのは変りなく、
私のお勧めは、基本、独立したキッチンです。美しく食卓を飾り、生活を楽しみませんか。ですね。
3LDKも150㎡もあれば、調理台・配膳台兼用のテーブルを床高90センチの高さに設けて、座面の高いハイチェアを添える形もできましょう。
私がTVで初めて見たアメリカのキッチン「奥様は魔女」の形は、今も「ボデイオブプルーフ」に続いていますね。デザインの色合いは違えど、アメリカンスタイルは今も健在です。ダイニング(食事室)はキッチンとは別に部屋としてちゃんとあります。」
昔美少女「高橋クンは、いろいろなキッチン、プロ用も設計してきたので、こう、作れたのね。」
私「ええ、まぁ。何より、これからの20年、老夫婦だけの生活をどのように、、、ですね。コンセプトと私たちは言っていますが、キッチンのレイアウトを絵にしつつも同時に生活スタイルをお客様と思索し、いくつかの案をシミュレートしていかないと90㎡の住まい全体は決まりません。私のイメージは一瞬で浮かびますが<決めちゃう>手続きには時間をかけます。ハイ、私の生涯で最も手ごわいお客様でした。」
2DK、3DKという間取りへの符号でもって、住宅公団が団地募集をしてから、DKすなわちダイニングキッチンが一般的になりました。1960年代(昭和30年代)です。
町の不動産屋さんのガラス戸には「6畳・4畳半・水洗トイレ・流し台・ガ・電・水完備」と、紙が貼られていた時代です。キューポラのある町の中学生、吉永小百合には、整然と並ぶ白いコンクリートの箱も、DKというアメリカ的な符号も、ステンレス流し・デコラ貼りテーブルと同様に光り輝いて見えました。都会のなにかしら洗練された生活をイメージさせたのです。
サラリーマンの彼から「公団にあたったら、結婚しよう。」とプロポーズされ専業主婦となり、そして、子供の成長にあわせて一戸建てに転居することが彼女の夢でした。今では想像できないでしょうが、たった一世代前のことです。
私の父も母のために、畳敷きの平屋建てでしたが台所だけ改修しました。土間に床を貼り、ステンレストップの流し台を置き、デコラ張りのテーブルを持ちこんだのです。洗濯機、TV,冷蔵庫と、3種の神器をお隣より早くそろえられたのが父の自慢でした。
これは、政府が戦後唯一進めた国民への住宅政策「持ち家制度」でもありました。
今、郊外団地を空家にし、町中の借家を崩壊させ、幹線道路の南側にだけ矮小なマンションを立ち並ぶという醜い街の姿はここから始まっています。
戦争により420万戸の住宅が不足しているので、まずは絶対数の確保が第一であり、戦争に負けたので<和風>というものは全て悔い改め、なんでもかんでもアメリカは良い、真似しようという時代でした。東大の若き研究者、鈴木成文は「最小限住宅」として13坪(44㎡)の2DKプランを作り、住宅公団に採用されました。
その指導原理は、京大の西山夘三先生の「食寝分離」理論です。食べるところと寝るとこころが一緒なのは乞食・浮浪者の家であって、人間らしく住むには分けなくてはいけない。それでもって、13坪の中で、親と子の寝室を分けよとなれば、エエィ!台所を少し大きくして、そこで食事をしてしまおう。という鈴木さんの苦肉のアイデアでした。
私は西山先生の御本「住居論」は今も捨てきらずに持っています。枕になるほどの大書です。戦前からの農村住宅、工員住宅の研究を積み上げたもので、マルクス主義の香りをほのかに立てつつ、お殿様は黒書院という8畳の間で、寝る・喰う、なんでも行っていたことも十分踏まえて、戦後の住宅政策に数々の提言をされていますが、残念ながら「最小限住宅」が最優先され、アメリカのダイニングキッチンとは全く違うものをDKと称して日本中に広めることになりました。
お風呂も、一穴の便器も2DKにはセットでついていること。2室とは4畳半と押入れのついた6畳の和室が襖で仕切られてあって、ベッドも子供の勉強机も前提になく、畳にふとん敷きで寝ることであること。
これらは、この後3LDK 80㎡となっても、家具配置を(意図的に?)忘れたマンションプランの呼称と部屋面積の最低基準として、住宅金融公庫からの融資基準に残りました。そして、今も引きずっています。2DKの符号こそアチラ風ですが、良くも悪くも純国産の設計仕様なのです。
私は、昭和28年に作られた東大の実験住宅で昭和55年から新婚生活を始め、その後この類の住宅を4回引っ越しています。お蔭さまで身をもってこの「食寝分離」と家具配置とのジレンマを体感できました。詳しくはGoogleのHPに家具配置を載せていますので、そちらに。
1970年代に入り、日活のスター、白川和子が「団地妻の昼さがり」を演じる頃になると、DKの流し台、ステンレス深絞り(サンウェーブ賛)の輝きも落ちて来ます。
台所と食堂という二つの部屋が一つですむ経済性だけでなく、手を伸ばせば食べ終わった食器をすぐ流しに突っ込んだり、湧いたままのやかんも椅子に座ったまま取れてしまうという安易さも当初は受けました。これが「動線」を短くするということなのだ。アメリカ的合理主義だ。と思っていたのです。
でも、生活がちょっと豊かになると、普段は「おい」「ふろ」「めし」「ねる」としか言わない夫が、夜遅く帰ってくるなり文句を言い始めました。汚れもののあふれた流しの脇で飯を喰わせるとは何事か。なんで子供のおもちゃが、調味料が、ダイニングテーブルの上に置きぱっなしなんだ。でかいケツをこちらに向けたまま飯を作りやがって、少しは愛想をみせろよ。etc. 企業戦士、会社に住んで家に通勤するといわれた高度成長時代の事です。
負けずに、女房たちも言い返します。家族と話をするのにイチイチ振り返るのは首が痛いのよ。私だって、私が洗わないかぎり、朝のフライパンに卵のついたのが眼の前でさらしものになっているのは嫌だわ。PTAのお友達が訪ねてきて、昼下がりにおしゃべりをしようにも流しをモロに見られるは困りものよ。つっこめば自動で食器が綺麗になればいいのにねぇ、アメリカ製であるらしいけど。はぁあ~、とため息一つ etc.
豊かになった階層に、民間の分譲マンションは公団とは違いますぞ。とばかり、システムキッチンを売り込みました。独立したキッチンとそれに付随したダイニング、またはリビングとダイニングの組み合わせです。
キッチンは二層シンクとなり、調理台のトップも大理石風。お湯のすぐ出る瞬間湯沸かし器、冷蔵庫、オーブン付きの電子レンジはすぐに必需品となりました。日本の食器に合わず、壊れやすいものでしたが食器洗い機もアメリカから直輸入されました。
やがて、広くなったはずのキッチンの配膳台は松下電器の電化製品、ジューサー、モチッコ、スライサー、泡たて機、ごますり機、電気カツオブシ削り、パン焼き機etc.で埋め尽くされ、機能的?工場のようになっていきました。
台所仕事を楽にし、家族の健康を支える毎日の調理がな~んかややこしいことに。でも、一番嫌なのは、私だけ、楽しく食事がいただけてないわ。ハテ?
日本料理は一皿一皿運ばなくても良いのですが、主婦は何度も食事中キッチンに立たないといけません。決して立ち上がろうとしない夫に腹を立てることに。「少しは手伝ってヨ。」そして、なにより子供を含めての家族の団らんを途切らすことを嫌って、車のついたワゴンがダイニングテーブルの横にベッタリおかれるようになりました。
システムキッチンを導入しても「美しい生活」はやはり出来ないのでしょうか。
私は1980年代(昭和50年代)の80㎡のマンションを、1992年に購入しました。
バブルの頃に4回目の引っ越しです。中古でも高かったので改装費は400万円しか用意できませんでした。まずは、ベッドを。他の家具は基本的に今までのものを使う前提でした。
そして、キッチンは壁に向かって流し台があり、ダイニング・リビングには開かれたプランでしたが、台所への採光をあきらめて南には閉じました。リビングとしてのソファの落ち着きも欲しかったのですが、キッチンの収納を増やしたかったのが大きいです。
そのままのプランですと、リビングに食器棚が飛び出てきて家具にお金をさらにかけ、それでいて、リビングのインテリアが落ち着かなくなります。あと、和室で座ってダイニングはまだ、保持していますね。リビングに壁面収納をもつことなく、広々感を感じたいまとめ方でした。
そう、「おい」「めし」「ねる」と、まだ威張って女房に言えた、元気の良かった頃の私でした。
その後、転勤にともない都合4回引っ越しして、やっと今の住まいに、2010年でした。その間に賃貸マンションでは、いわゆる「対面キッチンカウンター」というのも体験しました。女房は南向きの流しに「明るい。」と最初の一瞬は喜びましたが、一度クローズドキッチンの大きな収納、散らかし放題の安直さを味わってしまっていたので、ロールブラインドでカウンター上部を隠しダイニングからキッチンを見えないようにしたり、食器棚を購入したりと何かとモノイリでした。
今は対面キッチンカウンターがまことしやかに売り込まれて、住宅の主流となっています。せめてお皿を洗う時ぐらいは家族の顔が見えるようにでしょうが、しかし、ガスレンジは壁際に持ってこないと、、、ワインクーラーはどこにしまうのか、、、、ハテサテ?
そう、これは「私作る人、あなた食べる人」を変えない限り、メイドでもおかない限り、永遠に解決しない事ではあります。しかし、システムキッチンのシステムにも問題がありました。壁はコンクリートにビニル壁紙貼っただけで、低い天井の中心には大型の蛍光灯がデンと付けられ部屋全体を照らすというマンションのダイニング・リビングのインテリアデザインとシステムキッチンのデザインがあっていない事も、実に大きな問題なのです。台所からはみ出てきた食器棚を壁にくっつけて置くにしてもコンセントが周りにみあたりません。
システムキッチンとは、その本場、欧州では、1LKなどのアパートでリビングと一緒でもおかしくないように考えられたものでした。
本棚も飾り棚も一体的にシステムを組むことができるもので、家具のように美しくあるだけでなく、モジュールに従いどのメーカーのものでも住み手に合わせてシステム化されるものでした。それが、日本ではメーカー毎にシステムはクローズされており、キッチン屋さんの既製システムではリビング家具に合わせられるレベルのものを作っていません。
いや、リビング家具そのものの伝統が日本になく、本物がないのです。大人になってから、アチラモノだからとか、皮貼りだからとかで購入するだけで、リビングとは?をダイニングキッチンとは?の前によくよく考えないといけないのですが、その場の直感だけで家具を購入してしまうので、いざ家の中に置いてみて「なんで、こんなに大きいの。」になってしまっています。
欧州の方は足が長く、お尻も大きいのです。アチラモノには、よほど注意しないといけません。ついでに一つ、皮貼りは欧州では耐久性を求めたときの仕上げであり、デザインの豊かなものには使われていません。
欧州では子供のころから当たり前に体にしみ込んでいる事が日本では経験できていないのです。フランスの小学校の家庭科では料理だけでなく「美しい生活」もキチンとあるのですが、日本では、そのような教育の必要性にも気付いていません。
また、デベロッパー側にも「マンションの家具はご自身でお選びください。モデルルームの家具屋さんを紹介します。」と言わざるを得ない理由があります。豊かな空間にするために、すてきな家具をおこうにも、家具をおけるスペースをダイニング・リビングルーム(たったの11畳!)として用意できていない事を隠さないといけません。モデルルームでは、オプションだらけに改装して、スペースの絶対的狭さをごまかしています。
この写真のモデルルームもつり戸棚をあえて外して、「対面キッチンカウンター」をオープンキッチンに見せていますが、ワイングラスはどこにしまうのでしょうか。アメリカでは、調理台・配膳台兼用のテーブルとして使われるところにディナーセットをおいています。メイドを雇うような方は75㎡3LDKのこの住戸を購入しないでしょうにね。
奥のリビングのソファーは2人しか座れませんし、壁をタイルと棚で飾っていますが、TVは置けていません。これが、狭いマンションを豊かに見せるインテリアコーディネーターの腕なのです。リビングルームにワザワザ収納スペースを作って、狭くして売るなんていうことは、彼らには全く考えの外なのです。
しかしながら、彼らディベロッパーに、マンションの価格評価は<駅近、環境、坪イクラ>とでしか買い手は見ていないと思わせている、買い手自身=あ・な・た、が「美しい生活」への一番の問題なのです。日本の「住まい方」がとても貧しい事、「美しく住もう。」と自らは考えず、<人任せにする>事がいけない事なのです。いくら「美しく住みたい。」と言って頼んでも、そんなの誰もやってはくれません。「美しさ」を決めるのはあなたです。
さぁ、美しい生活をしてみませんか。オープンキッチンの法則をおさらいしましょう。
法則の1:「あなた作る人、私食べる人」では、運用できません。メイドのいる方、女房はメイドよ。と言う方も排除です。
パーティが大好き。ホストが椅子に座って水割りを飲む前で、ゲストがIHヒーターの火加減をし、塩コショウを振るぐらいが良い。
以上のどれかにひっかかれば、そちらの方が安全確実、配当もつくというものです。ゆめゆめ、気分でオープンキッチンに挑戦してはイケマセン。覚悟が要ります。
法則の2:何もかも見えぱっなしのキッチンだから、調理しながらまたはした直後、または食事が終わった時に、すぐサッと調理器具なり素材なりをしまう習慣を持っている人がいないと、別に夫でも子供でもいいのですよ。このキッチンは成立しません。
簡単にはいいますが、イッパイ飲んでいるとこれは難しいです。その時は家族うちなら目をつぶって、、、というのもアリです。アリですが、これが毎日続くといけません。酔っぱのご夫妻にもお勧めできません。
汚れること必至のキッチンを何とかしていつもきれいにしておこうとして努力する人がいなければ、あのうとましい2DKのキッチンを大きくしただけになります。なお始末が悪い。
法則の3:完全なオープンでなく、半分だけオープンも可能ですが、対面キッチンと違って流し台前をスルーで両方向から行き来できるようにしないといけません。半分だけオープンとは、客が来た時だけ引き込み戸を閉めて独立型、もしくは対面キッチン出来るオープンキッチンということです。
法則の4:調理台と食卓を同じ高さにする。
椅子を全部ハイチェアにするのか、調理台の一部を食卓の高さにするのかどちらかですが、私はダイニングテーブルの高さを欧州並みに床高さ75㎝として、椅子はオイルダンパーで簡単に座面が上げ下げできる事務椅子としました。平均的な日本女性はハイヒールでもはかない限り、座ると足先がブラブラです。
身長1m55㎝の女房は、花瓶に高いツル口の水栓から水を入れるのにちょうどよく、また、パンをこねる力仕事にもこの75㎝のテーブル高さはちょうどよい。キッチントップの高さは力仕事が減り今や90㎝も時代ですが、キチンに力仕事は今も残っています。私が魚を出刃でさばくのも良いですが、刺身庖丁を握るときは、腰を折り曲げつらいです。我慢、我慢。
法則の5:換気は最重要です。500㎥/hの大容量の換気扇がないと、ガスでの煮焚き、魚焼きはできません。
新鮮空気を冬に部屋が寒くならないように取り入れるようにして、オープンの邪魔をしないようにフードを設けるとしたら、やはり壁際にコンロは持っていかざるを得ません。センターキッチンでの排気ガスの出ないIHヒーターとキッチンの火は使い分けています。戸建てなら、焼き肉屋さんのように排気をコンロの周りから床下に抜くことも、まっすぐ屋根の上に抜くことも可能ですが、アパートではダクトを考えるとこうならざるを得ません。
法則の6:いくらIHヒーターといえども換気扇はいります。
小さく天井に穴をあけました。フードは邪魔なので、天井の仕上げに工夫をしました。IHヒーターで肉を焼いた翌日は中性洗剤で天井を拭き掃除します。油汚れの取りやすい住友3Mの塩ビシートとしました。これは天井まわし縁と共に、我がオープンキッチンのスペースを誇示する実に豪華な仕上げなのです。だれも気付きませんが。
この仕上げに職人さんたちは随分泣きました。ええ、私たちが引っ越ししてからもやりなおし工事です。天井下地の平滑さを出すのは実に難しいことと改めて学びました。自分んちですのでやりきりましたが、お金をもらってのお仕事では怖くて設計できません。
法則の7:インテリアデザインを完璧に行わないといけません。お金ではないですよ。テイストの統一です。
オープンキッチンとはダイニングキッチンではない、台所で食事をしているのではなく、ダイニングの一角で調理しているような感じを持たせないといけません。
メインの流し・コンロはお誕生席から6m離し、且つ薄暗く(手元灯を密かに棚下に入れています)、調理の様子は自らの背中で見えないようにしています。お客様に近いセンターキッチンは、ハロゲンランプのスポット照明で明るく照らします。手前に光があれば、気が行けば、その奥は見えていても見えない人の脳の働きを利用します。
ご予算があれば、調理台のトップと壁を黄金色のタイルでそろえたり、収納の扉を壁と同材の米松にして一見壁に見せる・・・・etc. オトウサン、貴方に汚いものは見せませんという姿勢を濃厚に見せるインテリアにしましょう。
法則の8:見せないためには、収納は食器だけでなく、ありとあらゆるものをしまうだけの容量が要ります。
私はビッグテーブルを日々生活の中心としましたので、ふとん以外のなんでも入る奥行き60センチの壁面収納を設けました。予算に限りがあり、表面メラミン裏側ポリの安物仕上げですが、女房の身長にあわせ、持ちモノにあわせ、日本が誇る建築金物屋スガツネの極上テクニックを総動員しました。
分譲マンションのリビングのお粗末さは、収納が必要なのに隣の和室の押し入れに頼らざるを得ないプラン作りにあります。どんな高級な値段の高いマンションでも、建築の設計が家具まで及んでいない、分譲マンションとは実にレベルの低い設計なのです。
リビングの収納では、本やCDだけでなく、掃除機もアイロン台も要りますし、読んだ新聞・雑誌を放り込む箱も要ります。
今やTVだけでなくパソコンも必需品です。これらのコンセント、無線環境の構築も目立たないように設けておかないといけません。
本来、家具の想定をしておかないと、壁へのスイッチ・コンセントも付けられないはずですが、普通はそこまで考えられていません。
法則の9:キッチンの詳細を、オープンキチンだからといって改めて語ることはないですが、ここでは私流のキッチン論を少し。
流し、調理台、コンロは合わせて2m10㎝でよい。流し台は長いほど使いやすいのでなく、散らかるスペースを増やすだけ。調理の動線を短くするためには、これを中心に冷蔵庫、配膳台、最低限の調理電気機材の置き場をL型もしくはI型に置く事です。
まな板、庖丁の類はアチラモノ流し台を用いるとしまうところがありません。浅い引き出しも既製システムキッチンには少ないですね。
しっかり容量をとったはずが、女房がこの頃フライパンを調理のあと引出しにしまわなくなりましたので、密かに数えてみたら7枚ものフライパンを持っていました。収納があるだけ、買ってしまうようです。アチャ!
最後に、引出しの取っ手は、カッコ悪くてもつけましょう。台ふきんを干す場所を設計するのを忘れていました。今考えるに、細くて長い取っ手は、夜、最後に台ふきんをかけておくのにちょうど良かったと。
まぁ、いつものことですが、完璧な設計はありませんのでヒラにご容赦を願いつつ終わります。
ドイツの家具屋さんを訪ねました。家具に対する意識は日本とは全く違います。https://www.facebook.com/media/set/?set=a.137659313036863&type=3
大工に頼んだ「母父の家」1977年8月竣工
私が東京に出ると、親が家を建てたいと言い出したのでした。父が52歳、母が50歳です。
写真は、竣工記念で父が兄弟を呼んだのでした。私は24歳にして初めての実作です。
世によくあるパターンですが、父が大工を決めていたのでした。ここで私が設計をするとなると、大工が困るわけですよね。
大工相手に頑張りましたが、母が洋裁をしていて絵を書けるので、大工の話を絵にしてやり取りでした。吹き抜けに、屋根裏部屋と大工も困ったでしょうが、私は在来木造に素人ですので、全く気にしていませんでした。
昨年の70歳の設計も、この時も方法に変わりはないです。今での住み方を見て、希望を聞いて、とにかく思いつくまま数案を作り、それで相手の希望を確定します。あれもこれもと全てが満足できるわけないですが、評価軸として挙げる言葉が重要です。
私が結婚して同居することを親は望み、住宅公庫の支払いは私がしたのですが、嫁はそうはいきません。私は40歳で会社から借金をして住宅を得ています。
ボリュームチェック(日影、道路斜線、容積率、建蔽率)
高さ10m以下の2階建てなら、ボリュームチェックなど気にしなくてよいです。しかし、敷地が広いのでコンクリート造にして上に住戸を積み上げるか、となれば、もう不動産の活用ですので、このページを見ることなく、業者のところに行くでしょう。
しかし、上下で親子が住めるようなコンクリート造となると、まずは、どれだけ積めるかのボリュームチェックが要ります。日影規制はコンピュータ無くしては作図できませんが、大体のチェックは以下のようにしてできます。(私は10年前に50万円のソフトを購入しましたが、今はBIMとなり時代遅れです。)
高断熱、高気密の家を勧める国の政策ですが、結露に注意。
結論を先に言います。結露をしないのは外断熱です。木造では難しく、内断熱となるので外壁と断熱材の間に結露を起こします。
これは、「収まり」というプロの世界のことであり、素人ではチェックできません。ここでは、建築素人が中学の知識で結露をしって、プロに断熱、機密を求める手段を示します。
豊田佐吉の生家です。隙間だらけです。冬は囲炉裏からの輻射熱を直接浴びて、背中は寒いです。高断熱、高気密は北海道の住宅で求められた、冬の対策でしたが、名古屋の街中でも、冬はもちろん、夏の冷房を効率よくしたいと、補助金目当てでなく、高断熱、高気密は当たりまえになりました。アパートでは屋外機が高熱を排出し、コンクリートとアスファルトでは風も吹きません。
近くの修行僧がいる徳源寺には、土と緑があり過ごしやすく、岐阜県本巣の従弟の寺の本堂では、周りの水田をなめてはいる風が涼しいのですが、都心ではそうはいきません。
プロに言われるのは、断熱材の厚さの選択ですが、そんなん、素人には、わかりはしません。
壁より、ガラス窓をどうするか。が大切です。
ペアガラスが断熱に良いと言われますが、開口部の断熱性能が壁の性能と同じでしょうか?
カーテンを使っての断熱は有効です。しかし、ここの計算を大工さんはできません。
ペアガラスと同等の効果をカーテンで得られます。そして、安いです。
カーテンボックスでは機密を保てませんので、上端の折り返しがキモです。カーテン屋さんは知りませんので、この絵で頼みましょう。
結露はこうしてできます。飽和状態など知る由もなく、「加湿器」を入れますよね。でも、湿度保持には換気がかかわっています。
コンクリート造マンションの欠点は空調できていないのでなく、高密度でありながら、暖房・冷房でしかない機械設備ですので、空気量をコントロールする換気意識を持てていないことが、いけないのです。
部屋の換気の方式はこの4つです。ダイキンが空調もするという冷暖房機械を売っていますが、風呂、便所、台所、居間、寝室のそれぞれの設定条件を一律には決められません。
すると、換気は手動となります。まず、コンクリート造のマンションでは24時間換気のユニットバスを入れましょう。
日本は空気層で断熱をします。安いですから。すると、結露が起きます。水分を含んだ空気が冷やされた躯体に接しない事、真の機密がいるのですが、大工さんでは無理でしょう。
床下からの外気の流入を大工さんは忘れます。断熱材で防げましょうか?
私は、もう木造住宅の床下換気を求めません。
高断熱、高気密は床にも必要です。
屋根裏対策を言っていませんが、天井裏を大きく取れば、問題ありません。
私の理想は、深い軒先と縁側でもって、「夏を持って良しとする。」ですが、亜熱帯日本ですので、もう無理でしょう。
結露は理解できなくても、この絵を打ち出して大工さんに「やって!」というだけで結果は違うと思います。
耐用年数は税金の償却期間の事であり、寿命ではないです。
「母父の家」は弟の家族5人で住むことになったのですが、夫婦二人に戻って「50年経ったので、雨漏りもするし、壊して平屋建てにするわ。」と弟が言うのでした。確かに土地代の価値はあっても、木造築50年では価値がつきません。しかし、雨漏りをなおし、キッチン、風呂場を改装して、騒動は終わりました。建て直すことに比べれば、10分の1の費用で済みます。
名古屋城天守の木造化でも、「コンクリート天守の耐用年数が来たから、壊して木造にする。」という、間違ったことがまかり通っています。木造はコンクリート造よりメンテ費用がこまめにかかります。法隆寺は建て直す「解体修理」を400年ごとに行い、材も取り換えています。
伊勢神宮は20年ごとに建て替えて清新さを保っていますが、この新築「木の香り」が、日本人には良いのでしょうね。「壊すな、名古屋城天守。」で書いた文章を以下に引っ張ります。
耐用年数とは?
和歌山城、広島城と続けて記者は書き出しています。「戦後のコンクリート天守が耐用年数をむかえ、木造天守への建て替えの声が出てきている。」
また、名古屋城天守と同じように「耐用年数」でもって、どうにもコンクリート天守は壊したいようです。では、4年前の話を繰り返しましょう。
文化庁の6月見解であるように、耐用年数とは、財務省の「減価償却資産の耐用年数に関する省令」の別表に定められている法定耐用年数の事です。会計上税務において償却期間のことであり、使用可能年数ではありません。
車の月賦を払い終えたので、なら買い換えようかとするのと同じように、法定耐用年数は建築の社会的価値を考える契機にはなりましょうが、建築を都市のストックとして見て行かない縮む日本です。
今月の建築雑誌では「建築ストック社会の到来」を特集しています。2011年総務省が固定資産税から調査した「建物の平均寿命」があります。2570万棟、全国の建築物の43%での結果です。専用住宅が構造種別に関わらず、寿命が延びています。RC造共同住宅の内の区分所有のマンションがわからるとよいのですが、間違いなく、所有権から一番寿命を長くせざるを得ないことなっていて、これからも続くのでしょう。私の仕事がそうですので肌で感じています。
壊されるのは建て替えの価値の方が価値があるとされるからであり、建築自身の寿命は、躯体で140年、設備・屋根防水で30年、設備で20年、仕上げは10年とバラバラです。それをメンテをすることも考慮に入れて「総合償却」という方法で算定しています。
公共建築は築30年が建て替え可能の目安とか、不動産屋は木造の築30年は値段がつかないと言います。これは「古い建築は価値がなくなる。」が、国民の間に定着しているからです。
伊勢神宮の式年遷宮いらいの信仰「穢れを清める」であります。20年ごとに若返るなんて、1300年間守り続けた法隆寺に比べて、なんと素晴らしい信仰か。アレ?法隆寺は「木造にすれば、1000年もつ」で、木造天守にしたい河村市長の決めセリフでした。
木造がなんでも長持ちするわけはなく、中国が1000年に渡り磨いてきた丈夫な法隆寺も、400年ごとに材木は入れ替わっています。外部まわり、野地板、根太、垂木は100年ごとです。
伊勢神宮の屋根は藁であり、柱は地中に埋めています。これは見るからに腐敗菌によって朽ちやすです。高温多雨の日本ならでは「建て替える」建築文化です。
町屋ですと、土台が腐り、白アリにやられることが多かったのでした。
東寺の東塔の心柱の白アリは凄かったので、地盤に史実に忠実でないコンクリートを打たざるを得ないのでした。
1657年明暦の大火、死者が10万人です。しかし、その後の復興は早く、火事があるたびに、復興によって江戸の町は景気つきました。
地震でも容易に壊れます。法隆寺とは程遠い町普請です、「古い建築は穢れている。親父の家を壊して自分の家だ。」は、木造建築故の事でした。
1666年ロンドン大火。江戸と同じ時にロンドンも全て燃えました。この前年にペストがはやり8万人が死んでいます。
都市計画を行うのですが、建築も「木造の禁止」となりました。
もともと煉瓦造の文化がある国です。
今も子供向けの絵本に、博物館に、町の中の記念碑に、ロンドン大火のイメージは残されていますが、日本ではどうしょうか。阪神大震災長田町の火災は、地震の下に消えてしまっています。明暦大火350年記念を私たちは行っていません。そう「喧嘩と火事は江戸の華」なのでした。
軍艦島は、捨てられた建築なのですが、世界遺産となり観光名所となっています。私は、5年前に閉じられて打ち捨てられたままの名古屋城天守と重ねて見てしまいます。軍艦島が100年後の名古屋の姿にならないでしょうか。
「燃えない」コンクリート天守としてあえて作られたことを文化庁、名古屋市の役人は市民に説明しません。そして、見捨てられ廃墟とならないように、展示内容を時代に合わせ魅力あるものに更新しないといけません。
日本全国は、空襲による火事で燃えつくされ、広島には原爆が落とされたのです。原爆ドームは原爆の悲しみの記念碑ですが、広島のコンクリート天守は、広島市民の復興記念とどうして市民は考えないのでしょうか。
防火地域、耐火建築、防火仕様と、日本はロンドンに遅れる事300年を経て、町の不燃化を行ったことを忘れてはいけません。これから縮む日本の貴重なストックとしないといけないのです。
住宅にオフィスの回転いすを持ち込む。ソーホー書斎でなく、リビングルームのしつらいに、オフィスの回転椅子です。
オフィスの回転椅子は、コロ付きで、油圧で上下し、ハイバックチェアならば眠れます。リビングルームのソファーはやめて、ダイニングの椅子をオフィスの回転椅子にしました。
西洋人の椅子は座面が高く45センチあり、2~3センチ切らないと日本人にはあいません。テーブルの高さが西洋と日本では5センチ違います。しかし、切ると椅子のプロポーションを壊して美しくなくなります。ワイチェアを正規ルートで購入したのですが、脚が切られていてがっかりしました。ウチのテーブル高さは西洋の高さに75センチにしていますので、座面が上下するのが良いのです。イームズ復刻版を30万円で購入しました。
ドイツの椅子ウイルクハーンのハイバックは25年使っています。メッシュの背が画期的でした。また座面が破れたので2回目の張替えをしました。値段は見た目よりたかくて、買った時が8万円で今は20万円します。今でも売られています。手前は、イームズの真似をしたバッタもので、1万4千円です。もちろん、座り心地はダメですが、この値段でこのデザインですので文句は言えません。
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