正保の絵図の中でも美しいことで有名な大垣。安八間郡(あはちまのこおり味蜂間郡)と、揖斐川沿いの郡として古代より知られていた。
672年の安八磨郡には大海人皇子(後の天武天皇)の湯沐令として多品治がおり、郡全体が大海人皇子の湯沐邑だったと考えられる。壬申の乱では皇子のために真っ先に兵を挙げた。
1530年の洪水で、長良川に根尾谷からまっすぐ降りていた根尾川(掘削水路・糸貫川の流路に近い)が、山を出てすぐに西にむかい、揖斐川に合流した。私たちは藪川と言う。
1554年(天文13年)に織田信秀の攻撃により落城したとあり、一旦尾張が取るが、1559年(永禄2年) に桑原直元(西美濃三人衆の一人、氏家直元1512~1571)が城主となり、1563年(永禄6年)に城の大規模な拡張を行い、堀や土塁に手を加え、総囲いなどが整備された。大垣城の誕生である。
木曽川は墨俣で長良川と一体となっていたのだが、天正14年(1586)の大洪水で大きく流れを変え、その8年後の文禄3年(1594)、秀吉は新しい現在の河道を幹線流路とする大規模な工事を行い、木曽川という名が定着した。
信長は長良川河畔の岐阜を美濃の中心としたのだが、4里(16km)離れた揖斐川河畔にある大垣は、東山道・関ヶ原をにらむ城下町としての価値を持つこととなった。賤ケ岳の戦いの後、秀吉は1583年(天正11年)池田垣興を大阪から大垣に移した。翌1584年(天正12年)の小牧・長久手の戦い、1600年(慶弔5年)の関ヶ原の戦いでは、木曽川河畔の犬山と共に、これら三都市が重要な拠点となった。家康が岐阜城を廃し加納城を築くと、大垣は美濃街道により名古屋と直接つながり、ますます中山道・美濃の要衝となった。
はじめに
半世紀前の私の卒論では、正保絵図を中心に城下町100カ所を対象としました、なかでも大垣の正保絵図は、際立って美しいです。寛永の姿をオランダ渡りの平板測量をして、狩野派の絵師が仕上げたものです。
正保絵図とは、正保元年(1644年)に幕府(家光)が国絵図、郷帳、城郭図と城下町図を書いて提出せよと命じたもので、 今は、国立公文書館デジタルアーカイブでデジタル画像が見られます。城の軍事性を完全に幕府が把握するということを通じて、徳川幕府の絶対的な権威を諸大名にはっきり認識させる意味を持っていました。
私が城下町図を手にして町を歩いているのはわずかしかありません。名古屋、金沢、京都、江戸となると大きすぎて一日では回り切れませんが、大垣10万石・1km平方は手ごろです。今も湧き水が出ており、水路も残っているので名物の水まんじゅうを食べながら、是非、夏に訪ねてみてください。
戸田氏鉄(とだうじかね)1576~1655
戸田氏鉄(とだうじかね)騎馬像。昭和33年コンクリートで復元された天守の前に平成6年に建てられた。
大垣城下町を訪ねたのは35年前です。清水建設の社宅、世田谷の砧アパート2DK55㎡の下の階に、戸田一家が引っ越して来て奥様の話を聞き「本巣郡の隣だから墓参りのついでに行こう。」でした。
戸田の殿様(氏鉄1576~1655)は寛永11年(1634年58歳)に摂津尼崎から移封され、寛永19年に東大手門の石垣・舛形を修造し、正保4年(1647年)に二の丸石垣を改築、慶安2年(1649年)には太鼓門・舛形を完成させ、治水・新田開発工事により大垣藩を安定させました。氏鉄は明治維新まで戸田の殿様としてあがめられ、代々の殿様と共に常葉神社に祀られています。
彼は、豊橋市仁連木町に生まれ、家康の近習から出発し、慶長5年(1600年24歳)関ヶ原の戦いに父・一西と共に従軍し、豊臣を牽制する膳所城(大津)を慶長8年(1603年27歳)に任され、元和元年(1615年39歳)摂津尼崎5万石へ移封されました。寛永14年(1637年61歳)の島原の乱(幕府軍13万人)では、大垣から2500人を率い幕府軍の副使として向かっています。東海道(美濃路大垣宿)・中山道(赤坂宿)の両面を彦根藩井伊家と共に守る譜代大名でした。
第1章 地勢、古代から近世・秀吉まで
都市の誕生は地勢から始めるのが、ブラタモリのおかげで常道となり、私は喜んでいます。古代の壬申の乱(672年)では、天武天皇は吉野を出て、名張、伊賀と山越えをして伊勢に抜け、鈴鹿(養老)の山の東側を美濃に上ります。安八郡で尾張、美濃の兵を集め、畿内との関所、不破の関(美濃国府:垂井町)を攻めます。
古代の主要街道の東山道は、不破の関を超え西に向かうのに、揖斐川、長良川を越えるために川上、北に折れていました。本巣郡の糸貫町を通っていたのです。真桑瓜で知られる真桑に、古道の面影が今も残っています。
本巣町の船来山古墳が示すように、揖斐川の扇状地の方が洪水の恐れがなく豊かでした。米の収穫高も尾張より美濃の方が多かったのです。
現在の安八郡は、大垣という大都市が生れて北と南に分断されていますが、古代は川に沿って安八郡が敷かれていました。
鎌倉幕府が出来てから、京と結ぶ鎌倉街道(後の東海道)がいくつもの川越えをして繋がりますが、まだ大垣は誕生していません。
天文年間(1532~1555年)に大垣城が出来たと伝えられていますが、「新撰美濃志:昭和6年発行、中川区中野新町生まれの岡田敬著」では、永禄4年(1561年)に斎藤龍興(14歳)の命受けて城主の氏家直元が城の土塁を高く、堀を深くし、同6年から7年にかけて現・松の丸を郭内に入れ、矢倉、総囲で城郭を堅固としたあります。
大垣城は、対尾張の織田信長との戦いでなく、対近江の六角義賢、浅井久政との戦いの為に、河岸段丘と川を利用して現在の本丸、二の丸が作られたのでしょう。
天正10年に信長が討たれ、天正11年に柴田勝家、織田信孝が滅び、秀吉は、池田恒興から摂津12万石を取り上げ、信孝の旧領美濃13万石を代わりに与えました。池田恒興は大垣城に入り、岐阜城には長子・元助が入り、小牧長久手の戦い:天正12年(1584年)では、恒興は犬山城を落とし、徳川家康は小牧山に陣を張ります。秀吉は3月21日に兵30,000を率いて大坂城を出発、3月25日に岐阜に進み、3月27日に犬山に着陣するも、4月9日池田親子は森長可と共に長久手で討ち死にし、秀吉と家康の正面からの戦はありませんでしでした。木曽三川の東側での戦いでしたので、大垣城は合戦記に出てきませんが、天正13年(1585年)7月、秀吉は関白となってその地位を固めつつ、徳川家康・北条氏直討伐の備えとして、15万人の兵糧を大垣城に備蓄しています。大垣城は木曽三川の西側の拠点という位置づけがここに定まりました。
ところが、天正13年11月29日(1586年1月18日)、日本列島中央部を「天正大地震」が襲い、大垣城は崩壊します。さらに、天正14年(1588年)6月24日に木曽川が洪水をおこし、流路を南に替え、長良川との合流はほぼ現在の流路となりました。美濃と尾張の国境も変わりました。10月27日大坂城において、家康は諸大名の前で、秀吉に臣従することを表明しました。
正保絵図のクローズアップ 本丸、二の丸、三の丸
堀の幅、深さを書かされました。城は丸裸にされ、幕府に提出したのでした。
大垣城天守の筒瓦には天正16年6月の銘があり、城郭の更生は急がれたようです。文禄(1592年頃)秀吉は木曽川の河道全域の堤を作らせ、濃尾平野を分流していた小河川は一本の大河・木曽川にまとめられます。秀吉は犬山城1万2千石に石川 貞清を置き、同時に、信濃木曾の太閤蔵入地10万石の代官も務めさせ、木曽の材木を都の普請に使います。
大垣城は、慶長元年(1598年)秀吉の家臣である城主伊藤祐盛が大垣城を一新したとありますので、犬山城天守築城と同じ頃に同じような秀吉の城「望楼型」天守を作り、治水工事と共に本丸、二の丸を環で囲む三の丸が作られたのでしょう。
第2章 関ケ原の戦い、徳川家康の城(都市)づくり
慶長5年(1600年)9月15日関ケ原の戦いで西軍が負けた後、23日に、石田光成が前線基地としていた大垣城は家康に開城しています。城は燃えてはいないようです。戦い後に在番した松平康重は「今ある、7口をもつ外郭はなく、追手門内外、松の丸あたりは町屋であった。」と「新撰美濃志」にあります。
家康は慶長6年(1601年)、関ケ原での勝利から、日本全国の城割(領国の分配)と同時に、五街道の整備の令を発します。江戸幕府が慶長8年(1603年)に開かれる前でした。
東海道は京と江戸を最短時間で結ぶのですが、熱田から桑名への七里の渡しを使わず、大垣を経由して京にいたる美濃路も鎌倉街道の跡を踏まえて「脇街道」として整備されました。
家康は関ケ原の戦いのあと、大坂方の豊臣秀頼にそなえ、清洲城にいた福島正則を大阪の西の広島に移し、4男忠吉を清州に封じて尾張を親藩とし、木曽川の対岸の美濃は小藩分断策をとりました。
そして、家康は慶長13年(1608年)からわずか2年で、犬山から弥富まで50kmにわたって木曽川の尾張側の堤だけを大きく高くしたのでした。「御囲堤」と言います。尾張国を囲んで守る土塁の意です。大坂の役という豊臣撲滅戦争の為の発意でしたが、結果江戸時代を通じて、尾張藩民は水害からこの堤に守られました。3尺低い堤の美濃側は今までの倍の水量をうけ、慶長から宝暦の150年間で110余の洪水にあっています。
牧田川が揖斐川に合流するところに、烏江、栗笠、舟付の川湊があり、木曽川と桑名、そして陸路で琵琶湖につなぐ流通網があったが、1620年、大垣藩が久瀬川から開削した水門川により、従前の川湊の富を奪う。
桑名と大垣の水運でのつながりが、鉄路に引き継がれた。
美濃側は、集落と農地を共に輪形の堤防で鵜囲む「輪中」を作り、海水が水田に入るのを防ぐのですが、洪水は増え続け、宝暦4年(1754年)幕府は薩摩藩に、木曽三川の分流を命じました。40万両と藩士51名の自害、33名の病死の末に一年後に完成したのですが、木曽三川の完全な分流は、明治45年まで待たないといけませんでした。
明治29年、大垣城は水没します。この写真は東から見ています。
家康は慶長15年(1610年)から名古屋城の建設をはじめ、2年後に天守を完成させるのですが、名古屋城の完成は、慶長19年(1614年)の大坂の役ギリギリでした。
家康の「豊臣方への防御・攻撃」の意向に従い、徳川幕藩体制の下で、慶長18年(1613年)に、大垣城主・石川忠総は八幡郭の総堀り(水門川)、高橋筋、竹島町南総堀をつくり、城郭の構成を整備しました。4つの郭を持つ、都市・大垣の誕生は名古屋と同時なのでした。
豊臣を滅ばしたあと、元和6年(1620年)に城主・松平忠良は天守を改修しました。
大工・中井正清が素晴らしい層塔型の形として作り上げた名古屋城天守(1614年)の後に、多くのツマラナイ「層塔型」天守が作られていくのですが、現天守の千鳥破風が置かれた姿はこの元和の時代に建設されたと、外観の様式から思われます。
寛永3年(1626年)の徳川秀忠の5層の大坂城天守のようにツンボリ高いプロポーションです。
4層に見える松江城と違い、石垣を積み上げた内側に穴倉階(地下階)を持たない4層ですので、城下町からの遠望では、一層目は腰曲輪の石垣・多門櫓と一体となって、3層の天守にしか見えません。
天守台がある本丸の西側だけ腰曲輪より高いのは、天文の大垣城からこの地の地勢を利用して来たからだと推定しています。
第3章 城下町の形成は、代々の城主が行う
慶長18年(1613年)に、大垣城主・石川忠総が3つ目郭、八幡郭の総堀り(水門川)、高橋筋、竹島町南総堀をつくり、城郭の構成を決めたあと、城主は、松平忠良8年、岡部長盛9年、松平定綱2年と次つぎ変わります。戸田氏鉄(1576~1655)が寛永11年(1634年)に摂津尼崎から移封され、寛永19年に東大手門の石垣・舛形を修造し、正保4年(1647年)に二の丸石垣を改築、慶安2年(1649年)に太鼓門・舛形を完成させて、正保絵図の姿になります。
内藤昌研究室では、正保絵図を明治20年頃の陸軍の白地図と重ねあわせ、都市の復元図を作成していました。緑色は武家地、赤色が町人地、黄色が寺社地です。
① 四神相応をトポロジカルに設計
北:玄武 山
南:朱雀 湖
東:青龍 川
西:白虎 道
この四神は、高松塚古墳石室の絵で有名になりました。王の住まい(都市)は、このようにあれと中国から輸入され、平安京に使われていました。徳川幕府により全国一斉に150もの城下町ができますが、江戸も含めて皆、京の都市計画を見習いました。
② 四つの郭を作り、出入り口に舛形を設け、環濠城塞都市とします。
・一郭:本丸と二の丸を、環状に三の丸が囲む。
・二郭:7つ口によって外郭とつながる武家地。小橋口、大手(追手)口、南口、柳口、竹橋口、清水口、龍ノ口
・三郭:美濃路を城下に引き込み、郭の中に逆L字型に町人地を作りました。北東の名古屋口、南西の京口により、惣構(そうがまえ)の形を作っています。
・ 四郭:狭い水路はありますが、もう郭外です。伝馬町、船町、足軽町がある事から、惣構(そうがまえ)は早々に諦めています。名古屋の城下町でも、足軽町は町人地の外に置かれています。
京の寺町を習い、寺を街道の入り口に集めて防御の建屋とするのが都市計画の常道ですが、北西には三郭がないので、代わりに寺社を置いたのでしょう。
③ 私の卒論データより。町人地は中世の町割りの姿(0.46ha)をそのまま継続させています。
全国の一覧表を示します。桑名、大垣など町割り規模が小さい40間ブロック(20間×40間)の城下町を私は「中世型」と名づけました。中世からあった町に城郭を寄せて「城下町」としています。秀吉は、山陽道を制し、四国平定、九州平定をすると、配下の武将を畿内、北陸道、南海道、西海道において、60間ブロックの城下町(30間×60間)を作らせます。私は「桃山型」と名付けました。名古屋から東、80間ブロックの城下町(40間×80間)は江戸時代に作られたので「江戸型」と名付けました。
第4章 享保年間の絵図から
西川幸治先生の、「都市の思想」昭和48年NHKブックスから先生の絵と文を持ってきます。先生は享保年間(1716~1736)の絵図の中に、寛永年間の範囲を黒線で示していますが、この黒線は土塁とかの構築物を示すものではありません。
●一郭
本丸は東西40間、南北45間しかなく、御殿は本丸になく、二の丸東西28間、南北46間にあり政庁としての機能を果たしていました。25間の堀の外側に環状の三の丸があり、そこには、北西に竹蔵、北東に袋丸(松平忠良が城主の時は家老・柘植六兵衛の屋敷)、天神丸に米蔵、南東に焔焼矢倉(弾薬)と、大垣市の鳥瞰図と違って重要な貯蔵庫が立ち並び、天守と共に、城下町の政治権力を示していました。伊勢神宮本殿の様式に見るように、都市は余剰生産物の倉庫から生まれたものであり、国衙も城下町も大きな倉庫が領主権力を示すものとされたのでした。やがて運河沿いの町人地に蔵が並ぶ近世の景観が作られて行きます。
●二郭
幅10間~15間の堀で一郭から隔てられた、「郭内」「内曲輪」と呼ばれる重臣たち(2000石~300石)の屋敷地です。名古屋城では三の丸が相当します。二の丸御殿が狭くなり、ここの御下屋敷に殿様は日常的に住むようになり、やがて、その近くに寄合所、銭蔵、炭蔵、厩が建ちます。三郭とへだてる幅10間~15間の堀には、7つの口に番所が置かれ、「内曲輪」への出入りは厳重でした。
●三郭
二郭の東側に、惣構(そうがまえ)として、幅3間~8間の狭い幅の堀で囲われた郭です。美濃路を取り込んだ逆L字型の町人地に、中級武家地が町人地中町の裏に少しあります。
本町は天文の大垣城からあった古い中世の町です。大手口が二郭から美濃路に開いています。本町の北の端に名古屋口があり、その手前に高札場、町会所が設けられ、名古屋口の外には伝馬町(宿での馬の取り換え場)があるので、中世からの町を近世の都市計画に取り入れる工夫がされたのでしょう。
不思議な事に、本町の南は旅籠が多いのですが、大手口の前は美濃路大垣宿の脇本陣でした。本陣は、南口前の竹島町にありました。竹島町・俵町は永禄6年(1563年)に城主・氏家直元が城下町を拡大して生まれていますので、新町でなく古来町です。いわゆる大手門は追手門でなく、南口だったのでしょう。竹島町の北の町裏に獄屋がありました。
本町の東に中町があり、大垣城下の町人地の厚みを作っています。中央を八百屋町、南を瀬戸物町と言い、本町と中町を繋ぐ東西の道には魚屋が多く魚町と呼ばれていました。幅3間~8間幅の外堀が、運河・水門川、揖斐川、伊勢湾と繋がっていました。
いずれの町人地の町割は、門前町のそれと同じで、街道沿いに細長く連なっており、桑名城下町と同様に中世の町割です。
●四郭
下級武士と町人地があります。下級武士は、北から南に、歩行町、同心町、持筒町、手明町、足軽町と城下町の周囲にあります。
町人地は、中山道に向かう道沿いに岐阜町、名古屋に向かう道沿いに伝馬町の東への延長(寛永5年)、京に向かう道沿いに船町(元和6年)、水主町、久瀬川町(寛永14年)と、城下町が街道沿いに拡大する常道の姿を示しています。京口の南は、大垣への水門川からの水運により発展します。
町人地の新町(寛永19年)は、京都の碁盤の目の町割の中央に辻子を置いたような、唯一近世の町割です。承王3年(1654年)には、八幡社の北に宮町ができます。
これらは、関ケ原の戦い以前の伝馬町と三郭の古来町に対して、出来町と呼ばれました。名古屋東区の出来町通りと同じ名です。
鳩部屋町とは、鳩小屋の様に小さく区切られた町屋であり、番組町、鳥見町、持弓町と同様の職種を示す下級武士の町ですが、城の西はずれに女郎町が出来たようです。
●往還町と脇町
船町から俵町、竹島町、本町、伝馬町にいたる26町14間の道路幅は3間~4間あり、美濃路を引き込んだ宿場町としての大垣のメインストリートでした。往還町と呼ばれました。これに対し、中町、新町、魚屋町、宮町は脇町と呼ばれました。
これらの町人地の展開は、近世に突然現れたティピカルな城下町・名古屋より、加賀一向一揆の拠点で浄土真宗の寺院あった尾山御坊(おやまごぼう、または御山御坊)から城下町となっていった金沢の姿に近いです。
一国一城令(慶長20年1615年)により、軍事都市「平城」から領国支配の都市に変貌していった近世城下町の大垣は、オランダのアムステルダムのように堀を重ねて都市を囲み、独特の美しい景観を作り出しました。
大垣の街歩き
ネットに転がっていた現代の地図に重ね合わせた 大垣10万石 城下町図です。これを持って歩くと、城下町の雰囲気が味わえましょう。本町から竹島町への美濃路はすぐにわかります。
この地図をダウンロードして、回りました。城には行っていません。一周4kmもないのですが、3時間かかりました。お店はコンビニすらなく、歩くには水を入れたリュックが要ります。
1999年建築学会 大垣の城と城下町施設の配置形態に関する考察 油浅耕三(新潟工科大学 建築学科教授)
油浅さんは、私が名工大の内藤研究室にいた時の助手でした。私の「近世城下町の町人地町割り規模に関する研究」の元締めでした。内藤先生は「復元 安土城」に没頭していて、城下町なんて、でした。
私は1975年に卒業して、24年後ですから、私は47歳で、彼はもうこの時は60歳になっていたのでしょう。こんな研究など一生をかけてするものでないと学生の時は思っていましたが、論文にするとなると、こんなのなのでしょうか。今、ブログを書くに、この姿勢を保たねばと「油浅先生」の論文を読んでいます。
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