Do you know Ukiyo-e? 浮世絵考

絵画史(私の設計方法論の前段)

This album is a continuation of my consideration to Hiroshige’s picture.
広重は風景を錦絵として書いたが、人はへたであった。戸塚では、茶屋の給仕女を浮世絵のプロトタイプで描いたが、油津では田舎の芸者をさもありなんと思わせるイモネーちゃんとした。どちらも東海道宿場町の風景の点描としての人であり、広重には人そのものを見つめる力はなかった。
Japanese doesn’t like looking at a person and doing a remark as an individual. Japanese don’t also say “I think that” but”Everyone say that” Tradition of the group activity to which this Japan is peculiar was also the advantage in business activity.
肖像画の歴史は日本にはない。渡辺崋山が肖像画を仕事として始めたとき、カメラは日本に入ってきていた。 西欧には、カメラの発明以前に、400年の肖像画の歴史がある。 2000年前から、西欧文明は「人を見つめる力」を蓄えてきた。
There is no history of a portrait in Japan. When Watanabe Kazan had begun a portrait painter, a camera came in Japan already. Before a camera, there is 400 years history of a portrait in Europe.
日本人はモノをスケッチするのに、陰影ではなく、輝度対比の境界線言いかえると輪郭線でおこなう。
Yamato-e(japanese ancient drawing) paraphrased into to sketch a thing is a boundary line of brightness contrast, not shadow. By this outline.
肖像画は、画家が個人の発言を筆で示すものである。16世紀の終わりに、アムステルダムでは、レンブラントが商人の肖像画を油絵の具で描いた。集団で描かれた商人たちは、それまでのただ威厳を示すだけの王の肖像画に比べ、絵の中で饒舌であった。
A painter shows a personal remark by his brush for a portrait. Rembrandt drew merchant’s portrait by oil paint in Amsterdam at the 17th century. The merchants drawn by a group were talkative in the picture compared with a portrait of the king which just indicates dignity to that. Japanese draws a portrait early easily. Some portraits in the Ukiyo-e at the Edo Period are chosen by this album. We’re good at putting the accent on the feature of the face by a little line and drawing. This ability is going to spread a Japanese MANGA among the world.
日本人は、容易に早く似顔絵を描く。このアルバムでは、江戸時代の浮世絵の中の肖像画をピックアップする。 わたしも、顔の特徴を少ない線で強調して描くのは得意だ。この日本人ならば普通にもっている才能が世界に日本の漫画を広めることになった。 高校のとき、石膏のビーナスを木炭で描くのにずいぶん抵抗があった。ひそかに、これが美人画だと、同級生の女の子をモデルに鉛筆で描き(アイキャッチ画像です)、一人悦に入っていた私であるが、50年を経て、ようやく言い訳が見つかった。(^^♪チャンチャン

織田信長 像 狩野永徳 1582年

NOBUNAGA
桃山の金碧障壁画で有名な、あの狩野永徳の描いた、信長の肖像画である。狩野派(彼のひい爺さんが祖)は、漢画(水墨画)に、土佐派のやまと絵の技術も自分のモノとして、室町幕府の御用絵師となったのであった。豪胆な筆使いだけでなく、このような面相筆もうまい。永徳が23歳で描いた「洛中洛外図(上杉本1550年頃の景観」には、2485名もの人が生き生きと捉えられている。ご覧あれ。

信長の近くにいた永徳は、「葬儀用」に「信長らしさ」を思い出して描いたのだが、理知的ながらも強固な意志をもつ切れ長の鋭い目を、神となった秀吉のサル顔の目と比べてみると、、、表現は思いのほか画一的なのがわかる。

大きな鼻を描くには、少し横向きになってもらわないといけないが、やまと絵の顔は全てこの角度なのである。
眉間や目の周囲には、深い皺が線で書き込まれていて、神経質で美男子であるが近寄りがたい凄みのある顔となっている。

ICHIKAWA
彼は儒学者であるが、有名人ではない。この顔を正面から描いた日本画においてのみ名が残った。教科書にあるのは、下の鷲見の方であるが、市河の鼻梁を見てほしい。仏画の正面図では鼻の穴しかないが、崋山は西洋画の陰影技法を岩絵の具でつけて、鼻の表現に成功している。

特にスケッチを見ると、私たちが鉛筆で書き、水彩で色をつけるのと同じではないか!

崋山は「蛮社の獄」により、48歳で切腹した。田原藩士であり、文晁にも学んでいる正統の日本画家であるが、蘭学を心底理解していた開国論者であったので、おのずと西洋流の色彩による陰影術も身につけていたのであろう。

この後、慶応になると、坂本龍馬は立ち姿を上野彦馬スタジオで撮影し、名刺代わりに配ったという。日本の肖像画のマーケットは、ついに生まれなかった。人をじっと見ないと書けない肖像画。お金をもらうためには、細かく描き、生きている本人以上の本人にしないといけない。

これから、これら2つの絵の間、250年の肖像画を見ていきますが、それは同時に浮世絵の歴史を見てゆくことになります。

江戸時代の絵師たち

建築家としては、年表の一番上はやはり建築です。
日本建築史で教える江戸の建物は、3つしかありません。桂離宮に日光東照宮、そして町屋の代表として角屋です。ほとんどの城は、慶長年間ですので、美術史にならい、安土桃山になります。信長、秀吉、家康は権力の証として、多くの建物を作りましたが、江戸にはいると生産性を高めることはあっても、デザインの革新的発展はありませんでした。
明治革命を、同じ目線で探すと、、、ないですね記念碑的な建物は。お雇い外人がすぐに洋館を作っていますが、明治も20年へて、辰野金吾の登場を待たないといけません。政府に金がなかったのでしょう。

元禄と文化文政と2つの江戸文化の華を習いますが、浮世絵は、読本、狂歌の挿絵として、木版画で大量に作られて、生まれました。

日本画は、狩野派が江戸幕府の御用絵師となり、停滞するのですが、光琳派、丸山応挙、伊藤若冲まで、すべて京都が中心でした。
新開地の江戸は、元禄の華を大阪から仕入れ、18世紀に浮世絵で大ブレークしました。

「浮いた世」には、武士に支配された「憂き」を享楽の「桃源郷」で晴らすという、江戸っ子のしゃれっ気を感じます。
その場所は、歌舞伎の3座と吉原の遊郭であり、浮世絵は、多色摺りの錦絵となってから、読本と離れて、美人画・役者絵として、スターのポスターとかブロマイドとして人気を博したのでした。

19世紀なると、「東海道中膝栗毛」など旅が庶民にも自由に行われるようになり、名所案内としても発行されるようになりました。今回は、肖像画ですので、そこにスポットを当てて、絵を並べます。

寛永(1624~1644)の風俗画

風俗画2枚。大名家にあったという名前付けです。どちらも、江戸初期「寛永」文化を代表するものです。

松浦屏風 彦根屏風

書かれている絵は、書かれた時よりチョイ前の、京は六条柳町の遊郭です。四条河原では、阿国の真似をした、遊女による女歌舞伎も行われていました。この町の賑わいの様は、「洛中洛外図(舟木本 1616年頃の景観)」にあります。ご覧あれ。

豊国祭礼図屏風 左隻 徳川美術館

慶長年間は、京がもっとも華やかであったのでした。関ケ原の戦いのあと、家康は二条に徳川の居城をつくり、二条の遊里を六条に移したのでした。秀頼も金箔の大仏を作り、多くの金を京に落としたのです。「豊国祭礼図屏風(1604年の景観)」をご覧あれ。

徳川幕府下の大名は城つくり、城下町つくりに邁進したのでした。日本唯一の先進都市、京に来ないことには、地方への文化の伝播はできません。
本阿弥光悦は、洛外に工房をもち、せっせと京文化を売り、狩野派も地方に人を送って障壁画を書くだけでなく、土産物にピッタリの扇絵を京で大量生産したのでした。

松浦屏風
金箔を押した屏風に、等身大の遊女が、禿とともに並ぶ姿は、その衣装とあいまって、美しさをめでる前に圧倒されてしまいます。
背景が書かれてなく、金であることが桃山的ですが、遊女が主題ですので、ここに新たな江戸の文化が生れました。これが浮世絵の始まりです。

なんといっても足が長い。どれも美人である。どれも?そうです。顔を見比べると、姉妹のように似ています。美人とはこういうものという画家の定義があったのでした。

これに先立つ、背景のある京土産の作品として、狩野孝信が書いた「北野社頭遊楽図屏風」の中にある北野社前の遊女の顔と同じです。お確かめあれ。

彦根屏風
三味線を弾く座頭はもう人である事を終わっていますので、男は中央にいるただ一人。その野郎が、「昔はよかったなぁ。」と思いだしている絵だそうです。あとの人は全て、「フーゾク」産業に属しています。そういえば、この国宝のタイトルは「風俗画」でした。
このころに、女でも髪をあげ始めたのですが、それは男に擬した意匠でした。体を捩って「ネーちゃん遊ぼうか。」の若衆に、犬を連れた遊女が首を捻るすがたは、切手になった菱川師宣「見返り美人」より、はるかに上手いです。

こちらの顔も姉妹のように似ています。これに先立つ背景のある土産品として、狩野長信が描いた「花下遊楽図屏風」があります。お確かめあれ。

それから100年、鈴木晴信の「錦絵」

菱川師宣 徳月堂安度 石川豊信 鈴木晴信

浮世絵は、菱川師宣から始まった、という絵「衝立の陰」ですが、これもやはり「春画」でした。どうにも、色気のない、固い木版画です。色はあとから一枚一枚塗るのでした。
江戸の浮世絵としての祖は、18世紀になって、吉原の前、蔵前で花魁のポスターを肉筆で描いた懐月堂一派でしょう。
狩野派の京の遊女から100年経て、坂東の江戸にも、ようやく華が咲きました。泥絵具で紙に書いていて、色もどぎつい安物ですが、田舎でしたので、ここからです。島原の吉野大夫のごとき、公家と町人が身請けを争う美貌、教養は、江戸の花魁にはないのでしょう。堂々たる体が勝負の世界のようです。

封建社会は朱子学で凝り固まりましたが、唯一この桃源郷では、女が女であることを武器に、男どもを手玉にとれたのでしょうか。人気があるのが今も残っているのでしょうが、いづれの遊女も胸をはって、着物の裾をたなびかせています。

石川豊信は、紅摺絵(赤と緑)を多く出していますが、着物がべたでいけません。この「花下美人図」は、黒摺りの紅絵(紅一色)で、彼のデザイン力を端的に表しています。色つけは、職人が一枚づつ塗ったので、どこまで豊信が指示しているのかはわかりません。

錦絵(多色刷り)となるのは、鈴木晴信によって色使いが発明されるまで待たないといけません。しかし、彼の女には肉体がなく、つまらないです。
顔の類型化は、桃源郷を売る絵として、昔からのルールであり、その美人とは?という類型化のパターンは、絵かきが独自に作るものだと思う次第です。

町絵師が、木版画のなかで「人を見つめる力」を発揮するには、今少し。

喜多川歌麿 日本では美人画ですが海外ではポルノで有名

歌麿 美人画

スーパースター、UTAMARO。
外国のかたは、ポルノでしか彼を知りませんが、彼こそ、「人を見つめる力」をもって描いたのでした。描かれている舞台はフーゾクですが、世之介が喜ぶ、あなたも喜ぶ、桃源郷におわす美人たちです。私も行きたい!

顔の造作は、あの信長いらいの伝統により、面相筆で様式化されて描かれていますが、着物の柄、指の曲げぐわいなぞも含めて、個性が出ています。

木版画の進歩は、髪の生え際の彫りにみられます。絵師の歌麿だけでなく、彫り師、摺師の超絶技巧があってこその作品群です。

役者絵 写楽

写楽と豊国の比較

SHARAKU
役者絵ですので、役者の個性と共に、その歌舞伎の演目の宣伝をしないといけません。1年もたたずに消えた写楽ですが、役者 三世沢村宋十郎の絵を並べてみました。

二枚目でしたので、大首にある他の役者のような大仰なデッサンはしていませんが、どうでしょう?歌麿は、写楽の出現によって大変影響を受けていますが、歌麿の方がうまいような。演じた役者を役柄そのままに描くのと、遊女の中の女を書くのとの違いかもしれません。

天才 葛飾北斎 風景から漫画まで

天才 HOKUSAI
長生きもし、浮世絵の全てのジャングルに挑戦しています。
プロトタイプの遊女も描いていますが、この隅田川両岸の絵は、後の「風景画家」の端緒がみられます。
なんといっても、彼の功績の一番は、その大胆な構図によって、風景という新たなジャンルを作り出し、20世紀初頭のパリにおいて、ジャポニカブームを作り出したことです。

彼は、広重と違い風景の中の人も大変うまい。「北斎漫画」こそ、今のMANGAの元祖でしょう。懐月堂も「戯画」と名乗っていましたが、狩野派の本格絵師に対しての引け目があるにたいして、北斎の逸話には、町絵師の誇りがあります。

やんや!

やまと絵の「線」の日本には、「面」の肖像画は生まれなかった

陰影による「人を見つめる力」を、ローマ、ルネサンス、レンブラント、ディズニーと、並べてみました。(笑)
やまと絵からの伝統と書いたので、唐そのものの「唐絵」である鳥毛立屏風から、どのように「やまと絵」になったのかも、その下に並べました。
平安末期の絵巻物にその姿があります。伴大納言絵巻には「漫画」もありますね。それぞれの人の個性を追うことがない以上、肖像画でない以上、人はプロトタイプでしか描かれませんでした。

やまと絵から漫画へ

私の描いた絵、それは日本伝統のポンチ絵です

ということで、私のポンチ絵です。高校のクラス写真をもとに、即興で書きました。下書きは鉛筆で書き、ぺんで描いた後、鉛筆は消しています。

建築も、西欧の壁と違い、柱・梁で線で描くので建築の完成予想図は、線画を元に色づけています。
ですので、私の絵は中学時代から全く進化していません。
「ウインブルドンに和子と組んでミックスで出た。」というテニスの師匠は、似顔絵が得意で、私も書いてもらいました。

なかなか、言い訳も大変でしたが、文化的な話としてまとまりましたでしょうか。

前に、このクラス写真を話の「おち」として書いた ノート「輝度で設計する。」があります。カラバッジョから始めてます。https://www.facebook.com/notes/%E9%AB%98%E6%A9%8B-%E5%92%8C%E7%94%9F/interior-design-of-japan-%EF%BC%92%E8%BC%9D%E5%BA%A6%E3%81%A7%E8%A8%AD%E8%A8%88%E3%81%99%E3%82%8B-20121201%E9%AB%98%E6%A9%8B%E5%92%8C%E7%94%9F/206268159509311

以上、私は漫画で表現し、考えていますが、このノートのように、光は大変気にしています。光がなければ空間はありません。私の脳がなければ世界がないのと同じです。

西欧人とは違うのは、明らかなのですが、うまく説明ができません。暇な方はコチラにPDFもあります。ドウゾ。
(^_-)-☆

改訂輝度で設計をする。

最後まで読まれた方、お疲れ様でした。

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