名古屋城は、天下一の名城である。

日本の古建築

名古屋城は、家康がスーパー大工・中井正清に作らせた。

半世紀前、内藤昌先生は私の母が作ったおはぎを食べながら、研究室の皆に問いました。「姫路城と名古屋城、どっちが良い?」平山城として城郭全体を木造で今に残す国宝・姫路城とコンクリート造の名古屋城天守を比べるのではないです。
たかが50年の天守の歴史ですが、望楼型後期と層塔型前期の比較なのでした。私は「名古屋城の均整の取れたバランスが良い。」と答えたのでしたが、先生は「城らしさは、暴れた意匠にあるんだよ。」と言われ、話はマニエリズムに向かいました。その内藤先生の昭和60年の「名古屋城」以上の事を私に書けるわけがないので、ぜひ購入してください。古本で12,000円で私は手に入れました。この後の発見は、正保絵図の下絵ぐらいでしょう。

名古屋城天守を、中井正清に、寺社建築のように意匠をまとめさせた、家康の城づくりから、名古屋城を解きほぐします。

「名古屋は家康が作った。」と私がいうと、「違うよ、清正だろうが。」「いや、縄張りは藤堂高虎によるのだ。」と名古屋城の話になり、名古屋という都市の話は「清州越え」だけで終わってしまいます。「家康が名古屋を作った。」という直接的な文献は確かにありませんが、「名古屋は家康が作った。」ことを証明するために、家康のそれまでの城づくりを、彼を支えたテクノラ―トも紹介しながら追いかけます。

中世の城はなりよりも軍事優先でしたが、近世の城では、武士が「兵農分離」を進め、領国支配するための政治性が必要となりました。一朝事ある時に備え、家臣団は城下に常駐し、経営にもあたります。武士は都市の消費者となりました。消費者の為に、産業が奨励され、商人が集まり、寺社・遊興施設が作られて、城は城下町となったのでした。
徳川家康が浜松から上方にのぼって、信長の安土城から京、大坂、堺を初めて見て回ったのは天正10年(1582年)40歳の時でした。伊賀越えで逃げます。天正14年10月(1586年)、秀吉に帰順することを明らかにするために、大坂城の羽柴秀長の屋敷(西の丸)に泊り、その4日後には京に秀吉と共に行き、建築中の聚楽第を案内され、隣地に家康の屋敷を与えると秀吉より約されました。秀長の家来、藤堂高虎が家康の屋敷を作っています。

城の日本史 2011年講談社 内藤昌著

この時の大坂の町は、秀吉により日本の首府としての構えが作られつつあったのでした。天正11年に秀吉は石山寺本願寺跡地に入り、30余国の大名に大坂城建設を命令し天正13年(1585年)4月に完成とあり、家康が訪れたときには、安土城を越える豪華さを誇った5層の天守が、本丸・西の丸・山里丸・二の丸・三の丸の強大な曲輪の中に聳え立っていました。

秀吉の大阪城 大林組の復元

城下町は、天守から四天王寺と南北に連なる上町台地の西側、大阪湾に接する汐入りに、堀をうがち淀川とつなぎ水運を図るとともに、残土で町人地を造成している最中であったことでしょう。秀吉は天皇を大坂天満に移座させたかった、とフロイスは書いていますが、天正13年7月に秀吉は関白となり、天正14年平安京内裏あとに聚楽城建設を始めました。天正16年4月に、後陽成天皇の行幸がおこなわれ、天正19年(1591年)正月に「お土居」の建設がはじまっています。鴨川の流れを変えて寺を川沿いにまとめて移し寺町とし、公家地・武家地を整え、環濠城塞都市として城下町化された京都の構えは、12月に豊臣秀次に関白を移譲するまでには完成していたことでしょう。

秀吉の北条・小田原攻めにおいて、天正18年(1590年)3月9日に駿府城に入り、駿府城で家康の饗応を受けました。家康は三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の五国150万石の領国を治める為に、小牧・長久手の戦いの後、天正13年から駿府に築城を初めており、17年には浜松から小伝(天)主を持つ駿府に移っていたのでした。しかし、7月15日小田原城での秀吉からの論功行賞では、北条氏の故地関東八国240万石に移封となりました。

家康の江戸城(1期)

内々に、天正18年(1590年)6月28日には、秀吉は武蔵江戸に家康は城を作れと命じており、家康はそれをうけて7月12日に、大久保忠行に吉祥寺村の池水をひき江戸市中の飲料水とせよ命じています。これが神田上水ですが、家康はもっと前から江戸を調べていたと思います。圧倒的な秀吉側の武力でもって籠城する北条を倒せることは、正月の聚楽第での秀吉・家康の合意時点で決していたことであり、移封に逆らえないならば、小田原城をそのまま関八州の経営拠点として続けることするより、しがらみのない荒れ地の江戸が開発拠点として良いと家康自身も考えていたのではないでしょうか。鎌倉は狭地ですし、関東八州の中で小田原は西に寄り過ぎています。秀吉にしてみれば、家康を在来の領民と切り離し、より遠国に追いやった方が確かに良いのでしょうが、日本の首府大坂を大阪湾に面する平野に作る秀吉は、関東の首府は江戸湾に面する平野の江戸であるべきだと、積極的に家康に勧めたのかも知れません。家康の家来たちは、三河武士と呼ばれるように在地性が強かったのですが、これによって家来たちの「兵農分離」は嫌が上でも明確になりました。

江戸は、中世の城下町として太田道灌以来の城があり、東海道・甲州街道・奥州道中の主要陸路を集約し、波静かな江戸湾最奥部にあってすぐれた海港を持っていましたが、これからが今に至る東京の誕生話です。

江戸の後背地の武蔵野一帯は水の便がない牧野であり、東の平川・隅田川一帯のデルタは葦原の湿地でした。ここに、近世の城下町を作るには、優秀な土木工事による自然改造が必要でした。

入府時の江戸

家康は天正18年(1590年)8月1日に江戸に入ると、中世土豪の館そのものの住まいは捨て置き、本丸の土木工事を急がせましたた。道灌の三郭を、空堀を埋めて拡張し本丸を造成し、西北部の寺16カ寺を移転し西の丸を造成し、道三堀を設けました。船入堀は、海から城下への船をいれるだけでなく、湿地の水を流し、その掘削土で町人地を作りました。家臣団には、大禄のものは遠くの、小禄のものは城下近くのすでに開発されたところに割り振りましたが、いかんせん平地が少なく、町人地は干拓と埋め立てによりました。行徳から小名木川を開削し、神田上水だけでなく、赤池溜池の水も水道としました。文禄3年(1594年)には荒川に千住大橋をかけ、慶長5年(1600年)には多摩川に六郷橋をかけ、翌年に東海道を城下へ引き込みました。

最初の町奉行は、三河・遠江・駿河の奉行も務めた天野康景があたり、次に板倉勝重。今でいう都市計画には、普請奉行が福島為基、地割奉行が田上盛重。そして作事奉行は木原吉次が親戚の鈴木長次を遠江から呼んで補佐を頼み、大手前に常普請小屋を設けて指揮をしています。町の外は、関東郡代の伊那忠次が任じられました。

木原吉次は三河武士でしたが、浜松の城から三河の大工3州6人衆の上に立ち普請方奉行をつとめ、戦時においては工兵隊を指揮したのでした。小牧・長久手の戦いでは、家康の親衛隊として活躍しています。道中、木原配下の目印として松明を二つ掲げ、一つは浜松大工棟梁の清左エ門が、他の一つは木挽棟梁浜松七左衛門がもち、隊列を飾ったといいます。大工棟梁10人・木挽棟梁2人に、それぞれ従者を10人ずつつけ、総計120人でした。行軍のために道を整備し、橋を架け、陣小屋の設営をし、柵をつくり、敵に攻め入る井楼をくみ上げるなど、戦闘に大工は大変重要でした。

同じ頃、世界遺産のエディルネのセリミーエ・ジャーミイを設計したミマール・スィナン(1489年 – 1588年)も、50歳まではスレイマン大帝に従い工兵を率いていましたし、安土城の大工頭、岡部又右エ門は、信長に従い本能寺で子と共に討ち死にしています。大工も兵でした。

木原吉次は、駿府の作事方において彼の配下に以下の者を置いています。御被官(役人)20人、材木奉行(木材の調達)、縄竹奉行(建築資材の調達)、残り物奉行(建築雑品の調達)破損小細工奉行(建築の修理、小規模の造作)、勘定役(積算)16人、同心小頭(現場管理)70人、さらに大鋸頭、鍛冶頭、左官頭とあり、彼らは籠城する小田原城攻めにも従い、あの有名な「一夜城、石垣山」も彼らの活躍であった事でしょう。

家康の江戸づくりは、文禄3年(1594年)に秀吉から伏見城作りを命じられ、ここで止まります。家康は伏見城から九州の名護屋城(1592年完成)まで、秀吉の命により駆けずり回り、財力を費やし、江戸に戻っての町づくりはできませんでした。他の大名は朝鮮に出兵させられたので、まだ良しとしたのでしょう。家康の軸足は、秀吉の死(慶長3年)以降も、権力を確実なものとするために上方にありました。

家康の伏見城(2期、3期、4期)

家康の助役として作った伏見城は、秀吉が、秀頼が生まれたので大坂城を秀頼に渡すとして、秀吉の隠居城として前年竣工した「水石幽奇」の別荘を増築(1期)するものでした。普請奉行は伏見奉行でもあった佐久間政実、縄張りは藤堂高虎で、大工は家康が連れて行った者と上方の大工との混合チームでした。家康が助役する工事は下手であったというのがもっぱらの評判でした。実用一点張りの堅実さはあっても、上方の華麗な建築には向かず「田舎普請」と軽蔑されていたようです。

あるとき、秀吉が家康の担当工事を巡視して、意外と良いではないかと褒めたことがあり、これを伝え聞いた三河者は喜び一層はりきったのですが、家康はこれを聞いて、下手という世評があるならいよい下手に工事するのが良い、と怒ったそうです。できるだけ手伝い普請から逃げていたかったのでしょう。天正14年10月(1586年)以来、加藤清正、黒田長政などの他の大名に比べて家康の目立つ助役は少なかったのですが、豊臣の重臣としてそうもいかなくなりました。

文禄3年(1594年)正月から工事(2期)をはじめ、秋には秀吉が移ってきていました。5層の望楼型天守、御殿、山里茶屋などを作るのですが、文禄4年(1595年)に豊臣秀次事件が起き、聚楽第破棄によって、さらにその殿舎も移されます。ところが、文禄5年(1596年)閏7月13日の大地震で壊滅したのでした。女中300人が圧死したのですが、幸い火は出ていないようで、旧材も利用して直ちに地盤のよい裏の木幡山上に、家康がまた作ることになりました。伏見城の3期目です。一年もたたず、慶長2年(1597年)5月に秀吉は移っています。

この時に、家康は藤堂高虎はじめ家康が親しかった豊臣秀長の抱えていた築城のテクノラ―トを自らのものにしたと思われます。豊臣家の主要な建築工事は秀長を奉行とする藤堂らの手によって行われるのが普通でした。大坂城・聚楽第・淀城、そして小倉城・和歌山城・大和郡山城・大和高取城、数多くあります。行政官として小堀新助・遠州親子、大工は中井政吉・正清親子です。
天正18年(1590年)に秀長は病死しますが、秀吉が存命し権力をもっており、家康の配下に伏見奉行の佐久間政実、秀長の家老小堀新助がなっていたとは言えませんが、子の小堀遠州、中井正清なら配下になっていたかもしれません。

伏見城 

高虎は文禄の役に出征し、文禄4年(1595年)に一度高野山に入るのですが秀吉によって伊予国板島(現在の宇和島市)7万石の大名となり、慶長2年(1597年)の役にも水軍を率いて参戦し、結果、大洲城1万石を加増されています。

文禄3年の2期の引き続いて、3期伏見城での未曽有の突貫・大工事にも藤堂高虎は秀吉に呼ばれ縄張りをし、家康と急接近したのであろうと想像しています。高虎は家康に大変信頼され、慶長9年の江戸城の縄張りも行っています。

慶長4年(1599年)正月に秀頼が大坂城移った後、三成は五奉行の座を退き、閏3月10日佐和山城に帰城した。家康は3月に伏見城に城代として入り、9月には大坂城の西の丸の秀長の屋敷跡に入ります。伏見城が上方における家康の城でした。

関ケ原の戦い慶長5年(1600年)の後に、関八州から日本の首府としての江戸づくりが、徳川秀忠の名の元に再開する(慶長8年~12年)のですが、あいかわらず家康は慶長7年(1602年)に関ケ原の戦いで燃やされた伏見城を徳川の上方の城として作ります。伏見城4期です。

秀吉の大坂

家康の配下として普請奉行は藤堂高虎、御大工に中井正清と記録にあります。秀長の大和郡山城を移築して、3期と同じ規模の城とし、慶長11年(1606年)に完成しました。

二条城

京の都は、家康の天下掌握にとって天皇・公家を押さえるに重要であり慶長6年(1601年)12月には、板倉勝重を普請奉行に、中井正清を御大工とし、藤堂高虎の縄張りをもって、西国大名に建設を命じました。信長の二条城に近く、上京・下京を統一して支配するに適地でした。

慶長8年(1603年)3月、家康の征夷大将軍拝賀の礼、そして慶長10年(1605年)の秀忠も、二条城で行われました。慶長11年(1606年)、伏見城とほぼ同時に天守まで完成した模様です。 多くの洛中洛外図でその姿を残してくれていますが、大阪の陣(1614年)の前の政情不安定の時代に、城郭らしからぬ無防備な形態です。

南北に長い単郭の平城で、東と北に櫓門を開き、柱・長押を外に出した5層の回廊付きの後期望楼型天守の足元に雁行した殿舎を備えていました。今の遺構は寛永3年(1626年)後水尾天皇の行幸を迎えるべく、西側に大きく増築したときのもので、その時に天守も御殿も建て替えています。18世紀には全て焼け、現存する本丸御殿は、弘化4年(1847年)建立の桂宮邸を移築転用したもので、公家殿舎であり、武家殿舎ではありません。

二条城

隠居の家康が二条城を使い、征夷大将軍の秀忠が伏見城を使うとしたので、豊臣家が滅亡した(1615年)のちも伏見城5期の工事が行われましたが、元和5年(1617年)に秀忠によって大坂城の工事が始まると、石垣は大坂城に、建築は二条城・大阪城・淀城・福山城・徳川ゆかりの寺院に移築され、寛永元年(1624年)までには伏見城は全くなくなり、その跡には桃の木が植えられました。秀吉覇権の世を今日「桃山時代」というのは、これに因みます。

秀吉が伏見に実際いたのは4年間であり、信長が安土にいたのは6年間ですので、信長・秀吉時代を「安土桃山時代」と呼称するのはおかしいという説が昔からありますが、戦国の世から日本を統一する過程の時代ということから見ますと、家康はその最後のランナーでした。江戸城にようやく天守が建ったのは慶長12年(1607年)です。大工は中井正清でした。駿府城と掛け持ちであり天守だけのようです。

家康の隠居城 駿府城(1期、2期)

家康は秀忠に将軍職を譲って(1605年)駿府に新たな隠居城を慶長12年(1607年)に作ります。大工は中井正清でした。

築城図屏風 部分

「天守は、7層廻縁望楼型で複雑な屋根構成を示す。第一層の大破風は、二層の腰屋根の下に納めた絵であるが、これは望楼様式の母屋の大破風であり、梁間規模を考えると、実際は熊本城天守(慶長5~10年)のように腰屋根を突き抜けて比翼入母屋の3層屋根下に至っていたであろう。4層は、一層と同様に大入り母屋破風を建ているが、平側に小破風を付す他にみない複雑な構成である。おそらくは風抜き程度の小破風を軒先に2連し、大派風と3連したものを、このように描いてしまったのであろう。その遺構ならば、安土城・彦根城にある。5層唐破風は、4層の大入り母屋破風(千鳥破風)を受けたデザインで、三角の頂点に半円の唐破風をかぶせて組み合わせる意匠は、姫路城(慶長14年)名古屋城(慶長17年)の実例があり、望楼型から層塔型への変革期に見られるデザインの定法である。そして、最上階の廻縁は、望楼型の特徴とするところである。壁は朱茶塗りの柱型を出す真壁であり、伏見浄・二条城で家康が好んだ御殿風の華麗な建築様式である。どちらかと言えば実戦向けでない駿府城の性格を示している。」

以上、築城図屏風(名古屋市所有)を解説する内藤先生の文を、一部翻訳して入れましたが、はたして読めましょうか?名古屋城天守のデザインを鑑賞するに、大変参考になると思います。平面図を見れば、駿府城は名古屋城と似ていることがさらにわかります。

しかし、完成直後の慶長12年12月22日、失火によりこの城は消失しました。大工の中井正清は小堀遠州奉行と共に仙洞御所を造営していたのですが、中井は京都からわずか2日で、はせ参じ家康を喜ばせました。同じコンビで、幕府の威信をかけて直ちに2期の工事をすることとなりました。 屋根を金属瓦として、壁は漆喰に柱型を黒く塗って、耐火性を高めています。慶長16年(1611年)には、本丸御殿ともども完成したようです。

駿府城 東照宮絵巻

スーパー大工 中井正清(1565~1619)

大坂冬の陣のおり、豊臣方が「六本鑓の衆は怖いな。」と言ったというお話があります。家康の宿直をする家康個人のブレーン集団で、キリシタン貿易をする御用商人であり、戦時になると兵站と武器を供給した茶屋又四郎が一番有名ですが、大工の中井正清もその中の一人でした。 大坂冬の陣の発端は、正清の父が秀吉の元で設計施工した東大寺より大きい方広寺の大仏殿が慶長7年(1602年)に大仏鋳造中に延焼し、正清が秀頼のお金で慶長14年(1609年)から改めて設計施工したのですが、慶長19年8月(1614年)の落慶供養の日の前に、家康は言いがかりをつけました。例の大仏の鐘の銘に「国家安康の4文字があり、これは家康の名前を引き裂いたものだ。」以外に、正清が考えた「上棟式の8月1日は建築にとって縁起が悪い。」もありました。

戦いに備え、正清は父の設計した大坂城を隠密し、絵図と作成して家康にたいそう喜ばれたとありましたが、実際、昭和34年に中井家からその絵図が発見されています。戦いが始まると、籠城する大坂の堀を干すために大和川を塞き止め、冬の陣の後には「外堀を、畳・木材で埋める。」事を家康に進言したと伝わっています。まさに、工兵隊のボスです。

方広寺 大仏殿

「中井家系譜」では、天正16年(1588年)24歳の時、伏見で家康に200石の大禄で召し抱えれたとあります。家康が助役に伏見に来るのは文禄3年(1594年)でしたが、伏見は京への港であり、陸揚げした用材を多くの大工が集まって木材に刻んでいました。天正16年は、正清の父、政吉(56歳)が方広寺の大仏殿を作っていた頃なので、手伝っていた正清と家康の出会いがあったのかも知れません。政吉は、信長の安土城(1579年)では、法隆寺大工として大工頭の岡部又右エ門の下に呼ばれて働いていました。秀吉が大坂城を作ろうとした(1583年)とき、岡部又右エ門親子は信長と共に討ち死にしていましたので、巨大建築の為に政吉は秀吉に抱えられたのでした。

中井正清の名が表に出るのは、関ケ原の戦いで家康が勝ち、伏見城の4期からでしたが、すぐに、家康の御大工として近畿5ヵ国と近江の6ヵ国に属する、大工・大鋸など建築諸職の管理を一手にしました。室町幕府の大工の池上・弁慶・矢倉、法隆寺大工の多門・金剛・辻・中村など、古代から優秀な技術を受け継ぐ大工を抱え、家康の求めに応じスーパー大工ぶりをいかんなく発揮します。慶長11年(1606年)には、43歳で従5位下大和守に任じられ殿上人となりました。江戸は木原一党が譜代の大工としてあったので、京都を中心に活動していましたが、家康の求めで江戸城慶長期では、木原の下で天守を担当し、増上寺も池上にやらせています。家康の遺言での東照宮(1期)が最後の作品となりました。

中井正清は、鎌倉以来の日本一統という稀な時代に生まれ、家康という大パトロンを得て、日本のルネサンスを創りしました。名古屋城天守を見るたびに、私は嫉妬を感じています。

江戸時代初期には、日本全国一斉に城づくり・町づくりが行なわれ、都の文化が地方に多量に伝播しました。戦争のない新たな時代を迎え、京で長谷川等伯の絵画とか、狩野派の洛中洛外図を買い求めることも、それはそうですが、中井一党の大工など、京の職人が地方の大名に召し抱えられることが、新たな文化を地方に作ったのでした。その地方の第一番は、もちろん江戸でした。

中井正清

風流大名 小堀遠州(1579~1647

慶長9年(1604年)26歳で、父の備中松山14000石を継いだ大名でありながら、「きれいさび」の茶道、遠州流の祖となりました。彼の子孫は江戸に出て徳川家の茶道指南役をしていますが、彼は終生、上方で過ごしました。

元和5年(1619年)に生まれの近江小室藩に移封され、元和8年に近江国奉行、元和9年(44歳)には伏見奉行となり、正保4年伏見で亡くなりました。69歳と長生きをし、400回の茶会を開いたと言われています。

戦国武将の古田織部(1543~1615年)に茶を習い、公家との付き合いの中で和歌や書を極め、新たにこれはという茶道具に「~手」、「本歌」などと銘をつけて宣伝し、名物として認知されるようにしていったことなど、まさに総合芸術プロディーサーでしたが、これは若くして作事方奉行として家康に仕えたことによりましょう。槍でなく、そろばんで仕える新しい武士のタイプ、テクノクラ―トでした。

古田織部

大工の中井正清に3年遅れて、慶長14年(1609年)31歳にして、従5位下遠江守に任じられました。幕府は朝廷対策として京に多くの建物を建てますが、二人とも公家と直接話ができるようにとの配慮だったのでしょう。ただし、桂離宮が遠州の作だと言われていましたが、桂は八条の宮の作です。

遠州の作としての建築はなく、建築デザインは中井のような大工の仕事でした。今でいう調達業務を幕府の代官としておこなう事から、彼はおのずと目利きになったのでしょう。作庭を大工はしませんので、「遠州作」と言われる庭は大変多いです。仙洞御所、南禅寺、大徳寺など上方で20を越えます。家光に江戸に呼ばれて、寛永年度の江戸城(1629~1640年)では、西の丸の有名な山里庭園を設計しています。

名古屋城の建設 まずは石垣普請(土木工事)

慶長15年(1610年)閏2月、前年の11月に征夷大将軍秀忠から指名された豊臣恩顧の大名が自ら、配下を引きつれて集まりました。石垣の担当は、加賀の前田利長、豊後の毛利高政、長門の毛利秀就、筑前の黒田長政、肥前の鍋島勝茂、肥後の加藤清正、豊前の細川忠興、安芸の福島正則、土佐の山内忠義、阿波の蜂須賀至鎮、紀伊の浅野幸長ら20余家でした。築城への外様大名の助六、いわゆる天下普請は、慶長7年の伏見城・二条城から、江戸城、駿府城と切れ目なく続いており、財力はかなり疲弊させれていたことでしょう。普請奉行の5名、作事奉行の9名は、徳川譜代の家臣です。

1万石につきそれぞれ38坪の割合で丁場が決められたのですが、特に54万石の加藤清正は肝いりとして3割増しであり、天守と小天守の石垣を担当しました。熊本城天主は慶長12年(1607年)にすでに完成しており、清正流の優美な石垣は世に知られているところでした。清正の配下には、普請奉行では「ニ角」と呼ばれた飯田覚兵衛・三宅角左衛門がおり、近江国志賀郡坂本村の穴太から来た戸波平左衛門、熊本城百間堀の原田茂兵衛もいたので、江戸城の石垣と同様、彼らも名古屋に来ていたのでしょう。

築城図屏風 部分

「石材」は、主として春日井郡味岡荘(現在の小牧市~犬山市)からで、1トン平均にプレ加工し、陸路を人海戦術で運びました。不足分は美濃・篠島からも入れています。木材は木曽谷から「お囲堤」によって整備された木曽川を下り、熱田の港経由で、良材を得ることが出来ました。

従事した人夫は、20万人に及び、半年後の8月末には土木工事は完成しています。

縄張り名人の伊勢・伊賀22万石の藤堂高虎の名前が出てきませんが、同じく築城名人と評された肥後55万石の加藤清正が大金を持って名古屋に出張り、本丸石垣の設計施工を陣頭指揮しているので、同じ秀吉配下であった普請奉行佐久間政実が土木工事をまとめたのでしょう。

藤堂高虎は伊勢路から東に攻めてくる豊臣方を押さえる津城(1608年)におり、東山道を彦根城(1606年)で押さえる井伊家18万石と同じく、家康にとっては信頼する親藩でありました。慶長14年(1609年)の城と城下町の縄張りは、大工の中井と共に現地を歩き、藤堂高虎が絵を描いたものと思います。家康が指示した城づくりには、この二人に奉行の小堀と佐久間を加えたカルテットがいつも顔を出していることと、駿府城の本丸の縄張りと名古屋のそれが似ている事からです。

「外・馬出し」は名古屋城本丸の特徴となっていますが、それは高虎によるのだと戦前の城戸久の論考にあります。藤堂と中井のコンビによる慶長12年の江戸城では、天守と小天守をつなげ、「馬出し」を大手門の外に「郭」として置き、城に籠った兵がうって出るための広場としていました。内に籠る兵が多い、平城ならではの縄張りです。なお、明治26年に名古屋城が離宮となり天皇の宿泊所とするとき、使い勝手が悪いと「外・馬出し」は、埋められました。

「縄張り」を解説すると、自然の地形を利用して守りに固い、城の土木計画図を描き、天守・櫓の配置を決めるということです。城郭の「郭」は、本丸、二の丸、三の丸などを示しますが、川と崖を利用し、掘、石垣、土塁を作ることによって形にします。これを曲輪ともいいます。出入り口は、「馬出し」「枡形」を作り、防御の形としました。虎口ともいいます。平和な江戸中期に兵学が流行り、その論によって、城マニアは廃城めぐりを楽しんでいますが、大坂冬の陣において、堀をらくらく越える大砲が輸入され大変な威力を発揮したので、名古屋城のこの縄張りもすでに古いものとなっていました。

「総曲輪」とか、「総構」「外構」と言う、城郭と城下町全体を土塁・堀で回すものも、日本では稀ではありますがありました。寺内町、堺、信長の岐阜、北条の小田原、村木の宝塚、秀長の大和郡山、秀吉の京と大坂、江戸です。名古屋も実は、南は古渡、東は矢田川、西は庄内川として土塁を築く縄張りがあったのですが、豊臣が滅び、総曲輪はもちろん三の丸も未完で終わっています。戦後、庄内川の名古屋側の堤防を高くする事だけは直ちに行われました。家康が大坂夏の陣の後、慶長20年閏6月(1615年)に「一国一城令」を出し、大名は居住し政庁とする城だけ残し、他を廃城せよとしたので、もう、総曲輪どころか城すら作られなくなりました。一方、残された150余の城下町が農本社会の中で都市化が進み、現在の都市の核となっていきます。

建築工事は、作事奉行小堀遠州と大工頭中井正清を中心に譜代の人々で行われ、慶長19年の冬の陣の前に、御殿・櫓もふくめ完成しました。中井家に「急げ!急げ!」の手紙が残っています。

内藤昌 城の日本史

天守

駿府城(1607竣工)と比較してみてください。慶長17年(1612)の天守の竣工は、今も残る、姫路城(1609)・松本城(1595)・彦根城(1606)・松江城(1611)と比べ遅い竣工だから進化したのだというのでなく、大工中井の一頭他を抜いたデザイン力によるものです。それは、確かな技術によって裏打ちされたものでした。

この後は、元和の広島城、寛永の会津若松城、江戸城と一国一城令に従い、建て替えが行われますが、塔のように一定の低減率によって積み上げ、飾りとしての派風が付くだけのつまらないものとなりました。町のシンボルとして高さが欲しいだけの天守は、普段使うことがないのに維持費がかかり、江戸城が明暦の大火(1657)に燃え、もう天守を作らないとされたことによって、消えたのでした。安土城(1579)に天守が生れて35年、名古屋城は最高傑作、究極の天守です。

内藤先生は「城の面白さは、あの素野にしてダイナミックな空間構成の多様性であろう。この点から見れば、当時の人智の限りをつくした名古屋城は、整いすぎて面白みにかける。社寺建築を見るような整然とした威圧感を表現しているのは、中井の優れた設計によるからに他ならない。」と揶揄していますが、私なぞは、ただただ中井正清を嫉妬しています。
内藤の言葉を具体的に言うと、駿府城で懲りたのでしょう、耐火性を高めた白い漆喰の壁に、銅の屋根のバランスの妙です。寺社なみの軒ぞりの美しさです。

当初は最上階だけ銅で下層階は本瓦でしたが、軽くする事すなわち地震に耐えるように江戸中期に全階を銅としました。

このバランスを言葉で示します。内藤昌が「前期層塔式」と名付けたように、塔としての要素、①内部の階数と外観の層数の一致②平面は上階に行くほど小さく低減している。③2層目と3層目を、大入り母屋派風(大きな千鳥派風)にすることはもちろんなく、隣あう面を比翼入母屋とし、さらに1層目と4層目に唐派風を設けて、リズミカルなバランスを取っている。③1.2階は同じ平面であり、2~3層、3層~4層、4層~5層の低減率を徐々にキツクして、全体を釣り鐘状の形にして、どっしりと安定させている。 姫路城のような「後期望楼型」では、矢倉の上に望楼を載せた形が残り、大屋根の上でクビレが残りますが、名古屋城では、もう完璧にありません。最上階は、望楼として廻縁をまわすことなくポツ窓としていますが、柱型と長押型を塗籠で張り出して意匠としています。廻縁は雨漏りの原因となるので、やめたのでしょう。実利的にかつ美しいです。最上階の窓が大きいのは、戦後復興で、展望用に倍の幅にしたからでした。国宝名古屋城に「展望」要りませんので、下層と同じ窓が並んでいました。

柱の入れ方により、天守の進化がわかります。姫路城の二本の大黒柱は有名ですが、名古屋城のように、外壁に沿って、籠のように柱を組む方が、5重の塔の実績から言って、地震に強いと思います。伏見城の倒壊から、柱を多くしています。長い柱材は手に入らなないし、どの城もとんでもないスピードで作っていますので、2層分ずつ柱を相互に貫入させて組んでいます。松江城は、見た目は古い望楼型ですが、柱の入れ方は互入式通柱です。1611年竣工と名古屋とは近いです。寛永の江戸城は、もう内部も柱だらけにしてしまいました。内部空間はどうでも良かったのです。

内藤昌の文章をここで入れる。素人が読んでも何を言っているのかわからない世界だと決めつけず、読むことに挑戦してみて欲しい。

「望楼型では、下層の建物の柱と上層の建物の柱はそれぞれ独立して組み立てる。内部で言うと、およそ2層分ずつ通し柱を配してその頭に梁を井桁に組み、それを一構造単位となし、数単位を重ね合わして高楼を築く。「井楼式通し柱構法」と称するもので、前期望楼型天守の原則的な構造である。たとえば、岡山城や松本城天守はみな井楼を3重に組んでいる。しかし、この構造では、上・下の通し柱の位置が不一致ゆえに井楼を組む梁を必要以上に太くせざるをえず、なおかつ地震や強風などの横力にも弱い。そこで、慶長元年の大地震で倒壊した経験を踏まえて伏見城Ⅲ期から、通し柱を統一して計画、通し柱を各階交互に配することを可能にして、天守全体を一体的に組み上げる構法を発達せしめたのである。「互入式通し柱構法」というのがこれで、後期望楼型の姫路城では、地階より石垣6階床下までの大通し柱が見られるにすぎないが、前期層塔型の名古屋城では、各階側柱位置に互入式通し柱がみられる。さらに、後期層塔型の寛永年度の大阪城では、88本に及ぶ通し柱を複雑に組み、側柱を自由にして、低減率一定の外観を整える。
また後期望楼型から前期層塔型へ移行する過程で、一間ごとの側柱の間に中柱をたて、また隅に「筋違」を入れる。実例として姫路城天守がある。江戸時代になると、さらに地震に対する構法が発達し、寛永年度江戸城天守・寛永度大阪天守城天守は「火打」が使用されていた。遺構では、宇和島城がある。」

「城」その意味の変遷

「城」の文字は、古事記・日本書紀にもありますが、「キ」「サシ」と、古代朝鮮語の読みでした。なら、東北辺境に儲けられた「柵」との区別は?私にはわかりません。私はモノがなくても文字だけで妄想できる”学者“ではありません。

平安京は、中国の「都城」制により、条坊制の街区の周りに羅城を設けるとあったのですが、長安のようにおこないませんでした。そして、元寇の時には、土塁と石垣で防衛線を作りましたが、「城」とはいいませんでした。

室町になると「城」を「シロ」と呼び、14世紀の太平記には「城を枕に討ち死すべし。」とあります。和語の「シロ」の「領有して他人に入らせない一定の領域を示す」意味が「城」の訓に使われて、中世になると、戦闘の備えをもつ武士の守護所も全国にあり、後に言いう城郭とか城下町とかの広い領域を示して「城」としたのでしょうか。苗代のシロ、矢を射るための場所の矢代のシロ、神に捧げる稲を植える区域を神田(ミトシロ)と、シロは領(シリ)の名詞形として例は多いようです。

「要害」という言葉が吾妻鏡以来あります。「要害」は、文字からなんとなく山に作られた砦のイメージを私はもつのですが、その具体的な形となると文字からだけではわかりません。一方、「一遍聖絵」は13世紀ですが、「館」という武士の住まいに、防備の堀・柵・櫓を設けた絵があります。そして、山城では、「根小屋」という言葉があります。 時代は下がるのですが「村上要害図」というのがありますので、これを当てはめて見ると、山城とは、山の頂に「要害」をもち麓に「根小屋」という「館」をもつもののだと言えます。織田信長の小牧城は、そんな感じなのでしょう。

これが、信長の岐阜城、朝倉の一条谷になると、館の大型化した城郭が町をシモに抱くことになります。領国経営のために、領主自身の館の周りに配下を集めて住まわせ、手工業・商人を集め、城下町は生まれたのでした。

山城は平山城に、そして平城へ。「要害」であることは人工的に土木工事で作り出してでも、城下町を抱きやすい広い平地であることが必要となり、その大きくなった城下町には社会性・政治性が生れ、城主の権力を表すシンボルが必要となったのでした。

この砦から町への変遷は、西洋でも同じでした。「要害」はドイツではブルグでしょう。領主が城下町も城壁で囲い込み、農村と隔てたところが、日本と違って都市の姿を明確にしています。領主は尖塔を建て、教会が広場に面し、時を経て、広場に面し庁舎と時計台が建ちました。

日本では、城主の城下町へのシンボルとして天守が生れました。

天守の嚆矢、安土城を追いましょう。「天主 テンシュ」が、信長の命名です。「天下布武」の信長は自らを神にすべく、その装置として「館」をあの形にしました。天主は天下人として実際に住んだ大型の「館」なのでした。「根小屋」でなく、平山城の「要害」を「館」にしてしまったのです。 「テンシュ」から「殿主」「殿守」と言う漢字が「主殿」という室町の館の言葉から連想され、一時使われもしました。しかし、信長の跡を継いだ秀吉は、大坂城天守をすぐに建てますが、秀吉は天守に住むことはなく、足元に「館」を建て住みました。土木の力があれば、住むには平屋が良いです。そこで、城の守りとしての「天守」の漢字が「テンシュ」として一般化されました。

信長の天主の形は、「長篠合戦図屏風」にある、矢倉の上の望楼から発想されたのは間違いがないと思いますが、6重めの八角形、7重めの4角形は、そのインテリアとあわせて、金閣寺からの援用だと思います。ここは接待空間でしかありえません。5重目は屋根裏ですので、住まいは4重めまででした。

御殿

領主の「館」は室町の「主殿づくり」から、洗練された文化を得て「書院づくり」を完成させました。城の「御殿」です。

名古屋城本丸御殿は手狭だと、義直は元和6年(1620年)二の丸に移っています。その後、寛永11年(1634年)、将軍家光が上洛する時の名古屋宿泊所として、本丸御殿に「上洛殿」が増築されました。

名古屋城 御殿図 「城の日本史」より、本丸は慶長16年(1611年)二の丸は元和6年(1620年)
御殿図 「城の日本史」より、本丸は慶長16年(1611年)二の丸は元和6年(1620年)

以後、明治天皇が宿泊するまで本丸御殿は天守ともども160年間使われていませんでした。これが、襖絵が綺麗に残っていた理由なのですが、「書院づくり」は、殿様の住いと封建時代の行政の場であるという解説ともども、名古屋市は何も観光客に語りかけません。150億円もかけ復元された本丸御殿は、まったく生かされていません。

慶長年度の本丸で、注視するところは、小天守への入り口です。小天守の南の階段から枡形を経て入っています。防御を考えるなら当然の形ですが、広場「武者だまり」のところに上洛殿を作ってしまい、今のように北側から直接小天守に入るようになり、「奥」を取り壊して、「武者だまり」としたのでした。平和のなせるところです。

名古屋城の石垣を市澤泰峯さんの案内で。2015年11月記。彼は辞めて豊田市博物館のキューレーターに。2019年2月記。

名古屋城には、かって石垣の専門家・市澤さんがいて、ブラタモリでも案内をしていました。残念ながら、お辞めになりました。

全く、やっとれん! ですわね。文化財でなく、テーマパークだと言ってはばからない名古屋市ですから。

藤堂高虎は、小さな本丸、連格式天守を、慶長の江戸城のように縄張りしたのですが、中井家に残る絵図ですと、大坂夏の陣での豊臣滅亡と共に、今の形=簡便=町のシンボルになったようです。

名古屋城石垣部会の座長である北垣聰一郎氏の1987年「石垣普請」が唯一の石垣の本です。文学部の遺跡発掘の人が、土木工学から石垣の構造と耐力を語ることは出来ません。
「石の声を聞け」と口伝された穴太衆にも、工学はありません。
私なら、石垣の存在を無視して、新たに杭を打ちます。

石垣は、泥地の中に松杭を打ち、その上に土台として松をまわし、その上に根石という石垣の一番下の石を置いています。石の重みで地震に耐えることができない名古屋城の石垣でした。

標準的な石垣の石です。犬山で加工して運び入れました。

隅石は、長く加工され、長短交互に積みました。算木積みといいます。

花崗岩が良いですが、安山岩も多いです。

表の石だけでなく、裏込めのグリ石が重要です。
雨水を抜くように、隙間はあえて作るのが日本の石積みです。

根石の角度が重要です。

名古屋城と戦争の記憶 2018年11月記

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40枚の写真による、名古屋城での戦争の記憶です。

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