地方自治体は専制なのです。よって、首長には儒教でいう倫理観が求められます。 20240624FB記

名古屋城天守木造化に反対

北川さんが60歳定年を迎え、35年間の大阪市職員、大阪城天守閣博物館館長をやめるにあたって、今までの既刊の文章を、「大阪城の生涯」として編集しなおしたものです。
博物館に寄贈された古文書を読み解き、それを「太閤さん」と親しみを持つ大阪人向けに軽妙洒脱に研究結果を書いたものです。企画展示に、講演会、学会への論文と大変忙しかったのですが、それだけ充実した人生だ、と回顧しています。

私が知る私の同年輩の松尾信弘さん、前の前の大阪城天守閣博物館館長の話では、「3人の学芸員で、二か月毎の企画展示を企画からビラ印刷、展示となんでもやってきた。リピータの為に常設展示だけはダメ」ですので、この北川さんの本が出せるのですよね。博物館としての継承がありました。戦後の大阪市の城に対する姿勢は維新の政治になっても変りません。

素晴らしい大阪です。一方、名古屋城総合事務所は中日新聞などの広告代理店に企画を投げる予算を確保するのが学芸員の仕事です。春休み、夏休み、冬休みのイベントは客が集まらなくても税金で賄われるので、広告代理店の安定した収入になっていて、民間のように革新は行われず、天守閣博物館の展示は変わりません。大阪は江戸時代も町人が主役の町ですので、旦那衆による民主主義があります。翻って、以下は民主主義のない名古屋の名古屋城の話です。

石垣部会の有識者、文化庁から名古屋城の学芸員のていたらくを大坂城、金沢城の事例から指摘され、名古屋市は2019年に「名古屋城調査研究センター」を、市長お友達である歴史学者の服部さんを熊本からお迎えして、発足しました。

今までの学芸員は首を切られることなく、名古屋城天守は閉鎖され、博物館はなくなったのですが、学芸員は8人に増えました。

服部センター長は「木造天守になる。木造天守は博物館とはしない。」と言っています。5年たった今も木造天守はできていませんが、ようは博物館の学芸員として語るのは「木造天守は、世界にない。この実現が・・」でしかありません。

400年前の姿を復元したらその後の400年の歴史が消えるのですが、こちら名古屋の歴史学者たちはかまわないようです。大阪の北川さんたちの歴史認識とは対極にあります。
今の大阪コンクリート天守は旦那衆が名古屋城国宝化昭和5年に対抗して、昭和6年に作られたのですが、太閤さんの城は屏風絵からの類推であり、その天守台は徳川秀忠の天守台を利用したのであって、総合的に結果をみれば、秀忠の城の復元をなしたのですが、「太閤さんの城を復元した。」という、歴史的な間違いも、きちんと受け入れてコンクリ天守閣を大阪文化発信の博物館としています。

名古屋城天守閣博物館もコンクリで、大阪城天守閣博物館のあとを追うはずでしたが、河村市長が「木造本丸御殿は前市長の遺産であり、やめようと思ったが、人気なのでトヨタなど企業の寄付金を集めて、前市長の市民の寄付募集なんて、もうしない。さらに、天守も木造にしようというと、皆がウォーと賛同した。」で木造天守を決意したのでした。

学者の3人、麓、三浦、千田が市長を囲むシンポジウム2014年で市長をその気にさせたのですが、学者たちは平屋の本丸御殿と違い、6層の木造天守が危険であり作れないとは知りません。木造天守は建築基準法上、本丸御殿と同様に市長が認めればできると思いました。

市長が「木造復元だ。」と言い、竹中工務店が本丸御殿と同じく「建築基準法3条、国宝同等と市長が認めた。」事を前提に、手をあげて事業は始まりましたが、400年前のものをそのまま史実に忠実につくれば、生命財産を失います。建築基準法違反です。本丸御殿は平屋建てであり、火事になっても逃げるのは容易でしたが、2500人が入る天守で京都アニメーションのような火事が起きれば、燃える木造の急階段が一本しかありませんので、大惨事になります。

違法建築の責任を文化庁は負いたくないので「史跡の上の歴史的建造物復元基準」を令和2年に変えてしまいました。もう、だれも、そんな危険な木造天守は作れません。文化庁には私から丁寧に建築基準法を説明のお手紙をし、委員会の東大、三重大の先生にもお願しました。

河村市長は市の教育委員会委員長、市の住宅都市局長、など人事権を支配し、予算は役人が作ります。今の都知事選で見るように、地方自治体は専制なのです。よって、首長には儒教でいう倫理観が求められるのですが、今は皆、ポピュリズムとなり、パンとサーカスをばらまくトランプ大統領と同じです。

学芸員らしく論文を書いていますが「天守の高さは大砲を打つ砲台だから高くしたのだ。」と、身障者の車椅子すら最上階にあげられないのに、堂々と書く服部センター長です。天守を高くした理由は「望楼」「権力のシンボル」などなど、先学の論文がありますがその先学の紹介をすることなく、驚きの新説を唱えました。
天守の構造からして、どのように大砲を上階にあげ、弾が打てるのか、まったく気にしていません。「天守は一城の飾り」だと言われ、江戸城天守は明暦大火で燃えた後には再建されなかったのですが、そのようなお城にまつわるお話を知らない名古屋城調査研究センター所長です。

「旭丘高校に自転車で通うのに、あのコンクリート屋外階段が気に入らんかった。」と言われるので、私は建築の安全からの屋外解散の必要性の説明をし「私のおやじは、戦後復興のシンボルとしてコンクリ天守に寄付した。」というと「それは、お父様はほんとは木造復元をしたかったのですよ。」と返してきたのでした。もう、それで私は話をやめました。論理をつくす学者でないです、彼には河村市長と同類の「面白い木造天守」しかありません。

そういえば、石垣部会で「木造天守反対」と声高に叫んでいた千田さん、いつの間にか名古屋市立大学の教授です。

いったい、名古屋城天守木造化はどうなったのか?止まっているのは知っていますが、中日新聞は理由を暴きません、議員は騒ぎません、学者は知らん顔、役人はあれほど市民を騙しておいて、もう定年退職をして、新たな職場についています。

止まっている天守木造化事業にはすでに100億円以上の税金をつぎ込んだのですが、だれも責任を取りません。

名古屋に民主主義はありません。

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