江戸城天守は、高く、輝いていた。

日本の古建築

一期:慶長12(1607)年竣工~1624年 17年間 本丸を拡大し天守は北へ。二期:元和 9(1623)年竣工~1638年 15年間 二の丸を拡張。三期:寛永15(1638)年竣工~1657年明暦の大火以後ナシ 都市大改造へ。●2020年1月20日にNHKへ抗議「江戸城は黒かった。」の手紙を送る。

慶長の江戸城天守の新資料は見つかっていませんが、友人の満田高久氏が、その後1年かけて2021年3月にまとめた論考A4版60枚、資料編29枚の結論は「覇者の天守は黒かった。」です。右にまとめの一枚を載せます。

覇者とは、信長、秀吉、家康です。「安土城を真似した」岡山城も黒いですが、覇者を守る城は、漆喰の白であったと、対比してまとめています。

私の江戸城徘徊は、またもや千田氏、三浦氏から始まりました。2020年はNHK大河ドラマ「麒麟が来る」があり、建築考証が平井先生から三浦氏に代わり、三浦氏は「手の込んだ安土城CGを作っている。」と大河ドラマの番宣をするので、江戸城からして怪しい。と、先手の抗議です。

正月そうそう、内藤研究室の先輩、水野さんから、私と河田に「千田というのはとんでもない奴だ。イラストレーターに江戸城天守の絵を書かせ、復元したという。ナントカせい。」でした。河田は「抗議はやらない。」というので、NHK「知恵泉」と小学館「雑誌サライ」に送る抗議文作成に2週間かけました。それが、「江戸城天守は高く、輝いていた。」のその1であり、その2は「江戸城を見る。」です。

2017年8月6日徳川美術館での「江戸始図でわかった「江戸城」の真実」(2017年5月宝島社新書刊)を記念して、千田 嘉博氏とイラストレーター富永商太氏とのトークショー「白か黒か悩んだが白とした。」を私は聞いており、2018年6月雑誌サライ「江戸城と大奥:白い天守」も購入していました。
「いつも先達の論文のつまみ食いでテレビタレントをする、困ったものだ。」とは思っていたのですが、NHKが大河ドラマ「明智光秀」宣伝の為にやたら城ネタを流し始め、<2019年12月14日放送のNHK「ブラタモリ」姫路城と江戸城は同じ白。>2020年1月14日放送のNHKの<「知恵泉」家康・秀忠・家光 3代の白い江戸城天守>と、千田氏が2年前作成した白い江戸城天守の絵を見せまくるのには、「これは、イカン!」と思いました。NHKも、少し調べれば元和と寛永の城は大工の図面も屏風絵もあり、「黒」とは、すぐにわかりますが、それすらしないNHKなのです。慶長の家康の天守は、一次資料はないですが、漆喰壁の白ではありません。

●資料 
内藤昌の「江戸図屏風」1972年毎日新聞社刊 8万円 を確かめに鶴舞中央図書館に行った。内藤昌の復元的研究における色の選定手段を確かめるためにである。手元に、以下の内藤昌の江戸城に関する著作を持つが、諏訪春雄・内藤昌共著の「江戸図屏風」は当時学生の私は触れてもいなかった。
●1966年鹿島出版刊「江戸と江戸城」780円→2013年講談社学術文庫 再販1000円
●1976年朝日新聞社刊 国華「特集 安土城の研究」9000円
●1979年日本放送出版協会刊 NHKブックス「城の日本史」900円
●1988年世界文化社刊「城と館」18000円
●1994年講談社選書メチエ刊 国華の再販「復元 安土城」1700円→2006年講談社学術文庫 再販1200円
●1995年角川書店刊 NHKブックスの再販「ビジュアル版 城の日本史」2800円→2011年講談社学術文庫 再販1200円

慶長の天守。家康は縄張りは藤堂高虎、デザインは大工中井正清に依頼した。

千田氏の間違いは、1990年宮上茂高氏の「徳川家康創建江戸城天守の復原」をそのまま信じた事にあります。中井家から出た天守の絵は元和の天守でしたが「中井家は慶長時代しか関与していない。」と思い込んだ事、鉛という建築材料を調べていない事の間違いをそのまま引き継いでいます。
家康は慶長12年に江戸と同時に自分の隠居城を中井正清に完成させ、燃やすも慶長13年には正清が直ちに完成させています。注文主と設計者が同じですので、駿府城を見ないといけません。宮上先生も亡くなる前には、「絵は元和であった。」と気づいていますが、論文を出すことはしていませんでした。

富岳三十六景色 江戸日本橋に江戸城天守を置いた。

「江戸町瓦ふきの事「慶長見聞集巻一」
「家康公興せらるゝ江城の殿守は五重鉛瓦にてふき給ふ。
富士にならひ雪の嶺にそびへ、夏も雪かと見えて面白し。
今は江戸町さかへ皆瓦ぶきとなる。萬廣大に有て美麗なること、前代未聞。あけくれ皆人見ることなればしるすに及ばず。」
と述べています。

この文章は、「江戸時代初期の町屋の屋根が草で葺かれていて、慶長6年の火事で町屋が1件残らず焼けてしまい、板葺にするようにとのお触れがあった。云々」と町屋の屋根材料のことが書かれ、最後に江戸城殿守の屋根材について述べています。同じ慶長12年に竣工した駿府城の天守(Ⅰ期)は全て銅板瓦葺きであり、慶長13年(1608年)駿府城天守(Ⅱ期)の最上階の屋根は銅板瓦で葺かれているのですが、その下階は白蠟(鉛と錫の合金)板瓦で葺かれています。

慶長見聞集の鉛とは、今でいう洋銀ろう(白鑞)のことと考えられます。すずの融点は231℃、鉛の融点は327℃ですが、合金にして鑞にすると融点は830~890℃に高まります。はんだですと融点は183℃と低くくなります。白鑞を屋根に使うメリットとしては、融点を高くする(=燃えにくくする)ということもさながら、まともに雨風をうける屋根の耐候性を高めるためだと思います。銅板葺の屋根は100年もちません。
しかし、銅の融点は1083℃で耐火性は白鑞より高いです。腰壁の防火にはこちらの方が良いでしょう。防火のために白い漆喰壁が天守、土蔵に使われましたが、漆喰は雨に弱いので天守の最上階などは塗りなおしを絶えずしないといけません。姫路城は40年毎です。
屏風絵の元和の天守の腰壁の下部は黒いですが、防火と雨水対策で、銅版が張られるようになったのかもしれません。福山城天守は小さな鉄板を黒門のようにビス止めしていますので、銅の赤い色を嫌って漆を塗って黒くしたのかもしれません。

「江戸始図を発見した。」の本は大ウソです。内藤先生の1979年「城の日本史」NHKブックスにすでに収蔵され評価をされています。松江のこの74枚は広島、大分のそれらと同様に軍学の教科書としてあったもので、「江戸今図」とセットにあるものです。この資料の信ぴょう性は薄いのです。千田氏は前にもここの74枚から「真田丸を発見した。」と大河ドラマに合わせてひと騒ぎをしています。彼の発見はNHK次第なのでした。

松江 極秘諸国城図

騒がれれば、松江は潤うので良いのでしょうが、「発見」などと歴史学に対して素人が頭を傾けるようなことをしては、学者とは言えません。彼は肩書を城郭考古学として、歴史学でないからと好き放題にタレント活動をしています。私も楽しいです。しかし、信じてはいけません。

江戸始め図と慶長絵図のかさね

上の左半分に並べた江戸始図を慶長13年江戸図とを左に重ねて比べました。愚子見記の16間×18間でなく20間四方なので、どちらもオランダ渡りの平板測量をまだしていないのでしょう。

復原に仕えるデータでないのを証明するために、姫路城の連郭式の屋根伏図を色塗りをしてみました。この塗り絵から、姫路城の形は浮かびません。
でも、内藤昌も試みたようです。

姫路城 影絵
慶長期 江戸城イラスト

イラストレーター中西立太が内藤昌の案を基に1988年学研『江戸城と大奥』に復元したというものですが、学研であることが怪しく、内藤先生の説がどこまでこの絵に反映されているのかわかりません。
内藤昌は、1972年に毎日新聞社刊「江戸図屏風」の中で、慶長の江戸城の外見は『慶長見聞集』より5重、内部は『毛利家四代実録考証』より地階1階を含めて7階としている。これは城戸久の論文にある駿府城天守と同様の階層としている。また『日本西教史』の9重は西洋の宣教師が望楼型の複雑な形状を把握できるか、と疑問としている。
『慶長江戸絵図』より西側二重曲輪・小天守による姫路城と良く似た連郭式の天守曲輪を構成していたとし、『当代記』の記述より天守曲輪の石垣高さ8間、天守台は20間四方で高さ10間(1間=6尺5寸)であったとしている。までで、このイラストの破風も最上階の屋根が銅板と書いていないので、内藤昌の監修の絵ではないでしょう。私は「わからない。のはわからない。」というの正しい。と、先生に教えられました。しかし、イラスト「白」ではなく「黒」です。「江戸図屏風」の影響が強いのでしょうか。
上「慶長の江戸城天守」の右半分は、伏見城、二条城、駿府城、名古屋城の天守の絵です。同時代の天守からスーパー大工・中井の千鳥破風で低減するボリュームを飾る手法が見えます。 

軍学に従い、城郭の形式を正保絵図を基に分類して、日本全体を眺めたのですが、その土地が持つ特性が優先なのでしょう、地域差は「町割り規模」のようにあらわれません。

元和の天守。高虎の本丸は守り優先して狭く作られている。秀忠は大きくした。名古屋も初代義直(1601~1650)からして、本丸を捨てて二の丸に出た。

この江戸図屏風には家光があちこちにいる。洛中洛外図を真似しての「江戸は凄いんだぞ。」を現した寛永11年(1634年)の家光上洛時の京への贈答品だったのでしょう。二の丸の拡張工事がないので、元和、秀忠の天守となります。

江戸図屏風
江戸城天守 元和

内藤昌先生は、中井家の図面と屏風絵から復元をして模型にしています。元和なのか寛永なのかは、4層目の破風で見るしか私には違いはわかりません。

緑青がすでにふいている屋根です。江戸図屏風でも周りの瓦と違って緑色になっています。すぐにきれいに錆びることないので、前もって錆びさせたのかもしれません。
破風の配置は、名古屋城(4層目破風は唐と千鳥)を真似したのだと見えます。大工は中井正清の子の中井正侶です。破風の内側の黒と、金のあしらいもそうなのでしょう。違いは、壁の腰下が黒であることです。名古屋城も姫路城も壁は漆喰の白です。
庶民は見上げで見るのですから、天守は「黒」となります。板なのか、金属なのかはわかりませんが、覇者は黒がお好きのようです。

寛永の天守。まだ痛んでないのに、家光は建て替えた。日光東照宮も盛大に建て替えている。生まれながらの王は、持てる財力をばらまいた。

大工は、中井家から甲良家に代わっていますが、元和と寛永の天守の造形の差は、4層目の破風がすべて唐破風になった以外は見つかりません。妻も平もどちらも、唐破風により四方正面として城下を睥睨するとしたのでしょう。
ブロックを積み上げるだけになった天守は、会津若松城天守に到達します。
もはや、千鳥破風も唐破風もない。6層を積んだぞ、という高さにしか権力は現れていません。

会津若松城

江戸城を見る。2018年4月記

私が名古屋城をちゃんと見なければと自覚したのは、2012年10月の恩師内藤昌の葬式の時でした。 私が研究室にいた一年は、安土城の復元の佳境の時であり、ピリピリした雰囲気の中で学問の世界を垣間見ました。その後は、市井の設計が楽しく、先生が新たに書かれた御本は、その都度購入をし読んではいましたが、城にそれほどの興味を持つことなく定年(2012年)を迎えたのです。

葬式では、先輩たちから「それは、お前がやれ。」なのでした。

当時、名古屋城天守の企画展示で先生の名古屋城への功績を無視した展示が行われていたので、先輩に名古屋市に抗議の手紙を書くべきだと発言したのですが、先生の跡を継いだ教授(同級生・後輩)では、名古屋市に対して抗議が重くなりすぎるので、定年を迎えた私が、ちょうど良いというのです。 先生には仲人をしていただき、さらに、私が名古屋に戻ってきてからの17年間は、新たな交流もありましたので、到底断れるものではありません。 抗議をする以上、先生の名古屋城に関しての研究を読んで理解しておかないと、改めて読みなおしたのでした。

先日は、「名古屋城天守を壊して木造で復元とする。」という名古屋城跡保存活用計画平成30年(2018年)度版220ページを読む羽目になったのですが、まったく史実に関することは、先生の今までの研究をまとめた日本名城集成・名古屋城1985年小学館刊からの抜き書きでした。

しかし「攻め来る敵への石落としなど、400年前の城を五感で感じられるので、現天守の耐震改修より、天守木造復元に優位性がある。」とは、名古屋城天守の石落としについて、先生は書いてはいません。石落としは立面デザインで位置が決まったのでした。

「黒沢映画では、姫路城と熊本城が火炎に包まれているが、全くあり得ないシーンだ。戦闘で簡単に燃える天守は、戦闘の為の施設ではない。天守の間違ったイメージを娯楽優先で作り上げてしまった。 権力のシンボルとして、近世都市の誕生と共に評価すべきものである。江戸城の天守は明暦大火(1657)のあと、無用のものとして再建されなかった事実をもっと知らせないといけない。」と、先生が言われたのを今も覚えています。

先生が城マニアと呼ぶ勢力は、ゲームソフトを新たなマーケットとして、勢いを増しています。それが河村市長の「天守は木造だ。」の人気につながるのでしょう。研究者と自称して城マニアに受ける本を出し続ける方々は、先生の亡き後、増えるばかりですが、日本建築学会建築歴史・意匠委員会では、評価をしていません。 もはや、新たな資料が出てこない以上、城の研究は出尽くした感を私は持っています。



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私の反論と言っても、所詮私には、先生の御本しか根拠はないのですが、そのおかげで私の城への学習は進み、、、、 あれ!? 私は、江戸城をじっくり見た事がないのに気づきました。 今は皇居東御苑として、本丸・二の丸は、いつでも見られるですが、そのいつでもという事で、見ていなかったのでした。
北の丸は、国立近代美術館、工芸館、科学技術館から、武道館を経て田安門をくぐり、九段下に抜けることはなんどもあったのですが、本丸・二の丸の記憶がありません。 西の丸が皇居となり、一般参賀でもないと西の丸の中には入れませんが、本丸・二の丸をこの際、名古屋城と比較して見てみようでした。当然、名古屋城は江戸城の3部の1もありません。

秀忠の大坂城も入れてみると、層塔式がよくわかります。


本の読書感想として、出版社にも送っています。「抗議」が残された内藤研での私の役割ですので。
I am surprised at the answer from a government official of nagoya. https://www.facebook.com/kazuo.takahashi.545/media_set?set=a.198624823606978.50221.100003783851253&type=3 私の書評   [千田嘉博「信長の城」岩波新書2013年]    20151118 https://www.facebook.com/kazuo.takahashi.545/media_set?set=a.198624823606978.50221.100003783851253&type=3 私の書評 [三浦正幸「城のつくり方図典」2005年小学館] 20151126日  https://www.facebook.com/kazuo.takahashi.545/media_set?set=a.694610157341773.1073741904.100003783851253&type=3

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