刈谷と言えば、JR駅前に大きな本社工場を持つ、豊田自動織機、デンソー、アイシン、豊田紡織を思い浮かべましょう。
刈谷には亀城公園と名付けられた公園が衣浦湾に面してあり、亀城という城の跡なのだとは理解していても、城壁、櫓はもちろん、石垣すらなく、城下町があったことは忘れ去られています。
立派な正保絵図が残されており、城下町であったのは間違いないです。探ってみましょう。
地勢から、刈谷の歴史を振り返ります。
尾張と三河の国境を名乗る「境川」は、実は三好カントリー倶楽部の長田池から流れ出しているのですが、その北にある猿投山の東部丘陵地帯と衣浦湾を結んでいるイメージがあるのでしょう。
衣浦湾は、縄文海進の時は当然幅が大きく、刈谷のある碧海台地(標高10m)には、貝塚が多いです。
弥生時代には、川沿いに水田開発が行われましたが、天白川、庄内川、木曽川の尾張と、矢作川、豊川の三河の間では、王となる財を持つことはできませんでした。豊田佐吉がここの土地を買うまでは。
美濃と尾張の縄文時代から古墳時代までは、「継体大王と尾張の目子媛」に書いています。三河のそれらは、矢作川沿いは「西尾城下町with岡崎」、豊川沿いは「田原城下町with吉田」に書きました。
刈屋藩は、今の刈谷市だけでなく、知立市、高浜市、安城市の部分も含んでいました。知立神社の門前町であり、東海道の宿場町となった池鯉鮒村の方が刈谷藩より力が強く、刈谷町から独立して知立町となりました。
荘園の名前として、今も地名を残す猿渡川沿いの重原、野田の方が台地の上の刈谷より古くからあったのは間違いがないでしょう。貧しい藩は、三浦氏・土井氏と領主が続けて重税を課し、寛政の一揆(1792年)が起きました。幕府は罰として、福島藩と領地を交換させます。実質的には減封です。福島藩としての史跡「重原陣屋跡」、「野田八幡宮」の祭りが残されています。
碧海台地は、明治用水によって開発されました。刈谷市の北部は用水がなく、今もため池が多く残されています。
江戸時代は衣ヶ浦(ころもがう ら)と呼ばれ、波穏やかな良港として活躍し、常滑焼、三河木綿、酒・酢・みりんなどの醸 造業の発展を背景に繁栄しました。昭和32年(1957)に湾内の半田、亀崎、刈谷、高浜、新川、平坂、大浜の諸港が統合されて「衣浦港」となったのですが、戦国時代に刈谷のこの地に港を設けて、桑名のように稼いだという記録はありません。
では、どうしてここに城下町ができたのでしょうか。政略上の城がここに必要だったのでしょうか。戦国大名を追うしかないようです。
水野 忠政(ただまさ)1493年~1543年
1476年文明8年に、尾張国知多郡小河(現在の知多郡東浦町)に緒川城を構える水野貞守(さだもり)が、尾張国と衣浦を挟んで隣接する三河国碧海郡の刈屋に城を構えました。後の刈屋城の南1kmのところでした。苗字の地とされる春日井郡水野郷(瀬戸市水野)に地頭として現れたのが水野氏の最初ですが、治めた知多郡阿久比郷小河村から、小河の姓も名乗っていました。
1467年に応仁の乱がおき、武士は京での役職を捨てて地元に戻り、自らの領地を経営し、他の領地を切り取るという戦国時代になりました。緒川城と対岸の刈屋城で、衣ヶ浦に流れ出る、知多半島の石ヶ瀬川、岡田川、三河の境川、逢妻川、猿渡川の物流を押さえようとしたのでしょう。流路を見れば、三河の川の方が豊かですので、緒川城の水野貞守は刈屋が欲しかったでしょう。
水野忠政は、1533年に刈屋の城を、現在の地に移します。中世の館城ですが「亀城」という名前から、日本庭園の「亀島」のように、水の中で亀の甲羅のごとく城が浮いていたのでしょう。土浦の「亀城」は全国にいくつかありますが土浦が有名です。
織田信長の父、信秀(1511~1552)が安城合戦(1540~1549)を行い、三河に攻め込むときは、忠政は織田に協力しますが、一方、岡崎城主松平広忠(1526~1549)、形原城主松平家広に娘を嫁がせて、領土の保全を図っていました。於大の方(おだいのかた)は1543年に徳川家康を生むのですが、忠政が織田につき、安城城を織田に取られたので、安城松平家4代目当主の広忠は、家康は手元に置き、於大の方を離縁します。
水野信元(忠政次男、於大の方の異母兄)?~1576
忠政死後は水野信元(忠政次男、於大の方の異母兄~1576)が継ぐのですが、信元も今川氏と織田氏との境目の武士として今川氏の西三河進出に伴って今川方につくこともあり、確実に織田方として定着するのは、織田信長(1534~1582)が織田氏の家督を継いで知多郡の支配の立て直しを意図した1552年以降となります。
1560年5月19日、信長は桶狭間の戦いにおいて駿河の戦国大名・今川義元を討ち全国デビューを果たしますが、その時、信元は緒川城から出て、大高にいます。刈屋城は弟の水野信近(忠政3男)が守っていたのですが、戦いの直後に今川家臣・岡部元信に城を攻められ戦死、そこで信元は駆けつけ、信近の首級と刈谷城を取り戻します。この結果、緒川の信元が刈谷領を接収することになり、重原城も信元が奪取します。同年6月18日に、松平元康が重原城に攻め寄せるも、これを撃退しています。
桶狭間は、水野家の支配下であったので、合戦において水野家の功はあったのでしょう。首をあげたのは水野清久と名は残っているのですが、その血脈はわかりません。桶狭間への進軍経路と城を描いた絵から見て、刈屋城の戦略的価値はないように思われます。衣浦の水をさけ、今川の2万人の大軍は鎌倉街道を使っています。港として有効な鳴海城主が今川方についたことからこの戦いが始まり、今川方についた海部郡の服部氏は舟を集めて大高の沖に来ています。それらに比べ、衣浦の切り込んだ湾に戦略的な価値はありません。
甥の家康を支援し、信長と家康の同盟を仲介し、その後も水野惣領家として、信長に仕え、三方ヶ原の戦い、長島一向一揆、長篠の戦いを、戦います。
しかし1575年水野信元は突如、信長に武田勝頼への内通を疑われ(佐久間信盛の讒言によるとされる)、家康を頼り逃亡をはかるのですが、織田信長の命を受けた家康により殺害されます。水野家は断絶します。4年後、信長から正室・築山殿と嫡男・松平信康に対して武田氏への内通疑惑がかけられ、家康は彼らを殺しています。
水野忠重(ただしげ)1541年~1600年
水野忠政の九男(末子)であり、於大の方の実弟です。1580年、信長は佐久間信盛を追放し、家康の配下にいた忠重を水野家の当主として刈屋に置きます。『寛政譜』では、異母兄・信元の冤罪が明らかになり、信長が悔いたとあります。忠重は家康から離れ、信長の子・信雄の家臣となります。
小牧・長久手の戦いでは、信雄の配下として戦いますが、信雄が秀吉と講和してからは秀吉の家臣となります。秀吉の命令で一時伊勢国神戸に転封されるも、ほどなく刈谷に復し、秀吉の死後は甥の徳川家康に従います。関ヶ原の戦いの直前に西軍の加賀井重望に殺害されました。
水野勝成(かつなり)1564年~1651年
小牧・長久手の戦い1584年以降は、家康の下で行動し家康配下の井伊直政と武勇を競い、名をあげるのですが、父・忠重の部下を自らの不行状を報告したとして斬り殺したことから、忠重は激怒し、勝成を勘当します。
1585年、織田信雄の肝煎りで秀吉の陣営に入った勝成は、紀州雑賀攻めに参加し、同年に第2次四国征伐が行われることになると、仙石秀久家中としてこれに加わります。勝成は秀吉から摂津国豊島郡神田728石の知行を授かっていたのですが、知行を捨てて中国地方に逃亡し「六左衛門」と名乗ります。
1587年には肥後領主・佐々成正に1,000石で召し抱えられます。肥後国人一揆が起きると菊池城攻めで一番槍をあげ、隈本救援戦で先鋒となり、ますます武名をあげます。乱後に成政が一揆発生の責めを受けて切腹させられ、小西行長が肥後を領することになると、豊前領主・黒田孝高に仕官します。
豊前国人一揆では野中鎮兼が籠もる長岩城を攻めあぐねた黒田軍が退く際に後藤基次と殿を争います。その後、豊臣秀吉に拝謁するため海路大坂に向かう孝高の嫡男・黒田長政に随伴したのですが備後国鞆の浦で下船し、また出奔します。
1588年には、小西行長に1,000石で仕官します。1589年の天草五人衆の反乱(天正天草合戦)では、行長の弟・小西主殿介の副将を務め、当時小西家に仕官していた阿波鳴門之介と戦功を競い、志岐鎮経の本拠・志岐城を加藤清正の援軍と共に攻略、さらに天草種元の本渡城を落とします。その後、行長の元を去り加藤清正、次に立花宗茂に仕官したものの、いずれも間もなく出奔しています。
ここから勝成の流浪生活が再び始まり、その足取りは、さまざまな伝説と憶測と逸話に彩られ、諸説紛々としています。最終的に備中国成羽の国人・三村親成の食客となり、1594年9月、月見会の席上で作法上の問題で茶坊主の処置を無礼なりとして、これを斬ってまた出奔するですが、翌年正月、再び成羽に帰り三村家の食客になります。勝成は世話役の娘に手を付け子供をもうけ、これが室となる於登久(おとく)であり、この子供が後に福山藩第2代藩主となる勝俊です。
まったく、ほんとか?!と思わせる、豪傑・勝成の奇談ですが、1598年、秀吉の死去により豊臣政権が混乱の様相を呈し始めると、翌1599年4月、勝成は妻子を残して上洛し、従弟の徳川家康の幕下に加わります。そして、家康の要請を受けた山岡景友の仲介により父・忠重と15年ぶりに和解します。
1600年に家康に従って会津征伐のため下野小山に宿陣しています。家康から300人扶持1万石を受領。7月18日、三河国池鯉鮒にて、忠重は加賀井重望から西軍に誘われるも断ったので殺害されると、勝成は刈屋城に入り、水野家の当主となり、家康の側近を務めます。勝成は関ヶ原への従軍を家康に願いでるが許されず]、大垣城への抑えとされ、石田三成が出撃した直後の大垣城を攻めました。
関ヶ原の戦いの結果、日本全国の「城割」が行われ、1603年に江戸幕府が生まれます。勝成は刈谷藩の初代藩主となります。1608年、勝成は備中国成羽から妻子(お登久と勝俊1598~1655)を呼び寄せ、同年勝俊は徳川秀忠(1579~1632)に仕えることになりました。
勝成は、大阪夏の陣では総大将にも関わらす、一番槍を2度も得、1615年に行われた大坂の役の論功行賞では「戦功第二」とされ、郡山に3万石加増の6万石で転封されるのですが、4年後1619年、福島正則の改易に伴い秀忠から備中西南部と備後南部の福山10万石を与えられます。外様大名しかいなかった中国地方で、初めての譜代大名となり、西国の監視役を行う故にか、10万石に似合わない巨大な城を新たに築きます。備後国は勝成が放浪時代を過ごした場所であったため地の利に詳しく、受領に当たっては幕府に尾道と笠岡との交換を要求し、認めさせたといわれています。
1638年、75歳になっても、幕府から島原の乱鎮圧への参加を要請され、勝成は嫡子・勝俊、孫の水野勝貞を伴い約6,000人を率いて幕府軍に加わります。
水野勝成の福山城下町10万石 1622年頃名古屋より5年、他の都市より20年遅れている。
1619年に福山に移されると、嫡子・勝俊(1598~1655)は福島正則の築いた鞆の鞆城(後の鞆町奉行所)に居住したため「鞆殿」と呼ばれた、とあるので、父子で近世城下町を作っていったのだと思います。お手本は、福島正則50万石が作った広島城、池田輝政52万石の作った姫路城、宇喜多 秀家57万石の岡山城、と身近にありました。福山は10万石ですので、大垣城10万石と同規模(面積1.11km²、3層の天守)でよいのでしたが、50万石に相当する町1.77km²と5層の天守を持つ城でした。
刈屋の城下町は誰が作ったのだろうか。
刈谷市歴史博物館は、水野勝成の波乱に満ちた人生ストーリーを初代藩主と言う事実とつなげ、城下町形成を勝成の仕事として、以後の水野、松平、稲垣、阿部、本多、三浦、土井の9家、22人の譜代大名の名を連ねています。
1600年に刈屋城の主となって、1619年まで君臨していたので、彼が作ったのは間違いないですが、城下町プランを見るに、1533年に刈屋に城を築いた水野忠政の館城は、水野信元(1576年没)となっても変わることはなく、水野忠重(1600年没)となると、織田信雄の清洲城(1586年大改修)も当然見ているのですが、刈屋城を天守を掲げて城下を威圧しなければならない城とはとらえておらず、本丸に陣屋のような屋敷があっただけなのでしょう。
水野勝成は大坂の陣で活躍して、家康の期待にこたえますが、関ヶ原の戦い以後の豊臣包囲網に、刈屋は戦略的な意味をもたないので、城と城下町は作られなかったのでしょう。
家康も勝成を攻め駒として使うだけで、豊臣包囲網の守りの駒として勝成を新たに配することはしませんでした。豊臣包囲網は、姫路城、明石城、亀山城、尼崎城、二条城、膳所城、彦根城、岸和田城、和歌山城、伏見城、津城、そして名古屋城でした。城づくりで家康が頼ったのは、縄張りの名手・藤堂高虎(津城)であり、人としては、水野勝成より、池田輝政(姫路城)、井伊直政(彦根城)が信頼されたのでしょう。
正保絵図ですので、17世紀中ごろの絵なのですが、町人地は城下町の5.9%(福山は18.5%)しかありません。東海道を吉田や岡崎のように引き込むことはできず、城下町の消費者である武士に、商品を供給するだけの町人地であり、藩内の流通の中心とはなりえなかったのでしょう。
西尾藩も2万石であり、都市面積は0.6km²と差はないのですが、西尾の城下町の町人地は22.5%あります。全国を見渡して刈屋の町人地の少なさは異常であり、さらに寺社地がないことも異常です。都市の要塞、娯楽としての寺社は町のエッジにおかれた(参照:福山)のですが、ありません。
城郭について
二の郭、三の郭と墨書されているのですが、本丸には帯廓を回して、馬出しのような形を作っており、本丸の外側に、4重の堀が掘られています。17世紀の内に三の郭は三の丸と言い換えられ、そこに藩主の館が移ったのでしょう。正徳期の絵図では「居宅」と太く書かれています。
城は明治「廃城令」によって、日本全国の城のほとんど壊されるのですが、石垣を壊すのは大変なので、そのまま残り「荒城の月」が歌われました。しかし、この刈屋城は石垣がなく、もともと石垣を積んでいなかったと思います。正保絵図ですと、衣浦湾への護岸として石垣と、堀の腰巻石垣も帯廓に少しあるだけで、描かれていません。勇一描かれているのは、二の郭から表門、多門櫓の石垣だけです。訪れる人に見栄えを良くしたかったところです。
ブラリ、刈谷城下町探訪
刈谷市歴史博物館には、巨大な山車が2台、肴町と新町と書かれたのがおかれていました。名古屋市の「三英傑」と同じような「大名行列祭り」に目玉として参加する出しであり、知立神社の山車のように受け継がれたものではありません。
昭和40年を最後に山車の参加は無くなっていたのですが、平成14年(2002)に約40年ぶりに修復された肴町の山車が大名行列に参加し、平成21年(2009)からは修復された新町の山車が祭りに参加しています。
絵図では「本町」以外は「町」としか書かれていませんが、市原稲荷神社(城郭の南)の祭礼に参加した山車の起源の記録から、本町が貞亨4年(1687)に、中町が元禄14年(1701)に、肴町が宝永2年(1705)にあったことが確認されます。その後、寛政9年(1797)に新町、明治10年(1877)に正木新道、市原町が参加をしており、最大では6台の山車が祭りに参加していました。私の住む東区の山車と同様な規模ですので、城下町としての発展があったのでしょう。
私が子供頃、昭和40年代には、刈谷市にも当然アーケード街がありました。
6台もの山車が引きまわされた刈谷の繁栄は、当時の地図から見えます。今は「札ノ辻」にある旧東海銀行しかのこっていません。江戸の絵図、明治の白地図と比べて、商店がとりついている、東西3本とそれへの横町3本に商店が広がったのでした。
どこかに、城下町が残っていないかと、探しました。「町口門」というのが刈屋の特徴です。町人を武家地に入れないというには大きすぎる門です。門と言うより、この広々した空間は「火除地」として設けたのだと私は思います。浅草寺の前もありました。都市の火事対策というより、戦う水野家ですので、戦いで攻められる時、真っ先に建て混んだ城下町が燃やされます。その火が武家地に飛ばないようにしたのでしょう。
東西の3本の道と、川筋を追いました。町人地は東西の尾根伝いに開拓され、その南北は地盤が低くなっています。江戸時代には人は住んでいなかったでしょう。
南に寺が並んでいるゾ。これは寺町が作られたのか?と、行ってみました。
城下町を落ちたところに川があり、その川の向こうの上がったところにある寺ですので、もう城下町の外です。
「そもそも、水野家の菩提寺がこの6つの寺の中にないのはおかしい。」と探すと、水野 忠政(ただまさ)1493年~1543年の最初の城「刈谷古城」の近くに「楞厳寺りょうごんじ」が水野家の菩提寺とありました。
今も家康生母の伝通院(於大の方)ゆかりの品を所有とあります。東照宮大権現様の生母ですので、江戸時代は大切にされたのでしょう。水野家は福山に菩提寺を作りますが、境内には「水野家霊所」が今もあります。
正徳期の絵図にある寺では、十念寺浄土宗がありますが、正保の絵図にはありません。元禄期に城下町のすぐ外に作られたのではないでしょうか。
刈谷市歴史資料館、建物は素晴らしいですが、展示物がいけません。人口15万人の刈谷市は税収はあるのですが、展示は広告代理店任せであり、自前の学芸員を持っていないのでしょう。