- 犬山城天守は日本最古の天守である。2021年3月30日。
- 第一章 日本最古の城を復習する。
- 第二章 城戸、西、内藤 各先生の論文を紹介する。
- 第三章 犬山城はいつ作られたか、高橋の論。
- 第四章 新聞報道への私の解説です。そして、私の論は「秀吉が作った。」です。
- 第五章 天守はなぜ必要とされ、すぐに必要とされなくなったのでしょうか。秀吉時代の記録は残されてなく、松本城と同様に、犬山築城のいきさつはわかりませんが、1602年の家康の「城割り」により、東山道では、城下町とセットで天守が作られました。江戸城天守は振袖火事で燃えた後、「一城の飾り」と言われ、幕府は再建しませんでした。地方の城も、維持メンテナンスがされないままに、明治の廃城令により、薪にされました。
- 付録 山村亜紀 京都大学 文化・地域環境学部 人間・環境学/文化・地域環境研究 教授「犬山城下町の 空間構造とその形成過程」2016年12月28日
犬山城天守は日本最古の天守である。2021年3月30日。
第一章 日本最古の城を復習する。
「犬山城天守は最古の天守である。」
こんな事は当たり前であり、何もニュースになることでもないですが、NHK、中日がニュースにして、毎日新聞では城の専門家が「いさみ足だ。」とあり、ウン?とよく見れば、お城タレントの城郭考古学・千田奈良大学教授の発言でした。(2021年3月29日、下に添付しました。)
名古屋工業大学建築学科建築史の麓教授という城の専門家が「1585~88年からそう遠くない時期に、ここに1階から4階まで一気に作られた」と発表しているのに、そこに、今までも、内藤先生、宮上先生の論文をチョロチョロ盗んでは「私が発見した。」という千田さんです。またぞろマスコミは、面白くするために、彼をひっぱり出してきました。
マスコミは「城は面白い。」だけを記事にします。50年前、内藤先生を取材に来た毎日新聞記者は「先生の御本をすべて読んできました。」と言っていましたが、今は学者の論文を読まないままに書くのです。
麓教授の論文は、9月の日本建築学会まで出ないでしょうから、私が今までの論文を読み、私がまずは書いておきましょう。という私の論です。
ウイキペデイアでは、犬山城は天文6年(1537年)に信長の叔父、織田信康によって、居城の木ノ下城を廃し現在の位置に城郭(乾山の砦)を造営して移ったとありますが、城戸久先生の解体修理(昭和36年~40年)によって移築は無く、唐破風が元和に成瀬によって付加されたとわかっています。
いつつくられたのか記録は、丸岡城、松本城と同じく、関ケ原の戦いの前、秀吉時代の城はあいまいです。
丸岡城は天正4年(1576年)と伝えられていましたが、江戸時代に改造が行われており、さらに昭和23年の福井地震で崩壊し、材木は替わっておりこれ以上研究ができません。
石垣が野ずら積み、軒裏、壁に板をまわし、初期望楼型(館の上に望楼を載せる)2層3階の天守は、「殿主」と呼ばれたころの屏風絵(長久手城の物見櫓)と同形・同規模です。
信長が1579年に造った安土城「天主」のちに「天守」となった時代の革新性「都市のシンボル」は丸岡城は持ちえません。古くからあった天守を模したのでしょう。
最近、福井県は国宝にしたいと調べ、文献から寛永のものだとしました。もう、一国一城の令、慶長20年(1615年)の後です。福井城があるのですが、丸岡藩が出来たので新たな天守を幕府も認めたのだということでした。
犬山城天守は、3層4階であることと、望楼が安土城天主のように小さく、白木で作られ高欄が回っている「天守」の造形ですので、現存する12の天守の中で最古の姿を示す天守です。なお、高知城も望楼型ですが1749年に再建されたものです。
信長が安土城を安土山の上に作り、山下の町民を招き入れ、ライトアップして見せたのは1582年でした。地方の安土城をまねた城づくりは、秀吉が1583年に大坂城を石山本願寺跡に作り始め、城下町の範を示した後、南海道1585年、西海道1587年と秀吉が制した順に行われ、1590年に秀吉は東山道を回って全国を統一し、秀吉による日本の「城割り」が定まってから、本格的に行われました。
松本城天守は、寄棟を4層積んだ上に入母屋を載せた前期望楼型ですが、築城のいきさつの記録がありません。小牧長久手の戦いのあと、1585年家康から秀吉に帰属した石川数正(1533~1592年)が小田原攻め1590年の後に、関東の家康包囲網として、秀吉に河内8万石から松本10万石に移されて松本城を作っていますが、天守は子の康永が文禄(1592年~1596年)から慶長(1596年~)の頃にかけて作ったものだと推定されています。
毎日のニュースを入れておきます。
https://mainichi.jp/articles/20210329/k00/00m/040/248000c
第二章 城戸、西、内藤 各先生の論文を紹介する。
今回のニュースは、「奈良文化財研究所の光谷拓実(73)客員研究員(年輪年代学)らが2019年9月~20年末、天守の木材39点の年輪を調べ、年輪幅などから伐採年代を特定。樹皮まで残っている1階の柱は1585年、4階の床のはりは88年の伐採と判定した。ほかの木材も85~88年の伐採と推定された。」です。光谷さんは、年輪年代測定法の第一人者です。これまでも、論が分かれていた室生寺五重塔の創建年代を、この手法によって、平安時代初期と特定されました。年輪年代測定法の確実性をどこまで信じるかは意見が分かれるところだとは思いますが、これで、ウイキぺデイアの1537年建立説は完璧になくなりました。
西先生の論文をそのまま載せます。
1,2階が慶長6年(1601年)に造られ、3,4階が元和6年(1620年)に増築されたと、西和夫先生が昭和52年に発表し、金山城からの慶長5年移設説を覆しました。
城戸久先生は、解体修理によって移築跡がないとこから、成瀬家の古文書による「慶長の3.4階増築」説を唱えています。
内藤昌先生は「修理報告書」に増築の痕が見れない。初期望楼型の形から、天正7年(1579年)安土城天守、天正13年(1585年)大坂城の後、文禄の頃(1593年から1596年)に1階から4階まで一気に作られたとしています。
先生は安土城天主の大工の指図を発見し、それを現地の実測と「信長公記」との3点で突合せた安土城天主の「復元的研究」を完成させたことにより、初期望楼型天守の姿、構造を明らかにされたので、その研究成果からの結論でした。
第三章 犬山城はいつ作られたか、高橋の論。
ニュースでは、年輪が1585~88年に切られたことをしめしていることから、いつ、だれによって新築されたかは、麓先生の論文を待つのが正解ですが、以下に高橋の論を書いておきます。
秀吉は、天正18年(1590年)小田原攻めの後に、家康の関東移封など、全国の「城割り」をします。
石川三吉が、尾張犬山城1万2千石を与えられ、同時に、信濃木曾の太閤蔵入地10万石の代官も務めました。
木曽と言えば材木であり、尾張徳川の財源であったことが有名です。慶長13年の大洪水により、家康は木曽川に「御囲堤」を設け、同時に洪水にあう清洲から名古屋に城を移しています。しかし、その前、天正14年(1586年)に大洪水があり、秀吉は文禄初年(1592年)に大土木工事を行い、木曽川の流れを現在の形に形に固めた事はあまり知られていません。
天正19年(1591年)11月、秀吉の三河吉良での狩猟に石川三吉は随行しており、翌年1592年の文禄の役の拠点となる肥前国名護屋城の普請工事も石川は分担しています。秀吉の在陣中は、留守番衆の一人として同城に駐屯しています。
すなわち、内藤先生が唱えた「文禄の頃(1593年から1596年)に1階から4階まで一気に作られた」とは、石川三吉が秀吉の命令により木曽川の形を作り、木曽の材木を全国に流通させたのですが、同時に三吉は、犬山城を築城したのでした。内藤先生は私と同様に考えたのでしょうが、学者として、その証拠がなく論文とはしませんでした。
第四章 新聞報道への私の解説です。そして、私の論は「秀吉が作った。」です。
日経新聞2021年4月1日夕刊によると、<犬山市教育委員会と麓教授は29日の会見で、織田信長の息子信雄・徳川家康軍が羽柴秀吉軍と戦った小牧・長久手の戦い=1584(天正12)年=の後に、信雄方によって犬山城築城がされた。>としています。
1584年信雄は、伊賀と南伊勢に加え北伊勢の一部の秀吉への割譲などを条件に 家康に無断で単独講和を結び、尾張を秀吉に安堵され臣従します。「伊木文書、荒尾文書」による講和条件では、秀吉は河田城(一宮市)と共に犬山城を信雄から奪います。1586年天正地震で被害を受け、清洲城を大改造して信雄は入りますが、信雄方が犬山城を築城、整備したという記録はありません。「伊木文書、荒尾文書」は偽書なのでしょうか。
信雄築城説をさらに考察します。
①1588年の年輪を持つ材木が使われるとするなら、築城は1589年以降となります。
②また、今は天守だけしか残っていませんが、城郭としての曲輪の形成がされている平山城であり、信雄の清洲城とおなじ大きさの犬山城と思われます。
織田信雄の年譜を書きます。
1582年清須会議 信雄は伊勢と尾張を得る。清州が尾張の守護所。
1583年4月賤ヶ岳の戦い 5月信雄は秀吉につき岐阜城の信孝を攻め、信孝は切腹。 滝川一益の北伊勢・伊賀を得、信雄は滝川の城であった長島城に入る。
1584年正月 織田家の当主 三法師のいる安土城に信雄が入るも、秀吉に拒否され
1584年3月 重臣の津川雄光(義冬)・岡田重孝・浅井長時を殺害して秀吉に宣戦布告
3月11日に 清州で徳川家康と作戦会議 秀吉との戦いの場を決める。
4月9日の長久手の戦い 犬山城を攻略した池田恒興や森長可らを討ち取った。
11月15日、伊賀と南伊勢に加え北伊勢の一部の秀吉への割譲などを条件に、
家康に無断で単独講和を結んだ。以降は秀吉に臣従。
1586年11月 天正地震で長島城崩壊。清州城を大改造して移る。
1590年3月 小田原攻めに参加 戦後の改易に拒否し流罪。尾張は豊臣秀次に。
1591年6月 豊臣秀次を総大将に、総勢6万の大軍を奥羽に派遣し鎮圧。城割りをする。
1595年 秀次切腹により、尾張清洲25万石は、朝鮮から戻った福島正則へ。
③信雄は、清洲城の大改造1588年はすれど、美濃(岐阜城;1583池田元助→1585池田輝政→1591豊臣秀勝)と尾張(織田信雄)は共に秀吉の旗下にあり、尾張と美濃との境の犬山に城を整備する理由はありません。小田原城攻めに織田の惣領として資金を使わねばならなく、そして、直ぐ1590年に流罪になります。材木年輪から天守は1589年以降の建設ですので、信雄が犬山城を作る時間・資金の余裕はありません。
よって、麓教授のいう「信雄の城」は無い、というのが私の「石川貞清 築城説」です。
私は、秀吉が造った犬山城だと考えます。(ちょっとオーバーかな。)
秀吉は、1590年の城割りで、岡崎城(田中吉政)、吉田城(池田輝政)、浜松城(堀尾吉晴)、掛川城(山之内一豊)、駿府城(中村一氏)と、東海道沿いに豊臣政権の与力大名を置き、松本城(石川和正)と合わせて、関東にいる家康をけん制しました。
秀吉は木曽川に文禄の堤を作り、洪水を無くし、木曽の木材を得るだけでなく、木曽山の代官、石川貞清に命じて犬山城を作らせた。が、私の論です。
石川一族は秀吉創業以来の譜代衆であり、石川貞清は、小田原攻めの後1590年に、信濃木曾の太閤蔵入地10万石の代官を務め、1595年に尾張犬山城1万2千石を与えられました。大任です。尾張、美濃は織田信雄放逐後、豊臣秀次100万石の内となるのですが、秀次は関白となり聚楽第で政務をしていますので、犬山城にはかかわれません。
犬山城は東海道、東山道とは離れていますが、田中吉政、池田輝政、堀尾吉晴、山之内一豊、中村一氏と東海道に名が並ぶ姿から、小牧・長久手の戦いで池田恒興が落とした犬山城も対家康の為に必要であり、石川貞清が新たに整備したと私は考えます。織田信雄には犬山城を整備する必要がないのですが、秀吉はあったのでした。ですので、「秀吉が作った。」なのです。
木曽と言えば材木であり、尾張徳川の財源であったことが有名です。慶長13年の大洪水により、家康は木曽川に「御囲堤」を設け、同時に洪水にあう清洲から名古屋に城を移しています。しかし、その前、天正14年(1586年)に大洪水があり、秀吉は文禄初年(1592年)に大土木工事を行い、木曽川の流れを現在の形に固めた事はあまり知られていません。
天正19年(1591年)11月、秀吉の三河吉良での狩猟に石川三吉は随行しており、翌年1592年の文禄の役の拠点となる肥前国名護屋城の普請工事も分担しています。秀吉の在陣中は、留守番衆の1つとして同城に駐屯しています。
1591年岐阜城には、秀吉の甥の豊臣秀勝(1569~1592)が入り、その父、三好(長尾)吉房が清州に入ります。天正20年(1592年)からは三輪出羽守が犬山城の城代を務めます。文禄4(1595年)の秀次失脚後、犬山城は秀吉直轄となり,天正18 年(1590年)以来木曽代官を務めていた石川光吉が1万2千石で入城します。犬山城が今の郭に整備されなおされたのは、秀勝、吉房、三輪でなく、石川光吉の1590年以来の算段によるものだと考えます。
繰り返します。関東に移封した家康の包囲網として、駿府、浜松、清州、犬山、松本と秀吉は城割をしており、その一つとして犬山城が作られ、木曽代官の石川が置かれたと考えます。豊臣秀次が尾張の主と言っても実際は京にいましたので、代官として犬山城を石川が築城したのは、「秀吉が作った。」と言ってよいのではないでしょうか。
慶長4年(1599年)正月、五大老五奉行の連署にて豊臣秀頼の側近に列し、石川三吉改め貞清(備前守)・石田正澄(木工頭)・石川頼明(掃部頭)・片桐且元(東市正)の4人は奏者番とされているので、石川貞清は秀吉、秀頼に近習するものであり、いわゆる城持ち大名ではないです。
1600年の関ケ原の戦いでは石川貞清は西方につき、岐阜城の(三法師)織田 秀信と連携して木曽川沿いに陣をひいたのでした。家康からの降誘を拒否して、居城の犬山城に稲葉貞通・典通父子、稲葉方通、加藤貞泰、関一政、竹中重門らと籠城しました。
しかし東軍の中村一忠・一栄に攻められると、加勢の西軍将達は極秘に東軍の井伊直政に密書を送り、内応を約定して引き上げようとし、貞清も関一政に説得されて城を棄てて、西軍本隊に合流したので、犬山城は岐阜城のように焼かれ、壊されることはなかったのでした。
本戦では、宇喜多隊の右翼、口北野付近に陣して奮戦し敗北します。東軍にいた池田輝政の助けもあり、坊主・茶人となって存命します。
第五章 天守はなぜ必要とされ、すぐに必要とされなくなったのでしょうか。秀吉時代の記録は残されてなく、松本城と同様に、犬山築城のいきさつはわかりませんが、1602年の家康の「城割り」により、東山道では、城下町とセットで天守が作られました。江戸城天守は振袖火事で燃えた後、「一城の飾り」と言われ、幕府は再建しませんでした。地方の城も、維持メンテナンスがされないままに、明治の廃城令により、薪にされました。
城戸久先生の最後の著書「名古屋城と天守建築」昭和56年名著出版 を図書館で借りて読みました。
麓教授の「年輪測定1588年から織田信雄が作った城」がニュースになったのでの、第5章です。
西和夫先生の昭和52年の「1.2階の上に3.4階を増築した」は、内藤昌先生の「安土城の復元的研究」昭和50年に出た後に見ると、構造、様式的に西論はありえない。「ああ、犬山城は安土城を模して作ったのだ。」と、なります。
先輩から「昭和54年に、城戸久先生は著書の中で西和夫論を批判している」と聞いたので、図書館から本を借りてきました。城戸久先生は、内藤昌先生の師匠であり、内藤昌先生は安土城復元において安土城を昭和17年に発掘し、安土城を復元した城戸久先生に指導を仰いでいます。
「古文書は従来からある、江戸中期のものであり一次資料でなく信頼性は低い。古文書の解釈を変えだけでの論文は、建築史家としていかがなものか。」と非難していました。
犬山城
1階、2階が同形平面であり、3階の床張りの架構、通し柱からみれば、1,2階の館の上に、3,4階の増築でなく、安土城を模し、一気に作ったものとわかる。城戸先生は「パッとみれば、材の古さから入母屋が古く、3,4階が増築と分かる。」と言い、自身の目を信じましたが、材木の年輪から否定されました。
[清水組設計施工の第一銀行。発注者は洋行帰りの渋沢栄一である。
日本の大工には、高層建築とは安土城から続く天守なのだ。]
日本の建築史の中で、わずか50年しか続かなかった天守です。
戦争の物見やぐらでは、このような大きなものは要りません。信長の安土城が天守の嚆矢として生まれた理由が全てです。
権力をしめす、新たな都市、城下町のシンボルとして出現したのですが、火事と地震に弱い木造の高層建築ですので、江戸城天守が明暦の大火以後再建されなかったことから、歴史から消えていきました。
明治に過去の権威を消すために廃城令がだされたのですが、維持メンテナンスに困っていたので、喜んで薪にしました。
1611年(慶長16年) 正月、松江城。
丹羽郡の土豪で秀吉の家来、堀尾義春(1543~1611)による。犬山城より20年遅くとも、あえて、黒壁の望楼式と古式にデザインされた。見た目華美であるが、内実は柱を相互貫入式とし、地震に強くしている剛健な天守である。
犬山城の唐破風は、松江城を真似て元和に成瀬によって付加されたのではないでしょうか。
付録 山村亜紀 京都大学 文化・地域環境学部 人間・環境学/文化・地域環境研究 教授「犬山城下町の 空間構造とその形成過程」2016年12月28日
ネットで犬山城を検索すると、ブラタモリで顔を売った山村さんの論文が出てきます。これは2016年の発表ですが、山村さんは愛知県立大学の教授として、名古屋界隈の論文が多くあり、ブラタモリでは、熱田さんと名古屋城の話をしましたが、津島も小牧も犬山も研究していました。その研究部門名を「歴史地理学」といいます。
上に示した、今の京大の学部学科の名前では全く何を研究しているのかわかりませんが、先学の小野均、藤田元春、豊田武、林屋辰三郎、原田伴彦、西川幸治、藤岡謙二郎、足利健亮の功績を引き継ぐものです。私が学んだ50年前は矢守一彦でした。
ネットで探すのも面倒でしょうから、以下に、山村さんが書いた犬山城下町の論文を載せます。私がここに書いてきた「石川三吉が犬山城を作った。」のではなく、山村さんは織田信雄の重臣である「中川定成一万5千 石」が犬山城を作ったとありますが、山村さんは「材木は1588年に切られた。」を知らないので、そこを補正して、私の考えが正しいのかどうか、山村さんの論文を読んで判断ください。
中川定成の話を追加しておきます。織田信雄が1584年に3人の家老を「秀吉に通じた。」と長島城で切ったことから小牧長久手の戦いは始まり、犬山城主の中川定成は、伊勢に羽柴秀長が6万の兵を率いて攻めてくるに応じて、城を出て伊勢に向かっているところを池田恒興に奇襲され城を取られました。中川定成の犬山城は、池田恒興が、元亀元年(1570年)の姉川の戦いで活躍し、犬山城主となったころと変わっていなかったのではないでしょうか。
1581年に武田から戻った織田勝長は信長に犬山城城主とされますが、1582年に兄・信忠に従い甲州征伐に行き、本能寺で死にます。後世に尾張藩家老の持ち城になる犬山城ですが、木曽川沿いの守りの要点というだけでなく、犬山城主には、織田信長の叔父・織田信康が1537年に作って以来、武将に箔をつける価値が積みあがっていたのでした。
1582年の清須会議によって、尾張・伊勢は織田信雄の支配地となり、犬山城も傘下になるのですが、信雄は伊勢が生来の国であり、1583年滝川の城であった長島城に入ります。守護所の清州ではなく、伊勢に寄ってある長島(三重県)です。1584年、伊賀と南伊勢に加え北伊勢の一部の秀吉への割譲などを条件に 家康に無断で単独講和を結び、尾張を秀吉に安堵され臣従します。1586年天正地震で木曽川河口の長島は大被害を受け、清洲城を大改造して入ります。犬山城も尾張ですが、家康が小牧山に座し、向かって秀吉が構えた城ですから、秀吉は河田城(一宮市)と共に犬山城を信雄から奪います。(伊木文書、荒尾文書)信雄は1590年の小田原攻めに参加し、その後の秀吉の城割り「家康は関東に行き、家康の旧領地に信雄は尾張から移る。」に従わず、秀吉に放逐され、家康の旧領地には秀吉子飼いの与力大名が入ります。