●はじめに
西欧に伍して都市史を語るなら、京都しかなく、私も京都の都市史を真正面からキチンと書いてみたいのですが、いつになりましょうか。資料だけがパソコンに埋まっていきます。とりあえず、「祇園絵」の京都を一泊二日で見たfacebook アルバム 町衆ー京都市民による都市形成ー を、ここにリンクを張って「私は、都市史をやっているのだぞ。」の証拠とします。42枚あります。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.1744815565654555&type=3
この「祇園絵」を起点にして、私流の「京都 都市史」を以下のように試みてみます。
アルバムの前段が読みにくいので、そこを以下に書き入れ、そこから「町衆ー京都における「市民」形成史ー」林家辰三郎著1964年中央公論社刊を振り返って書きつらね、京都を16世紀から家康の近世城下町17世紀まで追いかけ、近代都市への変貌をみます。中世の小さな上京と下京、合わせて人口3万人が、現在の人口150万人の大都市となっていく京都都市史のダイナミズムを示したいと思っています。
その後に、歴史の一般的な記述と違い、中世の小さな京になった行く様を、天武・持統天皇が遣唐使によって輸入した「京師」藤原京からさかのぼって始めます。教科書に出てくる「平安京」は理念図であり、現実に作られていなかったの事を近年発掘された遺跡から見ます。現代の日本文化は、室町時代を祖として語られるのが一般的ですが、都市史においてもそれは言えます。都市は権力者が作り出した文化の表層を形で示してくれるものですので、当然です。
京都は800年間、日本唯一の都市でした。小さな京になっていくのは、中央集権国家・日本600万人の首都とされた京(人口12万人)が、天皇親政から藤原氏の摂関政治になり、11世紀に白河天皇・上皇の院政となって、保元平治(1156年、1160年)の乱により武士の平氏が台頭し、さらには鎌倉幕府が関東に首都を新たに設けて、律令体制(国司、郡司)による中央集権の力を都(天皇、公家)が失ったことにあります。
足利尊氏は1338年に京・室町に幕府を開きますが、南北朝(1333年~1392年)の動乱により、幕府の力はそがれ、応仁の乱(1467年~1477年)により、京都は焼き尽くされ、地方は守護大名の所有となり、戦国時代(1493年明応の政変)に突入します。管領・細川政元(1466~1507年)が将軍を据え、将軍の権威は失墜し、政元がとってかわったのですが、彼も3人の養子の相続争いの中で配下に殺されます。京は政治都市としての力を失い、縮んでしまいました。人口も3万人いたかどうかです。
焼け跡の上に、「町衆」が小さな商業的都市「上京・下京」を新たに作ったのでした。六町に住む公家の文化の上に花開いた、西陣の絹織物など手工業生産者の「上京」と、山車祭りを行う祇園社の綿座、呉服座、材木座を中心とする町衆の「下京」と、それぞれ個性の違う町ですが、共通してあった「土倉・酒屋」の金融業が町の自治<法華一揆1532年~36年>をおこなったのでした。
国家の首都という京の政治都市としての力は衰えていくのですが、中世は日本の農業、産業、流通を高め、地方の活性が高まり、武士の支配する新たな社会を支えたのでした。地方の活力を代表する織田信長が入洛(1568年)して、「町衆」は、新たな権力者によりそう「御用商人」と顔を変えていきます。中世の日本がどのようなものだったか、武士でなく、網岡史観により、百姓・町人・職人に視点をあてて見ていきます。
- 町衆ー京都市民による都市形成ー 2019年7月FB記
- 平安京の誕生から、縮む京都を見る。
- 中世の日本 政治都市から商業的都市に変容する京の背景
町衆ー京都市民による都市形成ー 2019年7月FB記
宵山にこそ、町衆の生きざまが濃密にあらわれています。真夏の太陽の威力が消え、夕暮れの辻にコンチキチンとお囃子が流れる中、後祭りの山鉾を順に観てまわりました。 お囃子は、太鼓をたたく面構えのしっかりした中年が指揮者のようです。笛吹きにはゴマ塩頭も混じり、総勢20人はいましょう。鉦は肩に担がれた木組みからぶら下がっており、叩くのは10人の少年たちです。お囃子の習いは鉦からスタートのようです。音楽は、すべからくリズムがベースなのですね。
提灯が白く輝くころになると、町屋の格子越しに、町衆自慢の屏風がよく見えます。細長く、座敷が奥へと三つ連なるところに、パースペクテイブに六曲屏風が三双並べられています。その先の中庭まで見通せる町屋は少なくなりました。一枚ガラスのショーウインドウですと、確かに屏風は見やすいですが、薄暗がりに漂う町屋の風情がありません。
新町通り(町口、町尻)の鉾町にまでホテルが建ち、住人はいなくなっていくのですが、長刀鉾町など、住人が一人もいないのに、巡行の先頭の役を続けていますので、私が心配することもないでしょう。
臨時に、ビール、かき氷を売る民家がありました。「昼間の雷豪雨に大変だった。」と話をしていました。町内ですので、互いに顔見知りなのは当然ですが、京都弁での柔らかな挨拶をうらやましく感じました。私のアパートには、同じアパートに住んでいてもコンニチワすらしない者がいます。山車の人形は神様であるので、山から降ろして町内の詰め所に飾られるものでした。近寄って、ジックリ拝顔しました。
粽は食べられない事を買ってから知りました。厄除けに門飾りとするものなのだそうです。買うと、山の中を見せてくるところもあるし、大船鉾のように500円を取って中を見せてくれるところもあります。この時だけは、女・子供も山車に乗れます。祇園祭は、今も成年男子の祭りなのでした。それも60過ぎないと顔が立たたないようです。だから、花笠巡行はその反動で女・子供が主役なのでしょう。
大船鉾は、綺麗なおねいさんが朱印を達筆に書いてくれますし、買うと粽売りの子供たちのわらべ歌が聞けます。 宵山は、山鉾をまじかに見られることが第一の楽しみなのですが、年の一度のお祭りを楽しむ様が身近に感じられ、祇園祭りの華をまさに町衆気分で実感できる場です。毎年20万人もの人が、浴衣を着て集まってくるのも、よくわかります。
どうにも、山車を持たない町では、町衆と言えない雰囲気があります。ここ祇園祭から京都の都市史を探っていきましょう。
私の京都探訪は何十回となりますが、実は今まで八坂神社も、祇園も行ったことがなかったのでした。六波羅も清水も、六角堂・革堂も、まっとうな古建築はない(=重要文化財でない)ので見に行っていなかったのでした。
先月、 6月に1700年の歴史を持つ都市、ミラノに一ヵ月住んだのですが、「日本で対抗できる都市は京都しかないゾ。」と当然の事を思い、「木と紙による日本文化であるので、1200年前からの形あるものが残っていない事は当然である。」 なら、今回の京都探訪のテーマは、祇園祭りという600年の町衆の伝統の継続を見つめようと決めて、行っていない所を選んで、2日間のコースを組んだのでした。
「町衆」と言う言葉は、京都の中で一定の価値を持つものになっています。三条木屋町で、早めの夕食をとった「京もん」は、「町衆居酒屋」が、キャッチでした。
町衆とは 祇園絵の復活1500年~1568年信長入洛
「町衆」は、昭和39年(1964)、かの林屋辰三郎(1914~98年)が中公新書のタイトル副題を「京都における市民形成史」としたときに、復興したと記憶しています。 彼は、京戸→京童→町衆→町人と並べ、江戸幕府の士農工商の身分固定以前に、中世の京都において、今に繋がる京都市民の「民主・自由・平等」形成がされていたと指摘しました。
「市民」とは、西欧の近代国家形成の中で、資本主義的生産様式の発展を原動力としてブルジョア革命による封建的・絶対主義的体制の変革の後に成立する「市民社会」と共に生まれたものであり、市民階級による政治・経済的支配が確立しているのが「市民」誕生の建前であり、中世から近世への日本の封建社会の身分的隷属の中で「市民」誕生とは、到底いいがたいものです。
しかし、林屋辰三郎はカッコづけ《市民》として一冊書き出したのでした。 社会党の蜷川虎三(にながわとらぞう1897~1981)が、1950年から1978年まで京都府知事を行ったことを知るものはもう少ないですが、町衆(市民団体)の気分が蜷川を支え、京都では「町衆」が「町人」に代わって一般名称になったのでした。
祇園祭り(祇園絵)
「祇園祭りは御霊会を起源としている。正確には今も祇園御霊会(略して祇園会)と言う。都の災いは非業の死を遂げた怨霊のせいだと、疫病の流行により、朝廷が863年(貞観5年)、神泉苑で初の御霊会を行った。
876年(貞観18年)に、播磨国広峯から、仏教の聖地である祇園精舎の守護神である牛頭天王が京都に遷座し、現在の八坂神社の地に落ち着いた。そこに祇園社として祭られ、感神院と号して比叡山延暦時に属し、神仏混合の祇園御霊会が生まれた。」と、一般には説明されています。
しかし、今の山鉾巡行の姿は、神輿を担ぐ八坂神社(旧名:祇園感神院)など他社の祭りとは形が違います。感染症の流行が起きる夏に牛頭天王を頼って町中を練る、長刀を立ち上げた巨大な鉾の姿は、陰陽道や修験道の呪術の香りに満ちていますが、狂言の「籤罪人」では、町衆が集まって今年の山をどうするかを相談しています。「橋弁慶山」をはじめ伝説のテーマは19ありますが、山の9のうち7が謡曲と同じ題名であり、必ずしも疫病退散がテーマでありません。山鉾巡行は、町衆が自ら手猿楽を演じて、京都の文化の担い手でもあった事を示しています。
一遍上人(1239~89年)の踊念仏は、16世紀の四条河原では見世物となり、念仏踊りから宗教が取りさられ、風流踊りが流行りました。仮装をし、集団で踊り、町を練り歩きます。風流の行列 (祭礼草紙:室町時代15世紀)には、一人で担いだ山が見られます。この延長で、町衆の競い合いから、車をつけて引き回す大型の山車になって行ったのでしょう。
とすると、今の山鉾巡行の姿は、1393年幕府政所が、土倉役、酒屋役徴収権を接収したころ、商工業者として税を払う実力をつけた頃からではないでしょうか。
中世、平家が新たに武士政権を建てたころには、武士に付随した商工業者が、下京において両側町(道路に向き合った町屋が一つの町)を作り、南北朝(1336~92年)のころに京童(太平記による)が現れます。
義満が「日本国王」と1402年に名乗り、明の冊封を受け勘合貿易を始めると、町衆は金貸し業(土倉・酒屋)から貿易業に転じてさらに財を成し、町衆の厄除け・祇園祭の大型化が進んでいきました。1424年には内裏に入って天皇に見てもらっています。応仁の乱の前には、山鉾・山車が58台にもなっていました。
「守護」は世襲されて京におり、三管領、四職などの要職を務めて幕府を支え、「守護代」が領国の経営をしていたのですが、応仁の乱により守護は領地に下ってしまいました。焼け出された公家は朝倉、山内などの有力守護大名を頼って地方に下りました。
地方では「半済令」により、守護代は荘園領主の荘園経営をはぎ取り、国衙の機能を吸収し、一国全体の支配権を確立しました。鎌倉時代の警察権だけの「守護」と区別して「守護大名」と教科書は名付けています。中央集権国家は完全に崩れ、群雄割拠の「戦国時代」となりました。守護大名の力が弱い国は、領主の国人同士で争いを回避し、百姓である名主層(地侍)を支配するようになります。
15世紀の「国人一揆」とは、国人同士が「連帯」「平等」の「一味同心」の契約に基づくものであり、それが農民が主体となると「土一揆」の名となり、流通業の馬借が主体となると「馬借一揆」という名になりました。しかし、武士がいなくては守護代とは戦えず、一揆にはかならず「国人」「地侍」の関与がありました。
1467年からの応仁の乱は、山名宗全と細川勝元が相次ぎ死去し、1477年に京を完全に焼失させて終息します。子の細川政元(1466~1507年)が管領となります。 京都の町衆は焼けた下京を建ち起こし、1500年に、山鉾の数は28と半分になったのですが、祇園祭りを再開しています。公家も上京六町に戻ってきました。下剋上の戦国時代という、権力が分散され小さくなった社会の中で「町衆」が生まれました。
日本唯一の宗教戦争が、16世紀、法華宗と一向宗の間でなされた。
法華の信仰は「娑婆即寂光土」をとく、極めて現実的な現世利益の主張であり、商工業者の功利主義と一致して、京の町衆の間に強く浸透していました。日像が1294年に入洛し妙法蓮寺建て、排斥を受けるも1334年に妙顕寺を建て、日什は1389年に妙満寺を建て、妙光房は立本寺を建て、日慶は1445年に妙蓮寺を再興し、日隆は本応寺を1433年に再興し、本能寺に繋がっています。天文の法難(1537年)で焼かれた寺は、21カ寺にもなっていました。
対立する一向宗の信仰は、「厭離穢土」の考えのもとに、彼岸的な極楽往生を説き、深い諦念をもつ農民の間に普及していたのでした。農民の土一揆は、やがて一向一揆と宗教集団となり、京に打ち入り、徴税に関わっていた土倉を襲い、徳政令を出させました。領主に立ち向かう「連帯」「平等」の一揆は「自治」へとつながりました。一向宗は多くの自治をする寺内町を作りましたが、法華宗の町衆も法華一揆(1532~36年)により、5年間、商業的都市となった京を自治しました。
蓮如が比叡山により京を追われて、近江から越前、山科、石山と寺内町を作るさまは「寺内町・貝塚」に詳述していますので、ここでは触れません。
この宗教戦争には、京の旧主である山門(比叡山延暦寺)、管領の細川晴元(1514~63年)、近江守護大名の六角定頼(1495~1552年)が絡んできます。教科書には書かれていないところを書きます。
応仁の乱(1467~78年)から戦国時代(明応の政変1493~1590年秀吉の全国統一)になると一向一揆が盛んになります。1532年6月、山科の本願寺の光教(証如しょうにょ)は細川晴元に頼まれ、門徒による軍の大将となって一揆を起こします。河内で畠山義宣を殺し、さらに堺に攻め込み三好元春を殺します。刀狩り以前の兵農未分化の姿です。比叡山の僧兵は古来有名ですが、一向一揆では、本願寺の門主自身が兵(地侍、土豪、武装した農民)を率いており、信長との10年戦争、石山合戦(1570~1580年)に敗れるまで、日本においても、西欧と同様に壮絶な宗教戦争が100年続きました。
武士ならば、騎乗で弓をひくという専門の訓練がいるのですが、 悪党・散民が軽装備した「足軽」が室町時代に生まれたのですが、一向一揆の兵もそのようでした。農民は名主に束ねられ、名主層の中に新たな武士「地侍」が生まれます。「百姓の持ちたる国」ともなると、国人の「一味同心」がなくてはなしえません。伊達種宗、毛利元就、長曾我部元親、徳川家康と、小さな領土の国人から戦国大名になった者こそ、後代まで続きました。足軽は長槍、鉄砲を持たされ、集団戦の主役(長篠の合戦1575年)になっていきます。
1532年8月、晴元は一向宗の門徒の勢いをおそれ、今度は細川晴元・六角定頼・京都の法華一揆の連合軍で山科本願寺を攻ます。一向宗はさして抵抗することなく、光教は大坂御坊に本願寺を移します(山科本願寺合戦)。
町衆の法華一揆(1532~36年)は、「洛中地子銭の不払い」を宣言するなど、山城国一揆(1485~92年)の惣村、堺・博多の港町と同様な自治組織を目指したのでした。
上下両京にそれぞれ10人の惣代が設けられ、その決議によって町組の中の月行事町が決められ、そこの月行事が自治の執行をする体制がつくられました。66ヵ町の下京は1537年に5つの町組(西組、丑寅組、中組、巽組、七町半組)として姿を現します。
町衆の有力な旦那の名前が祇園社に残っています。「後藤、本阿弥、茶屋、野本等、旦那巳下3千余、西陣東人ヲ支タリ。」いずれも近世まで続いた名家です。ただ、角倉は浄土宗でした。
天文3年(1534年)に細川春元の命により「総堀」で京を囲むことになります(言継卿記)。幕府の侍所(所司)が京都の警護をする制度はとっくに崩壊しています。総堀の「構」は、町衆の住む町を囲むだけで、公家、武士の屋敷、寺社は、それぞれに単独で「構え」を設けました。
このミイラ取りがミイラに成る様に、細川晴元はあたふたして、山門(比叡山延暦寺)と近江の六角定頼に今度は法華宗徒を襲わせます(1536年天文法華の乱)。上京は全焼し、京にあった法華の寺21ヵ寺はすべて焼かれました。法華教徒は堺に逃れました。
天文11年(1542年)に六角定頼の斡旋で朝廷から京都帰還を許す勅許が下り、天文16年(1547年)六角定頼の仲介で、延暦寺と日蓮宗との間に和議が成立し、信長の入洛1568年には、日蓮宗の寺15ヵ寺は再建されていました。
町衆の力を示す、1533年の祇園祭り。
この一揆のさなか、1533年6月6日に山門から「祇園祭の中止」から言い渡されました。祇園感神院は神仏混合であり、祇園社であり山門の感神院でもあります。法華経を根本経典とする天台宗の山門は、当然、新興の法華宗に反感を持っており、「京中不穏」を理由にしたのでした。
町衆は「不穏な世情」だからこそ「災厄消除」の山鉾巡行を盛大に行なわなければならないと考え、「神事は神社の行事。山鉾巡行は町々の災厄消除の行事である。」と明言し、近江の桑実寺に逃げていた将軍足利義晴を訪ねて、山鉾巡行を認めさせました。
「神輿渡御は神事だが、山鉾巡行は町衆の行事だ。」という伝統は今も続いています。明治になって政治に民衆の信仰は歪められ、祀る神様も牛頭天王が須佐之男命に変えられ、社の名前も「八坂神社」と変えられてしまいました。
この16世紀の京の姿を描いたのが、狩野永徳の「上杉本 洛中洛外図」です。永徳は自刀した注文主の足利義輝が思い描いた京のあるべき姿を描いたのであって、1565年の実際の景観とは違い、盛って描かれています。貧しく正月の節会ができるような禁裏ではなく、将軍・足利義晴が1542年に再興した公方様の屋敷には主・義輝はいなく、管領・細川晴元(1514~63年)の館も主はいません。1575年に細川邸を訪れたフロイスは「御殿は破損していたが、大いに称賛された庭園は、今なお、往時をしのばせるに足るものを大部分を残していた。」と記しています。足利義輝はこの屏風を上杉謙信に送り、上洛を促したかったのでしょう。この後500年にわたり山鉾巡行が変っていない事、そしてなにより、当時の京の町衆による賑わいを、生き生きと今に示してくれています。
上京は革堂(こうどう)が惣町の寄合所でした。皮聖人と呼ばれた行円が1004年に一条小川に建てた行願寺の通称です。秀吉によって寺町に移されました。
下京は、六角堂を寄り合い所として使っていました。六角堂は祇園祭りの巡行順序のクジ引きで名を残し、華道の池坊の寺として今も盛んです。
「町衆」の名付け親は、落ちぶれ、町に溶け込んで生活せざるを得なかった公家でした。
江戸時代に幕命により城下町を描いた正保の絵図(都市図)では、町人(ちゃうにん)町は、商業・手工業を営む者が住む町を示すものであり、侍人町、寺社地と3種にゾーニングされた都市計画でした。 町の中心に城郭があり、町はずれに穢多・非人が住み、町の外に百姓が住む村がありました。「町人」の名称は鎌倉時代から使われており(吾妻鏡)、武士、僧侶と区別して商工業者を示すことには江戸時代ちと変わりません。では、なぜ京では町衆(まちしゅう)なのでしょうか。
町(ちょう)は、面積の単位であり、律令制度口分田では1町は約1.2haであり、検地によって小さくなり、現代では1町は約1haです。
平安京は条と坊と区切られ、その坊の中に4×4の町(ちょう)がありました。条里制口分田と同じく、都市区画の面積の単位でした。身分によって与えられる宅地面積が違います。
左京二坊三条北一門西二行と座標軸で表された理念上の地名では人は都市に住めません。通りにはすぐに名前がつき、通りの軸線の上の町ブロックに町名(廚町、蔵人町、政所町etc,)が現れます。そして、中世には「四条烏丸東入長刀鉾町」と、通り名の交点を示した後に町(まち)の名を示すようになり、通りを挟んだコミュニテイ単位を示す町(まち)、両側町が生まれました。
門前町、寺内町、港町と同様に、商業地域を示す「町」から、都市の中での生活組織単位を示す町(まち)となり、そして、その構成員に町衆(まちしゅう)という名前が与えられました。
落ちぶれた朝廷を諸大名からの献金(1533織田信秀、1556今川義元、1566結城氏重臣の水谷正村、1569織田信長)集めで支えた、内蔵頭の山科 言継(1507~79年)が書いた50年の日記「言継卿記」に当時の上京の姿が書かれています。
彼は、内裏の西の六町に住んでいるのですが「六町衆」には、餅屋(今もある川端道喜)に米屋があり、大工に蒔絵師もいます。日記では「此辺之衆」とあり、自身が地域集団に内包されていると認識しています。初夏となると、昨年質入れした蚊帳を40疋で取り出し、腰刀を3000疋で質入れし、米屋からは100疋、3貫文と借用を重ね、三条室町の風呂屋に行き、大工下女のおお火傷に自家調合の薬を与えて感謝されています。1544年の祇園絵において、侍所の小舎人が町衆に殺され、侍所の仲間300人が復讐に来て下京の一町を焼く事件が起きたのですが、言継が間に入って双方に話し合いがつき、落着しています。
日記によると、町組の名から「祇園衆」「二条衆」「六町衆」と呼んでいたのですが、「町衆手負有之」と一般名称として使うようになっています。「公家衆も町衆と一体的に生活をしており、互いに疎外感を持つことなく、地域的集団生活を的確に表す「町衆」の表現であり、江戸時代の「町人」とは違うものだ。」と、林家辰三郎は力説してます。
江戸時代の町人地においても、家主の表通りに面した間口によって税が決められ、町奉行ー年寄ー名主の系列で、「月行事」によって行政が行われていました。木戸で町は区切られ、その袂の自身番屋が保安警察の溜りであり、町の集会場でもありました。借家人、ましてや裏長屋の住人には「税」はなく、当然「自治」に関わることはありません。士農分離、農地の売買禁止、檀家制度、同一職人の集住と身分制度の締め付けは、江戸時代になってきつくなっていきますので、市民意識を持つ「町衆」は辰三郎の言うように消えましたが、町衆自治の「制度」は継承されています。
信長の京都 入洛1568~1582本能寺
私は「安土城の復元」をブログにしています。「小説 安土城物語」としてまとめ、論考「小説 安土城物語」のネタばらし」において「天主中央の吹き抜けは、信長がこの3階に住む事と木造高層建築の為の架構の工夫によって生まれたものであり、吹き抜けが欲しくて作ったものでない。」の論を展開しています。
このブログ作成には、信長が、15年の間に二十数回訪ねた京都での行状と安土城築城とを比較する事が必要でした。信長は朝廷からの衣冠を受け入れ、信長の為に作った二条の館は東宮・誠仁親王に譲渡しており、安土城には天皇の御幸御殿まで作っています。天下一統の為には朝廷、京の力を利用しなければならないと考えた信長の京を見てみましょう。
信長が足利義昭を奉じて一万の軍と入洛した1568年の京の姿は、「耶蘇会士日本通信」「フロイスの日本史」にあります。
ガスパル・ピレラは三好長慶が5年占領した後の荒れた京に、1559年に入っており「長く都であったのだが、今は荒れ果てている。」と述べる一方、1582年に「堺は、豪商たちよって共和国をなし、兵を雇い入れ、堀と土塁で町を守る。日本の都市において右に出るもなし。」と堺を誉めちぎっています。
信長は1569年1月に本圀寺にいた義昭を襲った三好三人衆を支援したとし、堺の豪商たちに「焼き打ちされたくなければ、2万貫の矢銭を払え。」と要求し、今井宗久は会合衆たちを説得してこれに応えました。
信長は斯波義簾の館の濠を広げ義昭の為の御所を70日で作ります。本国寺からの移築でした。京の町衆には矢銭を要求することなく、「唐からの名物」を召し上げます。さらに、「天主」が入口に建つ二条の公方御所、方4町は14ヶ月かけ、1570年4月に完成し、能が催されました。
1573年、義昭が信長に謀反を起こすと、東山の知恩院に陣を据え、白川・粟田口・祇園・清水・六波羅・鳥羽、竹田の所々に陣をおき、洛外の堂塔寺庵以外に火を放って京に圧をかけます。
二条にこもる義昭が信長からの和平に応じないので、信長は京の焼き打ちを命じます。町衆は焼き討ち中止を懇願し、上京は銀1500枚、下京は銀800枚を信長に差し出しました。信長は下京の焼き討ちは中止しますが、幕府を支持し、富んで傲慢な(フロイス記)商人が住む上京を焼き討ちしました。禁裏、相国寺は焼かれていませんが、信長の軍勢によるこの時の上京への乱妨狼藉は、1571年比叡山焼き打ち「諸卒四方より鬨声を上げて攻め上る、僧俗、児童、智者、上人一々に首をきり、信長公の御目に懸け(信長公記)」、を改めて目の前に示すものであり、洛中・洛外の人々に深く刻みこまれました。
信長は、1556年25歳の頃「曾祖父からの領地である津島の堀田道空の館において、天人の紛争をして、小鼓を打ち、女踊りをした。」ので、「津島の五ヶ村の年寄りたちが炎天下に清州に来て返礼をし、信長は打ち解けて親しく言葉をかわした。」と信長公記にありますが、京の町衆との交流はありません。能の観劇、蹴鞠に、一大イベントだった1581年の馬ぞろえも、町衆へではなく、朝廷・公家に対してでした。
1577年信長42歳の時に京二条の新邸に入り、翌年の祇園会を供回りと見ていますが、町衆との交流はなく、そのまま鷹狩り行っています。信長は津島神社の牛頭天王祭には子供のころから親しんでおり、家紋は津島神社のそれと同じであり、おなじ牛頭天王を祀る祇園社の紋とも同じです。となれば、「災厄消除」の牛頭天王は京から津島に流れてきたと考え、親しみを感じはしましょうが、天下人として町衆の下にはつきたくないでしょう。「東区の山車祭り 2018年3月5日記」に、信長の木瓜紋について詳しく書いています。https://www.facebook.com/notes/353641872537068/
フロイスは、安土山の城の隣に作った摠見寺に対しての信長の言葉を以下のように引き写しています。
「偉大なる当日本の諸国のはるか彼方から眺めただけで、見るものに喜悦と満足を与えるこの安土の城に、全日本の君主たる信長は摠見寺と称する寺院を建立した。拝し、大いなる信心と尊敬を寄せる者に授けられる功徳と利益は以下のようである。 第一に、 富者ならばますます富み、貧しき者、身分低き者、賤しき者が礼拝にくればその功徳のよって富裕の身になろう。子孫を増すための子女なり相続者を有せぬ者は直ちに子孫と長寿に恵まれ、大いなる平和と繁栄を得るだろう。 第二に、 80 歳まで長生きをし、疾病はたちまち癒え、その希望はかなえられ、健康と平和を得られるだろう。 第三に、 予が誕生日を聖日として、当寺に参詣する事を命ずる。第四に、 以上全てを信じる者には、確実に疑いなく、約束されたことは実現しよう。これらを信ぜぬ邪悪の徒は、現世においても来世においても滅亡に至るだろう。故に万人は大いなる崇敬と尊敬を常々これにささげることが必要である。」
なんとも、なんでもかんでも庶民の願いを叶えてしまう、生きたカミとなった信長でした。寺の住職は信長が生まれ育った津島牛頭天王社から禅儒僧・堯照を呼んでおり、これらの功徳と利益は、神仏習合された祇園天王社のものと同じです。王が臣だけでなく民にも自らの権威を植え付けるには、武力だけではダメだとカミとなったのでした。カミとなった秀吉、家康の先駆をなした信長でした。天皇だけでなく、道真などの怨霊もカミとなっていたのですが、いずれも死後の事であり祖先霊の延長であったのに比べ、アラビトガミとは、さすが信長です。
フロイスは「信長は法華宗」とも書いていますが、「現世利益を追求」のが同じだけであり、アラビトガミが宗教に没入することはなく、宣教師との付き合いも「現世利益の追求」の延長であり、1571年比叡山焼き打ちをし、1574年正月に浅井久正・長政のシャレコウベで酒宴をし、7月に長島の一向門徒を壊滅させたのも、一貫した信長の思考だったのでしょう。
信長の最後は、法華宗の本能寺であり、京の定宿は妙覚寺ですので、法華宗とは疎遠でも教徒である下京の町衆とのビジネスライクな繋がりはあったのでしょう。1579年法華宗と浄土宗との「安土問答」を安土城下で行わせていますが、法華宗に負けさせてるために宗論を開いた節にもみえます。信長は京に寺社を建てたという記録はありません。1580年に武家の神、石清水八幡宮の修築、1582年に伊勢神宮に献金はしてます。京の南蛮寺も建設許可だけであり、金は出していないでしょう。信長が新たに建てた寺は安土山の摠見寺だけです。
堺は1575年に茶人でもある松井有閑を信長の代官として迎えます。 堺は鉄砲生産地であり、ポルトガル船が運びこむ硝石は火薬の原料として必ずですので、信長は京の町衆でなく、堺の会合衆と茶会を通じて親しく付き合うのでした。
秀吉 京都の城下町化 光秀を討つ1582~1598死去
秀吉(1537~98年)は、1582年6月本能寺で信長が殺されると、中国大返しを行い、山崎の戦いで光秀に勝ち、10月、京の大徳寺で羽柴秀勝(信長の4男、秀吉の養子)を喪主に信長の葬儀を大々的に行います。天下人ですので、安土でも、岐阜でもありません。そして、信孝・信雄、柴田・丹羽・滝川の参加もありませんでした。
7月の清須会議において、大坂城のある摂津は池田恒興が取り、秀吉は従来の播磨国・但馬国に加え、河内国と山城国を取ります。丹波国も含めると28万石の加増になり、柴田勝家と逆転しました。1583年4月、勝家との鹿ケ谷の戦いにおいて、美濃大返しを行い勝ちます。1584年秀吉は織田信雄・徳川家康と小牧長久手の戦いを行います。1586年10月秀吉の母の人質に答えて、家康は大坂城の秀吉を訪ね、臣下となると誓います。
1586年に京に聚楽城を作り始め、1587年9月に完成した城に入っています。側室の加賀殿(1572~1605年前田利家の三女)が聚楽天主と呼ばれました。淀城(1589年鶴松の産所、91年鶴松死去、秀頼は1593年大坂城で産む。94年3月城棄却)に淀君、大阪城(1585年天守完成)には政所と、秀吉は所々に女を置いていました。周囲に大名の邸宅を建てさせ、1588年4月に後陽成天皇の行幸が盛大に行われました。そこで、聚楽城でなく、聚楽第と言われました。
1591年に「永代地子免除」令を出します。平安京では住宅地の売買はありえないですが、中世の両側町となると、商いの価値を持つ土地により、建物に土地の価値がついてきます。下京の町組が土地の価値を表しています。
しばしば起きる大火により、建築の価値は一瞬に消えてしまいますが、秀吉の京都の都市改造(街区、お土居、寺町など町のゾーンイング)は土地の価値を明確に固定化しました。そこで、町の支配者であることを秀吉は「永代地子免除」で示すのです。
近世の地子は、家作の間口で決められていますので、やはり建物に土地の価値がついてきたのでした。
1591年に本願寺を大坂天満から京の六条に移し、お土居・堀を設け、寺を都市外周に置き、短冊型の町割りをして、京を聚楽第を中心とした環濠城城塞都市とします。秀吉の「京の城下町化」と言われていますが、都市全体を堀と土塁で囲んだ城下町はなく、行ったのは寺内町です。秀吉の城下町は、長浜城、大坂城、聚楽城、伏見城とあるのですが、城を武家地で何重にも囲み、守り堅固な城郭とすることをしておらず、1601年に家康の城割で全国一斉に作られた城下町のような明快なゾーニングもありません。
1591年には、秀吉は朝鮮に攻め入ります。諸国大名で四国・九州は1万石に付き600人、中国・紀伊は500人、五畿内は400人、近江・尾張・美濃・伊勢の四ヶ国は350人、遠江・三河・駿河・伊豆までは300人でそれより東は200人、若狭以北・能登は300人、越後・出羽は200人と定めており、非戦闘員も含めて30万人の動員です。この戦さへの秀吉の意欲、莫大な投資の姿を、遠くにいる京の人々の面前に示すのに、「日本の首都である京を守る。」という触れ込みの土塁ほど、わかりやすいものはなかったのだと思います。平安京は羅生門だけで囲われることはなかったのですが、秀吉の「唐入り」で初めて囲われました。
12月に関白を秀次に譲り、聚楽第に入った秀次に1592年、後陽成天皇の再幸がありました。秀次によって多くの増改築があったでしょうが、内容はわかりません。
秀吉は1592年3月に朝鮮侵略の前進基地として作った肥前名護屋城に入ります。淀君、松の丸殿、広沢局を侍らせて観能、茶道三味にふけった一年でした。秀吉は秀次と共に聚楽第に住むことはなかったでしょう。
1595年7月、秀次は嗣子にまつわる秀吉との軋轢から自害し、聚楽第は破却され、殿舎の多くが伏見城に移築されます。大名も伏見に移ります。
秀吉は、秀頼が生まれたので大坂城は秀頼に渡すとし、自身の住まいとして伏見城(1593年9月~98年)を家康に作らせていました。淀君、秀頼も伏見城に来ていました。「死後、秀頼は守り堅固な大坂城に入れ。伏見城には徳川家康、大坂城には前田利家が入り、秀頼を助けよ。」の秀吉の遺言は当座は守られました。家康は1590年7月に、秀吉によって関東へ移されましたが、江戸の城・町の建設に関われないまま、伏見を拠点にしていました。
秀吉は、1587年九州征伐、1590年関東、東北征伐により、全国を統一します。家康の移封だけでなく、全国の城割りをしました。
太閤検地、刀狩りにより、関白・太閤として日本をまとめると、九州の兵を主力として朝鮮に攻め入ります。(文禄慶長の役1692~1598)
この時、全国の大名は、秀吉が作った城下町、長浜、姫路、大坂、京、伏見、大坂を参考にして城下町を作ります。私は「桃山型」と名付けました。
関西では、中世の港町、門前町の上に、城下町を重ねて作ることもありました。「中世型」と名付けました。
家康が関ヶ原の戦いで勝ち、1601年に家康の城割がされます。仙台、名古屋など、新しく作られたのを、私は「江戸型」と名付けました。
秀吉の城と城下町を見ていきます。
長浜城下町 / 近江八幡城下町
秀吉は、1573年に朝倉の一条谷城、浅井の小谷城を落とした後、信長に「北近江4郡を領地とする大名となれ。名を改めよ。(木下から羽柴へ)琵琶湖沿岸の今浜に城を作れと。」と命じられました。今浜は長浜と名前を変えます。秀吉にとって初めての都市づくりでした。信長は小牧に4年いましたが、城下町にしていたかどうかの証拠はありません。信長が自身で新たに作った城下町は安土だけです。
北国街道と小谷城下町をそっくり移して、長浜を北近江の中心地とします。近くの佐和山城には信長重臣の丹羽長秀(1535~85年)がいたのですが、琵琶湖の西岸にある光秀の坂本城(比叡山焼き打ち1571~86年廃城)と船で結び、近江支配の要の琵琶湖を押さようとしたのでした。信長は1573年、大工・岡部又右エ門に佐和山で大舟を作らせていました。信長が伊賀を視察する1581年まで近江は完全に支配できていませんでした。
1606年に家康が佐和山城に代わる彦根城を井伊に作らせると、長浜城は1615年に廃城となります。城はなくなったのですが、近江八幡と同様に、港、宿場町、縮緬生産(問屋制家内手工業)により、在郷町として栄えます。江戸時代中期1696年の絵図が残されていて、長浜市は「秀吉の城下町」として復元し博物館にて見せていますが、どうなのでしょうか。在郷町としての発展が著しく見える絵図であり、湖沿岸の武家地は100年を経ており見えません。武家地が城郭を囲んでおらず、城郭に町人地が接しており、「城下」の町に見えません。
町人地の位置、形状、大きさからは「桃山型」であり、秀吉の近江八幡城下町、井伊の彦根城下町と比べて、この町人地の「植民地的グリッド割り」は、平安京の町グリッド120m角を二つに割り、60m×120mの街区と小さくした秀吉の考えを示す先例と言えましょう。
長浜市では、
「城下町の移転は急速に行われたものではなく、まず1574年(天正2年)頃、当地の今浜村などを元に大手町、東本町・西本町、魚屋町、北町などの南北に延びる城壁に直角(縦)に向かう東西に長い「縦町」が作られ、その後1580年から1581年にかけて小谷城下町の住民が移転し、南伊部町・北伊部町や上・中・下の呉服町、鍛冶屋町、郡上町などの南北に延び、「縦町」と直行する「横町」が作られたと推定される」
近江八幡は、天秤を担いで外商をした近江商人の発祥の地、在郷町です。しかし、1585年に秀吉48歳が嗣子・秀次(1568~95年)17歳、20万石の為に作った城下町でした。秀次の作った城ではありません。後に岡崎城・柳川城を作った田中吉政(1548~1609年)37歳が秀吉の指示で作ったのでした。1595年秀次の高野山での自死により、聚楽第と同様に廃城されました。
八幡山の麓にあったのですが早々に消えてしまった武家地は、琵琶湖に東西に流れる八幡堀によって、東西12×南北4~5の町人地町割りと区画されていました。このように町人地街区(1ブロック 122m×85m)を面として作った城下町は、100m角を東西13×南北5~8並べた名古屋、東西7×南北5を並べた駿府と大きな町しかありません。ここに秀吉の近江八幡の町の意図=副都が見えます。信長がなした安土の城と町に対抗するものを、隣に新たに作ることによって、自らの力を誇示したかったのでしょう。
武家地が城郭を囲まなく、町人地と別区画であるは、長浜城下町の地図を湖を上にしてみると八幡にそっくりです。大阪城も城を上にすると、武家地は右わきに来て、城の下に町人地が来ます。兵糧攻めが得な秀吉には守りの意識は薄かったのでしょうか。
秀吉は、大坂城とその城下町建設を急いでいた時であり、天皇を大坂・天満に呼びよせて大坂を秀吉の天下の首都とする構想の元で、嗣子が座る副都建設なのでした。そういう目で見ると、この後に大坂の町図を出しますが、似ています。おおらかな秀吉の城下町プラン「桃山型」が見えます。後に京で秀吉がやったような土塁、堀で町を囲むことはありません。
以下に豊臣秀頼包囲として作られた井伊の彦根城「江戸型」と城下町プランを並べます。
淀君の妊娠する前、京の城下町化の前の事です。急に大きな町人の町ができるわけなく、町人は安土からそっくり移しました。今も安土と八幡には、佐久間町、博労町、新町、西寺内、東寺内、永原町と同じ町名が残っています。清州から町ぐるみで引っ越しした名古屋の「清洲越え」が有名ですが、近江八幡に先例がありました。
大坂城下町
書いているのは、京都の都市史なのですが、秀吉の京の環濠城塞都市化は、大坂城下町、伏見城下町建設とセットで見ていかないと理解できないので、その観点から大坂城、伏見城を見ていきます。
秀吉(1537~98年)は、1582年6月本能寺で信長が殺されると、中国大返しを行い、山崎の戦いで光秀に勝ち、7月の清須会議において、秀吉の城・長浜城は柴田勝豊が取り、秀吉は従来の播磨国・但馬国に加え、河内国と山城国を取ります。大坂城のある摂津は池田恒興が取ったのですが、1583年4月、勝家との鹿ケ谷の戦いにおいて、美濃大返しを行い秀吉が勝ちますと、5月に池田恒興を美濃に移封し、6月に大坂本願寺跡に入ります。
毛利攻めの秀吉の拠点は姫路城(現在の姫路城の下から、埋もれた石垣が発掘されていますが全体像はわかりません。)でしたが、大坂こそ天下一統の地だと信長と話していたのでしょうか、9月に城郭建設をはじめ、3万人を投下して11月には天守台ができ、安土城天主が燃えて2年後の1585年には天守が完成しています。同時に安土城の隣に、近江八幡城も作っています。
信長配下の柴田、滝川を討ち、丹羽、池田を抑え込み、織田信長の後継は、秀吉だと天下に知らせるシンボルとして天守が使われました。
1585年3月、毛利と島津に南北から攻められて困ったキリスタン大名・大友宗麟(1530~87年)は大坂城の秀吉を助けを求めて訪ねます。天守を最上階まで案内され、詰め丸御殿の秀吉の寝室も見ています。「ベッドが置かれ、布団の色は深紅で、枕は彫刻を施した黄金色だった。」 5月には、イエズス会のガスパル・コエリュがフロイスを通訳にして30人で大坂城を訪ね、高山右近、さらに秀吉の先導で、やはり最上階8階まで登り、回廊に出て下を見おろし、茶を飲んでいます。天守は2階以外は蔵としてあったようで黄金の数々を見、やはり秀吉の寝室も見せられています。
7月に秀吉は関白と豊臣姓を得て、天下人となりました。秀吉48歳、北政所(1546~1624)39歳は、秀次17歳を跡継ぎと決めて栄華を極め、楽しんでいた事でしょう。秀吉は宣教師に「日本は弟の秀長に任せ、朝鮮、シナを攻める。」と話をしています。しかしながら、1587年に九州征伐をしたあと、筑前筥崎でキリスタン禁止令を出します。
天皇が大坂に来ないので、秀吉は京に聚楽城を作り大名屋敷をその周りにおき、1591年に朝鮮出兵すると共に、京を守るための環濠城塞化を行います。日本の首都の体裁を整えたのですが、1593年の秀頼の誕生により、秀吉と秀次の仲はまずくなります。
伏見城は1592年秀吉の遊楽の場として作られたのですが、1594年、守り堅固な大坂城を秀頼に渡すために大阪城総構堀の開削をはじめ、秀吉の住まいの為に、家康に二期伏見城を作らせます。
伏見城
伏見城は秀吉、家康、秀忠の5期にわたる建設の歴史があります。
【Ⅰ期】1592年8月より工事開始、93年9月完成。淀川を使った京都の外港としてあった伏見ですが、この城は木津川と宇治川が合流する水域で「指月伏見城」と言われました。城としての防御性はなく秀吉の遊楽の屋敷でした。伏見は平安の時代から「水石幽奇」と言われた景勝の地であり、秀吉も信長と同様に京にはなじめなく、大坂に直結する別荘として適地でした。
【Ⅱ期】淀君に秀頼が生まれ、大坂城を秀頼に与えるために、秀吉の隠居城として急遽建てられました。1594年正月より佐久間政実(1561~1616年、子の佐久間 実勝は名古屋城の普請奉行)を普請奉行として秋には、秀吉の移徒がありました。全体完成しなくても移り住みます。95年に聚楽第が破却され、こちらに移建されています。96年7月の大地震で崩壊します。1596年9月、来朝した明使節との謁見は大坂城で行われました。
【Ⅲ期】地盤のよい木幡山上に、平山城が1597年に5月に完成します。あまりに早いので、地震で火事は起きなく、材は再利用したと思われます。98年8月にここで秀吉は他界します。翌年秀頼が大坂城に行くと、家康が城代となります。1600年関ヶ原の戦いの前哨戦で、落城焼亡しています。
【Ⅳ期】1602~1606年、秀長の大和郡山の天守を移築し、第Ⅲ期の規模を再営します。徳川家康の関西での拠点城としてのイメージが強かったのでしょう。多くの洛中洛外図で端の方に見られます。大坂冬の陣、夏の陣で豊臣が滅びると大坂睨みとしての機能はいらなくなりました。
【Ⅴ期】1606年に家康は二条城を作り、家康が二条城、秀忠が伏見城とすべく、1617年に修築をしていますが、秀忠は大坂城を再建すると決め、1619年に伏見城の取り壊し、移築が始まり、1624年には全くなくなり、桃の木が植えられます。秀吉のうたかたの栄華をしのんで1582~98年の秀吉の16年間を「桃山時代」と名付けました。京都の外港としての価値しかないので、在郷町として残れませんでした。
信長の時代は「安土時代」と呼ばれますが、安土に信長が入った1579年からでなく、足利義昭を奉じて入洛した1568年からを指します。本能寺でなくなる1582年までの14年間です。秀吉と合計しても、30年でしかありません。
1615年豊臣を滅ぼし、家康がなくなった1616年までの家康の時代の18年間も「安土桃山時代」に加え、48年間とすべきだと思います。この半世紀は、目に形として残された「城・城下町の時代」とも言えましょう。800年間、都市は京都ただ一つでしたが、新たな幕藩体制の元、一斉に都市文化の華が日本全国に咲きました。
江戸時代の京都
家康は、関ヶ原の戦いに勝つと、新たな城割を行い、街道整備を指示します。1601年12月に家康の城づくりトリオ、普請奉行・板倉勝重、縄張・藤堂高虎、大工・中井正清に二条城建設を命じます。西国大名による天下普請です。
家康は江戸を幕府の首都とするのですが、東国の辺境の地です。豊臣秀頼と豊臣恩顧の西国大名は健在であり、天皇を中心とする公家の動静には迅速な対応が迫られました。1603年に家康は征夷大将軍となり、1605年には秀忠が将軍になります。いずれも、拝賀の礼は京の二条城で行われています。1623年、家光も父・秀忠と共に30万の兵を率いて京にのぼり、将軍宣下を受けています。
二条城とは、平安京の地域(一条から二条の間)としての二条であり、足利義昭、織田信長の館も、聚楽第もすべて二条にあった館です。中世の上京と下京の真ん中にあり、京全体をつかむ適地として、信長、秀吉、家康のいずれも同じように考えたのでした。
古代の通りの名は「二条大路」と言い、幅8丈(24m)です。徳川の二条城は二条通りを真正面に受けていて、現在は幅4mの一方通行です。古代から京は南北の通りで作られており、二条城の大手道は堀川通だったのでしょう。道路幅は中世になると、いずれも6mまで縮められてしまいました。京都の代官所は城の北にありました。
中世からの町の中心軸はやはり南北に上下京をつなぐ、室町通、町通でしたが、一方、祇園へまっすぐ向かう四条通りもあり、洛中洛外図に鴨川への橋が見えます。阪急電車の駅が作られました。近代京都の目抜き通りは京阪電鉄の駅に向かう三条でしょう。江戸時代に、粟田口(三条口)が、山科経由の東海道、東山道からの京都への入口とされた事によります。伏見口(五条口)にも古代より橋が架かっていました。
伏見への路面電車が近代京都の骨格を作っています。路面電車と火除け地が道幅を広げました。京都の近代化は路面電車の路線図に見えます。
1603年に、二条城は一応完成します。慶長二条城と言います。敷地は現在の半分であり、南北に長い平城で、北と東に櫓門を開き、柱、長押を出した5層の回廊つき後期望楼型天守と雁行する館があります。城と言っていますが、とても城とは思えない姿かたちです。京のように簡単に燃えてしまう都市では、いくらお土居があっても防ぎきれないので、二条城は家康の豊臣包囲網から外されていたのでしょう。
1611年、家康(1543~1616)68歳は成人になった頼朝(1593~1615)18歳を二条城に呼びつけ、上位であることを示すのですが、その受け答えを見て、殺すことを決意しました。
1619年には、桂離宮の八条宮の働きにより、徳川と天皇の姻戚を結ぶ話がおきます。この時、二条城の拡大計画が立てられますが、秀忠の大坂城建設が優先し、実現されませんでした。秀忠の5女=和子が1620年に後水尾天皇に入内する様は、洛中洛外図の恰好のテーマとなりました。二人の間の皇女は明正天皇となります。
家光の将軍宣下の後、後水尾天皇行幸が二条城にて行われると決まり、寛永二条城が作られました。小堀遠州(1579~1647)が指揮を執り、大工は正清の子・中井正侶(1600~31年)でした。雁行する御殿に遠州の庭が絡む今に残る結構です。西方に堀を伸ばし敷地を東西に広げました。城郭の構えは少なく、内郭だけで城とは言えない城ですが、内郭は21ヘクタールあり金沢城に匹敵します。
1626年の天皇行幸は、公家をも統合した徳川幕藩体制の完成を祝う儀式であり、江戸時代の洛中洛外図屏風が160枚ほどあるのですが、二条城に天皇が入るところがクライマックスになっています。
大坂冬の陣、夏の陣の前の京は、人口を一気に増します。3万人から20万人となりました。安定した徳川の世になり、豊臣秀頼は方広寺など京に大金を投じます。
全国一斉に150ほどの城下町ができますが、江戸も含めて、京の文化が欲しいのでした。大工、石工、庭師、絵師、金物師と人は全国に呼ばれ、西陣の絹織物、洛中洛外図、扇など、多くの商品が作られました。
元禄の世に、法華の理想郷「鷹ヶ峰の芸術村」を求めた最後の町衆がいます。尾形光琳(1658~1716)と弟の乾山です。町衆から御用商人になっていった本阿弥家とつながる呉服商の子であり、もはや封建制度が固まり市民社会とは言えないのですが、町人の元禄文化が関西に開きました。大坂ではストーリー性を楽しむ井原西鶴、近松門左衛門ですが、京都では、絵に焼き物でした。
寛永には、京都の地図が発行されます。
内裏とは、公家町を含めており、公家町の地図は別売りでありました。公家町は観光名所でした。
秀吉の地図にある「新城 1597~1600」は、政所が大坂城西の丸を家康に譲り、移り住んだところです。
家康は、幕府が治める京都とすべく新たに二条城を作り、この新城跡は公家町とします。それが、今の広い御所です。明治なって東京に移り、建屋は壊されました。
江戸からの観光客を相手に、洛外の名所案内もつくれました。
江戸時代、京、大坂、江戸を三都と言っていました。そのとびぬけた町人地(赤色)の大きさを示す為に名古屋と金沢をならべました。明治になると共に「府」となるのですが、江戸は東京府から、東京都となります。「都」とは、日本史では天皇のいるところですが、今の「都市」の定義では、傀儡の王がいるだけでは「都市」とは言いません。
日本の城下町とは、一国一城の領主が住み、税の徴収、行政、警察、裁判を行うところであり、サラリーマン化した武家地が町の7割を占めているのでしたが、大坂と京都だけは違います。幕府から派遣された代官が治めており、武家地は極めて少なく、町衆の息遣いを市民の中に今も持っています。
名古屋は現在人口230万人ですが、武家に支配されても生活に困っていなかったので、お上に向かって何も言いませんでした。名古屋市民は人口10万人の江戸時代のならいから、今もお上には逆らいません。
近代京都の都市図は路面電車の路線図によります。
天皇、公家が東京に行ってしまい、どうしようか?琵琶湖から水をひき、大坂・名古屋と同様な工業都市を目指しますが、疎水は東山の邸宅の庭水とでしか生きませんでした。南禅寺のあたりはいかにも京都らしい風景ですが、明治に水が来てからの新しい景観です。
京都に限らず、江戸時代の城下町は明治の文明開化の嵐の中で右往左往します。名古屋都市史では、第一次世界大戦後からの都市計画を書きましたが、多くの農民が小作人化され、特権階級は財閥を作り、満州事変から太平洋戦争へと日本は突き進みます。「京都 都市史」として、書き残すものではないでしょう。祇園会を追いかけた「カミを神仏習合に探す」では、戦争に突き進む姿を日本宗教史としてPDFにまとめました。
京都は空襲にあっていないですが、アメリカ軍に古都を残すという意志はなく、軍の工場がなかっただけであり、国民を恐怖におとすための原爆投下では、長崎の次の候補になっていました。
今は高速道路が流通の大動脈ですが、明治20年代に行われた鉄道の延進が日本の都市を変えました。どこの城下町でも、都市のエッジをかすめて鉄道を通し、駅を作り、新たな都市軸を作りました。
京都は平安京9条の内の7条と8条の間に引き込まれ、朱雀大路を北進します。京都駅が京の都市軸を室町通りから烏丸通りに変えました。
次に路面電車が町中を走ります。道路幅を広げないといけません。以下に路面電車の系統図を2つ載せます。この拡大の方向が、現代の京都を作りました。江戸時代の京の延長に人口150万の京都が作られたことが明確に見て取れます。
平安京の誕生から、縮む京都を見る。
古代の平安京の地図と中世の上京、下京を地図を重ねました。
平安京は「条坊制」「行門制」と言われます。 東西の大路が一条から九条まであります。三条大路と四条大路の間を、三条と言います。南北は大路でなく、右京、左京それぞれ一から四までの坊があります。一つの坊は約500m角であり、坊は8坊×9、5条=76個あるのですが、信長入洛1568年の時には、4個と5%に縮んでしまっていました。
平安京の計画プランは、延喜式に残されています。一坊は4×4の16の町で構成されており、その40丈四方の町は、四行八門、32の戸主(へぬし)区分けされ、一戸主は東西10丈(30m)、南北5丈(15m)となります。
天皇(おカミ)をいただいた貴族が政治をする律令国家は、一位から八位までの官人が集住する都市を必要としました。まさに「権力が都市を生む。」です。一戸主は、土地を住宅として分譲するに、最小の単位でした。
応仁の乱のあとの京、面積にして1㎢、人口は3万人もいたかどうかが、江戸初期には、面積14㎢、人口20万人と急拡大をする姿を先に見てきました。
一町は一人の大人「丁」が耕す「田」の面積の単位(約1ha)であり、長さの単位(約120m)であったのですが、町衆が自治をする「町(まち)」に変容しました。門前町、城下町と、町は town , cityの意味を獲得しました。
平安京がどのようにしてできたか。どうして縮んでしまったのか。「町」の変容はどのようしておきたのか。これらを、古代から歴史を順に追って見ていきます。
京のプランの前に、国家のプランニングを見る。
京都が首都となるには、国家がないといけません。では、京都を生む当時の日本の国家観はどうであったのか、古代の宮、都をめぐって探します。
600年の第一回遣隋使は「倭王は天を兄として日を弟としている。」と、高句麗神話を元に文帝に述べ、道理を持たない夷狄であることを諭され、聖徳太子(574~622年)は隋の煬帝に「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」と送り、怒らせたとあります。 大化の改新の後、646年の孝徳天皇の難波京に行く詔に「初めて京師みさとを治め」があり、大帝国の「唐」(618~907年)の国家の成り立ち、そして都の「長安」についても、夷狄と言われないように遣唐使を送り、「京師」の知識の輸入に必死だったのでしょう。
しかし、今の教科書には「大化の改新」はなく「乙巳(いっし)の変」と変えられ、聖徳太子の憲法17条も取り上げられていません。近年の歴史学では、律令国家(飛鳥浄御原令689年)を作った持統天皇・藤原不比等が、聖徳太子の事績、中大兄皇子の大化改新を「昔からあったのだ。」と、ことさら日本書紀で強調したかったのだとされています。
藤原京 692~710年
ヤマト王朝のオオキミが天皇となったのは、天武天皇(~686年)からであり、天武天皇が律令制度と藤原京を輸入し、持統天皇(645~703)が首都を694年完成させ、701年大宝律令を出し、古事記、日本書紀と合わせて、日本の国家観を形作りました。
しかし、その後すぐに、710年に元明天皇(661~721年)が盆地の南端から北端の平城京に遷都するので、わずか16年間の都であり、どこまで唐の長安を模した都ができていたか怪しいところです。近年の発掘から、すくなくとも大官大寺は未完成でした。平城京では大官大寺は大安寺と名前を変え移転し、飛鳥寺も平城京では元興寺と名を変えて移転しています。 京のほぼ中心に内裏・官衙のある藤原宮を配していて、それは高さ5mの塀で囲まれ、12ヶ所の門がありました。朝堂院は南北約600m、東西約240mにおよび、57m×27mの大理石張りの基壇に大極殿がありました。
城壁に門をうがち、白い基壇の上に、朱色の丸柱、黒瓦の大極殿の姿は中国直輸入であり、見る者を畏怖させないでおきません。
平城京 710年~(740ー745)~784年
平城京には、いくつもの巨大な伽藍が作れ、聖武天皇(701~756年)は都の東を伸ばして、国家鎮護を願う東大寺を作り、745年に大仏の開眼供養をします。
持統天皇から聖武天皇にかけての仏教ヘの傾倒には、同時代を生きた則天武后(624~705年)の影響が強いと思います。彼女は660年の倭と百済の連合軍を白村江の戦いで破り、5年後に高句麗を滅ばし、690年「周」を建て、自ら帝位につきます。 帝室を老子の末裔と称し「道先仏後」だった唐王朝と異なり、武則天は仏教を重んじ、朝廷での席次を「仏先道後」に改めました。諸寺の造営、寄進を盛んに行った他、自らを弥勒菩薩の生まれ変わり(権現の考え)と称し、このことを記したとする『大雲経』を創り、これを納める「大雲経寺」を全国の各州に造らせのでした。
天智天皇が、諸天善神が国を守護する「金光明経」を元に685年に諸国に仏舎を作る事を命じた事、そして、聖武天皇と光明皇后が741年に国分寺・国分尼寺を全国に作る事を命じたのも、「仏の生まれ変わり」も含めて、古代日本の国家感には、武 則天の影響が大変大きいと私は考えています。
古来日本では、オオキミの住まい「宮」が、天皇とそれを支える豪族の行政の中心でありました。飛鳥宮跡には、飛鳥板蓋宮(皇極天皇)、飛鳥岡本宮(舒明天皇)、飛鳥浄御原宮(天武・持統両天皇)と、複数の宮が断続的に置かれたことが判明しています。これらは都市とは呼びません。
「宮」は掘立柱に板葺きでした。すでに瓦葺きの寺、606年山田寺、623年中宮寺、法隆寺若草伽藍、四天王寺、639年百済寺、662年川原寺が、つぎつぎと建てられているのですが、国家の「宮」は、天皇と共に移動します。そういう意味では、藤原京も元明天皇は捨てて平城京に移りますので、「都」にはなっていません。
そして、724年23歳で即位した聖武天皇も「宮」を転々とします。
律令による中央主権国家の根本である、国が民に与えなけれならない口分田は、実は人口の半分も用意できず、723年に三世一身法、743年に墾田永年私財法が制定されます。皇室は相変わらず全国に設置した直轄地「屯倉」、後に変じて「荘園」に頼るのでした。聖武天皇は国家財政の半分を費やして大仏殿を作るのですが、何事も中国から仕入れたままの思想、制度ではうまくいきません。
737年に、政権を担っていた藤原四兄弟が天然痘の流行によって相次いで死去し、政権は橘諸兄 に替わり、唐から帰った吉備真備と玄昉を重用します。740年に不比等の孫・藤原広嗣は左遷された大宰府で兵をおこし、吉備真備と玄昉の更迭を求めます。干ばつと疫病で平城京が死臭に満ちていたところにさらに内紛が起き、聖武天皇は乱の最中に、突然関東(伊勢国→美濃国)への行幸を始め、平城京に戻らないまま恭仁京(平城京の北15km)へ遷都を行うのでした。741年、国分寺の詔は国衙を引き連れた恭仁京で出され、翌年には紫香楽離宮(恭仁京の北東30km)の建設工事を担当する「造離宮司」を任命し、743年紫香楽宮において廬舎那仏(大仏)発願の詔が出され鋳造が始まります。744年天皇は恭仁宮から難波宮への遷都の詔を発し、745年紫香楽宮を新京と宣旨し、平城京に戻ります。
聖武天皇は、伊勢神宮もうやまい、八幡大菩薩宇佐宮を東大寺の鎮守社として迎えているので、災害を起こす怨霊退治には、なんでもありだったのでしょう。平城京には、勅願寺(法興寺、大安寺、薬師寺)だけでなく、興福寺(藤原氏)、喜光寺(土師氏)、紀寺(紀氏)、葛城寺(葛城氏)、佐伯院(佐伯氏)が甍を並べており、すでに仏教の都に相応しい景観を形作っていたのでした。
長岡京 784年建設を始めて794年に放棄、平安京に移る。
桓武天皇(737~806年)は、母の高野新笠が百済系渡来人氏族の和氏の出身であり身分が低いと770年34歳まで役人修行をしていたのですが、 父の白壁王が急遽皇位を継承し光仁天皇となってから、藤原百川によって773年皇太子となります。あくる774年に天皇を譲位されると、即座に同母弟の早良親王を皇太子と定め、百川の兄の藤原良継の娘の藤原乙牟漏を皇后とし、彼女との間に安殿親王(後の平城天皇774~825)と神野親王(後の嵯峨天皇786~842)をもうけます。
桓武天皇は、道教に代表されるように、肥大化した奈良仏教各寺の影響力を厭い、天武天皇流が自壊して天智天皇流に皇統が戻ったこともあって、当時秦氏など渡来人が開拓していたものの、ほとんど未開の山背国への遷都を決意し、藤原 種継(737~785年)を長岡京の造営使にします。種継は造宮監督中に矢で射られ、翌日薨去します。暗殺犯をとらえて連座を探っていくと早良親王に繋がり、親王は内廃太子の上で流罪に処す、と決定されたのですが、早良親王は桓武天皇のいかなる逆鱗にも怯えないと決意し、絶食して配流中に薨去するという事件に発展しました。
その後、皇太子に立てられた安殿親王の発病や、桓武天皇妃藤原旅子・藤原乙牟漏・坂上又子の病死、桓武天皇・早良親王生母の高野新笠の病死、疫病の流行、洪水などが相次ぎ、それらは早良親王の祟りであると桓武天皇は考え、長岡京の北東にあって、山背盆地の最奥にある扇状地への遷都を決めました。今的には「気分一新」というのでしょうが、怨霊と大寺が平安楽土となる都市「平安京」を桓武天応に求めさせたのでした。都の寺は東西に二つだけとしました。今の京都からは想像できないですが、古代に京郊外の風光明媚な場所に多くの寺が建った理由です。
カミと天皇という事では、桓武天皇は早良親王事件のすぐあとで、交野柏原(現在の大阪府枚方市)において、日本で初めて、48歳で天を祀る郊祀を行っています。天皇になって11年後の785年ですので、早良親王を死なせた迷いでしょう。787年にもおこなっていますが、まだ長岡京にいます。郊祀とは、氏族制社会が解体した帝政初期つまり秦・前漢の郊祀は、天との霊的交感を目的とする呪術的な方術として実施されたもので、後漢の光武帝が元始4年の郊祀を故事として採用することにより、儒教理念を下支えとする郊祀制度が定着しました。中国の王朝が変わる革命は、古い王朝に徳がなくなり、新たな帝王を天が選んだのであり、新たな王朝の帝王は天を祀り、天子となるという儀式です。
選地の理念:四神相応。 城下町にも、邸宅にも使われた。
1972年高松塚古墳の四面の壁に描かれた四神によって、有名になりました。北面に玄武・山、南面に朱雀・海、東面に青龍・川、西面に白虎・街道と、中国の自然環境学というべき「陰陽学」の地相として日本に持ち込まれました。北に船岡山、南に巨椋池、東に鴨川、西に西海道と四神相応の土地となります。山背の国の山々を都市の「城」とすべく、「山城国」と名前を変えました。
城下町の都市設計の教えは、山本勘助を祖とする兵学の中で「四神相応」という単純な文言でしか文書ではありません。東西南北は例えであり、トポロジカルに都市計画されたのでした。陰陽学の「国風化」が行われます。
大陸と違う日本は、山が海に迫り、川は急峻です。すなわち、古墳を高台に見上げるように天守を平山に置き、川の流れと街道を町に取り入れ、扇状地に町を広げたのでした。名古屋は川がないので堀川を堀っています。扇状地で稲作を行った弥生人の集落計画と同じ感覚を「国風化」として中国由来の「陰陽学」に取り入れ「陰陽道」としたのだと思います。
古代の都と城下町との違いは圧倒的な土木力の発達であり、川の取り換え、運河、埋め立て、石垣、日除地などによって、扇状地でなくても江戸は100万都市となりました。
さらに、現代都市は、もう扇状地になく、かっては洪水が怖かった沖積平野に広がっています。
「国風化」の源点は安倍晴明の陰陽学です。文字で残っているので、そのまま載せます。漢字の並びに、道教、儒教、仏教を日本独自の神道で包んだというか、私には、山岳仏教と同様な感覚がします。
キトラ古墳では、石棺に四神と北極星が描かれていました。どのように北を決めるのかは、目視での天体航法によって遣唐使が行っていたのですから、身近の船岡山=北極星として都市軸を決めて縄張りをしたのでしょう。
平城京造営時の元明天皇の詔が続日本紀に「方今平城之地、四禽叶図、三山作鎮」とあり、「四神」が都の適地の理由だとされています。「亀筮(きぜい)に従う」ともあるので、「菅原」も候補地だったのですが、決定は占いによったのでしょうか。
飛鳥の豪族の地に近い藤原京では新都として人を集められなく、大和川の流域から盆地の北端にある淀川水系の木津川に平城京を持っていくことにより、新たな土地力を得れるとしたのでしょう。
1995年淡交社刊
編者 村井康彦
「よみがえる平安京」
龍谷寿(同志社女子大)
金田章裕(京都大学教授)
高橋康夫(京都大学)
瀧波貞子(京都女子大)
永田信一(京都市埋蔵文化財)
山田邦和(京都府京都文化博物館)が、模型製作過程の話を本にしたもの。400年間の平安京を一つの模型で示すので、無理があります。
縮んだ理由は、必要以上に大きすぎ、右京は湿潤であり住めなかった。
唐の長安(東西9,5km×南北8,5km)に、平安京(東西4,5km×南北5,2km)を重ねて見ると、面積比では平安京は長安の3割となります。
平安京の人口は、ある人によると、12万人以下とあります。 政治は20人程度行われており、天皇、王族、五位以上の貴族と家族が1600人。それへの資人が6900人。 六位以下の官人と家族が3700人。 諸司厨町(衣食住を提供する職人)が15000人。 ここまでの合計が27,200人です。そこに、市住民(庶民、奴婢)が90,000人として12万人であり。人口密度は5,000人/㎢となります。今の名古屋市の人口密度は6,900人/㎢ですので、これだけでは平安京の都市密度の実感を間違えてしまいます。
18世紀に130万都市となった江戸の人口密度は、23,000人/㎢ですので、平安京の4倍の密度となりますが、さらに、町人となると、都市面積の15、8%の町人地の中に60万人がいて、武家地の65万人と寺社地5万人をを支えていたのですから恐ろしいです。町人地の人口密度は67,000人/㎢となります。町人地は平安京の10倍の密度で住んでいたのでした。平安京も江戸も木造平屋建てでの住まいであり、平安京の庶民9万人は、洛中洛外図にある町通りに面した小屋がけに、江戸の長屋のように折り重なってすんでいたのでしょう。すると、都市全体の密度は、1,300人/㎢とスカスカになります。
唐の長安は黄河のほとりにあり、現代名は西安です。伝説の周の豊邑から、秦の国都・咸陽があり、漢は、長安と改名しました。その後の晋、後秦、西魏、北周、隋、唐と国都を1500年この地につないできたのでした。帝国としてのプランニングは、律令政治の成文化同様に蓄積されたものでした。それを日本は、律令制度と同様に、都市のプランニングも何も疑うことなく輸入するしか手段はなかったのでした。口分田は必要量の半分しか手当てできなかったのですから、逆に都市面積は2倍用意していたのもわかります。人口600万人の日本の首都として、平安京は大きすぎたのでした。
1995年淡交社刊 編者 村井康彦 「よみがえる平安京}から、 瀧波貞子(京都女子大)がまとめた、平安京の前期、中期、後期の絵図を入れます。研究者たちが長い間をかけて、古文書から、役所、邸宅の場所を特定していたのを、色を使ってまとめなおしました。平安京は400年間続いたので、少なくとも130年ごとのこの三つの模型がいると思うのですが、一つしか作っておらず、そこに「都市史」探求の姿は見えません。
当初は、右京も扇状地の二条に、院、役所がありした。中期になると、右京には館は無くなり、後期は耕作地が広がります。
11世紀から15世紀の応仁の乱までは、京都は左京だけであったのでした。まだ、上京、下京までは縮んでいません。応仁の乱が京都を焼き尽くし、京都を政治都市として認めない戦国時代に入り、商業的都市・京都を支える町衆が、縮んだ京の主役になりました。
住まいの単位は壁で守られた「坊」、500m角であった。
春秋時代に書かれた官府の書と言われる技術書「周礼考工紀」に以下が書かれています。
「国の都は方九里、四方にそれぞれ三門を開き、町の中には南北に九本、東西に九本に道が通じている。宮廷と官庁が前面にあり、市場はその後方にある。」とあり、三本の真ん中が車道であり、左右の道が人道であり男女が分かれて使うと「男女七歳にして席を同じとせず。」の儒教的倫理観で都市プランを説明しています。
これは規範を示すものであり、藤原京、平城京、平安京は、それぞれ遣唐使が持ち帰った事例から作り、都市プランは違う(京のプランの前に、国家のプランニングを見る。に戻る)のですが、唐の長安は高さ5mの「城壁」で囲われていたのに、日本の都市は共通して、門だけで「城壁」は作りませんでした。
人口2500万人を超える上海の観光地に「田子坊」があります。私は町中の民家を改造したホテルに泊まったのですが、ここも坊の中にあり、車まで100m歩かないといけませんでした。
きちんとした長方形でないですが、400mほど、延々と壁が続く「坊」が上海には残っています。北京の「坊」はオリンピックで壊されましたが、都市「城」に住むのに、都市の中にさらに防御の「坊」が必要とされたのでした。
「条坊制」で都市プランをするとは、宮廷と官庁を中央に、前面の朱雀大路(幅85m)によって右京と左京にわけられ、東西は大路(幅24~36m)によって4つに区切られ、南北は北辺~9条に区切られている「坊」が、築地によって防護されているのでした。500m角になります。
京の盗賊への防備の為に領下の官として「検非違使」が作られますが、その防御単位は「坊」であり、毎晩「坊門」は閉められ、京識の坊長の元「坊」の住人による自警団の見回りがされたとあります。
その坊には、4×4=16の町(120m四方)があり、今日の「町まち」に言葉として繋がっています。 しかし、京戸はそれを4×8=32に分割したものであり、一戸主は、東西10丈(30m)×南北5丈(15m)であって、大路、小路に門を開けられないという閉鎖された宅地でした。これがあてがわれるのは八位ですので、宅地を塀で囲うことはありません。
しかし、4位以上の公家に分譲される宅地は、一町以上でしたので、塀で囲います。ですので、一条から四条にかけての平安京の当初の街並みは、築地塀に囲われた閉鎖的な景観となります。洛中洛外図の楽しい町の様子は、東西にある「市」でしかありませんでした。
●「五畿七道」 延喜式から
七道は、国々の集合からなる領域の名前であると同時に、京から七道の各領域に延びる官道でもありました。国の名と七道は7世紀からほとんど変わっていません。
埼玉県稲荷山古墳から、471年の年号と雄略天皇を支えた吾、と金で象嵌された鉄剣が出ています。おそらくは古墳の主の王の弟だったのでしょう。東山道を頻繁に使って、ヤマト王朝に隷属し、ヤマト王朝の前方後円墳の権威でもって、武蔵のクニの王の権威をも高めることができました。国を統一するのに、道がなくてはなりません。5世紀に朝鮮半島から馬が大量に入っており、馬は戦いに使われていますので、道は馬の走れる道でないといけません。
律令では、「厩牧令」において、①30里(15km)ごとに駅をおく②大路(山陽道)では駅馬20疋、中路(東山道、東海道)では駅馬10疋、これら以外の小路は駅馬5疋、③伝馬5疋を郡で用意④駅には、駅長、駅小を置く。とあります。公的な旅ではこの馬が無償で使えました。
発掘によって、幅は12m~16mであり、平野部は直線状に作られ、丘陵部では切りとおしになっていることがわかっています。
●信長の道路
中世にも道路は当然あります。鎌倉街道の断片が残っていますが、中央集権国家が弱くなり、道は災害に崩れ、細く、曲がります。
天下統一を目指した信長が道を作った記録が残っています。1568年に足利義昭を奉じて入洛してから、信長は本拠地の岐阜から京にいかに早く行けるかを考えます。万となる兵の移動をたやすくしないといけません。1572年浅井、朝倉軍との合戦に際し、湖北の虎後前山から宮部まで、幅3間半(7m)の軍用道路を盛り土で作り、1574年の尾張内の朱印状では、年3回の道路の修築と橋、水路の修繕を命じ、1575年には、2万人を動員して東山道を整備して、岐阜、京の間を3里縮めています。幅3間(6m)盛り土3尺の道を、田を埋め、切りとおしを設け、作っています。
1576年、信長嫡男、信忠の名で、道路基準が決められています。「東海道、東山道、それをつなぐ連絡道(美濃街道、上街道)は、幅3間2尺(6m)、高さ三尺。街路樹は松か柳。」古代の道幅の半分以下です。また、「脇道、在所道は幅1~2間2尺(1,8~4,2m)」とさらに小さくなりました。
徳川家康は「道幅が狭い方が町は賑わう。」と言い、名古屋の町グリッドは京の町の8掛けの100m角とし、本町通りの道幅は3間(6m)しかありません。四間道と名前が付けられた道は、堀川に沿った道であり、船で運ばれた品物を、大八車、馬の背、牛車で運ぶための特別な道でした。
京を含め、城下町を道は大体が6m幅(3間)であり、宅地に行くと幅3mもありません。3間の半分の一間半(2,7m)が宅地の道幅の基準だったのだと思います。何故なら、建築基準法に、4mの幅がない道は建物を後退させて、幅4mとなるようにしなさいとあるのですが、ほとんどが、2,7mの道幅でした。
一町は、面積の単位、長さの単位でもあり、紛らわしいと前に書きましたが、柱間の長さの一間(けん)は、今は6尺ですが、太閤検地では一間は6尺3寸とし、その前に京間では1間は6尺5寸でした。中世の一間は7尺です。古代では3mでした。建築の柱磨の間は、材が細くなり短くなっています。
古代での測量の単位は歩(ぶ)と歩幅からなのでしたが、建築での唐尺が一定に保たれたので、測量と建築が混在してしまいました。条里制にさかのぼって単位を説明をしたのをアップしておきます。
●17世紀中ごろの都市面積の比較 西欧では馬車が発達し、都市内でも石の舗装路を走っていた。
西欧の都市も日本の城下町も、私の感覚ですが、500mのコミュニテイ単位があるように感じています。徒歩で10分ぐらいです。
次のランクに2km四方の都市があります。面積では4㎢となるので、中世では大きな都市となります。往復で1時間かかります。
都市の最大面積は、4km×4km=16kmです。 徒歩で都市を形成するには、半日で回れないといけないので、これ以上大きな都市は、産業革命までありません。44㎢の江戸だけが異様に大きかったのでした。
都市において、2kmの距離 と 4kmの距離を 体感してもらうために、パリと名古屋の絵図を並べました。徒歩しかない時代、2km×2kmの都市は大都市です。 徒歩より速いのは、騎乗するか、馬車に乗るかですが、それが多くの人に可能となって、4km×4kmの都市となりました。
都市、城市、と、市が無くしては都市とはならない。
CITYの日本語訳は「都市」であり、中国は「城市」でした。中国語には、古くから集落を示す「邑」がありました。国都には「京」も「京師」も、また「都」もあります。
日本は天皇の住まうところの意の「都」をつかい、中国の都市は欧州の中世都市と同様に都市全体を城壁で囲んでいますので、「土」で「成す」土塁を示す「城」を使いました。
日本、中国のいずれも「市」が都市の本質にあるとの認識は変わりません。
万葉集には、海石榴市(つばいち、桜井市金屋)を詠んだ歌があります。山の辺の道、初瀬街道(はつせかいどう)、磐余(いわれ)の道、山田道と道が集まるところに「市」がたち、男女が出会う場所でした。
「海石榴市之 八十衢尓 立平之 結紐乎 解巻惜毛」柿本朝臣人麻呂歌集より。読みは:「海石榴市(つばいち)の、八十(やそ)の街(ちまた)に立ち平(なら)し、結びし紐(ひも)を、解(と)かまく惜(を)しも」です。意味は「 市のいくつもの分かれ道で地をならして踊って、結び合った紐を、解いてしまうのは惜しいことです。」
「延喜式」「関市令」から、市場の様子を見てましょう。
1.市司(いちのつかさ)が市場の管理をする。京は、左京、右京のそれぞれに京識が置かれ、その下に市司と坊が置かれた。長官の市正(いちのかみ)は、財貨の交易、器物の真偽、度量の軽重、売買の公定価格づけ、市内の非違検察と、検非違使ができる前は全てを見ていた。
2.正午から始まり、日没前に鼓を三度打って解散。
3,市司は時価に準じて三等にわけ、さらに各等毎の価格を三等に分ける。布一端に、九つの値段があった。估価法(こかほう)と言う。中庸の品物で估価するのである。10日ごとに相場を決め帳簿に記載し、京識に報告する。
4,毎月、15日以前は東市が開かれ、16日以後は西市が開かれ、同時に開かれることはない。
5.官庁の買い上げの他は、貴賤男女を問わず、この市の店頭にたって買い物をする。一条の住人も七条まで4kmを歩いてこないといけない。一日仕事となる。不便この上ない。
6,店主自邸に呼んで買いものをしてはいけない。時価に背いてはいけない。値段をみだりに変えてはいけない。ぼられることも値切ることもなく、品物を注文だけして配達させることもできない。
7.延喜式(905~927年)の頃の東西の商品を掲げた。東市は五十店、西市は三十三店、東西どちらでも買えるものに〇をつけたが、衣食関係の必需品に限られる。当初は同じ品物であったが、右京荒廃が進むので、835年に西市だけの専売品を定めた。平安京に移り、わずか40年で右京がダメになった事を示している。
8.唐の帝国さながらの政治に従属した市場であり、都民の利便性を無視していた。やがて、東市でも絹、土器、雑菓を売るようになる。律令制そのものが摂関政治で守られなくなると、東市も西市と同様に消えることになる。
9.刑場。死刑囚があると刑事省より弾正・衛門に連絡が入り、執行当日は弾正・左衛門の役人が市司南門の門外の東に、刑部・右衛門の役人が門外の西につらなる。囚人は市司と囚獄司が南庭に列する中を引き出される。犯状・罪名の宣告が衆にされ、斬であれば剣でにより、絞であれば綱を用いて物部の手で殺戮される。残骸は近親のものに授け、無親のものは城外閑所に埋められる。死刑のほかに、 唐の律令法では、笞刑・杖刑・徒刑・流刑がある。笞刑・杖刑も、この市で行われた。
まったく、以下のように、欧州の広場と同じ機能を持つのでした。
豊年の年は近在からも人が出て賑わう。凶作の年は乞食が集まる。官人から解放された奴婢も食を求めて来る。寸劇を行う狩猟、漁労の民も来る。市女を求めて男が来る。乞食には寿詞を述べ祝儀を得る寿人も含まれる。空也(903~972年)が念仏を勧め、一遍(1234~1289年)は、東市に舞台を作り踊念仏をおこなった。
中世寺院では六斎日(精進日は、8日、14日、15日、23日、29日、30日)にお寺に参る人々目当ての六済市が立ち、六斎念仏が行われるが、その起源は平安京の東市にあった。
右京が耕作地となり、京都は左京の半分となり、面積単位の町チョウは、町人の住むマチとなった。
発掘が進み、京都は延喜式に書かれているような理想都市でなかった事がわかってきた。
1984年に、七条小学校遺跡の発掘結果が発表されました。平安京の呼び方ですと、右京八条二坊二町の北五門東四行となります。西市の外町にぶつかる南北の西靫負小路の東側になります。 805年の木簡が捨てられていたので、 それが必要とされない時期、平安京前期の遺跡です。中期以降に耕作地化していったので、耕作地の下に遺跡が良好な状態で残っていました。道路敷の上面は砂と礫を敷き詰めてあり、荷車の轍跡も残っています。氾濫により道路は放棄されたのでしょう。中世からの中心地である四条烏丸となると、もう何も出てきません。
小路は、延喜式では幅が12m、溝は90センチですが、実際は3mほどあります。素掘りであり護岸されていなく、洪水があれば容易に崩れたのでしょう。溝を詰まらせないようにするためには、幅広くしないといけません。平安京が作られる前は、草の茂る沼沢でした。右京三坊では幅8mの川もありました。平安京は南西にさがる扇状地ですので、北側と東側の側溝が幅広くなっていました。
土盛りをしないと宅地にはならないのですが、 小路と四行八門の宅地境界だけが土盛りされて、宅地はされていませんでした。家を建てるところだけを埋め立てていました。市の近くで町人地に適していたのは、地盤の良い東市だけであり、835年に西市だけの専売品を定め右京の人気取りを図ったところから、早々に放棄されたのでしょう。 現代でも湿気のある宅地は嫌われます。ここは「四神相応」ではありません。
延喜式927年 より
平安後期なると左京を「上辺」「下辺」と言い、左右・東西から上下・南北に京を捉えるようになった。鎌倉時代になると「上町」「下町」と言われるがその境界はわからない。室町時代になって、花の御殿が洛北に作られ、内裏を中心にした「上京」が明確になり、対して、祇園社の座に組する町衆を中心とした「下京」が形成された。
慶滋 保胤(よししげ の やすたね933~1002年)は随筆「池亭記」982年頃に「西京は人家はしばらく稀にして、ほとんど幽墟に近く、人は去るあって来るなく屋は壊つあって造るなし」と書いています。「東の京四条以北は、人々貴賤となく群集し、高家門を比べ堂を連ね、小屋は壁を隔て軒を接す」と、貴族と役人はじめ多数の人々は左京の北半分に集中していることを示しています。
右京の街路は機能を失い、空閑地となり、宅地や田畑となり「巷所」と呼ばれるところが現れました。条坊制のグリッドパターンは消え去ります。
一方、貴族たちは京外に別業を設けます。988年藤原為光は鳥辺野の南「八条坊門末」に法住寺をたて、藤原兼光も「二条以北、京極以東」の地に住まい、死後法興院となります、道長が法成寺を「東京極外、土御門殿東」に営んだのは1020年でした。郊外の自然に憩いを求めて、遊宴の場を設けただけでなく、末法思想が流布する中、死後の西方浄土を願い、出家し、財の限りを尽くして寺院を建立しました。
藤原頼道が1053年に建立した宇治の平等院鳳凰堂が当時の威風を残してくれています。
白河天皇による白河御所と六勝寺(法勝寺1077~延勝寺1149年)も、白河上皇が作った鳥羽離宮を鳥羽上皇が1156年院政の御所としたのも、この考えの延長にあります。
内裏は、976年の消失の際に、円融天皇が藤原兼通の堀川第を里内裏としてから、東三条殿、土御門殿、一条殿、高倉殿と、里内裏は点々とし、平安京の中核である宮城、大内裏の占める位置が低下し定いき、13世紀には空閑地となります。摂関政治が京都の政治都市としての都市力を弱めました。
延喜式は、平安時代中期(905~927年)に編纂された格式(律令の施行細則)で、三代格式の一つであり、律令の施行細則をまとめた法典です。九条家には、平安京の都市プランが残っていました。右京には全く邸宅の名がありません。鎌倉時代に写されたものですが、慶滋 保胤が「池亭記」に書いた事、そのままです。
延喜式10世紀になると、通りに名前がついて、今の「四条烏丸西入長鉾町」につながります。通りに沿って両側の町が一つのコミュニテイとなります。川の上に町屋を建て、川は汚泥で埋まってしまい、二本の川を一本に合流させ、道幅は6mとさらに狭まってしまいます。
延喜式に読み取れる町の名前です。
律令制度では商業、手工業も役人であったのですが、大内裏の外に、衛士・舎人として徴収された役人に住まいとして用意される「廚町くりやまち」がありました。
やがて、商業地として名をあげます。木工、修理と、火事が多くニーズが強かったので、役人の副業として始めたのが端緒だったのではないでしょうか。
格子状の町割りの面積単位の一町というのが、その単位でそこに住む「町人」の職能を示す町名になっていきました。
都市はパリ、ロンドンでも、そして京も不衛生なもの。穢れ、だらけ。
スカトロジー京都
地震からの避難所では、必ず便所が問題となっています。水洗便所に慣れた現代人には「悪臭ただよう都」はイメージできないでしょう。しかし、今も、後進国の首都は、周囲から多く人を集めたスラムを必ず抱いています。都市の衛生環境と言えば、人・動物の排泄物や塵芥が、都市の制度・社会によってどのように処理されているか、自然の浄化力の範囲内にあるのか、が焦点になります。
街路の両側にある川は素掘りのままであり、塵芥投棄の場でもあり、壊れやすく、つまりやすいのでした。延喜式では坊長により溝掃除をしろとありますが、縮む京都ですので、守られず、川は減っていきます。
餓鬼草紙(12世紀後期)では、道路上で老若男女が排便しているところを、伺便餓鬼が糞を喰おうと狙っている様が書かれています。跳ね返り防止の為に高下駄をはいているので、高下駄が用意された共同便所の姿を描いているとの解説がついています。築地塀、網代壁に、平安末期の源平の争いの中で崩れてしまった京が見えます。
火事
藤原道長の頃の災害表です。火事の繰り返しにより、内裏が里内裏となっていくのが見てとれます。下水がなく疫病が定期的に発生し、疫病をもたらす「怨霊」封じの「祇園祭り」が、京の庶民である京童を主体としていくのも道理です。
耐火建築の土倉(質屋、金融業)は残りましたが、密集した棟割長屋は火事のたびに燃えつくされました。
10世紀後半に行門制はくずれ、三条から南に住む6位以下の中間層は、自分の宅地の築垣、溝に付属屋を造成し家賃を稼ぎます。11世紀初頭には露頭に窓を開く桟敷屋が発生し、それと付属屋、門屋が結びつき、棟割長屋の町屋が生まれました。「年中行事絵巻」の町屋の姿にこれらが見えます。中世に、下京として町屋の集結が見られますが、その端緒はここにありました。
驕る平家に退潮の兆しが表れたころ、1177年(安元3年)4月の大火で大内裏、東は富小路から西は朱雀大路まで110余町、京の三分の一が焼かれました。1180年の平清盛の福原への遷都騒ぎが市街の荒廃に拍車をかけ、治承、寿永の兵乱(源平合戦~1185)により、都は見る影もなくなりました。 権力が消えるとその都市も消えます。
川は排水路であった。洪水と汚物によって埋まり、流れるように川は統合されていった。
時の権力者、白河法皇(1053~1129)が思い通りにならないのは『加茂河の水、双六の賽、山法師。是ぞわが心にかなわぬもの』という言葉が平家物語一巻「願立」に登場します。近代になっても1935年(昭和10年)6月下旬に大規模な洪水が起き、死傷者164名、浸水家屋50,140戸、全壊半壊・流出家屋590戸の被害を出しています。今も都心を流れる暴れ川です。
50年前は、「鴨川の旧川床は、四条から京都駅の南西へと流れていた。」でしたが、発掘の成果から、現在は「鴨川は山城盆地東にある断層に沿って古代から流れていた。」とされています。その代わり、扇状地の上を流れる川の姿を想定しています。平安京の碁盤割の中で、掘削によって、堀川、西大宮川となったです。
山背の扇状地は東北から南西に傾いています。鴨川が断層の深さを超えて氾濫して、扇状地を作ったのでしょう。
岸本史明氏が「京都の川ー鴨川を中心にー」を、1976年講談社刊の日本の古地図4京都 に書かれているので、そこから川の変遷を抜粋します。
●平安京ができた頃の川
平安京のグリッドと共に作られた川であり、そこに存在しなかった川でした。延喜式では3尺~5尺の側溝を路の両側に取るとあるですが、七条小学校遺跡で見たように、実際は広かったのでした。扇状地の勾配から、東側と北側の幅が広かったです。排水路ですので、この12本だけでなく、大路、小路のすべてにあったのですが、古文書から拾えているのはこれだけです。
護岸がない側溝ですので崩れやすかったこと、住宅内の芥、大小便の捨て場とされたことから、川は各地でつかえ、大雨になれば、路上に汚物があふれました。物を捨てるな、側溝を掃除しろとのお触れがなんども出ています。人が住まない空閑地となれば誰も川の面倒を見ません。
●延喜式 九条家本から川を抜き出し
鎌倉時代の写しですが、平安時代の資料から写しており、川の本数が減った事、道路に合わせて直角に曲げ合流させていることがわかります。下流ほど汚泥により埋没するのでこうなります。
鎌倉時代の一遍上人絵伝には、堀川を筏を組んで材木が上ってくるのが描かれています。淀川水系に流したのを、伏見から堀川を人力で引いてきたのでした。岸で引くだけでなく、川の中にも3人います。火事が多いので、製材は常にされていたのでしょう。祇園社には材木座もありました。
悪人の風体をした馬借の絵もあります。橋を渡ったのでしょうか。右下に傘を差し白装束の高貴な坊主がいます。路上生活者に用事があるのでしょうか。
●室町時代 応仁の前 「都応仁前図」
一条の北に、川が書かれています。北に行くほど水が奇麗になるので、人々は争って左京の北部に住宅地を伸ばし、相国寺、義満の花の御殿が出来ました。「北辺」のちに「西陣」と言われたところも京都に加えられました。今出川、小川が現れます。鴨川からは水を取ってはいけないのですが、上流で中川をわけて農業用水としたのが、今出川と生活排水になりました。秀吉が「お土居」で囲み、都市域を明確にします。
延喜式では、東洞院川と子代川は室町川に合流させられ、さらに西洞院川に合流させられますが、室町時代になると消えます。
東堀川、東大宮川、西大宮川、西堀川がつながれると、その間の細い川は消滅します。
●中昔京師地図 1753年 森国安が応仁から天正の頃の絵図だと復元したもの
上京の川がボツボツとなっているのは、川の上に家があった洛中洛外図によります。彼は発掘をしておらず、古文書からだけですので、寛永14年の洛中図と川幅はともかく、川の流れに差があるはずがないのですが、ボツボツの川以外にも森国安が「こうであったろう」があります。
西堀川(紙屋川)は荒廃した右京に600年あったので、直線を崩して蛇行しており、それをなぞって秀吉はお土居を回しました。堀川は幅12mあり、船運に使い、護岸もされていたのでまっすぐに残っています。
西洞院川は、室町時代に消えていたのですが、安禅寺が堀川の水を寺内に入れて、西洞院川の川道を使ってながしたので、復活しています。
●寛永14年(1637年)の洛中絵図下絵
応仁の乱以後の川は現代までつづいてあります。今出川(元・中川)、新西洞院川、堀川とその支流、西堀川(紙屋川)だけになりました。
江戸時代に京から離れましたが、西京極川(天神側)と、さらに西の桂川(大堰川)も、平安京の川として記録しておかないといけません。
室町時代の京童(きょうわらわ)、戦国時代16世紀の町衆誕生の前夜。
林家は、「京童」を二つ示しています。王朝時代の11世紀の京童は、「雑色と呼ばれたような下部で、左右京職に隷属して護衛や雑役を奉仕し、帯刀もしていない人々であり、左右600人それぞれ連帯意識を持っていた。」であり、王朝絵巻を今に残した後白河法皇が1180年「梁塵秘抄」で京童との接触を宮廷サロンへの今様歌集に残しています。まだ、社会を動かす力をもっていはいませんが、14世紀南北町の「京童」となると、有名な「二条河原落書き」1335年が生まれます。建武新政の混乱と世相の変転を鋭く非難するするものでした。「太平記」1370年には、反体制の批判により民衆の人気を得ようする記述があります。 落書き作成者には、町人だけでなく、京に住む武士、公家も当然いたのでした。三代将軍足利義満(1358年~1408年)の北山山荘に代表される「北山文化」を生み出した人々は、余剰生産物を商い、祇園祭を担った「町衆」成長します。金融業を行う「土倉」、商品ごとに座を結成して独占権を得て流通させた「神人」が、 京に商業都市的性格を付加しました。応仁の乱前夜です。
西川幸治著 「都市の思想」1973年 NHKブックスからの平安京の最大図で、平安京の中世の洛外への伸張を見ます。この最大図に京がなったことはありません。森幸安が宝暦3(1753)年に出版した中昔京師地図(応仁の乱前)と比べてください。
今の教科書は院政から中世です。右京が宅地として放棄され、道長が1022年に法成寺を東の洛外に建てて以来、都の北東の開発が進み、白河天皇によって白河に六勝寺(法勝寺1077~延勝寺1149)が作られました。1086年白河上皇となり、院政の御所としました。白河殿は1156年保元の乱で焼亡します。
1129年、白河上皇が作った鳥羽離宮を鳥羽上皇は院政の御所とします。1156年鳥羽上皇の墓所となり、13世紀には消えました。
六波羅は鎌倉、室町と武士の役所となりますが、平家が最初に開いたところであり、町割りは不整形のままで15世紀応仁の乱まで続きました。
西陣とは応仁の乱の陣からの名前なので、11世紀には地名ではないですが、より奇麗な水を洛外の北に求めて、一条から2街区洛外を北へ、東西をつなぐ今出川通りが堀川通りまで街区が11世紀にありました。12世紀初頭、鎮守府将軍を務めた藤原基頼は邸宅内に持仏堂を建立し持明院と名づけます。持明院は江戸時代まで続きました。1382年に義満が室町通りに面して作った花の御殿、その東に建てた相国寺の敷地の街区は、12世紀にはすでにできていました。
平安京 復元模型 縮尺1:1000 丸太町通七本松西入り「平安京創生貫」
1200年祭の為に、1994年に作られた模型ですが、私がこの模型を見るのは今回初めてでした。もう、25年もたつので、研究成果がいくつか違っていて、この模型八角の塔は檜皮葺でなく瓦ぶきです。
鳥瞰で一目で見えるので、平安京をイメージするには良い模型です。この中央図書館の場所は分かりにくいですが、バスで行けます。
この模型は、点線部分が作られており、10m角大の大模型です。
400年の平安京を一つで見せるので、無理があります。内裏は、当初の計画位置ですので、9世紀の姿です。藤原道長の法成寺、白河の院政の姿は11世紀です。伏見、鴨川の東は12世紀の姿となっています。これらが同時に存在した事はありません。学生の勉強には、400年続いたのですから、前期、中期、後期と、三つは欲しいところです。アテネでもロンドンでも、都市史博物館の都市模型は時代ごとにいくつもありました。
京都市はせっかく作ったから、図書館に置いてあるというだけで、京都の都市史に対しての視座は持っていません。京都市のホームページの都市史を読めばわかります。模型は一見で理解できるので、京都市には都市史に関心を持っていただき、いくつもの模型を作ってほしいものです。
12世紀ですので、建仁寺も祇園もありません。
京都を昔と比べて理解するには、五条通りが間違いを生みます。今の五条は平安京の五条でなく、松原通りが五条でした。六条も今は地図から消えています。
清水寺には、六波羅蜜寺から六道の前を、清水道をゆったり登り、帰りは、二年坂を通って八坂の塔、八坂の急な坂道を降りるのが私の定道です。今回、ここで雷豪雨にあい、東山通り沿いのスーパーに逃げ込みました。東山の水が集まり、側溝から雨水が噴出していました。
古来、鳥辺野は葬送の地であり、今も墓があります。人が住めるところでなかったのでしょう。
六波羅探題が、鎌倉時代に出来るのですが、その屋敷は、六条から七条にかけてです。
七条は、古来より東市と西市を通って、京の東西を貫いており、一条、三条と共に、東西のメイン幹線でした。遺跡が出ています。
巷所 と 辻子
京都は碁盤の目120m角に道路で区切られており、秀吉が南北に道を通して、半分の60m×120mと書いてきましたが、イレギュラーな町割りが2つあります。
●巷所
平安京の大路24m幅、小路12m幅は、左京では町屋に、右京では耕作地に取り入れられたと書いてきましたが、そのような融通無碍に道幅が小さくなるのでなく、「巷所」と名のついたお上が認めた耕作地がありました。事例は東寺です。東寺周辺は当時、洛中への玄関口として、通行人や参詣客で大変にぎわっていました。そんな場所で、道幅の半分以上が耕され、畑仕事がおこなわれていたりすると、やはり通りづらく通行の妨げにもなったのでしょう。近くのお寺、遍照心院からの訴えが古文書として残されていました。
こうなってくると、もう大路、小路に関わらす道幅はすぐに10mほどになり、江戸時代には6mまで小さくなります。信長の道幅は3間半=7mが基準であり、家康の名古屋の道幅は3間=6mでしたので、今日の町も同じとなりました。
すると、120m角の町が130m角、140m角となりますが、四面町から両側町になっていくので、町の奥行きは気にならなくなりました。
●辻子(ずし)
上京に多いです。町の中央の空閑地、寺社に至る通り抜け道です。袋小路は「路地」です。
京都の通り名は唄で覚えるのだそうです。
●東西の歌「まるたけえびす(丸竹夷)」
まるたけえびすにおしおいけ(丸・竹・夷・二・押・御池)
あねさんろっかくたこにしき(姉・三・六角・蛸・錦)
しあやぶったかまつまんごじょう(四・綾・仏・高・松・万・五条)
せきだちゃらちゃらうおのたな(雪駄・魚棚)
ろくじょうさんてつとおりすぎ(六条・三哲)
ひっちょうこえればはちくじょう(七条・八・九条)
じゅうじょうとうじでとどめさす(十条)
●南北の歌「てらごこ(寺御幸)」
てらごこふやとみやなぎさかい(寺・御幸・麩屋・富・柳・堺)
たかあいひがしくるまやちょう(高・間・東・車屋町)
からすりょうがえむろころも(烏・両替・室・衣)
しんまちかまんざにしおがわ(新町・釜座・西・小川)
あぶらさめがいでほりかわのみず(油・醒ヶ井・堀川)
よしやいのくろおおみやへ(葭屋・猪・黒・大宮)
まつひぐらしにちえこういん(松・日暮・智恵光院)
じょうふくせんぼんさてはにしじん(浄福・千本)
鴨川の東 東山に遊ぶ。「京の七観音」は、葬送の鳥辺野、清水寺から広がる。
1422年外記局官人である中原康富の日記に、「京の七観音まいり。」とあり、仕事仲間と毎月一回、一日でこれだけ回って、その後宴会をするとあります。
行願寺(革堂)・清和院(河崎観音)・吉田寺(中山観音、金戒光明寺)・清水寺・六波羅蜜 (ろくはらみつ) 寺・六角堂(頂法寺)・蓮華王 (れんげおう) 院三十三間堂 の七寺ですが、600年を経ているので、名前も場所も変っています。
清和院(河崎観音)・吉田寺(中山観音、金戒光明寺)には、私はいっていません。東山にあるのでしょうか。清和院は千本通りですから離れていますね。
「●はじめに」戻ってきました。いよいよ、「町衆」前夜です。
中世の日本 政治都市から商業的都市に変容する京の背景
国家の首都という京の政治都市としての力は、律令制が崩壊し、荘園制に武士の発生と、平安時代を通じて衰えていくのですが、中世は日本の農業、産業、流通を高め、地方の活性が高まり、武士の支配する新たな社会を支えたのでした。その中世の新たな力が、縮んだ京(人口3万人)を商業的都市に変え、武士は形骸化しいていても、伝統的支配権の命名を天皇・公家から得ることが重大なのでした。そこで、秀吉によって「城下町・京都」が作られ、日本の首都(人口20万人)となりました。18世紀には大坂(人口40万人)と逆転します。そのころの江戸は人口100万人と世界一の都市になっていました。
京の都市像の変遷を、今までおもに絵図で見てきました。 ここで、近世の京が成立した背景として、中世の日本がどうであったか見ます。
網野史観
網野善彦(1928~2004年)に、藤木久志、石井進など、1980年代に「日本中世史」ブームが起きました。21世紀の高校の教科書には、私たちとは違う歴史が書かれています。「室町の文化が今の文化のルーツ」は同じですが、武士と農民とで歴史を語ってきた間違いが正されています。百姓は農民でなく、百の「姓」であり、網野は商工業者と芸能人が、「無縁」世界の日本をめぐる様を取り出しました。網野は日本地図を中国から見ることを勧め、古くから「海人」の活躍があった事を熱く語りました。
今の教科書には「士農工商とは、江戸時代の身分制度である。」とは書かれていません。支配者が武士であり、百の姓が被支配者であり、都市に住む工業、商業者と農村に住む農民がいたという事であって、「士農工商」と農業の身分を工商より上にした説明をしたのは明治政府でした。「瑞穂の国」の強調し、田植えをする天皇の姿をことさら国民に見せたのは、稲作・口分田を中心とした天皇制は神代からあったと、儒教の力を借りて流布させたかったのでした。
江戸時代、石川県の能登は数千人の人口を持つ日本海の港町でしたが、人口の70%は水飲百姓と記録されています。農耕に従事していないので、水飲み=小作人とされたのでした。彼らは輪島塗の工芸と回船で富んでいたのであり、貧しい小作人ではありません。
呉座勇一著「日本中世への招待」の目次を載せます。中世を院政、鎌倉幕府、建武の新政、南北朝、室町幕府、戦国時代と時の政府を追っても、京都の都市史は追えません。
三内丸山遺跡(縄文時代)の邑から→郡→国と集住の集落は大きくなるが、都市ではない。
青森の三内丸山(さんないまるやま)遺跡は、今から約5900年前~4200年前の縄文時代、新石器時代の集落跡で、豊かな自然からの採集が容易であったのでしょう。農耕はされていませんが、長期間にわたって定住生活が行われていました。1994年に直径約1メートルの栗の柱が6本見つかり、また幅10メートル以上の大型竪穴建物跡がいくつも出土し、40haの史跡を発掘すると、竪穴住居、捨て場、掘立柱建物(倉庫)、貯蔵穴、墓・土坑墓、粘土採掘穴、盛り土、道路3本などが、計画的に配置されている大きな集落があったとわりました。500人はいたでしょうか。
50年前の私の教科書では、縄文人は家族単位で移動して狩猟採集を行う未開人であり、そこに弥生人が水稲農耕を持って渡来したと書かれていました。余剰の食べ物を持ち、工人による工房を持つ弥生の王は、戦争をしてさらにクニ(邑)を大きくします。弥生人は環濠集落を作りました。古墳時代になると、田んぼの水系からクニ(郡)規模となり、やがヤマト王朝(国)が立ちます。板葺きの宮での政治であり、首都となる都市はまだありません。
都市は、巨大な権力が目的を遂行していく上で、拠点となる大規模な施設が必要だと判断した時に建設されるのです。ー「都市の論理」藤田弘夫著ー
京は律令国家の首都として作られましたが、中世になると京都に大きな政治権力を持つ者がいなくなり、その小さな権力相当に都市は縮んで行きます。商業的都市機構が、周囲の惣村をマネして作られました。
農業力が高まり、手工業、特産物の生産が行われ、惣村が形成された。
奈良時代:約500万人 平安時代:約600万人 室町時代:約1,500万人 江戸時代:約3500万人と、室町時代に農業量が高まり人口がぐんと増えています。
村の鍛冶屋で鉄製の鍬、鋤が作られるようになり、さらに牛馬につなぎ、耕作面積が増えました。肥料を使うことを覚え、二毛作が可能となりました。稲の品種改良がおこなわれ、手工業の原料となる商品作物が作られます。
商品は、塩、炭、織物、紙、墨、筆、土器、鋳物、刀、甲冑、酒、茶、油などなどですが、1543年に種子島に漂着した「火縄銃」にまさる高額商品はありません。1592~98年に秀吉は30万人の兵を朝鮮半島に送りこんでいますが、世界一の陸軍でした。
鎌倉後期ごろになると、地頭が荘園・公領支配へ進出していったことにより、名主を中心とした生活経済は急速に姿を消していき、従来の荘園公領制が変質し始めました。百姓らは、水利配分や水路・道路の修築、境界紛争・戦乱や盗賊からの自衛などを契機として地縁的な結合を強め、畿内・近畿周辺の先進地において、耕地から住居が分離して住宅同士が集合する村落が次第に形成されていきました。このような村落は、その範囲内に住む惣て(すべて)の構成員により形成されていたことから、惣村または惣と呼ばれました。
室町時代には、それまで令制国ごとの軍事警察権の指揮統括者に過ぎなかった守護の権限が強化され、守護による荘園・公領支配への介入が増加し、やがて守護大名となります。惣村は自治権を確保するために、荘園領主たる権門、公領領主たる国衙ではなく、現地での実効統治者である守護や国人と関係を結ぶ傾向を強めていきました。そして、惣村の有力者の中には守護や国人と主従関係を結んで軍役を担い、武士となる者も現れます。これを地侍(じざむらい)といいます。惣村が最盛期を迎えたのは室町時代中期(15世紀)ごろであり、応仁の乱などの戦乱に対応するため、自ら武装し、自治能力を高めなければなりませんでした。
領主に対して、惣村は一揆を企てます。 一向宗と結びつき「一向一揆」となり、惣村が寺を中心とした環濠城塞都市「寺内町」に発展します。
中世の商業、流通力
交通路の整備や運搬方法の発達に伴って、さまざまな品物が悪党・海賊によって流通し始め、商業活動が活発になりました。 各地の湊や交通路の要所では、定期的な市(いち)が開かれ、貨幣による流通経済が庶民の間に浸透しました。
海外との流通も盛んになります。鎌倉時代は南宋の港・寧波との定期航路が安定し、重源、栄西、道元が入宋し、陳和卿、蘭渓道隆、無学祖元が来日し、禅宗、宋学(朱子学)が広まりました。1274年・1281年に、モンゴル帝国(元朝)および属国の高麗によって2度にわたり行われた対日本侵攻「元寇」がありましたが、その後、朝鮮半島や中国大陸の沿岸部や一部内陸、及び東アジア諸地域において、倭人は海賊、密貿易を行い、暴れまわります。今は、13~14世紀を前期倭寇、15~16世紀を後期倭寇と分けて論ぜられます。後期は、倭人でなく、弱った明(1368~1644)を叩く、自国の中国人・朝鮮人によるものでした。
足利義満は1402年、永楽帝から「日本国王」と冊封を受け、勘合貿易を行います。義満は「倭寇」の取り締まりを請け負いました。日明関係は1547年(天文16年)まで続きました。貿易の実際は、対馬の宗氏、博多の大内氏、堺の細川氏によりました。
1543年に海商で倭寇でもある王直の船が種子島に漂着しました。ポルトガル人も乗船しており、彼らから火縄銃を取得したことが南蛮貿易のきっかけとなりました。信長は宣教を認めますが、秀吉・家康は認めず、朱印船による貿易を行います。
秀吉は1592年、1597年に朝鮮半島に出兵し、大陸での領土拡大を狙いますが、失敗しました。1639年(寛永16年)長崎出島での中国、オランダ以外の交易を閉じ、1854年まで「鎖国」します。
銭
日宋貿易の主たるものは、大量の銭でした。私鋳銭も多いのは、悪貨を取り去り流通量を減らすと、経済が回らないからでした。所領への課役・軍役負担は面積でなく年貢錢高で行われる「貫高制」になっていました。商品の保管・販売を行う「問屋」は大型の「廻船」で海上輸送を行い、陸路は「馬借」「車借」を用いました。
質草を収める「土」の「倉」をもつ「土倉」は、金融業を起こします。遠隔地とのやり取りの為に「割符」という今でいう為替手形や「借用書」が使われます。1428年の正長の徳政一揆では、幕府からの債権破棄の徳政令を待たず、土倉、酒屋、寺院などの高利貸しが襲われ、借金証文が焼かれるという私徳政が行われました。
市、座
中世の市場の様子が一遍上人絵伝に描かれています。岡山市と備前焼で知られる備前市に挟まれた瀬戸内市の長船町福岡というところです。南北の吉井川の水運と東西の山陽道の陸運の結節点として誕生しました。汐の満ち引きと帆を使う船運があるところに、見世棚(常設店舗)を並べた市が立ちました。米俵2俵を背負った馬もいます。布を押し売りするのは強い女です。枡で売る米の横では鳥が吊られ、魚が焼かれています。刀剣、備前焼の大きな甕がこの市の特産物のようです。一遍と武士の姿、琵琶法師と乞食の姿に、人や物、情報が行き交う要衝だと見えます。
万葉集に、2951 : 海石榴市の八十の街に立ち平し結びし紐を解かまく惜しも と、市で出あう男女の歌があります。CITYを訳した「都市」「城市」にあるように、人の集まり住むところには「市」は必ず必要でした。中世ヨーロッパの都市は、政治の中心である広場と青空市場と二つを持っていましたし、平安京は屋外の内裏殿と、東西の市を持っていましたが、この中世の市は、市場だけで集住する家屋は見えません。
中世になると、港町、門前町が生まれますが、権力者が乗っかる「都市」となると、権力者の住まい兼行政府を港町、門前町の新たな中核にし、その周囲に配下を集住させ、そのサービスの為に町人を「楽市楽座」で集めた「城下町」まで待たないといけません。九州の福岡の城下町が港町の博多をベースに作られた姿がその典型です。
中央集権がすたれてくると、朝廷、幕府、守護、武士、寺社がてんでに「関所」を設けて、銭を取るようになります。そこで、商工業者や芸能者による同業者組合の「座」は公家や寺社を本所として座役を納め、あるいは奉仕を行い、本所は座の構成員である座衆に供御人・寄人・神人などの身分を与えてこれを保護しました。
代表的なものとしては、京都において後の西陣の源流となった大舎人の織手座や祇園社の綿座・錦座、北野社の麹座、山城大山崎の油座、摂津今宮の魚座、鎌倉の材木座、博多の油座などがあり、大和の興福寺や近江の日吉大社も多数の座を支配下に置いたことで知られています。
織田信長は、専売を嫌い、城下町を「楽市楽座」とし、自由で闊達な流通により町の発展を期しました。豊臣秀吉によって中世の座は解体させられますが、反対に領主と結びついた特定の「御用商人」による支配が確立するきっかけとなりました。
ただし、全ての座が解体した訳ではなく、座役を伴わない商業共同体として残ったものもあります。また、芸能者では主要な大夫を家元とする芸能集団としての座が形成され、江戸時代以後に「○○座」という呼称で呼ばれるようになりました。今も転じて劇場や映画館の名称としても「座」は用いられています。
堺 細川の支配地であり、明との交易の港として栄え、南蛮船も寄港するようになった。
ガスパル・ヴィレラは『耶蘇会士日本通信』の永禄4年(1561年)8月17日付け書簡に「堺の町は甚だ広大にして大なる商人多数あり。この町はベニス市の如く執政官によりて治めらる」と書き、また1562年の報告書の中では、「他の諸国において動乱あるも、この町にはかつてなく敗者も勝者もこの町に在住すれば、皆平和に生活し、諸人相和し、他人に害を加えるものなし。町は甚だ堅固にして、西方は海を以て、また他の側は深き堀を以て囲まれ、常に水充満せり」と書いたことで「東洋のベニス」と海外から注目され、1598年のアブラハム・オルテリウスの日本地図の中にも、Sacay(堺)という名前が記され、Meaco(都=京都)とともに知られる環濠城塞都市でした。
1569年足利義昭を奉じて入洛した織田信長は、三好勢を追って摂津に来ます。三好勢に味方した堺に2万貫の矢銭と服属を堺会合衆に要求し、「従わなければ焼き払う。」と脅したのでした。実際、1573年に信長は従わなかった上京を焼いています。
信長は、幕府御料所の代官を務めてきた堺商人・今井宗久の代官職を安堵して自らの傘下に取り込むことで堺の支配を開始し、翌元亀元年(1570年)4月頃には茶人でもある松井友閑を堺政所として派遣し、堺の直轄地化を進めました。南蛮船が火薬の原料の硝石を運びこみ、鉄砲を生産する堺です。信長は茶の新たな文化を豪商と楽しむために、堺を得ようとしたのではありません。
秀吉は、堺の商人を大坂に呼び、大坂を日本の首都ともくろみます。家康が大坂の陣で大坂を焼き尽くしますが、秀忠が秀吉の城の上に新たに城を作り、幕府著勝地「天下の台所」となりました。一方、1704年大和川が堺に付け替えられ、堺港は土砂に埋まり、港の機能を完全に失い港町・堺は消えます。
山川の高校の教科書では、戦国時代に「都市の発展」とあります。 「門前町」は確かにありましたが、寺社に住む坊主に、寺社にお参りに来る人々、彼らに衣食住のサービスをする町人の町です。この都市での権力者とは坊主になり、領地を支配するための組織は寺の中にありますが、領地はこの門前町とは離れてありました。
江戸時代の善光寺、興福寺の町の絵図があるので、中世はどうであったかと探ることはできますが、まず、江戸時代の門前町は、宿場町に相当する大きさでしかなく、中世に都市的な規模を持っていたとは思えません。江戸時代の伊勢宇治、山田の規模は圧倒的ですが、歓楽地、ユートピアとしてあり、生活する都市ではありません。
寺内町の支配する領国は小さく、一向宗の権力が全てですので、これも江戸時代の城下町と比べると小さいです。消費者の武家地がないので、江戸時代には在郷町となっていき、都市の姿を残していません。
港町は、桑名、博多と、港町としてでなく、城下町に変容し、都市となったのもあります。
戦国の城下町 一条谷
1579年、織田信長が比高100mの安土山の山頂に天主を置いた平山城を築き、山下に城下町を展開したことが、秀吉・家康の指示による全国の城下町建設の範となった事は間違いないですが、信長は遅れて現れた戦国大名であり、城と城下町には先駆者がいました。
戦国大名の第一号は、越前で斯波氏を追い出した朝倉孝景(1428~81年)であるとは、分国法「朝倉孝景条々」(朝倉敏景十七箇条)を制定し、一条谷に配下を集めて小京都と呼ばれる城下町を作った事によります。1573年に信長は朝倉一族を滅ぼし、一条谷を焼きますが、その後耕作地となり、400年前の遺跡が良い状態で発掘され、町全体が復元されています。
昔の教科書では、信長が1567年に岐阜で「楽市楽座」を始めたとありましたが、六角定頼が山城・観音寺城を作り、その城下町・石寺にて1549年に既に発布していました。信長の天下一統からその先進性を強調されていますが、「遅れて現れた戦国大名」との認識が欠けています。1563年小牧城を作り、1567年稲葉山城を落として岐阜城としますが、近江の城と城下町にはずいぶん後れています。
私は、別途、石垣から見た城の進化を「お城の石垣」に、木造天守の進化を「安土城の復元」に書いています。都市史とは離れるのでこちらには書きませんが、良かったらそちらをご覧ください。
城は、山城→平山城→平城と、平地に降りてきました。
戦国時代も1272年一遍上人絵伝にあるように「館城」でしたが、「要害」「逃げ城」と呼ばれる山城を館近くの山の上に設けていました。
一条谷の朝倉館から山を登ったところに、本丸、二の丸、三の丸、千畳敷、月見台と書かれていますが、山をひな壇に造成しただけで、城郭は構成されていません。「逃げ城」に籠って援軍を待つ戦闘スタイルは、小規模の戦いであり、秀吉の時代には消えます。
一条谷川に沿って、狭い谷を南北2kmにわたって城下町が作られました。町の入口には巨石が積まれ虎口を形成しています。
細長い城下町を圧縮して、模式図にすると、近世の城下町の萌芽が見れます。山城の山下に「館城」が堀と土塁に囲まれてあり、近親者の屋敷と寺が周りを囲んでいます。「城郭」の萌芽です。川で守られた城郭の外に、配下の武家屋敷がありました。戦国時代は、国人がそれぞれの領地を持ち、普段はそこに住んでいて、戦いがあれば、その時に選んだ主につくのでしたが、朝倉孝景は許しませんでした。戦国大名として、日ごろから軍を掌握するようにしたのでした。信長も岐阜城でようやく、柴田勝家を手元に置けるようになりました。
城郭と武家地による消費地を支える町人地が、引き込んだ街道沿いに作られました。それを城戸で閉じて、町全体を守るのが当初の計画でしたが、応仁の乱で京が荒れると、公家も武士も集まってきて土地が足りなくなります。東西は山ですので、城戸の外に、町を作ることになりました。
環状城塞都市・寺内町から、近世城下町へ。
欧州、中国の都市を見るに、すべてが「環濠城塞都市」でした。欧州と同様に城壁を持つ中国では、CITYを「城市」と訳しました。
塩野七生の「コンスタンチノーブルの陥落」は、1453年の東ローマ帝国の首都コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)が、オスマン帝国のメフメト2世の2ヶ月の包囲戦に屈する様を生き生きと描いています。城壁の内側にいる住人は、生き残っても奴隷に売り飛ばされるのですから、都市を守る戦いに必死です。1429年、ジャンヌダルクはフランス王シャルル7世と共に、3,000人のイングランド兵と、市長に率いられたパリ市民が守るパリを攻撃し、負傷します。7年後の1436年になって、ようやくパリは国王に門を開きました。
欧州観光では、城壁で囲まれ、中央の広場に時計塔を備えた市庁舎が聳え立つ中世都市が人気ですが、現代都市においても、城壁は環状自動車専用道路になり、さらに外側に大きく環状道路を作り、その間には壁でなく森を育て、都市と郊外の領域を明確にして「環濠城塞都市」の文化を継承しています。
領主の防御設備を持った住まいのブルグ(独burg、仏bourg、伊borgo、英borough)は、同時に人民の逃げ込む城としてゲルマンで生まれ、やがてブルグが都市民を育成し、民主主義が生まれました。
古代の日本は、「山背の国」の国名を「山城の国」に変えて、唐の長安を模して「平安へいあん楽土らくど」という名前の首都とし、「1000年の都」となしたのですが、平安京には、長安と違い、羅生門はあれど都市壁はなく。CITYは「都市」と訳されました。
戦国時代に、領主に逆らい自治を行う、寺を中心とした寺内町ができます。日本で初めての環濠城塞都市です。秀吉は朝鮮への侵略戦争の決意を都の人々に知らせるべく、京都の城塞化を寺内町を範として行いました。
家康は、名古屋城下町を「総構え」と都市を丸ごと堀と土塁で囲む計画をしたのですが、豊臣は滅び、計画のままで終っています。それどころか、名古屋城は三の丸の防備も完成していないままです。
鎖国政策の幕藩体制が組み上げれば、もはや国内での戦争はなく、城下町は領国支配の行政・司法の場であり、商業流通の要の町であり、天守は町のシンボルでしかありえません。天守は、燃えたり壊れたりすると、江戸城のように再び作ることもなくなりました。日本の藩は幕末には250にもなりますが、17世紀初めに日本全国に一斉にできた都市は、150ぐらいでした。
公園をアリーナ(興行場)で潰す名古屋に代表されるように、日本の都市計画は名前だけで、そうじて欧州のような都市計画はありません。都市の構えを持つことがないままに集住体はぬめりと広がり、メガロポリスという美名をいただき、安物ロードサイト建築によって、融通無碍の景観を作っています。この誇りをもって守りべくものがない都市の姿の中に、民主主義は育つはずはありません。
都市と民主主義は「卵と鶏」と同じで「どちらが先」というものでなく、「どちらもある。」か、「どちらもないか。」の2択しかありません。
町衆文化、武家の文化から町人の文化へ。
林屋辰三郎に戻って、京都 都市史を終わります。林家は「市民」に代わる「町衆」を歴史から抜き出したのですが、彼らは信長に屈し「御用商人」となり、「市民」にはなれませんでした。 京都の「旦那」となれば、後藤家、本阿弥家、茶屋家、角倉家が有名です。
現代日本にある、伝統芸能、華道、茶道のもろもろの文化は室町からだと言われています。それを担った人々は北山文化ですと公家と武家であり、東山文化となると、阿弥、悪党、町衆が参画してきます。豪放で、華麗な桃山文化は寛永の東照宮、桂離宮まで続き、そのご途絶えます。
「旦那」は、地方都市の京都へのあこがれを満たす、文化的商品の「旦那=スポンサー」となりました。絹織物、彦根図屏風、洛中洛外図、扇図などが京都の特産とされ、元禄文化は大坂と共に京都で花開きました。文化文政となると、江戸で歌舞伎役者が活躍し、本も浮世絵も江戸が中心となりますが、大坂、京は人口100万人の江戸と合わせて三都と言い、特別でした。名古屋の人口は10万人でしたが、大坂、京の人口は40万人に達しました。
7月の祇園祭から京都を見てきて、最後は8月の「五山の送り火」です。お盆の精霊を送る伝統行事ですので、「万燈籠」「万灯祭」から来たものだと思うのですが、調べたところ由来は新しいです。文献において,もっとも古いものは,舟橋秀賢(ふなはしふでかた)の日記『慶長日件録』(けいちょうにっけんろく)慶長8(1603)年7月16日の条に見られる「晩に及び冷泉亭に行く,山々灯を焼く,見物に東河原に出でおわんぬ」という記載です。具体的な名称があらわれる比較的早い例は,寛文2(1662)年に刊行された中川喜雲(きうん)の『案内者』(あんないしゃ)で,ここには「妙・法」「船形」「大文字」の記載が見られます。
東山に大の字が浮かび上がり、続いて、松ケ崎に妙・法、西賀茂に船形、大北山に左大文字、そして、嵯峨に鳥居形が点ります。これは上京主体の配置ですので、下京の町衆でなく、上京の町衆によるものだと思います。「法華」「妙法」「舟形」ですので、町衆以外にこの送り火を担うものはいません。