欧州、中国の都市を見るに、すべてが「環濠城塞都市」でした。欧州と同様に城壁を持つ中国では、CITYを「城市」と訳しました。城壁を持たない日本は「都市」と訳しました。
塩野七生の「コンスタンチノーブルの陥落」は、1453年の東ローマ帝国の首都コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)が、オスマン帝国のメフメト2世の2ヶ月の包囲戦に屈する様を生き生きと描いています。城壁の内側にいる住人は、生き残っても奴隷に売り飛ばされるのですから都市を守る戦いに必死です。1429年、ジャンヌダルクはフランス王シャルル7世と共に、3,000人のイングランド兵と、パリ市長に率いられたパリ市民が守るパリを攻撃し、負傷します。7年後の1436年に、ようやくパリは国王に門を開きました。
欧州観光では、城壁で囲まれ、中央広場に時計塔を備えた市庁舎を聳え立たせる中世都市が人気ですが、現代都市においても、城壁は環状自動車専用道路になり、さらに外側に大きく環状道路を作り、その間には壁でなく森を育て、都市と郊外の領域を明確にして「環濠城塞都市」の文化を継承しています。領主の防御設備を持った住まいのブルグ(ラテン語burgus、独burg、仏bourg、伊borgo、英borough)は、民の逃げ込む城塞としてゲルマンで生まれ、ブルグが大きくなり都市民を育成し、民主主義が生まれ、英語のボロウは自治区を意味するようになりました。
古代の日本は、「山背の国」の国名を「山城の国」に変えて、唐の長安を模して「平安楽土」という名前の首都とし、「1000年の都」となしたのですが、平安京には、長安と違い、羅生門はあれど都市壁はなく。明治の日本は、CITYを「都」+「市」と訳しました。中国でも「市」はCITYの要でした。商人が交易の為に「市」を開くのは、古今東西の集住体になくてはならないものでした。
また、より小さな集住体として「町」を明治の日本はTOWNにあてはめました。日本の「町」は、耕作地の面積単位として輸入され、街区単位になり、「町衆」「町人」と都会の民衆が住むところになっていましたが、明治の人は「町人」はCITY由来のCITIZENではありませんでしたので、都市の中の小さな集住体「町」を、TOWNにあてたのでしょう。
家康は、名古屋城下町を「総構え」と都市を丸ごと堀と土塁で囲む計画をしたのですが、豊臣は滅び、計画のままで終りました。それどころか、名古屋城は三の丸の防備も完成していないままです。
- 公園をアリーナ(興行場)で潰す名古屋に代表されるように、日本の都市計画は名前だけで、総じて欧州のような都市計画はありません。都市の構えを持つことがないままに、集住体は行政の枠を超えて広がり、メガロポリスという「美名」をいただき、安物ロードサイト建築によって、故郷を感じさせない同質の都市景観を作っています。この誇りをもって守るべきものがない都市の姿の中に、民主主義は育つはずはありません。都市と民主主義は「卵と鶏」と同じで「どちらが先」というものでなく、「どちらもある。」か、「どちらもないか。」の2択しかありません。
- 江戸の城下町は、寺内町のように環濠城塞化せず、攻城戦に使われることなく、都市民の一体感は見上げる天守に、牛頭天王祀りでしかない。
公園をアリーナ(興行場)で潰す名古屋に代表されるように、日本の都市計画は名前だけで、総じて欧州のような都市計画はありません。都市の構えを持つことがないままに、集住体は行政の枠を超えて広がり、メガロポリスという「美名」をいただき、安物ロードサイト建築によって、故郷を感じさせない同質の都市景観を作っています。この誇りをもって守るべきものがない都市の姿の中に、民主主義は育つはずはありません。都市と民主主義は「卵と鶏」と同じで「どちらが先」というものでなく、「どちらもある。」か、「どちらもないか。」の2択しかありません。
京都は明治になって天皇が去ったのですが、町人地が60%(名古屋は24%)の町衆が、近代化への道を、路面電車・琵琶湖疎水・工業化と推し進めます。大坂も町人地が58%でした。江戸と京都と大坂は江戸時代は三都と言われ、共に明治になって「府」とされましたが、CITIZENは官立の東京に対抗する大阪にしか生まれなかったと思います。その旦那衆のシンボルが寄付で作った昭和6年竣工のコンクリート造の大阪城天守です。
私は前に、近世の城と城下町を説明するに、「城は「要害」=「山城」であり、根小屋(山下)に武士だけでなく町人を引き入れ、「平山城」「平城」と領主は「防御の城郭」と共に、平時の「領国の首都としての繁栄」を城下町に求めて、都市計画をした。」と書きましたが、この近世城下町の直接的なお手本として、環濠城塞都市「寺内町」がありました。ここでは、あまり知られていない「寺内町」を書いていきます。同じく環濠城塞都市・堺が寺内町から突出しますが、それはまた別に書きおこします。
戦国時代の「環濠城塞都市(寺内町、堺などの商業都市)」に住む、百姓・国人・商人は、戦国の領主に対して、免課税・不入(警察権、裁判権を持つ)の特権を得るべく、都市を城塞化して領主と戦い、自治権を得ることに成功します。信長・秀吉・家康によって、近世には寺内町はその権利を失い、在郷町となっていくのですが、遅く1555年に寺内町となった貝塚だけは1577年に信長に焼かれるも、1582年に秀吉から諸役免除を受けて再興し、さらに1607年に家康からも諸役免除をうけ、5ケ町を作り、冬の陣の前の1613年には家康の指示で3間幅の周壕がめぐらされ、今に慶安元年(1648年)の絵図が残りました。
真宗高田派専修寺の一身田が今も寺内町の町割りを残していますが、1645年の大火後に「門前町」を寺内に設けたのであって、中世の寺内町とは違います。
寺内町
秀吉の大坂城、家康の名古屋城の「平城」の前に、信長の安土城「平山城」があり、「山城」すなわち「要害」として、信長の岐阜、朝倉の一乗谷がありました。それと共に、欧州のブルグ同様に、戦国時代の領主は防御の為だけの「城」から、領国の繁栄のため「楽市楽座」の令によって百姓(商人、工人を含む)を富まさせる「城下町」へと、領主としての城への視座が変わっていったのでした。
その「町」の先駆は「寺内町」にありました。信長、秀吉、家康はそれぞれにおいて一向一揆には苦慮し、「刀狩り」「検地」「本願寺」によって封建体制を作っていくのですが、「寺内町」を単に破壊するだけでなく、「城下町」の都市計画の中に、「寺内町」が100年かけて育てた町衆の自治と都市景観を取り入れました。
寺内町は、1465年、山門の衆徒によって東山大谷の坊舎(現・知恩院あたり)を破却された(寛正の法難)蓮如50歳が近江の堅田に逃れ、湖東の金森、赤野井で布教を続け、本願寺復活の基盤として1471年に吉崎にプロト「寺内町」を作ったのが始まりであり、その後、山科、石山を本願寺の芯として大津顕証寺、伊勢長島、加賀金沢、大和今井、河内久宝寺、河内富田林、河内八尾、泉州貝塚、近江山田、同鉤寺内、越中井波、同城端、同古国府、尾張富田聖徳寺内と、真宗の宗教的連帯感から、自分たちの生活共同体を維持するために、「王法より仏法」を唱え、戦国の領主と戦う「環濠城址都市=寺内町」を作りました。
信長が1574年に3度目の長島攻撃によって一向宗徒を虐殺、壊滅させ、1580年に石山戦争に勝利して、日本での自治都市の芽は100年で消えました。本願寺は秀吉の懐柔策の中で、紀州鶯守、泉州貝塚、大阪天満と移り、1592年に秀吉によって城下町化さた堀川六条に本願寺を置き、さらに1602年に家康が東本願寺を作り、真宗は完全に「王法」の下に組まれます。
西川幸治の「都市の思想」NHKブックス昭和48年刊によって、「寺内町」を都市ごとに追っていきます。
プレ寺内町 堅田
応仁の乱以降、中央からのタガが緩んだ中世の生活共同体として、堅田は湖上流通の要から、敦賀湾に通じて、日本海流通にも関与しており、「殿原とのはら衆」と「全人まとうど衆」による自治が行われていた。「殿原衆」は「地下の侍」であり武器を持ち、「全人衆」は、自立する百姓(商人、工人も含む)である。比叡山からの紺屋の特許状を持つ全人衆の代表である法西は門徒代表を務め、蓮如の布教を助けた。また、湖東の金森、赤野井は、農業の生産力の高まりから農民が自営化し「惣」と呼ばれる郷村の結合が進み、生活・生産の秩序を自治的に規律し運営をしていた。鎮守の神社を中心とする「垣内かいと」という環濠集落も畿内にはあった。
蓮如は、堅田には6年しかおらず、また、比叡山の東側の麓に新たな御坊を建てることなどありえない(1468年山門による堅田大責)のですが、西川幸治は、寺内町建設以前に、近江には自治の町があった事を示しました。
プロト寺内町 吉崎
吉崎は、越前、加賀の国境の北潟湖面してあり、日本海の交通の要所となりうる所だった。移って2年後の1473年には「馬場大道を通して」その両端に「南大門、北大門」を設け町とした。蓮如が知る興福寺大乗院門跡経覚の領地であった。
このあたりは高田派教団が勢力を持っていたが、越前、加賀、越中には古くから開拓した本願寺の末寺があった。親鸞を租とする浄土真宗は、今は本願寺派が圧倒的だが、真宗10派と呼ばれる派があり、当時は仏光派、高田派が主流であったのを、蓮如の活動によって本願寺派が興隆した。その活動の姿は今も「御文章」として読まれているが、その多くは、吉崎に集まって来ている多屋坊主、多屋内方、多屋衆あてに書かれている。多屋衆とは「仏法の為には一身惜しむべからず。合戦すべき」と決意した人々だった。
蓮如が「仏法不思議の威力」と驚く町の急激な膨張は、極楽往生を求める求道者だけでなかった。既成秩序への反抗勢力を集め、周囲の反発をまねき、蓮如がいた1475年までの5年間は常に危機状態であり、多屋は防衛軍の詰め所でもあった。「要害」と御文章に何度も出てくるように吉崎はある意味軍団都市であり、豊かな都市生活はなかった。
門徒と守護勢力、富樫正親との武力衝突は激化し、1488年には一向一揆により、加賀一国は「百姓のモチタル国」と、本願寺の支配するところとなった。
寺内町 山科
蓮如60歳は1475年に吉崎を離れ、畿内での布教を進める。河内出口に御坊を建て、次に摂津富田、和泉堺にも坊舎を建て、今も別院として残る中心寺院を作っていった。堺北荘の樫木屋道顕という豪商と交わりから、都市の商人層にも真宗を広めた。
3年後の1478年に、蓮如は京都の外の山科に本願寺を建てることを決意し、金森の道西(弟子)、堺の樫木屋道顕、河内の吉益半笑(漢方医)などの畿内の門徒衆の力を集め、1480年蓮如65歳にして、15年ぶりに御影堂を再興した。「洛中にない美麗、仏国の繁栄である。」と記されている。絵師がおり、餅、塩、酒、魚が売られ、時を告げる鐘、風呂、集会堂があったとある。1483年に御坊が完成する。
地方で一向一揆を行う教団「法王国」の中心地となった。実如は、ここから「一向一揆」の指令を出し、その結果、山科炎上となる。蓮如の方針「仏法は、王法とは争わない。」は「法王国」となり、全く変容してしまった。
野村本願寺古御屋敷之図が光輝寺に残されている。
山科盆地の中央西寄りにあり、北に東海道が東西に盆地をよぎっていて、西が京の粟田口、東は大津に繋がっている。西に「御本寺」を内郭に「内寺内」「外寺内」と、東面して三重に郭があり、100年後に秀吉が大坂城で作る、平城「梯郭式城郭」と等しい構えの土塁と濠を持っている。絵図の右が北になる。土塁は発掘されて一部公園となっている。
[第1郭 御本寺]
絵図の中央にあり、御影堂、阿弥陀堂、庫裏の主要建築物はここにあったのであろう。西方浄土から、真宗のお堂は東向きに建てられる。
[第2郭 内寺内]
北に「家中」、南に「仏光寺帰尊地、四十二坊トモニ」とある。一族(一門衆(嫡男)と一家衆(次男以下)に分ける)坊官の屋敷があり、文明14年1482年に仏光寺が四十二坊を率いて蓮如に帰依し、建立した興正寺があったのであろう。定住者だけでなく、多屋衆の伝統から、越前、加賀、越中と行き来する多屋衆の為の多屋もここにあったのであろう。
[第3郭 外寺内]
町衆の住区であったのであろう。古文書には「山科の八町のまち」とある。中世の京であるので、町は道路を挟んで向かい合った町であるとすると、4ブロックの街区となる。
中央に「蓮如上人御塚」とあるが、今も「墓」として残る。現在の地名が「西野大手先町」であることから、建物はともかく、環濠城塞都市は東面していたことが分かる。
山科炎上 1532年 天文法華の乱 日本唯一の宗教戦争の勝者は信長
蓮如(1415~1499)から法燈を継いだ5男・実如(1458~1525)は、世俗の権力あらそいの渦中に陥った。真宗は細川春元と不和となり、日蓮宗徒の町衆(法華衆)は細川晴元・茨木長隆らの軍勢と手を結んで、ほとんど無抵抗の山科御坊を焼いた。1532年。山科の牢人は追われ、堀・土塁は潰され寺内町は完全に解体され、本願寺は大阪御坊に移り、山科に戻ることはなかった。
法華宗は日像の1294年の入京以来、延暦寺等の大寺から迫害を受け、京追放の院宣をもらい、許されるを3回繰り返す。1334年、妙顕寺を作り後醍醐天皇の勅願寺となる。現世利益を説く法華宗は京の町衆に受け入れられた。天文法華の乱の後、法華衆は京都市中の警衛などにおける自治権を得て、地子銭の納入を拒否するなど、約5年間にわたり京都で勢力を拡大した。
1536年、今度は法華衆が、比叡山と六角氏に京を追われる。下京の全域、および上京の3分の1ほどを焼失。兵火による被害規模は、応仁の乱を上回るものであった。1547年、六角定頼の仲介で、延暦寺と日蓮宗との間に和議が成立した。その後、日蓮宗二十一本山のうちの15か寺が京に再建された。
京都における宗教戦争はあまり知られていないが、比叡山座主をローマ法王に比して、新教と戦う様を思い浮かべると、さもありなんである。朝廷も幕府も力を無くす中、信長が登場し、1571年に比叡山延暦寺を焼き、1573年には公家の町・上京は焼かれ、1579年、安土城下の浄厳院で行われた浄土宗と法華宗の宗論では法華宗が負け、信長から罰を得た。1580年、石山・大阪本願寺は10年戦争の後、信長に負ける。
信長は、法華宗の本能寺で亡くなります。フロイスは「信長は法華宗」と書いていますが、自らを安土城に置いたボンサン石に託して「石を信長と思い拝め。されば不老長寿、子孫繁栄、金運が得られる。」というのですから、信長は、生誕地にあった牛頭天王を祀る津島神社の「現世利益」を神仏混合のまま表現しただけであり、ドグマはありません。比叡山を否定しただけでなく、キリスト教、禅宗、法華宗、浄土宗のいずれにも染まらない、「天下布武」の覇王でした。
寺内町 石山(大阪本願寺)
8代宗主・蓮如(1415~1499)は、1496年81歳で、摂津国東成郡生玉庄大坂において、坊舎建設に着手している。これが後の石山・大坂本願寺となる。三方は田畑であるが一面が海に面し船の出入りよく、天下無双の要害として1497年に完成する。淀川の河口に設けた交通の要所である寺内町は、都市的発展と経済的繁栄をし、後の商業都市大坂への礎となった。
建設にあたっては、堺の豪商・樫木屋道顕、万代屋休意、一族の大坂の松田五郎兵衛と、蓮如を助ける門徒に新たに加わった商人たちの思考「港湾都市」が本願寺に足されたが、蓮如から見ても、山科本願寺が盆地にあり、そこから船で山科川→宇治川→淀川と下る先の大坂に坊舎を作り、門徒衆が集まる寺内町にすることは、港町であった堅田、吉崎での経験から是とされた。寺内町と名乗るには本願寺の承認が必要であった。
蓮如は、6人に番屋、櫓、橋、塀、くぎぬき(町口の木戸)を作ることを命じている。番屋は山科御坊からあった。単に泊まる多屋とは違い、都市生活を果たすための都市施設であり、門を守る番衆の詰め所ともなっていた。番屋には、寺内町の掟、火付・盗人・博打の禁制など日常生活の情報伝達だけでなく、「従細川制札諸公事免許事」「勢州、尾州、美州、参州へ六角与和融之儀」「所々ニ六角制札被為打山候」と、地方の寺内町をめぐる情報や、地方の門徒衆の動きを伝える掲示がされていた。
多屋から発展し、末寺の僧の勤仕は定型化していたようである。日帰りができる堺の顕祐は一ヵ月を半々に石山と堺で過ごしたが、 加賀、伊勢、三河、紀伊、美濃、尾張、播磨、近江と遠方からとなると、1年を月単位で区切って勤仕していた。
くぎぬきの木戸の鍵は寺から町に管理を移された。
くぎぬきは「洛中洛外図」にある。中世に京は何度も焼かれ、町を守るために自治制度が生まれた。応仁の乱(1467~77年)で祇園祭・山鉾巡行は途絶えたが、1500(明応9)年に町衆の手で再興されているのがその証だが、江戸時代町人地の「番屋」は、寺内町の制度からであった。
1532年山科炎上により、10代宗主・証如〈1516~1554〉は翌年石山に本願寺を移すとし、近在の門徒によって寺内町の堀と土塁を修築し守りを固めた。「城つくり」には専門家の松田三郎入道が若党、中間を引き連れて寺内町に住み、城塞化を進めた。
天文6年1537年、細川晴元(1514~1563)が六角定頼の娘を継室に向かえ、本願寺は石山の危機を察知し、近在する番衆に動員令を出している。「寺内之用心、町衆、加賀番衆、伊勢番衆、紀伊番衆、各々以周防与兵庫申付候」この場合の番衆は武器を持って参集するのであり、当然農民ではなく、国人(土豪)である。 1564年の三河一向一揆では、一揆側についた家康の家臣団の多くの名が残る。
僧が町衆と国人を集めて、寺内町を守るということから、私はオランダのカルビン派新教徒が商人の財力で傭兵をやとい、スペインからの独立戦争を始めた1568年の姿と思わず比べてしまいます。石山は信長との10年の戦いで落ちましたが、オランダは80年もの間戦争を続け、1648年についに独立ます。長崎の出島に居留するのですが、ほぼ同時代にあった日本唯一の宗教戦争を知っていたのでしょうか。
石山寺内町の絵図はない。「寺内六町衆」として、北町、清水町、南町、北町屋、新屋敷町、西町の名が古文書にあるが、さらに枝町なのか、横町、中町、檜物屋町、青屋町などの名前もある。秀吉の大坂城の城郭30ヘクタールが石山寺内町とする想定図が書かれているが、実証されていない。寺内町・貝塚の倍の面積であり、下京の半分の面積であるので、そのあたりなのであろう。
本願寺の太鼓で時間が決められており、宣教師は「夜に入りて坊主彼らに対して説教をなせば庶民多く涙を流す。朝に至り鐘を鳴らして合図をなしこれに於いて皆堂に入る。」と書いている。寺院と門徒が一体となり宗教的連帯感にもとづく生活共同体への宣教師の憧憬が見られる。
日常の紛争は、番衆が検察権を持ち、裁判は寺で行った。町の自治は、町衆より年寄・宿老・若衆が選ばれて行われた。屋号から、番匠、大工、土師師、檜皮師、縄結、塗師、鍛冶、桶結、鍋屋、墨屋、餅屋、薬屋、油屋、酒屋、扇屋などの商人・工人がいた事がわかる。農業を行う百姓の家も寺内町にあったようだ。
寺は、中世芸能の保護者でもあり、能狂言、松囃、田楽、猿楽を正月に呼んで楽しみ、町衆自身も演じている。夏の盆踊りには趣向をこらした踊りを創作し、堂の前では町対抗の綱引きを行っている。明船の寄港地は堺港であるが、1547年には「堂の下」まで明船が入っている。防備が固く、都市経営のコンセプトがはっきりしている寺内町故に、京より平和で豊かな都市生活が営まれていた。
「信長公記」では「日本の地は申すにおよばず、唐土、高麗、南蛮の船、海上に出入り、五畿7道ここに集まり、売買利潤、富貴の湊なり。」と書かれています。日本中から財が集まり、日本国内だけでなく、海外貿易を行うというのですから、信長は、一揆の制圧というだけでなく、堺に続いて大坂も欲しかったのでしょう。
秀吉は1582年山崎の戦いで主君・信長の仇を討ち、1583年3月に実力者・柴田勝家を滅ぼすと、織田家及び日本統治のいくすえが見えない中で、6月に大坂にいた池田恒興を美濃に出し、安土天主が燃えて1年で大坂城建設に向かいます。7月には茶会が催され、千宗易、津田宗及、今井宗久、松井友閑、荒木道薫、山上宗二らの堺衆が集められました。秀吉は堺衆を大坂に移らせます。このスピード感は、安土城天主が燃えた事から、信長は秀吉に中国地方平定後の日本および大坂の姿を以前より語っており、秀吉は、信長が描いた大坂を中心とした天下統一の姿の実現に走ったのだと思っています。
6月、本能寺の変の時、信長の三男・織田信孝は、丹羽長秀、織田(津田)信澄(信孝の叔父)を従えて四国攻めの為に大軍を率いて大坂に来ており、顕如が退去した後、1580年8月に燃えた石山御坊跡に入っていた信澄を明智光秀の娘婿だからと殺します。ですので、石山御坊が2年を経て信長の大坂城と様かわりしていたのは明らかですが、秀吉は大坂城を自分のものとしました。
石山戦争 1570~1580 顕如(1543~1592)
11代宗主・顕如(1543~1592)は、元亀元年1570年、「戦国武将との対立を避けよ。」との9代宗主・実如(1458~1525)の定めを破り、信長〈1534~1582〉と対立し、門徒衆に檄文「本願寺防衛の為に、一揆を蜂起せよ。」を送りました。地方の交通の要所には寺内町が展開されており、寺内町・長島を筆頭に法王の支城ともいうべき役割を果たしました。
信長との対立の前に、本願寺は摂津大坂の領主細川氏に対して、年貢地子収納権、諸公事免除、徳政令除外などの権利を獲得し、戦国時代の領主の性格を強めていきました。「王法と仏法」とは今風にいうと「政治と宗教」であり、今もその扱いは国々の事情によって様々ですが、本願寺は戦国時代の信長包囲網の一つとなり、激を飛ばしました。
その包囲網とは、
①元亀元年(1570年)4月、信長は朝倉氏の越前へ遠征を行うが、北近江の浅井長政の裏切りにより撤退する(金ヶ崎の戦い)。同年6月末、信長は徳川家康と共に姉川の戦いで浅井・朝倉軍を破り、近江南部の支配権を確立し、近江北部も窺うようになった。また、この姉川の戦いの結果、横山城が陥落したこともあり、浅井・朝倉軍は琵琶湖東岸を南下することは困難となった。
②同年6月、信長は野洲河原の戦いにて、甲賀から北上し湖南に進出した六角義賢・義治父子を退けた。③同年6月19日、三好三人衆の1人三好長逸に通じた摂津の荒木村重が、池田城から主君・池田勝正を追放してしまう。これにより、同年7月21日、三好三人衆が摂津に再上陸、野田城、福島城を拠点に反織田の兵を挙げる。同年8月、信長は三人衆を討つため足利義昭を奉じて摂津へ遠征し、野田城・福島城の戦いが発生した。この戦いは終始信長・義昭優勢で進み三好三人衆は和議を結ぼうとするほどであった。
その戦の最中の9月13日、石山本願寺法主顕如が三好三人衆につき檄文を発し、織田軍を攻撃しました。
包囲網は縮まり、浅井・朝倉軍が琵琶湖西岸を南下、信長の重臣森可成と弟信治が交戦するも敗死し、先行して京の様子を伺っていた柴田勝家から火急の報を受けた織田信長は浅井・朝倉軍に対処すべく、同9月23日、三人衆の討伐を諦め、摂津からの撤退を開始せざるを得なくなる。その時、27日には三好の家臣であり、蓮如のひ孫を妻とする篠原長房率いる阿波・讃岐の軍勢が兵庫浦に上陸し山城へ向けて兵を進める。
④織田信長と比叡山延暦寺に篭った浅井・朝倉軍との対陣は年末まで続き(志賀の陣)、
⑤加えて顕如の命を受けて北伊勢で蜂起した伊勢長島一向一揆衆に、信長の弟信興が討たれるなど、織田家は各地で反信長勢力との戦闘を余儀なくされる。
同年10月30日、織田信長は本願寺顕如との和睦をせざるを得なく、さらに、11月には六角義賢・義治父子と和睦。また、篠原長房とも松永久秀の仲介により篠原と松永の間で人質交換が行われ11月21日に和睦。仲介の労をとった朝廷と足利義昭のおかげで、信長は助かるのだが、あくる元亀2年になると、
⑥義昭は自らに対する信長の影響力を相対的に弱めようとして、浅井氏・朝倉氏・三好氏・石山本願寺・延暦寺・六角氏・甲斐の武田信玄らに御内書を下しはじめる。
石山戦争10年の歴史をこのペースで書き続けると、以後とんでもなく長くなりますので短くまとめます。紀州の番衆、根来衆が鉄砲と弁当を携えて石山に入った事、毛利が兵糧を船で石山に運び入れた事が、信長重臣の佐久間信盛をして石山を攻めあぐめさせ、10年戦争となりました。戦争終了後に佐久間は信長によって切り捨てられます。
信長包囲網は、朝倉、三好、六角、義昭、武田と信長に各個撃破され、毛利の村上水軍は伊勢の九鬼水軍の黒船に蹴散らされ、顕如は1580年に三度目の講和を求めます。
朝廷の仲介で、4月9日、顕如は石山本願寺を嫡子で新門跡の教如(1558~1614 大谷派12代門主)に渡し、紀伊鷺森御坊に退去します。
しかし、雑賀や淡路の門徒は兵士であり、石山に届けられる兵糧で妻子を養っていたため、この地を離れるとたちまち窮乏してしまうと不安を募らせ、信長に抵抗を続けるべきと教如に具申し、教如もこれに同調し、4ヵ月間戦い続けました。元関白・近衛前久の説得によって、教如は本願寺を信長に明け渡しますが、その直後に本願寺は出火し、伽藍は灰燼に帰しています。
ルイス・フロイスの日本史に「16世紀後半の紀伊は仏教への信仰が強く、4つか5つの宗教がそれぞれ「大いなる共和国的存在」であり、いかなる戦争によっても滅ぼされることはなかった。」とあります。それらのいわば宗教共和国について、フロイスは高野山、粉河寺、根来寺、雑賀衆の名を挙げています。
越前の朝倉が滅びた後には、一向宗が越前を支配し、柴田勝家は1580年まで一向宗と戦います。秀吉の一向宗との戦いは1585年の雑賀攻めまで続けられました。1593年に顕如の3男である准如(1577~1630)を本願寺12代宗主とし、聚楽第を中心とした城下町・京都の堀川6条に本願寺を置かせます。1602年に家康は、廃嫡されていた教如に本願寺の対面に東本願寺を作らせ 、大谷派12代門主とし、本願寺末寺を二つに分けて本願寺勢力を削ぎました。
在郷町へ
宗教的連帯感にささえられた運命共同体として、戦国の世に自衛する町を建設し、さらに町のネットワークによって、平和な都市生活を豊かに展開した寺内町でしたが、信長・秀吉。家康によって解体されます。
畿内を中心に各地に多様な展開をとげていた寺内町は、生活共同体どしての純粋さより、持っている経済力と人口の集中によって、商業・工業を担う「在郷町」としての性格を強めていきました。本願寺教団は滅びたわけでなく、信長の城下町・岐阜、蒲生の城下町・日野、秀次の城下町・近江八幡と、近世になって在郷町に転化していった城下町とは様相が違います。
貝塚は、顕如が紀伊鷺森御坊から1583年に移ってきて、1585年に大坂天満御坊に移るまで、本願寺御坊となりますが、秀吉の雑賀攻めに抵抗しませんでした。願泉寺の住職は歴代「ト半斎」と名乗り、免税の特典を得て、封建領主のように振舞います。和泉木綿の生産と集散の中心となり、海運業も盛えて、元禄9年1696年には、戸数1536戸、人口7110人を数えたと言われてます。
街区の平均面積は、0,19haと、とりわけ小さく、岸和田、桑名、金沢、福井と同じ「中世型」を示しています。
岸和田
岸和田城は猪伏山(いぶせやま)と呼ばれた小高い丘の上にあり、紀州街道を城の足元に置き、海に面している。 守護・細川の守護代・松浦氏が岸和田城にいたとある。永禄3年(1560年)には三好実休が大規模な改修をし、十河一存、安宅冬康を総大将に2800兵を籠城させたとあり、大垣城と同じように中世の城が拡大、整備されたのであろう。1576年信長が天王寺砦の戦いをしたとき、毛利が貝塚に兵糧をいれたので、信長は1577年に紀州攻めを行い、1580年石山戦争に勝って、1581年に蜂屋頼隆を岸和田城主とする。
天正11年(1583年)豊臣秀吉は、岸和田城を中村一氏の配下に置き、根来衆、雑賀衆、粉河衆などの一揆衆討伐を命じる。そんな中、秀吉包囲網がしかれ、天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いの留守を狙って、根来衆、雑賀衆、粉河衆連合軍は総数3万兵が侵攻し岸和田城に攻城戦を仕掛けてきた。これに対して中村一氏と松浦宗清は城兵8000兵で守り切った(岸和田城攻城戦)。秀吉は根来衆、雑賀衆、粉河衆連合軍を追討するため、天正13年(1585年)に岸和田城に入城し、そこから貝塚の諸城を落城させ最後に積善寺城、沢城を開城させた(千石堀城の戦い、紀州征伐)。
この頃に、今に残る城と城下町が作られと思われる。この合戦の後、秀吉は小出秀政を岸和田城の城主とした。最初4千石であった小出秀政の知行も、文禄4年(1595年)には3万石に拡大した。『岸城古今記』にはこの年から天守が築城され慶長2年(1597年)に竣工したと記している。
元和5年(1619年)松平康重の代に城下が整備され、寛永17年(1631年)岡部宣勝の頃、城の東側に2重、西側に1重の外堀と寺町が増築されている。城郭に町人地を一部抱き込んで「総堀」としているが、城下町全体を環濠城塞化はしていない。貝塚の規模と比べると、中村一氏が岸和田に入ったころは、この「総堀」の内側が「城下町」であり、環濠城塞化していたのだが、岸和田藩5万石となり、町域が「総堀」を超えて広がったのだと思われる。
江戸の城下町は、寺内町のように環濠城塞化せず、攻城戦に使われることなく、都市民の一体感は見上げる天守に、牛頭天王祀りでしかない。
寺内町は、町衆が一体となって生活共同体を侍から守るべく、環濠城塞化し、町衆の自治が行われたのですが、侍が寺内町を打ち砕き、家康は幕府を開き、封建制度の下で藩を置き、全国統治をします。 「一国一城の令」により、藩の統治は藩主の住むただ一つの城下町で行われました。